第二幕 四

 これといって進展がないことに直哉は苛立ちを募らせていた。ホテルで目を覚ました瞬間から、「学校がある」事実に舌打ちを拵えそれでもベッドから這い出るのだが、電車に乗って清々しい朝の陽気を全身に浴びることでそれが半減――するわけもなく、しょうもない青い春の、甘く締まりのない空気を味わったことで彼の呵責は確実に増幅する。制服を着崩すことなくかっちりと着込み、だれも寄せ付けることなく教室の片隅で耳障りな言葉を延々と流す。チャイムが鳴ったらさっさと教室を出る。じろじろと見られて、舌打ちをする。――必要以上に感情を洩らさないが。
 いつまでのろのろしてんねん。人の気配が遠ざかったところで直哉は携帯を出す。画面には瀬古の文字。ポン、と気の抜けたように浮かび上がってくるのは、「いかがですか」というメッセージだ。いかがですか、やないねん。思いつく限りの悪態をついて直哉は素早くフリック入力を済ませる。だが、送信しようとしてはたと直哉は顔をあげた。
 ジッ、ジジッ。爆ぜる音だ。動きを止め、眼だけで直哉は白い廊下を見渡した。姿は視えない。しかし、居る。足音とそして気配を消し去り、直哉は携帯をいじるふりをしながらその場を過ぎる。次の刹那、ポケットに突っ込んでいた左手を肩まで上げ、なにかを引きちぎる要領で放り投げた。黒い気体が宙で弾け、やがて消えた。
「雑魚ばっかやな」
 はらはらと舞う青黒い塵を一瞥し、何事もなかったように直哉は立ち去った。

 滔々と紡がれる鍵盤の音色のように、聲がゆっくりとほどけていく。第二外国語の授業だった。それも、他クラスのだ。直哉は体育を脱け出し、授業を行なう今川香織の声を聴いていた。そうためにやってきたのではない。ただ単純に、教室へ荷物を取りに向かおうとしてそばを通りがかったのだ。
 第二外国語の授業は単位数にして三単位。週に三時間授業がある。そのひとつは「精読」であり水曜に終えた。もうひとつの「フランス語Ⅱ」という授業は明日にある。
 なんでもこの学校は外国語に力を入れているのが売りであり、ミッションスクールでもないのに実に国際色豊かなのだとだれかが言っていた。それを象徴するように明日の「フランス語Ⅱ」はネイティブ教員による授業。そんなモンどうでもええわ、というのが直哉の心情ではあったが、「ちゃんと授業は受けてくださいね。怪しまれては隠密活動の意味がありませんので」と言ってきた伊地知の顔を思い出し、半ば舌打ちを打つはめになった。
 ピアノの音が吐息に変わる。静謐な世界だ。それまでそんなものを知らなかったかのように、ただひそやかに時が流れてゆく。自らの影が、白日の光に溶けていく。
 もしもこれが、悪い夢でなかったとしたら。
 もしも過日がすべて悪い夢だとしたら。
 そんなことを考えるのは、愚か者のすることだ。この生き方以外、求めるものはなにもない。振り返るものもなにもない。直哉は女教師の声を振り払い、教室へ入って窓の向こうを眺めた。
「おい禪院」
 結局その日の授業をバックれ、C校舎の四階で過ごした直哉は去り際に一人の男子生徒から声をかけられた。不躾な呼び声に、振り返る義務もないと思ったが、歩き出す直哉の前に彼は立ちはだかった。
「ひと言くらい伝言残してけよな、日直のオレが増岡に怒られたんだぜ」
 どうやら同じクラスの生徒のようだ。顔に見覚えはない。――というより、ほとんどの生徒の顔など認識していなかった。じゃがいもどころか蠅頭同然の扱いだった。
 とにかく、なんやこいつと直哉は少年を睨め付けたが、彼は直哉が自分の存在を認めたとわかるとそれまで怒り顔を浮かべていたのを瞬時に入れ替えた。
「ま、サボタージュしたくなるのもわかる!」
 トントンと肩を叩き、それから肩を組んでくる。制汗剤の香りが掠めて直哉は顔を顰めた。香りどころではない、その馴れ馴れしさ全体に腹が立った。しかし少年は肩をぐっと組むと、「おまえ、視えるだろ」と直哉の耳元で声を低めて言った。
 なんとも言葉遣いのなっとらんガキや、「それがどうしたん」と直哉は唸るように答えた。
「篠宮翔」
「は?」
「オレの名前。カケルって呼んでくれて構わないぜ!」
 こめかみに声が突き抜ける。直哉は顔が歪むのを隠さなかった。
「それはどうでもええねん。君――」
「冷たいこと言うなよ、ほら、リピート・アフター・ミー、カ・ケ・ル」
 なんやこいつは。盛大に舌打ちを拵え、しかし篠宮翔に屈することなく直哉は続けた。
「そんで、君も視えるんやな」肩に回った腕を外し、首を捻る。
「まァね。小さいころからオレとねーちゃんは視えてた」篠宮は不愉快がる様子もなくあっけらかんと降参の構えを示した。
 サイドを何本かアメリカピンで留めた短髪。キャメルのブレザーは羽織っておらず、指定の白いカーディガンをシャツの上に着ている。袖元からのぞく手首やネクタイの緩んだ首もとは、お世辞にも男らしいとは言えない。それがふつうなのだが、彼にとってはふつうではなかった。こっちの人間ではなく、おそらく窓といったところだろう。
「禪院は仕事しにきたんだろ?」
 直哉は明確には答えず篠宮の顔を見た。
「安心しろって、オレのねーちゃんの友達、コーセン通ってたから」
 瞳の揺れはない。
「そんなら話は早いな」直哉が言うと、篠宮は眉をあげてしたり顔をした。

 C校舎から出た二人は室内履きのまま大学側にある特別棟へやってきた。主に芸術科目の特別教室があり、西にはグランドピアノの置かれた音楽講義室と、それに付随して吹奏楽部のためのスタジオがいくつかある。東には美術講義室、準備室、そして、アトリエなど。篠宮は直哉を連れて東館への階段をあがり、廊下を突き進むと、「立ち入り禁止」と書かれた扉の施錠を解いた。それも、ヘアピンで。
「ようこそ我が校の魔窟へ」
 飛び込んできたのは一面のモノクロームだ。手を伸ばし、叫び、喘ぐ、人間の苦悶の姿。それだけではない、男の首を皿に載せる女、泥まみれの死の底に誘われながらも恍惚の表情を浮かべ水面から顔を出す女、死の谷で首を喰らう男。眉根を寄せる直哉をよそに篠宮は木張りの海原を渡る。
「昔、先輩たちが模写をした絵だよ」
 そうしてそのうちの一枚、男の首を手にした女の絵を親指でなぞった。
「今の校舎ができたのは十年前。その前の旧校舎の準備室にこいつらは大事にしまいこまれてたんだ」
 直哉は数歩うしろから篠宮をうかがっていた。奴の魂胆はなにか、協力者か、否か。はたまた、ネズミかタヌキか。
「で、今さらこんなもん飾ってどうなるん」
 篠宮は左側を顎でしゃくり示した。
「よくやるだろ、菅原道真を祭神として祀るとか」
 その先には扉があった。彼らが入ってきたものとはちがう。絵画という窓以外、存在しないその四角い箱庭からどこかへ繋がる扉だ。
「およそ十五年前、この絵を描いた生徒が自殺した。それも、その絵の前で。学校側はその事実を隠してるけど、美術部の間じゃあよく知られた話でね」
 なるほど、臭いものには蓋をしたがるものだが、つつけば他にも無尽蔵に出てきそうだ。学校法人という閉ざされた世界の深淵。それを嘲笑い、直哉は淡々とその扉へと歩み寄る。篠宮は続けた。
「画家の真似事をしたものだとしても、絵には強大なパワーが宿る。先月、後輩がそこに忍び込んで、怪我しちまってな」
 全国数多人間の畏怖あるいは恐怖の念が集合体となり呪いとなる例は散見される。古くから伝わる曰く付きの骨董品はもちろん、絵画や芸術作品もそうだ。そうして連綿と紡がれてきた呪いは多く、またそれを所望する人間も存在する。だが――。
 ギイ、ギイ、とリノリウムの床と靴底が擦れて奇怪な音を響かせながら直哉は冷ややかなノブを掴み躊躇もなく捻った。飛び込んできたのは、二メートルはあるだろうカンヴァスに描かれた老夫の絵だった。
 六畳ほどだろうか、天井はやや高く殺風景な部屋にたった一枚飾られている。ただの老父ではない。子を両手で抱え、その胸を喰らう、気狂いの瞳――それと対峙し、直哉は目を細めた。「大したもんやないな」
 篠宮はピュウと口笛を吹いた。「すげえね。さっすがコーセンの人間は」
 直哉はただ鼻で笑っただけだった。
 一つ、一般市民に対しみだりにその力を行使ないし露呈してはならない――呪術規定八条「秘密」。だが、案ずることはないだろう。
「この絵はバロック時代の画家ルーベンスの作品を――」篠宮の言葉を遮るように直哉は手を挙げる。刹那、パァンと破裂音が響いた。
「は? 今なにした?」驚いた篠宮が直哉をふり返る。
「なにも」
 直哉は手を払い、額に飾られた大きなカンヴァスを見上げた。
 暗雲が立ち籠める。鎌を持ち老いた肉体を隠すこともせず、男は子を喰らっている。白眼を剥き、背を退け反らせる子どもはまだほんの赤児と言っていいだろう。髪は乱れ、あんぐりと開けた口で悲痛の叫びをあげ助けを請うているのか、それともすでに息絶えた後か。子のやわらかな皮膚が老夫の口蓋により、今まさに食いちぎられようとしている。鮮血が滲んでいた。絵の頭上には五芒星が三つ。暗影の迫る辺りを照らす目映い星。だが、どれも逆さだった。なんとも奇妙なそれに目を眇め直哉はふんと鼻を鳴らした。いずれにせよ、期待はずれだ。
「ほかに心当たりは」
 篠宮はまだ呆然としていた。苛立たしげに直哉が舌打ちをすると、悪い、と言って、「そういや……」と話し出した。

 篠宮と別れて直哉が向かったのは駅前のコンビニだった。目の裏に絡みつく陽光もすでにその力を弱め、辺りはすっかり薄い紺色のヴェールに包まれている。完全下校の時間にはやや早く、HR終わりには遅い。喧しい大学生の中に、同じ色の制服を着た生徒が数人、駅へ向かって歩いていく程度だった。
 自動ドアが開いて直哉がスラックスのポケットに手を突っ込んだまま中へ踏み込むと、油臭さとともにやる気のない声が飛んできた。思わず舌打ちをしたくなりながら――おそらくこれが溌剌とした声でも彼はそうしたにちがいない――直哉はドリンクコーナーでミネラルウォーターを手に取り、中を一周したあと出入り口付近の雑誌コーナーに立った。
 薄暮の風景に人が一人、二人と過ぎていく。向かいの居酒屋ののれんがおり、赤提灯に火が灯る。車が通り抜ける。変哲のない、ありふれた風景。
「さて、どこにおるんやろな、おまえは」
 ――影に潜むものよ。その深き闇に溶け込む化生よ。
 その中に一対の男女が現れる。幸福そうに笑い、身を寄せ合う。むこう側とこちら側を透明なガラスが頑強に隔てている。
 女がふりむき直哉は目を細めた。その拍子に目が合い、呼吸を切った。彼女は控えめに会釈をし、その場を去っていった。