「お薬出しておきますので、なにかありましたらまたすぐいらしてくださいね」
白衣姿の男がわずかなドアの隙間からのぞく。寝癖なのかパーマなのかか判別し難い黒髪に黒縁眼鏡。「ボクも、よくがんばったね」体をかがめ柔和に微笑む姿は、なんとも満点の医者だろう。
更家真守、東京生まれ。中学まで地元の草野球チームに所属し、ピッチャーを勤める。その後、高身長を生かし、高校からはバレー部に所属。■■大学医学部に現役合格し、卒業後は研修医として同大学病院に勤務。自身の研究分野であった血液・免疫学の研究を行なう為、後期研修修了後、S英館大学大学院へ入学。現在、博士課程に在籍している。
「では、次の方」
声がかかり、親子連れと入れ替わりに直哉の隣に座った老人が中へ入っていく。
《さらいえ内科小児科クリニック》は、更家真守の実家だ。れんが積みのアンティークな外観に、アイボリーに統一されたあたたかみのある内装。受付には女が二人、待合室は十人も入ったら狭いだろう。街の小クリニックといったところだが、先ほどからひっきりなしに老人や親子がやってくる。
更家真守は週に一度、研究の傍ら実家のこのクリニックで診療を手伝っていた。今日がその日だ。午前いっぱい更家真守が診察を担当し、午後から大学へ向かう。直哉は携帯を眺めるフリをして、診察室のドアの隙間から更家の姿を観察していた。
現在、午前十時。直哉の診察まではあと一人か二人といったところ。偶然を装い、直哉は小石をレールに転がしてわざと立て付けを悪くしたが、その引き戸の数センチの隙間から、終始温和な更家の様子が見てとれた。
《理学部 生物学科 血液生物学研究室》――それが彼の所属する研究室だ。主に血液に関しての研究を行なっており、公の研究機関などとも提携しさまざまな研究成果を上げている。ネット上に上がっていた大学広報の取材記事によれば、研修医時代、参加した学会で現研究室の教授に出会い、医師として現場に残るでも、母校の医学研究科に進むでもなく、道を改めようと決心したらしい。
更家がS英館大大学院理学部にやってきたのは、三年前。今川香織がS英館大附属高校に採用された時期に重なる。そして更家はおそらく、今川香織にただならぬ感情を抱いている。
何度となく見かけた二人の姿を見れば、考えるまでもない。直哉は口内のザラつきを舌打ちで誤魔化し、ただ時を待つ。携帯にはメッセージ十件、着信五件。篠宮翔とS英館大附属高校からだ。篠宮からは、「おい増岡が怒ってるぞ」「とりあえず体調悪いらしいって誤魔化しといた」など、後者は増岡だろう。自宅として登録した電話番号にかかってきた電話は、すべて直哉の携帯に転送されることになっている。留守電も何度か入っていたが、悉くそれらを削除して直哉は新たに届いたメッセージを確認する。
《本日午後、港区のクリニックにお越しいただいてもよろしいでしょうか》
――瀬古だ。
《要件は》直哉は端的に返す。
《今後の方向性に関して相談したいことがあります》
それならば電話で、とも思ったが、直哉は快諾した。ちょうどそこで引き戸が開いた。
「禪院さん」穏やかな声で名前を呼ばれる。直哉は携帯をブレザージャケットの内側にしまい、緩慢な仕草で立ち上がった。。
「本日はどうなさいましたか」
更家はデスクトップパソコンでカルテを打ち込んだあと直哉を向き直る。
「あれ、君……」眼鏡の奥で目が見開かれた。「驚いた、附属高の生徒さんだったんだね。大人びていたから、てっきり大学生かと」
柔和にはにかみながら眼鏡のブリッジを押し上げる。そらあなと嘲笑したくなったが、直哉は、「まあよう言われます」といつもよりゆったりとした調子で答えた。
「それで、今日はどうかしたのかな」
直哉は胸のあたりを手で撫でる仕草をした。
「どうにもこのあたりがソワソワして、いてもたってもいられんくなることがあるんです」
更家はリラックスムードだった姿勢を改め、ふむとうなずき、カルテに打ち込む。
「なるほど、胸がソワソワするんだね。それは大体いつから?」
「さあ、先週くらいやったか」
カタカタ、と几帳面そうなタイピング音が響く。
「どんなときその症状が起きたり、強くなったりするか、わかりますか」
「ある人を見たとき、やな」
更家の手が止まった。直哉は唇を歪めた。
「その人を見ると、どうしようもなくめちゃくちゃにしたなって、いてもたってもおられんくなる。ひとつになりたい、すべて自分のものにしてしまいたい。……その人のことが食べたくてしょうがない」
びくり、彼の右腕が震える。
「これはまた、なんとも情熱的な相談だね」
なんとも弱った笑みだった。直哉はたたみかけるように、構わず続けた。
「なあ更家先生ェ」一匹の狐が嗤う――「人が人を喰ったらどうなるんやろ」
用事を終え直哉はS英館大へ向かった。昼刻である。学食や購買へ散らばるキャメル色のブレザーやオフホワイトのセーターを横目に、直哉はまっすぐC校舎へ向かった。
C校舎四階、人影のないかび臭ささえする小スペース。「香織ちゃんが探してたぜ」という篠宮の言葉を受け、直哉は彼女を待っていた。職員室まで向かうのは面倒なので、先日知った電話番号から、《屋上におんで》とメッセージを送ったのだ。
味気ないブリックパックのコーヒー牛乳を口にしながら屋上へ繋がる階段に座り、手持ち無沙汰に携帯を手の中で転がす。やがてやってきたのは、ペールブルーのブラウスにタイトスカート姿の今川香織だった。結い上げたシニョンが首元で揺れる。化粧っ気は薄いが、濡れた瞳が加虐心をくすぐる。
直哉がかすかに笑んで受け入れると、彼女はぎこちなく口許をもぞつかせ、「増岡先生が怒ってたわよ」とかろうじて口にした。
「ちゃんと用事はあったで」直哉は肩を揺らす。
「なんの」
「病院」
今川はぐっと言葉を呑み込んだ。こういえば深く追及されはしないだろう。今川はそういう人間だ。
「でも、きちんと職員室に連絡しないと」
腕組みをし教師らしく威厳を保とうとする彼女を直哉は見上げる。
「……どうしたの」
直哉は立ち上がり、彼女のすぐ目の前に立ちはだかった。そんなことをされるとは思ってもいなかったのだろう、彼女はあきらかに狼狽の色をその瞳に載せ、それでも気丈に振る舞ってみせようとした。さらに一歩、距離を詰める。彼女はあとずさる。
「禪院くん」反対の窓際に彼女を追い込んだ。その顔の横に、腕を突き立てた。
「瀬古絢音について話してくれへん」
見下ろした先、長いまつ毛が顫動した。どこまでもわかりやすい女だった。
「どこで、それを」
「さあ?」直哉は香織に手を伸ばす。
顔の横にこぼれた髪を指先に絡み付けて、口もとへ寄せると直哉は目を細めた。
「ほかにもサイトウカナエ、スズキヒサヒト、ナルミユウヤ……みぃんな死んでもうたで」
面白いほどに肩が揺れた。小刻みに震えだしていた。瞳を覗き込むと白目はほの赤く染まり、いっぱいに涙を溜め込んでいた。瞳の奥は戦慄に、あるいは怒り、狼狽、苦渋に、強く揺れていた。
「うそ……」
「うそやない。アンタの気にかけとった松崎奈津子も」
今川の手が振りかぶられる。だがそれを直哉は捕らえた。
「殺したくなきゃ、ぜんぶ話し。俺ならアンタの守りたいモン、守ってやれるで」
ルージュの塗られた唇を形を歪めるほどきつく噛む。なにが彼女のトリガーかはわからない。だが、篠宮によれば、彼女は四年前に「瀬古絢音を見放した」ことを気にかけているのだという。
「アンタがいつも、いつも、前に立って、俺らを見つめながら泣きそうな顔をすんのは、瀬古絢音が関係しとるんやろ」
彼女は背を壁につけたまま、ゆっくりとリノリウムの床へへたり込む。聡明な瞳をふちどるまつ毛が大きく震え、ついに涙があふれた。ぽろぽろと硝子珠のように頬を伝い、それは彼女のスカートへ染み込んでいった。
「あの子、ずっと死にたいって言っていたの。学校も楽しくない、学校に行けないわたしをお父さんもお母さんも気に病んでずっと喧嘩をしてる、わたしなんていないほうがいいんだって」
四年前、休みがちだった瀬古絢音を救ったのは、今川香織だった。篠宮も、たしかにそう言っていた。
「だから、少しでもそんなことないって、生きていたらいつかいいことがあるって思ってほしくて、ひとりの生徒を特別扱いするのはよくないとわかっていても、それでもずっと彼女といたの」
時間に際限はある、しかしそのギリギリまで彼女は時間を費やして瀬古絢音のそばに寄り添った。時にはドラマや映画のことで語り合い、好きな本や食べ物、他愛のないふれあいをたくさん設けた。
今川は涙を流しながら、震える声で続けた。
「ある時、彼女は教えてくれた。先生のおかげで、生きてることが楽しいって、死ななくてよかったって。私、すごくうれしかった。この子を守れたんだって、救ってあげられたんだって。でも、結局、私はあの子を突き放してしまった」
直哉はそれを見下ろしていた。彼女の背は驚くほどに小さかった。
「あの子が亡くなる前、本を貸したの。私の好きなものを知りたいからって、いつも私が持っていたものを借りたいって。いつも持っていた本を貸したわ。それから数日して、本のことで聞きたいことがあるって言われたの。でも、テストの準備や会議で叶えてあげられなかった。それからまた次の日、相談したいことがあるって言われた」
手の甲で頬をこする。それでも止めどなく感情の結晶はこぼれていく。
「どうしても話したい、学校じゃダメならメールでもいいからって」
「それも、断ったんやな」
こっくり彼女はうなずいた。
「生徒と個人的な連絡をとるのは、よくないから。次の日、やっと時間ができるから、その時にって言ったの。でも、その時がくることはなかった」
――先生はわたしなんかどうでもいいんだ?
――もういい!
そう言い残し、瀬古絢音は今川香織の前から立ち去った。その夜、彼女は殺された。
直哉はしらじらとした思いでそれを聞いていた。ひとつも同情する要素など持ち合わせていなかった。むしろ苛立たしさすらおぼえながら彼は今川香織の濡れたまつ毛を見つめていた。
あいつ、先生を傷つけたって、酷いことを言っちゃったって、すごく後悔してた――篠宮の言葉である。幼なじみ三人は、いつも一緒に育った。体の弱い瀬古絢音と松崎奈津子、そしてそれを守る篠宮翔。篠宮自体も幼少期はよく体調を崩す子どもだった。そうした所以から、彼らは親交を深め、周囲から揶揄されるほどに仲睦まじく育った。中学へ上がり、ひとり、瀬古絢音だけ親の方針で違う学校へ通うことになった。体質や彼女の性格をよく理解し、サポートの手厚い私立女子一貫校を選んだのだ。父親である瀬古敏明のすすめで、界隈でも評判の学校を選んだ。離ればなれになったものの、彼らは繋がっていた。それは事件当日の夕方まで。泣きついた幼なじみに、篠宮と松崎は、「明日謝ればいい」と告げた。瀬古絢音は涙ながら、しきりにうなずいていた。
十代は繊細な時期だ。直哉もかつてはそうした時代があった。だが、おおよそ彼らとは重ならない人生だった。なにもかもせせら笑いたくなる思いを抱えながら、直哉はその場にしゃがみ込んだ。
「今でも、あのとき一分でも立ち止まってあの子の話を聞いていたらって思うの。なにか重大な悩みだったんじゃないか、なにかに巻き込まれそうになっていたんじゃないかって」
赤く染まった目もとをそっと親指でなぞってやる。すっかりうさぎのようだった。直哉はその眼の奥を覗き込んだ。
「瀬古絢音が死ぬ前、なにか仄かしとったことは」
「なにも、相談があるってこと以外は、とくに……本を貸して、そのときはやっていたドラマのことを話して……」
そこで、はたと勘づいた。――本だ。
「本って、なにを貸したんや」
「エリュアール――ポール・エリュアールの詩集。このあいだ貴方に読んだものと、まったく一緒。古本屋で手に入れたものだったのだけど、高校時代からずっと好きでそばに置いていた本だった」
なるほど、直哉はチッと舌打ちをひとつ拵え、立ち上がる。背を向け、瀬古に電話をかけようとした。娘の遺品に、紺色の布張りのハードカバーの洋書がないかと確かめようとした。だが、繋がらなかった。苛立ちを募らせながら次は本郷へ。
「……松崎さんが、狙われているの?」
潤んだ声に、直哉は、はたと落ち着きを取り戻した。本郷にリダイヤルしかけた指を引っ込め、ブレザーの胸もとに携帯を戻した。ふり返ると、すでに彼女は教師の顔を取り戻していた。
先ほどまで捕食される小動物のように震えていた瞳が、すっかり強い光を宿している。背すじがぞくりとした。直哉は鼻笑い、今川香織の前に再びしゃがみこんだ。
「松崎やない。――アンタやで、センセイ」
