第四話 曙の神様

 唐突に手持ち無沙汰になったものだから、まるで地を這うヌメラのような心地で過ごすことになってしまった。そんなことを言ったらヌメラに失礼かもしれない。空は依然妖しい色をしており、眺めるだけでどことなく胸のうらを撫でられる気がする。
 なにをするにも脱力に苛まれ、自然と視線が地に向かう。ああ、また、情けない自分に戻ってゆく。そんなふうに思えど、抗う力さえ湧いてこない。
 まったく、ひとり膝をかかえる少女にあれほど豪語してみせたくせに、いざとなってこの始末では申し訳が立たないもの。いまごろ原野へ向けて草原を駆けているころだろうか。それとも、ショウちゃんはウォーグルに身を委ね、風を切っているさなかか。
 勝手にも寝床を奪われたウォロさんは、お身体を悪くされていないか。昨晩のことがありセキさまは気を悪くしたのではないか。さまざまなことがよぎっては、新たにやってきて、後悔や悔恨にめまいがする。
 しかし、地面の小石を眺めていたところで気分は晴れない。エルレイドとともに近くの林からきのみを採取し、またイナホやケムリイモを手に入れて、コギトさんのための食事の支度をした。夜と変わらず鍋という献立ではあるが、今度は具を少なめにイモを捏ねて団子にして焼いたものを中へ落とせば、腹持ちもよくてなによりもっちりとした食感がおいしいのだ。
 こんなときに、なにをのんきに食事を。そんなふうに思うが、そうしたことしかできないのだ。エムリットという湖のポケモンの試練が、いったいどんなものなのか定かではない。祈るにも何時間もじっとしているわけにはいかないために、一日の動作を、常日頃行なっている習慣をただ繰り返すばかり。
 そうして夜が過ぎ、朝がきた。一日が去っても徒労感や脱力感は拭えず、じりじりと細かな目のやすりかなにかで、喉許を削られるような心地で過ごした。
 幸い、コギトさんはさまざまな話をしてくれた。ヒスイの地がどのようにして生まれたか、あるいはこの世の宇宙の成り立ち。彼女の一族に伝わってきた伝承は、まるで神話を聞いているようなものだった。かつて存在したとされる創造神たる伝説のポケモン。流れる時を、広がる世界をそれぞれの信じるシンオウさまとともに旅立った者たち。そして十のポケモンを従えた古代の英雄。時は流れ、この地にこびりついた無数の赤い染み、痛み、悲しみ……。
「人間は愚かじゃ。弱さがゆえに過ちを起こす」
 さまざまなことを見据えてきたような口ぶりは、妙な説得力があった。嘘か真かも判別つけ難い中、それが現実に起こったという圧倒的な認知を与える。錯覚、かもしれない。だが、疑う余地がないような気さえした。どこまでが事実であるかも、わからぬのに。
 時空の裂け目から出づる異変を突き止めるということは、この地を作りしシンオウさまに迫るということ。時と空間とを司る、シンオウさま……。
「この先、ヒスイはどうなるのでしょうか」
 コンゴウ団とシンジュ団、そしてギンガ団と、ショウちゃん。ヒスイ、シンオウ、アルセウス……。ぽつりとつぶやいたわたしに、コギトさんはかぶりを振った。
「それはわらわにもわからぬ。過去に起きたことは歴然であれ、未来はほんのすこしの時空の揺らぎでまるきり変わってしまうからの」
「コギトさんは、どう思いますか」
「なにを」
「この地が、自然豊かなこの大地が変わりゆくとしたら」
 深く息を吸い、そして吐き出し、「それもまた運命よの」とコギトさんは言った。

 昼が過ぎてからはイキイキイナホをもとにマフィンを作った。ムラでは隠れた名物になりつつあった焼き菓子で、ムギやイネなどの穀物を粉状にし、ふっくらと焼き上げたもの。コギトさんが昨晩ショウちゃんの捕まえたハピナスからわけてもらったタマゴを使って、いわゆる卵糖ふうにしてみた。ミルクやバターがないから味はとても素朴だけれど、ジャムをつければ絶好の紅茶のお供になる。
 砂糖漬けの番をしていたポニータやエルレイドを呼び、よく仕上がった砂糖の花をひとつふたつと選んできてもらうと、今日はソーサーの上に置いた銀の匙の上へ飾る。昨日はまだ半乾きだったからとおあずけを食らったコギトさんはパァッと顔を明るくするものだから、その表情に思いがけずわたしも張り詰めた糸を緩めた。
 マフィンが甘さ控えめなので紅茶は香りが強めの茶葉を。砂糖漬けを落とすことでそこに花の味わいが加わり、つかの間の安息にはうってつけだった。鉄瓶に火を焚べていたポニータがタマザラシと追いかけっこを始め、その横でエルレイドがマフィンを空中で切り割り小さくしてゾロアにあげている。
 穏やかな時間、しかし、無論空は赤いままだ。そうしたひとときも、やはり長くは続かない。
 夕刻になり、空の光が薄まり始めたころ。軒先に掛けていた籠を下ろして花びらの乾き具合を確かめていた。まだ花そのものに柔らかさがあり、いくら下から火の気や風を送っているとはいえ、一日やそこらでは完成するはずもない。ふちにいくにつれて乾いてきているものの、中心はまだしっとりとしたさわり心地であった。
「やっぱり、まだ二、三日はかかりそうね」
 できれば、みっつ目の湖の試練のときには、いい塩梅になっているといいのだけれど……。隣ではエルレイドが、少し寂しそうに青や赤の花びらたちを見つめていた。
「――ナナセさん!」
 そのとき、隠れ里のはずれから勢いよくなにかが駆けてくる音が聞こえ、そして一頭のアヤシシさまが川を飛び越えてわたしの前に降り立った。
「……カイさま?」
 乗っていたのは、シンジュ団の長たるお方。橙色の髪飾りを揺らし、苦虫を噛み潰したような顔をしてアヤシシさまから飛び降りた。
「今すぐ、原野へ向かってください!」
 まさかそんな言葉が彼女から飛び出てくるとは。駆け抜けたのは戦慄であり、脳裡にありありとよからぬ想像が浮かび上がった。
「ショウちゃんに、彼らになにかあったのですか」
 カイさまは唇を噛み締める。
「時空の歪みに巻き込まれ、ショウさんとセキが怪我を。ウォロさんがなんとか傷を見てくれてはいたけど、ショウさんが、ショウさんが目を覚まさないって」
 かなりの距離を進んできたのだろう。髪は乱れ、額には汗をかき、腕や脚には細かな切り傷が刻まれていた。なにより、その瞳が深く沈み不安と動揺とに揺れていた。
「ショウちゃんと、セキさまが、怪我を……。近くのベースキャンプに、ラベン博士がいらっしゃったと思うのですが……。そちらには、伝えましたか」
「伝えたよ、伝えたの。でも、医療隊を呼ぶのはむずかしいって」
「……まさか」
 力なくかぶりを振る彼女に血の気が引いていく。
「ここしばらくムラに滞在していたけれど、頑なにショウさんへの疑いを解こうとしない、それどころか、憎悪でも抱いたかのように熾烈になっていくばかりで」
「……命がかかっているというのに?」
 荒いだ声にカイさまの細い肩がびくんと揺れる。すぐに我にかえり、すみませんと謝り手ぬぐいで掌を拭いた。
 セキさまがショウちゃんの試練に付き添ってくれることになり、カイさまはコトブキムラでギンガ団の――デンボク団長の動向を見張る役目を負っていた。彼女自身、板挟みになり、呵責を抱いていたはずだ。
 落ち着け。そうだ、わたしがいまここで呵責をぶつけたところで、解決の糸口はない。うねりをあげる胸に必死に言い聞かせ、エルレイドにコギトさんを呼びに向かわせる。
「怪我はどれほどですか」
「ごめんなさい、気が動転して、そこまでは……。でも、セキが、アナタなら治せるって言ってた」
 ――わたしなら?
 震える唇を噛み締め、ちょうどやってきたコギトさんに事情を説明した。頭の中に立ち籠める靄を切り裂き振り払って規則正しい呼吸を意識する。「それはまずったの」と唇に手を当てるコギトさんの横で、急いで救急箱を用意し懐紙に文をしたためた。
「エルレイド、ケーシィはどこに?」
 あの子ならば今すぐにでもこの文を届けられる。エルレイドの案内で庵の裏にてめいそうをしていたその子を見つけると、「医務室にいる、キネさんに」と文を託した。瞬く間に消えたその子の残像を祈るように見つめ、一気に力を失くしたカイさまを椅子につかせて天幕へ一度戻った。着物の上に一枚羽織を纏い、さらにはしっかりと足首から膝にかけて脚絆を巻いた。
「コギトさん、カイさまを頼みます」
「おお、行くのかえ」
「……はい」
喉が、締まる。
「しかし、おぬしが今向かったところで手遅れやもしれんぞ?」
「それでも、行きます」
 わたしはなにもかも中途半端なのだ。その道を歩んできた医者でもない、歴とした看護師でもない。ただの物好きな素人。わたしにはなにもない。けれど、紅茶がさめるだけならば、進むしかないのだ。カイさまがこちらへ来たのも、一縷の望みに想いをかけたからこそ。鞄にありたけの木綿布と薬とを詰め込み、その口を閉じる。カチンと音が鳴ったのを聞き、エルレイドが青い灼熱のほのおを背負ったその子を連れてきた。
「今から、ショウちゃんを助けに行くの。あなたはここでお留守番していて」
 なにかを案じるポニータの瞳に、その顎先を撫でる。人が乗るには、まだ小さな身体はその重みに耐えきれないだろう。原野までは一日近くかかるため、カイさまの乗ってきたアヤシシさまに力を借りる予定だ。すでに原野からの道のりを何時間も駆け抜けてきたかれにさらに戻る道を行かせるのは心が痛むが、休みながらでも進まなくてはならない。
 しかしポニータは言葉を理解した上で前脚を大きく蹴り上げ勇しく啼いた。その途端光が張り裂け、青かったたてがみが、夜空を駆ける銀河のように燦いていた。
「ちょうどよい、〝じそく240キロ〟を実感してみてはどうかの」
 唖然としていたわたしに、うしろからコギトさんが声をかける。
「……ショウちゃんを、助けたい、のね」
うるりと大きな瞳がしたたかな光に瞬く。
「はて、どうだかの。しかし、どうやらこのギャロップは、おぬしの心を見定めようとしておるように見える」
 グローブの手を差し出したコギトさんに、銀色のたてがみを揺らしてギャロップは頬を擦り寄せる。ポケモンの進化には、さまざまな形があり、それに伴う条件がある。しかしその全容は未だ解明されていない――。
「ショウちゃんを助けたいの、ショウちゃんや彼女を大切に想ってくれる人たちを。……力を貸してくれる?」
 ギャロップに手を伸ばす。あたたかな鼻先が手のひらに触れた。
「そうじゃのう、実におもしろきこと」
 コギトさんが独り言のようにつぶやくと、ホレと言ってギャロップの背を示した。
 おそるおそる、青く銀色に燃え盛る「ほのお」に触れる。そこには、たしかな温もりがあった。けれど――「熱くない」
「その背のほのおを人間に触れされるとはの。こやつの気が変わらぬうちに行くがよい」
「……はい。カイさまをよろしくお願いします」
 エルレイドが次に差し出してきたのは、モンスターボールふたつ。ひとつは自分、そしてもうひとつはギャロップに。彼はただこくりとうなずくと、鞄をギャロップの背に落ちぬように器用に括ってからそのボールに入った。
 ポケモンボールとなった赤き球を確りと腰のポーチにしまい、ギャロップの背を撫でる。
「……おねがいね」
 ひとりではだめなときも、ポケモンとならば乗り越えられる。――そんな言葉を聞いたことがある。ノボリさんの心になにかが残っているように、わたしにもきっと、そういうものがあるのだ。
「ポケモンパワー、見せてね」
 勇しくたてがみを燃やした駿馬の背に跨り、隠れ里を後にする。
 すさまじい速さであった。辺りの景色が一瞬で過ぎ去っていくほど、ギャロップはまさに駆け抜ける風であった。ムラへ向かっていたはずのケーシィが戻り、今度は原野にいるウォロさんへ向けて書いた文とムラより持ち帰った鞄とをかれに預けると、わたしたちは山麓を貫き、川を越えた。文には、止血をすること、傷口をできるかぎり清潔にすること、無事である人がいれば、鉄瓶に湯を沸かし以下に記した分量の塩を入れて作った溶液を、傷口の洗浄に用いること……。そうした簡単な処置法と、「是より向かう」旨を記した。
 原野を渡るころには陽は隠れ、辺りは宵に染まっていた。あまた星が燦く大地を再び戻ったケーシィの先導で抜けていくと、山間の平野のすみに焚き火の明かりを見つけた。
 全速力とはゆかずとも、それなりの速さで駆けてきたはずだが、疾うに夜は更けている。
「ウォロさん!」
 最後、勢いよく走り抜けギャロップから飛び降りるとその男は橙色の明かりの中で目を瞠った。
「ナナセさん、アナタ……」
「お待たせしてしまい、申し訳ございません。おふたりの様子はいかがですか」
「……一時より落ちつきましたが、それでも問いかけには応えられません」
 荒んだ息を深く吸い込み、「看病を代わります。ウォロさんもお休みになってください」とギャロップの背から荷をほどいた。
「いえ、ジブンも、これからイチョウ商会の人間に会ってきます」
 立ち上がったウォロさんの顔色はあまり良いものではなかった。火のそばであればもっと赤みを増してしかるべきだろうに、やはりどこか草臥れた様子であった。
「そんな身体では危険です」
「……彼女に死なれるわけにはいきませんので。それに、この二日でかなりの品物を消費してしまいましたから」
 商人としての沽券にかかわると明るく言い募り、ウォロさんはギャロップのそばに立つわたしのもとへやってくる。
「まさか、アナタがここへやってくるとは」
 荷を下ろすのを手伝いながら告げられたその言葉には、やはりたしかに昏い音色を孕んでいた。それでもわたしの制止すら聞かず、彼は闇夜にふらりと消えていってしまった。
「本当ならば、わたしがそばについているはずだったのに」
 そうすれば、ふたりをすぐに助けられたかもしれない。ウォロさんに無理をさせることもなかったかもしれない。悔しさに唇を噛み締めながら、しかし、全身を奮い立たせ運んできた鞄を手に天幕へ向かう。
 わたしの文通り――否、もとより文など必要なかったのかもしれない。ショウちゃんとセキさまはそれぞれ横たえられ、無数の傷はあるものの、そのどれもすでに洗浄が済んでいた。ただ、ふたりとも身につけた衣服は赤黒い染みがこびりついており、天幕の中は鉄錆のにおいが充満していた。
 ウォロさんが天幕の外で焚き火をし、さらにはポケモン避けの香を焚いておいてくれなければ、彼らの血の臭いを探し求めてどんなポケモンがやってきたかもわからない。
 ボールから出したエルレイドに、「すこし外を見張っていてちょうだい」と頼み、さっそく鞄を広げる。
 ウォロさんによれば、時空の歪みの中、ポケモンたちに意表を突かれ攻撃を喰らいそうになったショウちゃんを、セキさまが助けたのだという。しかし、足場が悪くふたり揃って斜面を転げ落ちた。ウォロさんが見つけたときには、気を失ったショウちゃんを、セキさまが血を流しながら背負っていたという。
 どうにか応急処置を済ませたものの、ショウちゃんは目を醒まさず、そしてセキさまは疲れからか眠りについたという。
 先に傷薬と鎮痛剤とをケーシィに届けてもらっていたからか、容態は安定したようだが、それでもまだ苦しそうだ。ショウちゃんの顔についた擦過傷を丁寧に処置して、失礼しますと断りを入れて衣服の下を検める。目立った外傷はなく、胸の動きや呼吸に問題はなかった。ただ、足首は腫れ上がり生々しい青紫の鬱血痕が浮かび上がっていた。
 脚絆をすべて解き、足を楽にさせたまま次はセキさまのもとへ。傷を負ったという左腕にはすでに巻木綿が施されていた。だが、時が経つにつれて血の臭いは強く、そして身体の発する熱も大きくなっていった。
 おかしい。そう思い一度木綿布を外し、傷の具合を確かめようとして彼の群青の羽織りをめくると、腰部に黒い染みができているのを見つけた。
 まさかと手を伸ばせば、それは乾ききっていない血痕であった。
 ウォロさん曰く、「オレは大丈夫だ」と言ってセキさまは肩にだけ処置を施したという。意識もはっきりしており、やってきたカイさまが動転するのを宥めたり、ウォロさんとともに交代でショウちゃんの看病をしようと申し出たりもした。
 だというのに……。
「……ばかなひと」
 セキさまのそばでは、リーフィアが案ずるようにして座っていた。おそらく何時間もそうしているのだろう。その頭を撫でれば、耳を揺らして頬を擦りつけてきた。
 自分は大丈夫だからと嘘をついて、ショウちゃんを守って……。目の奥に、灼きつくような痛みを抱えながら衣服を脱がせ始める。重々しい羽織から、傷を刺激しないように腕を抜いたところで、胸許の衣嚢からころりとなにかが落ちた。
 洋燈の淡い光を集め一瞬の瞬きを示す。それは、小さな小瓶であった。よく見知った文字で、「頭痛膏」と書かれたもの。
「……どうして」
 ――セキが、アナタなら治せるって言ってた。
 それだけで、十分だった。痛みを抱えながら、そしてそれがこぼれ落ちていくのを感じながら、鮮やかな金青と柳茶色の髪を撫で、苦しげな喉を、傷のついた端正な輪郭をなぞり、何度も大きく上下する胸に頬を寄せる。
 莫迦なのは、わたしだ。仕様のない大莫迦は、他でもないナナセだ。ごめんなさいと繰り返し紡ぎながら、紺色の衣を裂き患部を確かめる。
 左側腹部にできた二寸ほどの傷。深くはないものの裂傷部が膨れ上がり、赤々と爛れている。傷口からは膿が生じており、おそらく、何らかの感染か起きている。これによって発熱が起こっているのだ。
 わたしのせいで、わたしが愚図なせいでこのひとを苦しめてしまった。ショウちゃんもウォロさんも、カイさまも……。
 かばんに詰めてきたラムの実と、キネさんがケーシィに託してくれた消毒薬とを手許に置き、傷の処置を始める。菌によっては効き目がないかもしれないが、これに賭けるしかないのだ。医学に携わる者が賭けなどという言葉を使うのは、あまりに無責任で軽薄だ。自らの力不足を痛感することしかできない。けれど、今あるものに頼るしか術がないのだ。
「ごめんなさい」
 傷口を避けるようにして、爛れた皮膚に薬液を塗布し丁寧に消毒する。大方血は止まっていたが、糜爛が広がり灼熱の温度を孕んでいるようだった。
「ごめんなさい、っ……ごめんなさい、ごめんなさい、ほんとうに……っ」
 情けない。……情けなくて、たまらない。溢れる涙で目の前が霞む。それでも、手だけは動かし続ける。
じっとこちらを眺めていたリーフィアが、鞄から真っ新な手ぬぐいを咥えてそばへやってきた。見張りのエルレイドまでもが、洋燈を手に中へ入って手元を照らしてくれた。
 裂けた患部は洗浄液できれいにし、その後は膿が溜まらないように脱脂綿で適宜ぬぐいとっては、その上から切創に使う軟膏を塗った。必死だった。このひとを死なせてはならないという、ただその一心だった。
 傷の保護のために折り畳んだ脱脂綿を当て、その上から細くした巻き木綿を施していると、セキさまが苦しげに呻き声を上げた。額には脂汗が滲み、息も浅く荒んでいる。負傷から何時間も経ってしまったその間に感染が進んでしまったのだ。
 怪我の処置を終えラムの実を齧ると、わたしは突き抜ける酸味に顔を顰めながらも彼に口づけた。かたく閉じられた唇を開き、口移しで飲ませていく。喉がごくりと動き、それを嚥下したのがわかると何度も繰り返した。
 わたしはどうなってもよいから。どんな罰でも受けますから、どうかこの人だけは――そんなふうに、祈りを捧げながら……。

 火の番をしていたギャロップを休ませるために天幕の外へ出ると、冷ややかな夜風が吹き抜けた。平手打ちするようなそんな冷たさで、擦って赤らんだ目元や頬を落ち着けるにはちょうどよかったかもしれない。
 夜が明けるまであと如何程だろうか。月はもはや落ちてしまいそうなほどに傾いている。焚き火の周りにウォロさんが帰った気配はなく、ぱちぱちと火の粉が躍る音が響いていた。
 銀河のたてがみを靡かせ、草原の草をついばんでいたギャロップを労いボールへ戻すと、一緒に出てきたエルレイドが珍しく無防備な姿であくびをするのが見えた。
「エルレイド、あなたもありがとう。あなたがいなければ、わたしはきっとなにもできなかった」
 白い頬を撫でれば、彼は柔く表情を緩めた。「エルッ」と誇らしげに応える声は、いつもよりどこか少年のように思えたかもしれない。
「エル、エルルッ」
 空をあおいだ彼の視線を追いかける。するとそこには、いっとうきらびやかに瞬く星があった。残念ながら、いまだ赤黒い絽紗のかかった空ではあったが、それでもその耀いを覆うことはできずにいる。
 東の空に上がる、明るい光。ヒスイに伝わる、曙の口にいるという神様。
「朝が、近いわ。……きっと」
 エルレイドと寄り添い、空を見つめる。目は腫れぼったく、意識は明瞭であるのに頭はひどく重々しかった。このまま夜が明けることをただ立ち尽くし眺めることしかできずにいた。
 やがて太陽が顔をのぞかせ始めたとき、ショウちゃんが目を覚ました。長いこと眠り続けていた彼女は、ふしぎな夢を見たのだと言っていた。元の世界でいつもどおりに暮らす、そんな夢。やけに現実的で、最初はヒスイからそちらへ戻ることができたのではないかと思ったという。やっと帰れたんだ、そう安堵していたのに、しかし、朝起きて食事を摂り、他愛もない会話を家族と交わし、滔々と流れゆくテレビコマーシャルを見ているうちに夢だと気がついたのだという。
「だって、ポケモンがいなかったんです」
 彼女は言った。
「そんなの、ありえないから」
 痛々しい顔で、掠れた声のまま、そばにいるリーフィアやエルレイドを見つめて心底安心したように笑ったのだ。

 まだ顔色が悪いからと、水と砂糖とで希釈したラムの果汁を渡し、足首の処置をしたあとに彼女は再び眠りについた。その寝顔を見るのはやや不安もあったが、すぐに規則正しい寝息が聞こえ、眠るまで握っていた手にいつまでも残るぬくもりに、胸がそうっと撫でられる思いであった。
 身体が冷えないようにと、おそらくウォロさんが用意してくれた薄手の毛布をしっかりと掛け直して、額にかかった髪を梳かしながら静かによけてやる。それから今度は隣に眠るセキさまの看病であった。
 濡らした手ぬぐいを優しくその額や頬、首すじに当てて汗を拭いとっていく。呼吸は幾分か穏やかになったものの、まだ身体には熱が篭っているため治癒までは時間がかかるだろう。表情は完全に安らかとは言えず、それはどこか苦しげでもあった。彼もまたショウちゃんのように夢を見ているのかもしれないと思い至ったが、その夢が単なる夢であればよいと願うばかりだった。
 もしもどこかで彷徨っているのであれば、どうかここへ還ってきてくれますように。天冠にいるとされる霊気たちに連れ去られてしまいませんように。お願いですから、どうか、このひとを……。
 迷いし御霊を送るという、灼熱のおにびを脳裡に描きながら、額の汗を拭う。
そばに置かれた頭痛膏はちっとも減っておらず、ただ天幕の中の光を集めて小さく瞬く。おそらく中身はもう使えるものではない。そんな意味の成さないもの。身代わりにでもなれたらよかったのに、そう思ううちに再び涙腺が緩み、これ以上は泣くまいと唇を噛み締める。けれど、どうにも堪えきれずにぽろりと一粒こぼれ落ちてしまった。
「……死なないで」
 どうか、還ってきて。
 あなたは、生きるべきひと――。
 まるでいつまでも枯れぬ悲しみの海だ。ぽろ、ぽろ、と飴玉のようにあふれては頬を滑り落ちるそれを、掬い上げたのはたくましい手だった。
「……ああ、最高の目覚めだな」
 静寂に低き音色がたゆたい、あたたかな指が頬にふれる。
「好いた女がいやがる」
 吐息に近い、掠れた音だった。それでも確かにその男の声であった。伸びてきた手を、確かめるように手を重ねれば、やわらかなひとの感触と、そしてざらりとした木綿布の感触がはっきりと伝わった。
「セキさま」
「なあ、ナナセよ」
 彼はいまだ紫色の唇でわたしの名前を紡ぎ、ゆっくりと一音一音をたしかめるように口にした。
「オレとともに、あすを迎えちゃくれねえか」
 ――ああ、セキさまだ。
「……もう、朝で御座いますよ」
 涙声で告げたわたしに、彼は片目を眇めて笑い、「そうか、そりゃあいい」と今はまだ見ぬ空を仰いだ。