第三話 うたかたの心中

 リッシ湖での試練は無事終わった。昂揚ぎみに、頭の中へ語りかけてきたのだと口にするのはセキさまで、アグノムという湖のポケモンとの対峙はなかなかに印象的だったようだ。隣では試練を受けた少女がアグノムより受け取った「きば」をじいと眺めている。これで本当に大丈夫なのか、これがあかいくさりの元になるのだろうか、そのような思案顔でもあった。
「ショウちゃん、そろそろ食べごろよ」
 夕餉は、ウォロさんがコンゴウの里で仕入れてきたというきのこや山菜をあしらった鍋だ。ムラに行けない以上、こうした簡単なものしか作れないが、それでもごちそうはごちそうであった。
コギトさんも含め火を囲む。ぱちりぱちりと上がる火の粉を眺めながら湖の試練の話をするというのは、異変下ではありながら、どこかのどかささえ感じてしまうもの。ぼうっとしていたショウちゃんに鍋の具をよそって、それからコギトさんたちへ。
 鍋の味付けは、干し肉ときのこで出汁をとったあと塩で整えた至極簡素なものだ。ムラではしょうゆや味噌を用いることも多かったけれど、ここではそうもいくまい。ウォロさんは行商の心意気で、仕入れて参りましょうと言うが、今は一刻も早く、試練を乗り越えることが先決だ。とはいえ、干し肉にさらにきのこの入ったお鍋は、塩だけでじゅうぶん立派な味わいになる。それに、最も近いものの、この庵からリッシ湖までは往復するのも重労働なため、体は塩分を欲していた。
「明日は、シンジ湖だな」
 しばらく黙食とあいなった席で、セキさまが切り出した。はふはふと懸命に息を吹きかけていたショウちゃんは、箸を置いて、「はい」とうなずいた。
「シンジ湖は、リッシ湖と同じく火山の噴火により生まれた湖。周囲は断崖絶壁に囲まれ、空にはギャラドスが舞う、黒曜の原野とはいえ、あの一帯は強靭なポケモンが生息していますね」
「断崖絶壁、か、拠点を置くには厳しいな」
 ウォロさんに説明を受けるセキさまを横目に、ショウちゃんがアルセウスフォンを取り出した。
「遠回りにはなりますけど、マサゴ平原から湖までは人の足でも進めます。なので、ナナセさんにはここにいてもらうのがいいかもしれません」
 小さな画面をセキさまがのぞきこむ。火の明かりとは異なり、皓々とその精悍な頬を照らした。
「なるほどな、その一帯にゃどんなポケモンが?」
「手前にはケーシィやフーディン、あとは、カビゴンのオヤブンが。でも、湖の入り口付近は比較的安全だとおもいます」
「そうか、ならば天幕はここに張ろう。ショウは先にウォーグルで湖へ向かうか?」
「はい。セキさんたちはイダイトウで来てください」
 進む智略をよそに、隣でコギトさんが、ほう、とその四角くて小さな文明の利器を見つめていた。
「便利なものじゃのう。おぬしの世界では、その四角い箱がなんでもしてくれるのじゃな」
 ショウちゃんはなんとも言いがたい顔をしたが、すぐに笑ってそうですねと答える。
「私がもともと持っていたものは、またすこし違いますけど……。でも、電話やメール――今この場所で遠くにいる人と話したり、すぐに手紙を届けたりすることができました」
感心した吐息があがる。
「便利なモンだな、方々へ出向く必要がねえっていうのはよ」
 アルセウスフォン――ショウちゃんがこのヒスイに落ちてきて、まず手にしたもの。その電子機器は、あらゆる困難を前に彼女に光を示す。宇宙を、ヒスイを創ったとされる幻のポケモン。曰く、神話の中の存在とされてきたが、その名を冠した特別な道具が少女の小さき手の中にある。
「ナナセさん」
 名前を呼ばれ、はたと我にかえった。どうしましたか、と、瞠目のうちにウォロさんを見やれば、「少々、お願いしたいことがあるのですが」と告げられた。
「お願いしたいこと、ですか」
「ええ、明日の試練のことで」
「はあ、わたしにできることでしょうか」
「もちろん。アナタに煎じていただきたい薬草がありまして。昼間にお渡しすればよかったものの、たったいま思い出しました」
 アルセウスフォンを覗き込んでいたふたりが顔をあげる。
「エムリットのしずめダマでも作るのか?」
「いえ、ちょうどヒトようのくすりで頼まれていたモノがありましてね。それがやや複雑な工程が必要で、しかしナナセさんであれば問題なく作っていただけるかと」
なるほど、「それは、どういった薬でございますか」訊ねれば、ふるりと金糸が揺れる。
「とてもとても、ヒトには言えない妙薬です」
 そのすぐ近くでセキさまが眉を跳ね上げた。
「妙薬? そんなもの、作ってどうする?」
「頼まれていたのです」
 ウォロさんは怪訝な物言いをものともせず、淡々と返す。
「お得意様のためですからね、依頼されたとあらば、われわれ商人は命をかけてでもそれを手に入れるのが道理というもの」
「……時間を要するものですか?」わたしは訊ねた。
「そうですね、少しばかり骨が折れるモノ、といえばいいでしょうか」
 ならばと思い、「いま、食べ終えますから、すぐにでも」そう告げると、ええとウォロさんは笑みを浮かべた。
「そうしていただけると助かります」
「忙しないやつらよのう」と口にしたのはコギトさんであった。「せっかくの夕餉を。ほれ、あちらの台を好きに使えばよい。こっちは気ままに鍋を楽しませてもらうぞ」
「ええ! お言葉に甘えて、ナナセさんをお借りしますよ!」
 すみません、とコギトさんに頭をさげる。「お食事を済まされたら、そのままにしておいてくださいね。片づけはやりますから」そう告げれば、彼女は肩をすくめた。
「それくらいは自分たちでやれるわい、隣の奴らもやりたいみたいだしのう」
 視線の先には、ゾロアとエルレイド。ともにきのみを食べていたはずだが、コギトさんの言葉に腕を上げたり、跳びはねたり。思わず相好をゆるめてその頬を撫でる。よろしくね、と言ったわたしに、二匹のポケモンはうなずいた。
 埃を立てぬよう慎重に立ちあがるさなか、セキさまからの視線を浴びる。それはまさしくうろんなもので、気を抜けば呼吸が震えてしまいそうだった。
 洗い物用の桶にお椀と箸とを、ウォロさんのぶんも預かって入れておく。水が張ってあるから、こびりついた汚れも後々落としやすいはずだ。
「そのお薬は、わたしでも知っているでしょうか」
隣立つ彼は、「どうでしょうか」とあごを撫でた。
「どうでしょうって……。お力になれるなら、よいのですけど」
「心配には及びませんよ! なにせ、ジブンが知ってますからね!」
 焚き火を背にクラフト台のところまでやってくると、ウォロさんはオイルランプに火を灯した。手許がひと息に明るくなり、光の中にちらちらと火の影が揺れる。
彼はわたしがそれに目をとられるうちに、自らの荷をほどきその中から巾着とうつわをとって戻ってきた。
「これを持っていてください」
 真珠のような白亜の陶器は、底が丸みを帯び、その手ざわりも相まり両手のひらにすべらかに馴染む。ずしりと思い描いていたよりも重さがのしかかったが、その感触さえ心地よかった。いいもの、なのかもしれない。そんなふうに思い、顔をこわばらせるわたしに、ウォロさんはふっと息を吐き出して巾着の中身を陶器にそそいだ。
 刹那、ふわりと鼻腔を掠めたのは甘く華やかな香気だった。
「花びら……?」
 あえかな明かりの下でもわかる、赤や青の花弁。
「ご名答。ロズレイドの花びらを少々、わけていただきました」
「だれから?」
「だれからって、そんなの、ロズレイドに決まっているじゃあありませんか」
 おかしなひとですね、ウォロさんはわらう。そうして山盛りとなったうつわからこぼれ落ちた花びらを、一枚、二枚と指先で拾い上げた。
「ナナセさんは、変わりませんね」
その音色は耳の後ろをそっと撫であげ、心の臓を震わせる。
「変わらない、ですか」
「ええ、どんなときであろうと、アナタはアナタのようです」
 それはいったい……。ひざを折った彼の隣に一緒になってしゃがみこみ、その横顔を見つめる。いなや、ふ、と、なにかが唇に当たった。
「ここからは内密にしていただきたいのですが。……これはなんでも愛の妙薬をつくるのに必要だとか」
「あっ……!?」
 叫びそうになり、唇を閉ざしていたままだったウォロさんの人差し指が、今度はわたしの鼻をつまむ。
「っ……、ウォロさん!」
「スミマセン、少しイタズラが過ぎましたね。妙薬なんてものは方便です」
「それじゃあ」
「難しいカオをしていましたので、つい出来心ですよ」
 彼は鼻先を離し花びらを眺めて、「さて、なにを作りましょうか」とつぶやいた。
「乾燥させて茶葉に混ぜてもよいと聞きますし、ジャムにしてもいいでしょう。集めてからそう時間は経っていませんので、とても新鮮ですよ」
 また一枚、はらりと落ちた花びらを拾って、わたしの手のひらに戻す。
「……どうして」こみ上げるのは、そんな思い。
 はい? と彼は視線を上げた。
「どうして、ここまでしてくださるんですか」
 単なる好奇心からくる問いではなかった。かすかな不安や畏れをわたしはたしかに抱いていた。だって彼は、わたしを知っている。おそらく、カントー人ではない、あの身分証の「わたし」を。
 ヒスイで目覚めたとき、一番に見たのは彼の顔だ。彼の立てた天幕で、わたしはやわらかな敷き物の上に寝転んでいた。身体はやや強張り、すこしの怠さもあった。「無理な船旅をしたようですね」と告げた彼の言葉を、わたしは聞き容れた。そして、なにも知らないわたしに授けてくれた記憶の断片を、自分のものとして無垢に受け容れた。
 ――なぜ。わたしという存在など、捨て置いても構わないだろうに。なぜ彼は、斯様にやさしさを向けてくるのか。もしかして、これは「やさしさ」などではないのではないか。
「どうして、ですか」
 ウォロさんはぽつり吐息を洩らすようにして続けた。
「……ただ、ふとアナタの顔が浮かんだだけですよ。お気に召しませんでしたか?」
 わたしは少しして、かぶりを振った。
「うれしい。……うれしいです。でも、ウォロさんはいつだってわたしの欲しいものをくださる気がするから」
 ――わからない。目の奥が、わずかに貫かれるような痛みを抱えた。悟られぬよう笑みを作って、わたしは陶器のうつわを台の上に置いた。
「砂糖漬けにしてみましょうか」
「砂糖漬け?」
「はい。卵白――は、手に入れづらいので、お酒に浸し砂糖をまぶして乾燥させるんです。きれいな花びらの形をしているから、せっかくならそれを残しておきたいですし。……あ、でも、その、お砂糖が手に入ればの話ですが」
 返事がない。「……ウォロさん?」ふり向けば、彼は目を細めて、「心配御無用です」と答えた。
「砂糖ならば、ちょうど数日前にどっさりと仕入れたものがありますからね。しかし、果実の砂糖漬けならば聞いたことがありますが、よもや花をそのようにするとは、いやはや実に興味深い」
 コギトさんからブランデーをわけていただき、湯通ししたロズレイドの花びらを浸した。すでに砂糖を溶かしてあるから、手についたブランデーを舐めるとほのかに甘い。突き抜ける香気がかすかにまろやかになって、そういえば、アルコールの飛んでいないお酒を飲むのは久しぶりだと感じる。
 もしもまた花びらが手に入れば、今度は焼酎へつけて果実酒ならぬ花びら酒にしてもいいかもしれない。そんなことを思いながら、浸した花びらを一枚一枚板の上に広げ砂糖をまぶした。
「薬を作るんじゃなかったのかよ」と、途中セキさまが作業を覗き込んできたが、すぐに花びらたちを眺めては感心した様子で見入っていた。
「花に砂糖をまぶすたあ、これまたおもしれぇことを」
「外国の――遠い海の先では、王妃がこれを好んでいたと聞いたことがあります」
「それも、あの学者先生から聞いたのか」
「いえ。……どうでしょう、なにかで読んだのかもしれませんね」
 あとは何日かかけて乾燥させるだけ。半量ほどを砂糖漬けにし、残りはふたつに分け、ひとつは茶葉とともに缶に詰めて香りづけを、もう一方は匂い袋をつくるために籠にあけて乾燥させることにした。
「ドライフラワーを作るには時間がかかるけれど、でも、ポケモンたちの力を借りたらうまくできるわよね」
 ショウちゃんやコギトさんとお鍋の片付けを終えたエルレイドがやってきて、気合い充分とばかりに隣でうなずく。
「またポニータにひのこをしてもらう? あと、ひこうタイプのポケモンがいるといいわね。ショウちゃんにきいてみなくちゃ」
 砂糖をまぶした花びらを並べた板は室内に、花びらを入れた籠は軒にぶら下げることにして、それぞれ運ぶ。
「こちらはジブンが」
 天幕を張り終えたウォロさんが板を手にとって、歩いていく。その後をエルレイドがついていき、しぜんとセキさまとふたりきりになった。運命のいたずらを、ふと恨みたくなるような。首すじがひやりとした気がしてかすかに息をもらす。
「前にかんざしを貰い受けたってのは、あの商人か」
セキさまの問いに、ためらいながらええと答える。
「わたしがヒスイに来たときから、なにかと世話を焼いてくださった方です」
 手にした籠の中、青や赤の花びらを軽くかきまぜる。
そうか、と答えて、セキさまは続けた。
「それでアンタはあの男と……」
 しかし、そこまで口にして、「いや、なんでもねえ。忘れてくれ」わたしの手にする籠を奪った。
「アンタの上背じゃ、届かねえからな」
「棒さえ使えば、わたしでも」
「せめて、このくらいは色男ぶらせてくれたっていいだろうよ」
 引き戸の横手に籠を掛けて彼はふり返る。
「……笑うところだぜ」
 しかしわたしときたら、ぽろぽろと頬を伝う涙をどうにも止められず、それを懸命に手の甲で拭った。
「申し訳ございません。すぐに、すぐに止まりますから」
「謝ることはねえ。……ただ、オレはそういう顔をさせたいわけじゃねえんだ」
 ああくそと髪を乱した彼に、唇を噛み締め顔を覆う。すみませんと言い残し、わたしはその場から駆け出した。

 橋を渡り、隠れ里のずっと先でうずくまっていたわたしを迎えに来たのは、エルレイドだった。苦しくて、苦しくて、たまらず嗚咽をもらせば彼は寄り添い隣でいっしょになって座り込んだ。戻ったら謝らなくては、そう考えていたのに。いつのまにか全く自由に動けなくなって、しばらくそうしていた。
「戻って構いませんよ、エルレイド」
 滑らかな声が聞こえてきたのは、いつだったか。
 ためらいがちに隣の温もりが消え、やがて、わたしはまたあの「夢」を見た。両腕に抱かれ、光綾なす水面へ誘なわれたのもつかの間、真っ昏な水底へ沈んでいく。
四肢を動かすこともできず――否、抗おうとしていたかも定かではない、ただひたすら世界の重さに従い落ちていく。
 美しき金の糸が舞う。いくつもの泡が天へ向かって昇っていく。ごぽりとこぼれた泡のさなか、残された吐息を互いに分け与える。
 まるで、最期の瞬間を分かち合うように――。

 翌朝、セキさまはひと足先に里を発ったと聞いた。それは夜明けだったか、それとも夜更けだったか、定かではないが、ただ、黒曜の原野にて待つという文を残して向かわれたらしい。目が醒めたわたしを迎えたのはエルレイドだ。まぶたを押し上げたわたしを見て、彼は跳び上がり慌ててコギトさんを呼びに駆けていった。
「なに、急がずとも、わらわは逃げぬ」
 天幕の戸を上げた彼女は、おおと感心した声を洩らした。
「目を覚ましたか」
「……はい。昨晩はすみません」
「なに、連日ヒスイの土地を巡れば身体にも負担がくる。疲れが出たのじゃろう」
 ぼうぜんと見つめていると、コギトさんはなだらかに傾斜を描いた眉をさらに下げてやれやれと肩をすくめた。
「そのことにも気がついておらなんだ」
「いえ、あの、ごめんなさい、昨晩の記憶がはっきりとせず」
「ふむ。里の外れまで出たのはおぼえておるな?」
 ええとうなずいた。ならよい、とコギトさんは唇の端をちょんとつり上げた。
「そのあと、しばらくしてエルレイドが追いかけたのじゃが、なかなか帰ってこんでのう。それでウォロのやつが探しに出たと思えば、今度は気を遣ったと背負われて戻ってきた」
 ――ならば、あの「夢」はなんだったのか?
「……すみません、ほんとうに」
「それをわしに言われてものう。ま、人間生きていれば、そういうこともあるものじゃ。夜明けに、ウォロが起きてきたおぬしに水を差し出したと言うておったが、かなりのぼせた顔でその実酷い熱だったとな」
 辺りを見渡せば、きのう目が醒めた天幕の中ではない。
「ああ、気を利かせたのか、ヤツがここで寝かせたのじゃ」
 ひとり用の小さな天幕。それは拠点にあるものとさほど変わらないだろうか、めいっぱい敷き詰められた布団に、わずかな隙間には異国の文字の書かれた書物。
「ウォロさんの……?」
「そうじゃ」
「彼は、どこで寝たのですか?」
「自分より他人の心配か、ならばもうこちらが気にすることはないな」
 やれやれとかぶりを振って、コギトさんは豊かなドレスの裾を翻し立ち上がる。
「あやつのことは気にかけるでない。アレでもこの地を縦横無尽に徘徊する男じゃ。幸い昨夜は天気もさほど悪くない、外に寝袋を敷いて寝ておったわい」
 ホッと息をつくと、エルレイドがやってきて瓶入りの水を手渡してくれた。コギトさんにご苦労と声をかけられると、彼は誇らしげに胸を張った。

 しかし、安堵したのもつかの間だ。天幕を出て、セキさまはおろかショウちゃんまでもが里を発ったあとだと知り、わたしは鈍器で頭を殴られた心地だった。
 慌てて支度を済ませ、今なら間に合うかとシマボシ隊長のケーシィにギャロップを連れてきてもらい原野へ向かおうとしたが、「火だるまになるつもりか?」とコギトさんに止められてしまった。
「おぬしも思いがけず奇天烈なやつじゃの」
 気が動転していたというのが、もっとも近いだろうか。すっかり炎のたてがみを忘れていて、わたしはケーシィの前で大きく脱力した。
「追いかけなくちゃという気持ちが、先走りました」
「そういうこともある。しかし、なぜギャロップを選んだのじゃ」
「それは……」
 たしかに、ふだんショウちゃんが背を借りているのはアヤシシというポケモンだ。ほかにもウォーグルや、ムクバード、選択肢はあったはず。――そもそも、放牧場のポケモンはショウちゃんの捕まえたポケモンなのだから、ナナツボシの調査隊でも彼らを捕らえた相棒でもないわたしが手綱を握れるわけはない。本当に、とんだ焦りだ。
「なぜ、ギャロップだったか、ですよね」
 そうじゃ、と、コギトさんは優雅にグローブの指先を唇に添えながら先を求める。
「なんとなしに、彼らなら一番速く駆け抜けてくれるかと思ったのです」
「ふむ、その印象とやらは一理あるのう」
「……にひゃく、よんじゅっきろ」
 コギトさんが睡たげにも見える瞳をそっとこちらへ向けた。
「なんじゃ、その数字は」
「たしか、彼らは時速二四〇キロで走ることができるんです。それは、新幹線と遜色ない速さ」
すぐに、「そんなの、振り落とされるに決まっていますよね」と笑う。
「……おぬしも、なにやら不可思議な空気をまとっておると思ったが、向こうの人間か」
 その言葉に心臓が大きく跳ねた。それはうねりとなり、瞬く間に全身に駆け巡る。
「わかりません」
 ああこれを言うのは何度目だろう。こう告げながら、わたしはその言葉を否定したがっているのかもしれない。手にしたいと思っていた真実が、自らの認知を軽く凌駕するものだったとき、人間は思いがけず引き裂かれるのだ。それは心か、頭か。少なからず、頭で理解しようとするがそのほかがついてこないというのが、現状だ。
 昨晩のことといい――セキさまの前で取り繕うことのできない自分を思い返し、実感した。わたしは、ちっとも今を、この先に訪れるものを受け容れられていないのだ。
 ヒスイのことを、自らのことを知りたいと思いながら、過去へ踏み込むことを、明日へと続く海原を波に抗い進むことをまったく成し遂げていられてない。とんだ茶番だ。
 一緒に行くと豪語しておきながら、そうしなくてはならない、そうすべきである、これが使命だと繰り返しながら、わたしはここにきて二の足を踏んでいる。
「まあいい。知る自由も、受け容れる自由もおぬしのものじゃ」
 手のひらを眺めていたわたしをコギトさんは息つき諭した。
「ならば、知らない自由も、受け容れない自由もあっていい。そうとは思わんかえ?」
 知らない自由、と繰り返したわたしに、コギトさんはうなずき天をあおぐ。
「時は万物にふりそそぐ。過去も現在も、未来も、それらはひとつなぎに連なっておる。そこに空間が交わると、ちいとばかし話はややこしくなるがの。――とにかく、過去は過去じゃ。未来は未来じゃ。現在は現在であり、理論上、時は巻き戻すことも足を早めることもできぬ。だが、変えることはできる」
 ウォロさんと同じく、銀色の髪の下で彼女がなにを見ているかはわからない。だが、近くて、それでいて遠くを見つめているのだろう。
「知ったことで変わるかもしれん。だが、変わらないこともあれば、知らないがゆえに変化を遂げる可能性もさもありなん」
「……むずかしいですね」わたしは息を洩らした。
「そうかの。裏を返せば単純じゃ。悩んだところで紅茶が冷めるだけよの。エルレイド、昨晩干した砂糖漬けの具合はどうじゃ? あれを紅茶に浮かべてもなかなか乙だと思ったのじゃが」
 エルッという声とともに、コギトさんは川縁の特等席に置かれたテーブルセットに腰掛けた。わたしは結局しばらく動けず、彼女に呼ばれて席に着くのだが、その日は無論落ち着かない一日を過ごすことになるのだ。無力感と困惑とは、空の赤みのように増していくばかりだった。