第一幕 三

リノリウムの廊下は踏み込むにはやや感触が気持ち悪い。前をゆくジャージ姿の男を睨みながら、直哉は学生鞄を片手にクリーム色に統一された箱庭を歩いていた。
 行儀よく鞄を肩にかけて、などとするわけもなく、手にしたそれを肩から背に放り出して舌打ちをする勢いだった。増岡という体育教師はいかにも教師風を吹かせて、「転校初日でわからないかもしれないが、制服は着崩さず着ること。ピアスはもってのほか」などと独り言のようにしゃべっている。
 うっさいねんいちいち。と、いうのも、すでに耳のピアスは外してある。髪だって伊地知潔高に言われ、朝一番ホテルの洗面台でスプレー染めをしてきた。しかも格好はキャメル色のブレザーに紫がかった灰色のチェック柄スラックス。今まさに彼は十代のころの姿だ。……四半世紀を生きたというのに。
「前の学校ではなにも部活に入っていなかったようだが、ウチでは必ず一つ同好会なり部活なり入るのが規則だ。まずはいろいろな部を見学して、早めに決めるようにな」
 男性教諭は続ける。一度も直哉を振り向かないのが救いだったか。「もし迷ったら陸上部にくるといい、禪院は見たところ短距離に向いていそうな良い筋肉を持っているから、大いに歓迎するぞ」と馴れ馴れしく言葉を重ねたところで、だれが行くかボケと心の中で吐き捨て直哉はじろりと周囲へ視線を投げかける。
 クリーム色の清潔で整然とした空間。私学ともあって設備に申し分はないだろう。呪いとはかけ離れた、まるで異空間。とはいえ学校は魔窟だ。廊下の先から聞こえる生徒たちのかまびすしい声を流しながら掲示板、壁、床、それから天井、直哉はそれとなく視界に入れて歩く。
 直哉がここS英館大学附属高校にいるのは、ほかでもない仕事のためであった。本来ならば土曜の夜、あのままトンズラを買って京都へ帰るつもりが、至極厄介な事件に巻き込まれ心底辟易しているところだ。
 都内連続猟奇殺人、数か月前より複数回起きているその事件を解決せよというのが上からの命令である。肉体を無惨にも切り刻み、内臓を抉るというなんとも趣味のいい殺し方をする犯人を探すとなると心底白々とした眼を向けたくなるところだったが、上層部から直接「禪院直哉」に命令が下っては断ることもできない。
 適当に高専か躯倶留隊の人間に回そうかとも思ったが、それもやむなく取りやめ直哉が直々にこの場にいる。先方に直哉の顔写真付き偽造公文書が送り付けられたのだ。
 一昨日の夜、事件に動きがあり、明けて日曜にはすでに諸々の準備が整っていたのだから、さすがの直哉も舌を巻いた。「ほかにもおるやろ七海君とかあの守銭奴の姉ちゃんとか。つか悟くんでええやん、先生ェなんやし」と往生際悪く告げるも、「五条さんは手が離せませんし、あの人を一般の学校に送るのはちょっとコンプライアンス的な問題が……」「俺ならええんか」「……とにかく特別一級しか適任者がおらず、どうにもできない状況でして。どうかよろしくお願いします」と青白い顔で告げてくる伊地知にこめかみを引き攣らせながら、仕方なく堅苦しいブレザーを羽織ったのだ。
 ますます腑に落ちない。ダルすぎる。そもそもなぜ教員側ではなく生徒なのか。俺がいくら若く見えてもさすがにこれは寒いわ、と、目に鮮やかなラクダ色に顔をしかめて歩き心地の不快な床を進む。
 瀬古という男によれば、件の呪いは十代から二十代の若者を狙うということだった。それも、より若い年層ではなく、「ほどよく成熟」し、「いきすぎない年頃」。検死結果と瀬古お得意のプロファイリングで行き着いたものなのだろう。選り好みしすぎやろ、と思うが相手は呪霊だ。そんなことを言ったところでどうにもなりはしない。さっさと学生の一人や二人喰わせて事を起こさせようかとも思うが、上層部がバックにいる手前下手な行動にも出れない。……直哉としては「知らんカオのどうでもええヤツ」が被害に遭おうが、どうなろうが関係のないことだった。
 それはさておき、例の呪いだ。若者を狙う――おそらく次は学生、ということから、生徒に紛れて動向を窺い、有事があれば対応するという計画に至ったわけだ。
 瀬古という男を思い出す。やや広めの額に、どこを見ているのかわからないような糸目、それから何らかの事故の遺物か、頬や口もと、顎にところどころ傷痕が残っている。縫合痕か、切創痕か。しかし、なによりその印象を吹き飛ばす、現場には不釣り合いなほど鷹揚で鼻にかかる佇まい。
 高専、そして警察の協力者という男は、犯罪心理のプロフェッショナルだという。当初、警察側はあまりの残忍かつ猟奇的な事件現場に、「精神的異常を抱えている人間の犯行」――と、もっともらしいプロファイリングを示したが、わざわざそれを撥ね除け、呪霊あるいは呪霊と手を組んだ呪詛師の仕業だと発展させた。たしかに、残穢が残されていれば瀬古の考えに文句のつけようはないだろう。だが――と、そこで、「ここだ」教室にたどり着いたようだった。こんなアホなやつら、脳みそ喰われて死んだらええねん。とんでもない呪詛を吐きながら、増岡とともにいくつもの瞳が並ぶ一室に足を踏み入れる。
「今日からI組の仲間になる、禪院直哉くんだ。急な転校だが、家庭の事情で京都から越してきた。みんな仲良くするように」
 ガキか。目を回しそうになりながら、直哉はおあつらえの微笑を浮かべる。きゃあと黄色い声が上がったのに満更でもなく息を吐き出して、示された窓際の最後列の席についた。前をのぞき、右も左も後ろにも人間はいない。女子生徒の背を見るのはどうも癪にさわったが、他に干渉されにくいだろう席だけは申し分なかった。
「さて、一月の修学旅行のことだけど――」増岡の均整のとれていない低い声をよそに窓の向こうを眺める。
 光のそそぐ青い学び舎。呪いなどというのが夢のまた夢のように穏やかだった。
 やや色づいた銀杏の葉が風にそよぐ。鳥が空を横切る。雲が流れる。視界の端にそれらをとどめながら直哉は眼を細め、それから思考を遮断するように窓の桟に積もった埃をきつく睨みつけていた。

「――で、目立った痕跡も気配もないけどどうすんねん」
 淡々と教室に居座り続け四時間。行儀よくしているのにも飽き飽きしてきたころ、昼休みになり直哉は早速校内を徘徊していた。
 めぼしい場所はすでに日曜のうちに見学と称して調べてある。今日は残りの在学生しか入れないような箇所を重点的に調べていた。禪院直哉がまさか自分の足でそんなことを、と伊地知あたりが見たら卒倒しかねないが、彼はAからCまである校舎のうち人影の少ないC校舎に来たところで瀬古に電話をかけた。
「そうですか」と空気のような音が耳に抜ける。相変わらず癪に障る話し方だ。もっとハッキリ声だせや――そうしたらそうしたで煩わしいと思うのだろうが。とにかく、直哉は舌を打ち、周りに人がいないのを確認すると、「正直、ここにとどまっとる時間が無駄やと思うで」とにべもなく告げた。
「特別一級がどんな価値なもんか知らんかもしれへんけど、そんな人間の時間を四時間もくだらん数式だ文学だなんだに費やして、呪術界の人手不足を考えてほしいわ」
 もっとも、自分が言うことでもないが。瀬古は狼狽することもなく、「どんなささいなことでも、学ぶのは無駄にはなりませんよ」と返してきた。
「そらそうかもな。けど、こっちはとっくに成人してんねん」
「とはいえ、子どもたちの生死がかかっていますし」
「あんな阿呆なやつら、一人や二人死んだところで……」
 階段をおりようとしたところで、下から女がやってきた。直哉は再度舌打ちをして、言葉を残すこともなく通話を切った。
「禪院くん」
 見たことのない女だった。あのラクダ色の制服を着ていないので、おそらく教職員なのだろう。直哉が視線を向けると、彼女は眉を垂らして、「ごめんなさい、生徒名簿で先に見ていたものだから」と慌てたように言った。
「迷子? A校舎にはその渡り廊下を過ぎて左に行ったら着くけど、食堂はわかりづらいかも。ここからなら大学の学食が近いわ」
 若い女だった。歳の頃としてはおそらく自分とそう変わらない。上顎部にあたるような鼻に抜けるハスキーな声をしていて、どちらかというと教師向きではない。直哉はお節介にも親切な言葉を連ねた彼女の顔をじろりと眺めたあと、ま、どうでもええなと結論づけ、「おおきに、センセイ」と笑みを浮かべて横を通り過ぎた。