溺れる

夜になると、ボンベロは壁を隔てた向こうから聞こえてくる呻き声に、目を覚ました。
「……またか」
 のっそりと身を預けていたソファから起き上がり、いびきをかいている菊千代を踏んづけぬように気をつけながら、彼はテーブルに置かれた酒瓶を手にすると、居間から続く寝室へと向かった。
 キイイ、と蝶番が軋み、ボンベロは月明かりの注ぐ部屋に踏み入る。部屋の中央、シングルサイズのベッドには、ジュリアが横たわっている。白いシーツから出ている顔には、大粒のしずくがいくつも滑り落ちるのが見えた。ボンベロは小さく舌打ちをした。
「や……て……ないで……」
 いやいや、と頭を振り乱して、彼女は悲痛な叫びを上げている。瞼は閉じられたまま、まるで夢の中で死神にでも追いかけられているかのようだ。ボンベロは夜着のジャケットを脱ぐと、彼女のベッドに腰掛け、酷い悪夢にうなされる女の頬に手を添えた。
「ジュリア、しっかりしろ」
「……て、おねがっ……」
「ジュリア」
「いや……やめっ……んっ――」
 過呼吸を起こしかけている女の唇を、ボンベロは塞ぐ。抵抗する体を力ずくで押さえつけて、噛みつくようなキスをする。自分の腹の中でたしかになにかが擡(もた)げそうになるのをこらえながら、何度も何度も、角度を変えて口づけを繰り返した。
 このまますべてを奪ってやろうか。ボンベロは彼女の呼吸を貪りながら思う。そうしたら彼女は楽になるのだろうか。自分の腕の中に閉じ込めて、どこにも行けないようにすれば……。
 どんどん膨らんでいく熱を押し込め、彼女の力が抜けていくのがわかると、彼は口づけの勢いを弱めた。汗でひっついた髪をすっとよけて、額や頬をやさしく撫でる。女の眦に溜まったしずくを指先で拭ってやる。
 ちゅう、と小さな舌を吸い上げて、汗ばんだ首すじを撫でると、彼女の体がぴくりと跳ねた。
「っはぁ……」
 水中から顔を出したように大きく息を吹き返す。その拍子に唇は離れた。つう、と銀色の糸が名残惜しく繋がっている。
 ジュリアは、薄っすらとその瞳を開いた。
「ボン……?」
「ああ」
「ここは……?」
 焦点が合わないのだろう、ぼんやりとしている。
「お前の家じゃない。俺たちは、今、パリにいる」
「わたしの、家じゃない……?」
「ああそうだ。なにも心配いらない」
 まるで、迷子の子どもだ。虚ろな瞳をまっすぐに見下ろして、ボンベロは一音一音はっきりと発音しながら、そうっと背中を撫でるようにゆっくり言葉を紡いだ。
 子守は嫌いなんだが、とボンベロは心の中でぼやくものの、彼女に向けられるまなざしや声は、とてもやさしい。
 長い睫毛がゆるりと揺れ、薄明かりの中、彼女の双眸がボンベロをとらえた。
「ボンベロ、また、私……」
「まったく、毎晩フランケンシュタインの呻きを聞く俺の身にもなってくれ」
「ごめ……」
 しゅん、と申し訳なさに満ちた顔をするジュリアに、ボンベロは小さく息をつく。それから彼女の頭にポン、と手のひらを載せた。
「……お前が無事なら、それで構わん」
 彼の大きく逞しい手が、ゆっくりと下りていく。
「ボンベロ」
「お前だけだ、こんなにも俺に手をかけさせるのは」
 本当に面倒くさい奴だ。一人で立とうとするくせに、ふらふらと足元をふらつかせる。あのときから目が離せない。そう、ひと目見たときから――ボンベロは自嘲する。
 手のひらが耳の形をとらえ、やがて首すじまで辿り着くと、親指でそうっと頬をなぞった。彼女が心地好さそうにみじろぎをしたのを見て、ボンベロはやわく口元を緩めた。
「ジュリア、お前だけだ」
「ボン……」
 彼女を見つめる彼の瞳は、いつもよりも熱を帯びている。
「俺を、こんなにも駆り立てるのは」
 まるで、その奥に青い炎を滾らせているかのように。
 胸の奥をジンジンと灼きつけられる。熱く膨れ上がった想いに、ボンベロ自身が気づかぬはずがない。そして、それをもはや隠し通す気もさらさらなかった。
 ボンベロは、自分の唾液で潤んだ彼女の唇を指先でなぞると、サイドテーブルに置かれたマッカランを口に含み、再びその呼吸を奪った。
「ん、ぁ……ボン……」
 唇の端から、酒が零れ落ちる。強い酒の香りが一瞬で二人を包み込んだ。それを拭うこともせずに、ボンベロは彼女の熟れた果実を啄ばみ、口づけを深くしていく。従順な唇とはうらはらに、微かに体が強張り、ボンベロの興奮を確実に高めていく。
「なにも考えなくていい」
「でも」
 戸惑いの色を載せた彼女の目元をするりと撫でる。
「お前は、ただ、溺れていればいいんだ」
 この、熱くむせ返るほどの香りに。
 憎しみよりも怒りよりも重く激しい、この愛に。
「なにも考えられないくらい、なにも怖くなくなるくらい、俺が、そばにいてやる」
 暗闇の中で、たしかにジュリアの瞳が揺れた。
 彼女の言葉を聞く前に、ボンベロは彼女の唇を包み込んだ。

 やがてジュリアは意識を手放した。その彼女の隣にボンベロは横になる。小さなベッドの中、すっぽりと腕の中に彼女を抱き込んで。
 翌朝、ジュリアが目を覚ますときには、ボンベロはすでに窓際で葉巻をふかしていた。
 この日を境に、ベッドのサイズがワンサイズ大きくなるのだが、その理由をボンベロがあえて口にすることは当然なかった。
 彼女がうなされることは、それきりなくなっていた。