伊地知の運転する車により、S英館大まで送り届けられた直哉は大学側に建つ特別棟へ一目散に向かった。防音室の向こうからピアノや金管楽器の音が響く。それらを背に美術科特別室がある東側へ。「Atelier」と書かれた一室のドアを直哉はノックもなしに勢いよく開いた。
「禪院」
呼びかける手間が省けたのは、なんとも都合がいい。突然の和装姿の男の出現に騒然となったアトリエで、筆を手に、床に広げたカンヴァスを見下ろしていた篠宮翔が顔を上げた。
「おまえ、その格好……」
しかし、直哉はなにも言わずただ顎をしゃくった。
アトリエのある廊下を突き進み二人が向かったのは「立ち入り禁止」のあの教室であった。以前と同様ヘアピンで鍵を開けると、中へ入り篠宮はたちまち施錠した。一面のモノクロームやヨハネの首を持つサロメ、沈むオフィーリアなど、数多の絵画に見つめられながら、躊躇うことなく小さき画廊の案内人となる篠宮の後に続く。
「あの絵はバロック期の有名な画家ルーベンスによって描かれた《子を喰らうサトゥルヌス》の模写なんだ」歩きながら篠宮が説明する。「ローマ神話における農耕神サトゥルヌスが、自分の身が滅ぼされるという予言を恐れ、女神オプスとのあいだに産まれた子どもたちを丸呑みしていった。その伝承がモチーフになってる」
アイボリー色のセルフィール製ドアの前まで辿り着き、彼はノブを握った。開いたドアの先には、そのサトゥルヌスが顕現した。闇と暗雲を背負い、鎌を片手に髪や髭を乱しながら子に喰らい付く憐れな男よ。自己の破滅への恐怖に取り憑かれ狂った男は、子が生まれるたびにその体を呑み込み、そして自らの子によって殺された。
二メートルほどはあろうその絵は、学生の模写とは思えぬほど精緻に描かれている。サトゥルヌスの乱れ髪、肌のたるみ、今にも悲鳴が聞こえてきそうな子どもの表情、ただひとつ違うのは頭上の光だ。
「本物には土星が描かれていたんだ。じゃあなんで三つ星が並んでいるかっていうと、当時はまだ土星に環があるってことは知られていなくて、一六一〇年、ガリレオ・ガリレイが行った天体観測では、土星を中心に三つの星が並んでいるように見えたってわけ」
携帯をとりだし、ほら、と見せてくる。そこには直接を三本用いて描かれた光が並んでいた。
土星である理由は、サトゥルヌスは英名を「サターン」というように、土星の守護神とされているからだろう。だが、今、直哉の目の前にある絵には土星ではなく五芒星が描かれていた。それも、逆さまの。これを見せてくれ、と直哉は篠宮に頼んだのだ。
五芒星というと、呪術師にとって馴染み深いものである。五角を有した星であり、交差する長さの等しい五本の線分で構成され、中心に五角形が現れる図形だ。安倍晴明をはじめ、古来よりその形はまじないの象徴として使われてきた。
西洋ではその歴史は紀元前メソポタミア文明まで遡り、日本と同じくその記号は力を持ち、神聖なものとして魔術に応用された。しかし、中世以降、キリスト教指導者たちの手により異教徒のシンボルとみなされ、その神聖さは「邪悪さ」の象徴としてとってかえられた。
「事実は小説より奇なり、じゃねえけどさ」篠宮は直哉と同じくサトゥルヌスの頭上を見つめる。「前に言ったよな、十五年近く前、この絵を描いた女子生徒が自殺したって。表沙汰にはなんなかったけど、ある日突然、自宅でなくなっているのが見つかったらしい」
でも――そこまで言って彼はカンヴァスに歩み寄り、二メートルはあろうその絵画を慎重に裏返した。
「《いつかわたしが死ぬときは、きっと彼らに喰われるときでしょう》……?」
赤い筆跡はまるで血のようだった。おそらく油彩だろうがその言葉から悲鳴が響くようだった。繰り返した直哉に、篠宮はただその字をなぞり目を伏せた。
「事実はわからない。でも、十五年前の同時期とあるカルト宗教の儀式が新聞に取り沙汰された。悪魔の力を得るために人間を生贄に捧げ、カニバリズムによって儀式を行う……その女子生徒の両親も、その宗教に傾倒していた」
女子生徒の自殺、子を喰らうサトゥルヌスの絵、そして逆五芒星。信じがたい話かもしれないが、そうした儀式は決して昔の出来事ではない。現在もなお、世界各国で宗教を背景とした怪奇的かつ猟奇的な事件が続いている。
「この逆五芒星は、よくそうした悪魔崇拝を示すシンボルとされているんだ」
悪魔主義、あるいは悪魔崇拝、サタニズム……既存の宗教や神をすべて否定し、悪魔やルシファーなどを信仰する。元来、シンボルとしての五芒星の歴史は、キリスト教の用いる十字架よりも長い。だというのに、なんとも皮肉な話だ。
篠宮はカンヴァスを元の位置に戻し、再度頭上の星を見上げた。「で――?」そして、やおら直哉を振り返った。
「これが、事件となんの関係があるんだ?」
直哉は目を細めた。彼はひと言も事件のことなど口にしていない。ただ、確かめたいものがあると篠宮に告げただけだった。単なる子どもだと思っていたが、少し侮り過ぎたか。
「なにを知っってるんや、おまえは」直哉はあの日のように訊ねる。
「なにも」彼もまたそう返した。「ただ――」篠宮が神妙な顔を不敵に崩す。
「いや、その前に謝ってもらわないとな!」
「ハ?」思わず素っ頓狂な声が洩れた。
十近く年下の少年が白い歯をのぞかせ、ニヒヒ、と効果音がつきそうな調子で笑う。
「このあいだの、オレ傷ついたんだぜ? 運命だって思ってたのに、あんな態度はねえよ」
「……ホンマにキショいねん」
「ホラまた!」
首すじを摩った直哉に、今度はムッと唇を突き出した。
「とにかく、オレは禪院のことが知りたいわけよ。おまえにとっちゃただの成り行きで来た場所かもしれねーけど、でも、何百も何千もあるガッコーの中で、一緒のところに通うって奇跡だと思うんだ」
運命だ奇跡だ、なんとも馬鹿馬鹿しい。目を回したくなったが、否、すでに回したが、篠宮翔はまっすぐ直哉の目を見つめ曇りなき眼で、「な?」と迫ってくる。
「つうか、学食のカツサンドを無駄にしたことにも怒ってる。まじでない、あれはない。学食のお姉さんが泣いた」
「お姉さんなんてガラの人間、一人もおらんかったやろ」
「いいの! オレより年上の女性は、みんなお姉さんだからいいの!」
なんなんだこいつは。直哉は舌を打ち、「わかった」額に手を当ててため息をついた。篠宮の目が爛々と輝き、唇が期待から薄くなった。
「で?」
「悪かったわ」
「おう! なにが?」
「うざいねん。近寄んなや」
「ハイ傷ついた! すっげえ傷ついた! 慰謝料として今度オレのデッサンモデルになってもらいまーす!」
おまえ、絵になるんだよ、まじで。窓際で頬杖ついてるのとかさ、チョーダルそうにしてるのとかさ、アンニュイっていうかメランコリーっていうか、でも神秘さもありつつ俗っぽさもある、それこそカバネルのルシファー的なフンイキっていうの? あっ、ヌードはいらねーけど。……云々、直哉はついぞ蹴飛ばしたくなったが、差し出された手を払い除けるだけにとどめ、すぐさま着物の袂を整えた。
「で、ただ、なんなん」
篠宮は一度息をつき、目を伏せた。それから携帯を直哉に差し出した。
「オレの幼なじみが、事件に巻き込まれたんだ」
そこには篠宮とともに、一昨日呪霊に襲われた松崎奈津子と、四年前に死亡した瀬古絢音の姿が映っていた。しかし、驚くべきはその続きだった。
「どこでこれを手に入れたんや」
篠宮が画面をスライドした先に飛び込んできたのは、《今川香織と瀬古絢音》の写真であった。
篠宮と別れた直哉は本郷に電話をかけていた。日は傾き始めている。金色に染まる特別棟を背に、校門へ向かう。日曜とはいえ、敷地内には高校の在校生も大学生も多く活動していた。すれ違うキャメル色のブレザー姿の生徒が書生服という装いの彼を振り返り囁き合っていた。道端で見掛けることなどほとんどない服装に、金髪とピアスという出立ちだ。女子大生が頬を染めて肩を叩き合っている。
「なんだ」
数回のコール音ののち本郷が出た。
「人間を生け贄に儀式を行なう宗教団体、あるいは秘密結社は」
挨拶もなしに告げた直哉に、本郷は感心した声を上げる。
「なんだ、ロバート・ラングドンごっこでもするのか」
「殺すで」
「冗談」
本郷は声をひそめた。
「八月のサイトウカナエの事件当時、俺たちはそうした宗教団体による人身御供の儀式を疑った。有望なのは十五年前、高校生の娘を悪魔に捧げた■■■という団体だ」
十五年前――篠宮の言葉に合致する。
「当時、表向きは関与を否定していたが、二〇〇〇年代初頭まで幾度となく信者の家族やその知人が行方不明になる事件や、動物の遺体を使用した儀式の痕が見つかってる。だが、警察は手出しができなかった」
直哉は鼻を鳴らした。「大方、呪霊事故に見せかけでもしたんやろ」
全国津々浦々そうした事件は後を絶たない。確定的な証拠がない限り裁かれることはない――推定無罪の原則だ。そのため、呪いはよく殺人の隠れ蓑として使われる。難事件、あるいは極めて非道かつ残忍な事件も、そうして呆気なく幕を閉じる。本郷は直哉の言葉にうなずいた。
「二〇〇六年の秋、そのカルト団体の幹部や信者らが複数人惨殺された事件があった。もちろん、呪霊によってな。彼らは姿形もわからぬほどの肉片にされ、無惨にも呪いに喰われた。高専の人間がその対応に当たった記録が残っているはずだ」
直哉は携帯を耳に当てたまま、前方の群衆を睨みつけた。まるで世界を隔てているかのようだった。同じ場所にいるにもかかわらず、同じ空気を吸っているにもかかわらず、直哉はそちら側の人間ではなかった。
「今、そのカルト団体は」嘲笑し直哉は継いだ。
「残念ながら、その事件を契機に事実上の瓦解。宗教法人としての法人格を失い、後継者もおらずその名は表舞台から消えた」
「ちゅうことは、今回の事件への関与も、そっちの調べではないんやな」
直哉は歩き出す。西陽を切り裂くように、そして群衆を薙ぎ払うように。電話口の向こうで本郷は苦々しく、ああ、と答えた。
「けど、死体が全部示してるんは、逆さまの五芒星やろ」
不可解な点は、方位であった。必ず南向きに頭を据えられ、東西へ腕を投げ出し北北西北北東に向けて脚を広げていた。この世界では北を基準として物事を読み取ることが多い。羅針盤の針は常に北を指し、地図や地球儀においては北を上に置いた形で示される。それらは「世界で唯一動かないもの」である北極星を基準にしているからだ。地球の地軸の直線上に位置している北極星は、地球が自転と公転を繰り返しても必ず軸の真上にある。したがって、遺体の示すシンボルが頭を頂角とした五芒星であるとし、また、それは北を起点にすると、逆さを向いていた。……今さら、宗教的なものから完全に切って考えるのは難しいだろう。
「被害者は犯人の信仰の犠牲になったのか、はたまた愉快的犯行か」本郷は煮え切らない様子で続ける。「くそ、どうなってんだ」
「件のカルト団体の関係者で怪しい人間は本当におらんかったんかい。今川香織に関係する人間か、被害者に関係する人間か」
おまえらは無能か、直哉は腹の底で白々と吐き捨てる。
「一人だけ、瀬古さんに接点がある人間がいた」
「瀬古が?」
「ああ。犯罪被害者支援の一環として、とある少年のカウンセリングを請け負っていたんだ。信者の――この場合は被害者といったほうがいいだろうな、宗教二世として育ち、二〇〇六年の事件当日、まさに生け贄として殺害されかけた少年だ」
ただ、本郷はそこで言葉を切った。
「彼も四年前の事件よりも一か月前に、自宅で焼死してる」
そのとき、直哉の前に人影が飛び込んできた。肩がぶつかり影がよろめく。その拍子に抱えていた紙の束が地面に落ちた。
「すみません」白衣姿の男が腰を折り、そのうちのひとつを拾い上げる。
《血液型抗体の多様性に関する研究――ササキ・シマダ実験より》
「ついよそ見をしていて、お怪我はありませんか」
緩くウェーブのかかったマッシュヘア、黒縁眼鏡、気弱にも見える柔和な顔立ち。首にかかったネームホルダーに記されているのは、《理学部 生物学科 血液生物学研究室》。
《ABO式血液型不適合の造血幹細胞移植における抗体吸着に関して》
《Rhnull型症例に対する輸血療法に関する研究》……
いまだ地面に横たわる論文の文字をかすめとるようにすばやく盗み見たあと、直哉は目の前の男の顔を裂けるような眼つきで見つめた。
――男の名は、更家真守。
