イギリスを離れた二人は、とあるルートで手に入れた新たな身分を使い、鉄道にてフランスへと入った。
――ゴーン、ゴーン
荘厳な鐘の音が鳴り響く。薄暗い室内に七色の光が射し込み、大きな十字架が物々しく浮かび上がっている。
その前に佇む女をボンベロはじっと見つめていた。丸まった背中は小さく、手を合わせてこうべを垂れる姿は、どこか神秘的なヴェールを纏っている。
休息日を過ぎた教会は静まり返っていた。キリストに捧ぐ賛美歌が歌われることも、パイプオルガンの音が脳髄を揺さぶることもない。ただ頭上に聳えるステンドグラスからは、絶え間なく光が注がれていた。
やがて首をもたげると、彼女は十字架を見上げた。神を信じる女の無垢さはとうにどこかへ脱ぎ捨ててしまっている。それでも、彼女は熱心に見上げていた。長い睫毛を物憂げに揺らし、青褪めた頬に光を受けながら。
「熱心なもんだ」
行きましょう、と戻ってきたジュリアに、ボンベロは小さく呟いた。黒いジャケットの下に手を忍ばせて、シガレットケースを指の腹で撫でる。
「いつも、付き合わせて悪いわね」
ジュリアはそんな彼にすまなそうに瞳を伏せた。
「別に構わん。少々居心地は悪いがな」
教会の敷居を跨ぎ、青空の下に出た途端、ボンベロは葉巻を取り出し唇に咥えた。さすがに、敷地内で吸うのは気が引けたのだ。荘厳なゴチック建築を背に、慣れた手つきですばやくマッチを擦ると、ジュリアがくすりと笑った。
日本を離れてからというもの、彼女は行く先々でこうして教会を訪れ、祈りを捧げるようになった。罪を告白するわけでも、赦しを請うわけでもなく、彼女はただ手を合わせる。そうしてあそこに佇み、目を閉じると落ち着くのだという。
「自分でも馬鹿げていると思うわ、あれだけ人の命を奪っておきながら、神に祈りを捧げるなんて」
ジュリアは彼の隣で、ほのかにカサついた唇に淡々とした声を載せた。ボンベロは紫煙をくゆらせる。吸い慣れた葉巻は、苦く、ずっしりと肺に沈んでいく。
でも、とジュリアは続けた。
「救われたいとかそんなんじゃなくて、ただ、ただ静かに誰かのために祈りたいの」
ジュリアは教会の円錐状に尖った屋根を見上げた。てっぺんには十字架が掲げられている。遥かに高い青空に、白いそれは目映く煌めいて、彼らの目に鈍く痛みを齎した。
日本を発つ前に、彼らはある場所へと訪れた。
街の外れ、のどかな田園風景が広がる場所に、ぽつん、と墓地があった。日本式の暮石ではなく、西洋式のそれが建ち並ぶ中、ジュリアはひとつの墓の前で立ち止まった。
「誰の墓だ」
ボンベロは静かに訊ねた。
「私の両親」
彼女の声が微かに震えたが、ボンベロはなにも言わなかった。暮石には、なにやら見慣れぬ名前が刻まれている。ジュリアの本当の家名だという。いたって普通の、日本名だった。
ジュリアが花屋で買った花を手向ける。そして、するりと墓石をなぞると、「来るのが、遅くなってごめんね」とひと言語りかけた。
「組織に入ってからしばらくして、水難事故で亡くなったとコフィから告げられたわ」
ジュリアはじい、と、刻まれた家族の名を見つめている。
「でも多分、コフィが仕組んだの、私が逃げ出さないように、って」
コフィがビジネスと称して、裏で非人道的な手段を繰り返し行っていたことは、有名なことだった。彼女もまた、その被害者であったのだろう。報せを聞いて、彼女はここに墓を建てた。組織の誰にも知らせることなく、そして、彼らの肉体も骨も終ぞ目の当たりにすることなく。
儚げな背中に、ボンベロは、そうか、とだけ返事をして、目を閉じて手を合わせた。
彼女が祈りを捧げる間、いつも彼は彼女の後ろにじっと控えていた。言いようのない居心地の悪さを肌で感じつつも、その背中を置いてどこかに行くなど彼には毛頭なかった。
――ジュリア、頼んだぞ
あの日自分の背中を預けられるのが、彼女であったように、彼女の背を守るのは自分だ、と。そして今も、一歩後ろで十字架を見上げる彼女を見つめている。
憂いを帯びた横顔は、あの日彼女の両親の墓の前で見たときのものを彷彿させる。もっと言えば、彼女が奴を遠くに見つめるまなざしと、寸分違わなかった。
「……本当に、お前は」
この期に及んで、他人を想うとは。いや、今だからこそ、なのだろうか。
「お前が、なによ」
「いいや、なんでもない」
彼女のことは誰が祈るのだろうか。ボンベロは頭の中に浮かんだ疑問を口にすることはなく、ただ、彼女の夜明け前の静けさと切なさを孕んだような横顔に、「腹が減ったな」とやさしく煙を吐き出した。
