第六幕 四

 いつからおかしくなってしまったのかと、訊ねたことは何度もあった。そのたび、自らの人生を否定したが、おもえば最初から狂っていたのだろう。
「丈くん、こちら瀬古さん。今日からあなたの先生になる人よ」
 おどろくほどに似ているのだとだれかが言った。彼のそれが、積み重ねてきた人生の重みから成るうつくしきシルバーだと知りながら、しかし私たちは同胞のようにおもえた。
「丈くん、きみのしたいことはなんだい」
 おなじかおで、似たようなこえで、彼は何度となく私に笑いかけた。時に父のように、はたまた兄のように、あるいは友のように。それらを知りもしないのに、漠然とそう思ったのだ。
「……ふつうになりたい」
 何分もの沈黙を越えて私がそう告げると、やはり彼は微笑んだ。
「では、私はきみがふつうの生活を送るための道を作ろう。それを歩くか歩かないかは丈くん、きみが決めてくれて構わないよ」
 彼との出会いはまさに青天の霹靂だった。薄暗い箱庭に閉じこもってばかりだった私は、初めて前を向いて、歩いていこうとした。そうだ、私はたしかにやり直そうとしたのだ。やり直せていたのだ。白く霞んだ世界の中で、真っ当に生きてみたいと思っていたのだ。そうできると信じていたのだ。
 朝早く起きてすることは鏡の掃除であった。そこになにが映っているかなどわからぬのに、そこには正しい自分が立っていると毎朝必死になって鏡を磨いた。食事はできるだけ質素に、優雅な生活ができるほど金があったわけでもない。だが、そうして慎ましい生活を送っていれば、そういう人間になれると思っていた。どこで学んだわけでもない。ただ、そうありたいと願い、毎日を生きた。昼は先生から紹介された施設でオペレーターのアルバイトをし、夜はMDプレーヤーを使い勉強に勤しんだ。休みの日は近所の公園を散歩し、小鳥のさえずりに幸福を感じた。光の中にいると、自分がただひとりのニンゲンになれた気がした。忌々しい父のことも忘れ、狂った母のことも、そこに付随する汚らわしい男たちの顔も、そして、呪いの姿さえも消し去り、私は私になれた気がした。
 二年ほど先生のもとでのカウンセリングは続いた。それまでしなびたスポンジのようだった私は、みるみるうちにあらゆることを吸収し、人間としての人生を歩みだしていた。
 すべてを棄てて……。否、棄てたつもりになっていただけにすぎなかったのだ。
「おまえは愛する母の血をすすり、肉を抉りあの小さな箱に詰めて刻んだのだ……」
 それは突如訪れた。空から落ちてきたそれは、啓示だったのだ。私は途方もない衝動に駆られた。ほんとうにそれは、4tトラックが突っ込んできたかのようにいきなりだったのだ。影が私の手を握り、そちらへ引き戻した。友が私を呼んでいた。
「ジョウ」母が私を呼んでいた。「ジョー」「じょう」「ジョウくん」「丈」「この愚図」「疫病神」「おまえのカーちゃんばいたなんだってな」「アクマ」「やめろよ伝染るだろ」「おい、ジョウ」「ジョー」「じょう」「丈くん」……。
「ジョォクン……アソボォ……」
 そうだ、あそぼう。なにをしてあそぼうか。おにごっこでもいい、かくれんぼでもいい、なんでもいいよ、おれがいっしょにあそんであげる。……アレ? なんだ、アレをつかいたいのか。おれのかあさんも、まいあさよくつかっていたよ。からだにいいからってやさいをたくさんいれて、すごくにがくてまずかったんだ。ああ、でも、ダメだよ、あれはもうごみなんだ。……え? まだつかえるかもしれない?
 ――1977ねん、1がつ。アメリカがっしゅうこくカルフォルニアしゅうで、いまいましいじけんがおこりました。はんにんはじゅうでじょせいをころすと、かのじょのはらをさいてないぞうをひきずりだしたのです。それだけではなく、あふれたちをヨーグルトのようきですすったり、ミキサーできざんだり……。
「おれはすれちがったじょせいのあとをおい、そのちをすすり、そのにくをえぐり、ないぞうをひきだし、あのまるいがらすのようきにつめて、ぐちゃぐちゃにしました」
 だが、それはだれもしらないことだ。彼らとおれいがいは……。
「わらいかたが、ははとにていたんです。おれはめがみえませんから……といってもほとんどですが、そのかおはよくしらないけど、わらうこえがにていたんです」
 カチッカチッとMDプレーヤーのスイッチを押して繰り返す。銀色のそれは、先生が「しゅうしょくいわい」にくれたものだった。
「おれはすれちがったじょせいのあとをおい、そのちをすすり……」
 リフレイン。
「おれはすれちがったじょせいのあとをおい、そのちをすすり……」
 そして、フィナーレ。
「そのあとは、かれらにあげました。だって、ともだちですから」
 神にすがることしかできぬ人間がいるように、それは私の心や体を深く蝕んでいた。しかし、それでも私はまだニンゲンでいたかった。
 たしかに、一度おぼえた喉の渇きを忘れるのは困難なことだ。あの甘くてとろりとした味を私はどうして忘れることができよう。それでも、MDプレーヤーを手にするたび自分を戒めた。そのぶん勉強をした。先生のようなひとになりたかった。あらゆる事件を勉強した。先生のように、だれかを救えるひとになりたかった。飢えた肉体は動物の血で補った。あの味には劣るが、ふしぎと体の震えや衝動はおさまった。
 うまくやれる。そうだ、このままニンゲンらしく、おれはだいじょうぶ。おれはニンゲンだ。だいじょうぶ、きっとニンゲンだから……。ホントウニ、ニンゲン?
 ――人生とは皮肉なもの。そのころ、私はすでに成人を迎えていた。なんとか衝動と力とを隠し、十代からアルバイトをしていた職場で正社員として働くようになっていた。
 そんなある日、「お祝いをしたい」という先生の連絡があった。休みの日に先生のクリニックに向かうことになった。そしてその日、出会ってしまったのだ。
「おとうさんわすれもの! ……って、うわ、おとうさんにそっくり!」
 ――ははのにおいとおんなじだったのです。しょうじょからかおる、ほのかにあまいかおりが……。
 いっしゅんで、つみあげたひびはくずれました。どうしてもあのにおいがほしい。これまでよりもいっそうつよく、そうおもいました。

「てんげんさまはゆいいつむにのそんざい」
「てんげんさまのみこころのままに」
「てんげんさまのごかごがありますように」
「てんげんさまならゆるしてくださる」
「だいじょうぶ」
「だいじょうぶよ」
「きっとてんげんさまがまもってくださるわ」
「てんげんさまはゆいいつむにのそんざい」
「てんげんさま」
「■■■とのどうかがちかづいてきた」
「てんげんさま」
「もうしゅうきょうなんてこりごり」
「てんげんさま」
「てんげんさま」
「てんげんさまはゆいいつむにのそんざい」
「てんげんさま」
「ごめんね■■■」
「はじめまして■■■くん」
「もうしんぱいはいらないよ」
「あくまがそのめをもっていってしまったんだ」
「なんのために」
「ゆいいつむにのそんざいになるため」
「ゆいいつむにのそんざい」
「このよでたったひとりのとうといそんざい」
「だからそのためのじゅんびをしなくてはならないんだ」
「じゅんび」
「じゅんビ」
「ユイイツムニノソンザイ」
「ドウカ」
「ドウカ」
「ドウカ」
 …………。

 少女のあとを追った。しかしすぐには手に入れられなかった。諦めることができず、その日から何度も彼女のあとをつけた。家に着くたび夢想した。そのにおいの主をぐちゃぐちゃにする想像を。甘美なまでに味わい尽くす光景を。私は計画を練った。決してバレてはならなかった。そうしたことには、とっくのとうに慣れていた。
「おれはついにかなえるのです。いまいましいこのじんせいからかいほうされるために、おれはゆいいつむにのそんざいになるのです。かのじょのちをすすり、にくをえぐり、そのほねまでもをしゃぶり、おれたちはひとつになるのです。……」
 私はアパートに火をつけ、友だちと一緒に連れてきたおとこを炭になるまで燃やした。
「――それ、なにをもっているの?」
 そして、ある日再び少女のもとに向かった。学校のかえりみち、その子を待ち伏せたのだ。公園でたたずんでいたその子は、私の問いには答えずに立ち去った。先生の子どもだというのに、なんとも失礼な娘だった。だが苛立ちよりもなにも、残り香に酩酊を誘われ、私はいてもたってもいられなくなってしまった。

 ――おれはにかいからしのびこみ、ねているしょうじょをともだちといっしょにころしました。ははおやがやってきたので、こえをあげるまえにそのあたまをかじらせました。ははおやはじゃまなのでいっかいにおろし、おれはまたにかいにもどりました。よくがまんしていたとおもいます。だってすばらしいにおいのごちそうをまえにおかれていたとしたら、だれだってすぐにくらいつきたくなるでしょう。だけどおれはがまんしたんです。おれはニンゲンだから。
 けれど、あのこはうらぎりました。そのちをすすったとき、まったくべつのあじがしたのです。あたまにきて、おれはかのじょをぐちゃぐちゃにしました。かのじょだけでなく、かのじょのははおやもぐちゃぐちゃにしました。あのアメリカのじけんのように。ははとすごしたかつてのはこにわのめがみぞうのように……。さかさまのほしをせに、めがみはりょうてをひろげ、おれをうけいれるのです。
 しょうじょのつくえからみつけたほんが、おれのもとめていたものでした。あまいかおりがして、いますぐにたべてしまいたくなりました。いとおしいというそんざいをそのときはじめてしったのかもしれません。だいすきだったははとにた、あまいかおり。でも、こっちのにおいのほうがもっと、かいではならないようないけないかんじがしました。はやくあじわいたくてたまらなくなりました。
 そのとき、せんせいがかえってきました。おれのかおをみて、とてもびっくりしていました。なにやらどこかへでんわをしようとしていました。なにかをしまってほしいとしごとのでんわだったのでしょう。せんせいはしごとねっしんなひとですから。おれのあこがれのひとでした。でも、おれはここでつかまるわけにはいかないとおもい、せんせいをころしました。せんせいをころすのはとてもこころがいたんだので、ともだちにやらせました。やはり、もつべきものはともだちだとだれかがいっているのをおもいだしました。まったく、そうだとおもいます。
 せんせいをころしたあと、おれはせんせいのきているふくをはぎそれにきがえました。ほかのにんげんのにおいはふゆかいでしたが、とにかくがまんしました。それからかおをひたすらきずつけ――おどろくことにこれはまったくいたくなかったのです。おれはこうふんしていましたから、たぶんそのせいだったのでしょう。
 そうして、せんせいのからだとおれのふくをともだちにくわせ、にげるようにいうと、おれはせんせんせいになったのです。ちぬれたけいたいで、せんせいのやわらかいこえをまねて、つまとむすめがたおれています、と。……

 

 枝のような腕に横抱きにされ、香織が連れてこられたのは地下室であった。先ほどの場所よりも狭いのか、等間隔に連なる小さなライトのついた階段を降りきった途端、肌を包む空気の流れと音の反響が変わった。
「私の母は弱い人だった」
 香織を椅子に座らせ、男は語りだした。
「女手ひとつで私を育てるのには苦労したのだろう、帰る家もなく、心を許せる友もなく、心の拠り所は常に宗教だった」
 再びその存在を確かめるように、男の節くれた冷たい指が頬や肩に落ちてくる。
「そんな母が私は大好きだった。母の手はあたたかくやわらかかった。しかし、同時に疎ましくもあった」
 まるで罪の告白だ。香織は全身を粟立たせながらただその手を受け入れた。肩峰をかたどり、やがて下へおりていく。
「なぜ私をこんなふうにしたのだろうと、なぜ、私をふつうに産んでくれなかったのだろう、ふつうに育ててくれなかったのだろうと。私の青春はいつも影の中だった。光を求めることすらかなわず、ただ目映さに目を細めるだけだった。母が憎かった。……今はもう、感謝の気持ちでいっぱいだが」
 スイッチを入れ替えたように男は香織から手をはなし、体を反転させた。二歩、三歩、おそらく壁だろう方向へ歩むと、彼は手探りでなにかを探りだし――マッチだった。彼は新たなろうそくに火を灯した。刹那、部屋がおぼろに浮かび上がった。
 壁際には戸棚が並んでいる。アンティークの調度品だ。だが、男がろうそくを持ち上げると、戸棚の中身があらわになり香織は戦慄をおぼえた。
 ガラスケースが並んでいる。中には液体が満たされており、なにかの塊が浮かんでいる。――目玉や指だ。ほかにも人間の臓器によく似た奇妙な物体が並び、香織の全身は恐怖で満たされた。喉が締め付けられる。口の中が乾くのに、唾さえうまく飲み込むことができない。息が止まる。心臓がけたたましく鳴り響く。手が、足が、指先が、唇が、震える。それから、一冊の本が見えた。見覚えのある表紙であった。成海くんに貸したものと一緒であった。いくつか付箋が貼ってある、その位置まで寸分違わず。本だけではない、ハンカチ、髪、紙切れ……。
 思考を切るように、陶器の擦れる音がした。次いで、あえかに水音が届いた。
「これを」
 男が歩み寄り差し出してきたのは紅茶であった。おそらく、ハーブティーだ。ピオニーシェイプのカップに注がれたそれには、花房がいくつか浮いていた。
「この花は……」
 すずらんのような形をしている。だが、それよりも数倍大きく、色もはるかに濃い。おそらく乾燥させてあったのだろう、水分を含みゆっくりと花びらが開いていく。
「ジキタリス――」と男は答えた。「この花の葉を煎じた紅茶をよく飲まされた。健康になるのよ、貴方は特別になるの、もう怖いものなんてないわ、とね。そしてこの花を浸した水を希釈し、目薬にした」
 信じられなかった。だって、ジキタリスは毒性が高いとして有名だ。飲む量によっては死に至る。ましてやそれを目に入れるだなんて。香織は必死で顔を背けるが、男の手がそれを阻んだ。
「こんなの、正気じゃない……」
 引き攣った口もとがゆるやかに弧をえがく。「大丈夫、すぐに楽になる」さらりと銀糸が揺れる。
 どうにかして拒まなければならないのに、体は動かなかった。男の手は小刻みに震えていた。唇にカップの縁が押しつけられ、男の指がそこをこじ開けた。ぬるい液体が口内に入り込み、かすかな苦味を感じさせる。飲むまいと思うが、顎をすくわれては抵抗できない。鼻さえも塞がれ、溺れそうになりながら香織はそれを飲み込まざるを得なかった。男は指先で喉が動いたのを確認するとくっと笑い、カップに残った紅茶をみずから飲み干した。
「致死量には程遠い、また明日も飲むことにしましょう。ゆっくりでいい」
 明日も――? ずっとここにいなくてはならないの――? 香織はたまらなくなり、拘束された脚を男に向けて伸ばした。だがその瞬間、張り手が飛んできた。破裂音が響き香織は顔を反対へ投げ出す。打たれた頬は皮膚を破ったように痛かった。
「脚には気をつけて、目の見えない人間には命取りだ」
 そうして男はまたしても部屋の中を歩き回り始めた。
「あとはなにを話そう、すぐに時を迎えてしまうのはなんとも勿体ない。ああそうだ、貴女との出会いにしましょうか」
 ぶつぶつと念じ、やがて手を叩く。壁際に寄り、男は本を一冊手に取った。ろうそくの明かりがうっすらと紺色の背表紙を浮かび上がらせた。
 ――先生、いつも持ってる本、すこしだけ貸して! ねっ、いいでしょ?
「なぜ、それを……」
 男は愛おしそうに表紙を撫でる。
「この本が私たちを繋ぎ合わせた」
 大きなシミがついている。茶色い古びたシミだ。しかし見おぼえのある装丁だった。でも、流通されていた本だ、だれが持っていても不思議ではない。
 歩み寄ってくる男の、ぬらりぬらりとした足どりに、背すじを金やすりで削られるような心地をいだきながら香織はその本をたしかめた。
 アール・デコ風の飾り枠と銀の箔押し。そして男はスピンの敷いてあった箇所を開く。ポール・エリュアールの「L’amoureuse」という詩だった。
 《ひどいことをいって、ごめんなさい。あなたがだいすきです》
 一枚の紙片に連なった、その文字をたしかに憶えていた。丸みを帯びた少女らしい字。あのころ眩しく眺めていたものと、まったく変わらない。
 思いがけず、息が止まった。香織の中に生まれたのは恐怖ではない、怒りや悲しみ、あるいは憎しみだった。
「あなたが、やったのね」
 いかにもという顔だった。恍惚ささえ滲んでいた。まるで親に褒められた子どものように、影の中で男はニイと唇を歪めた。
「あの少女が引き合わせてくれた。永らく時間がかかってしまったが」
「どうして……あの子、まだ十三歳だったのよ!」
 ――瀬古絢音さんが事件に巻き込まれて亡くなりました。そう告げられた瞬間の絶望を彼女は忘れない。深夜に起きた強盗殺人により、命を奪われた大切な生徒。たとえ担任教師でなくとも、ただの教師と生徒という関係であったとしても、かけがえのない生徒だった。かけがえのない女の子だった。もう二度とあんな思いをしたくないと思っていた。
 それなのに――「貴女のためです」うっとりとした吐息に背すじが震えた。
「貴女と一緒になるため……」
 彼の言うとおりだった。あの子は私のせいで殺されたのだ。未来の明るいほんの十代の子どもだったというのに! あの子だけじゃない、何人も、私がいたせいで未来を失くしてしまった!
「貴女のにおいは母に似ている。あたたかくてやわらかくて、そして花の蜜のかおり、あるいは春の日のこもれび、夏のそよ風、秋のともしび、冬のこごえた指先。姿形はわからずとも、貴女のすがたが、おれのまぶたの上に灼きついて離れない」
 男の白濁とした目が彼女の目を貫く。髪がもつれあう。手の形、瞳の色、そして影が……。バチンッ――指を鳴らす音がした。一瞬の出来事だった。無風だった室内に一陣の疾風が起こり、激しい破裂音が響いた。
 男は今一度指を鳴らすと、本を大事にかかえて離れていった。影の中にひとつ、ふたつ、と燈火が灯る。影が再びいくつも浮かび上がる。
「ええ眺めやなあ、先生ェ」
 ゆったりとした胡弓の響きだった。ほんとうに、来てくれたのだ。
「瀬古、おまえにこんな趣味があるなんてな」
 ――瀬古?
「ずいぶん早い到着でしたね、直哉さん」
「そういうそっちはモタついてんとちゃう? さっさと喰っとるかと思ったけど」
 コン、コン、と階段を降りる音が止み、エンブレムのついたブレザー姿が目に映る。
「瀬古――いや、河西丈」
 気だるげに立ちながら、その背は凛としている。息を呑むほどの威圧感。まばたきをすれば最後、気圧される……。ああ、という男の感嘆の声が響いた。
「貴方には感謝します、ほんとうに……。私の手となり足となり、目となり彼女を見つけ出してくださり……」
 引き攣った頬は明かりに照らされうっすら上気しているように見えた。あるいは、本当にそうだったのかもしれない。首すじやこめかみの血管は浮き上がり興奮のあまり汗が滲んでいた。
「彼女は私の血となり、肉となる。私たちは永遠にひとつになるのです」
 高らかな声だった、恍惚のあまり震えてさえいた。心臓が炙られる。肌が粟立つ。口の中が渇き、うまく息ができない。
「……キッショ」
 男の全身を眺め直哉は吐き捨てた。あろうことに、男の逸物は烈しく勃起していた。荒々しく吐息がこぼれる。しかしそれを呑み込み、男が再び指を鳴らす。影から飛び出すのは、新たな影。
 しかし一瞬の出来事だった。直哉は間合いを詰め、男の喉を掴み上げていた。
「おまえの敗因は俺を敵に回したこと。そっちについた時点で運の尽きや」
 苦しげに男は呻きもがいている。宙に浮いた脚を必死にバタつかせる。
「次は騙す相手選んだほうがいいで。……次があったらの話やけど」
「ぐ……ゔ……わだしは……」
 やがてなおやは空いたほうの手を軽く上げ、指を今一度打ち鳴らした。影が蠢き、目に見えぬ速さで男に飛びかかる。男の断末魔が響いたのはすぐあとのことだった。そして、血しぶきを散らしたさなか、影が弾けたのもまもなくのことであった。