「とんだ女がいるモンだと思ったんだ」
ぽつりぽつりと紡がれる言葉は、やわらかな胡弓の響きであった。琴線がどうしようもなくくすぐられる。聞いているだけでその音色に縋りついて、身を委ねて、なにもかもを捨て置いてしまいたくなる。モモンの実をいきなりかじって口で渡したこと、たいそう肝の座った女だと驚いたこと。もう数か月も前のことだというのに、セキさまは昨日のことを話すような口ぶりで続けていく。
「だが、それ以上に、アンタの真剣な横顔がどうしようもなく胸を揺さぶった。患者を見つめながら、懸命に治療を続ける。あんなにも弱った顔をしながら、だれよりも勇敢に病に立ち向かう。こんな女の、ほかの顔をもっと見てみたいとおもった」
あの日のことを、わたしもよくおぼえている。命の危険にさらされたその緊張ゆえではなく、それが彼との大切な思い出のひとつだからだ。
襲われそうになったわたしを颯爽と助け腕を引く力強さ。焚き火の横で、黄金色に頬を染め上げるその美しく精悍な姿。「眠れねえのかい」とたゆたう低音、昏闇に浮かぶ神秘的な虹彩。そして、くちびるに触れるぬくもり。
「ただ戯れに近づいたわけじゃない。ほんの少しの慰みのために、アンタにふれたわけじゃない。オレにはアンタが、昔この地に訪れた行商から聞いた、女神様に思えたんだ」
その女神をこの手で堕とすたあ、なんと罪深きことよ。セキさまは自嘲気味に告げて、深く息を吸い込んだ。その拍子にひゅうと喉が鳴り、苦しげに眉を顰めたあと、ひと息に呼吸を吐き出した。
「ナナセ、おめえがどんな人間だろうとどうだっていいさ。カントーだジョウトだ、そんなところのお姫様だろうとなかろうと、おめえはナナセだ。オレをただの男にした、唯一の女だ」
頬にふれる手のひらの温度、指先のかたさ、すべてをおぼえている。わたしは、きちんと、おぼえている。止まらぬ涙を、ぐしゃぐしゃになった顔を見てセキさまは、「まるで赤子じゃねえか」とわらう。腹部に力が入ったのか、彼は苦悶の表情を見せた。
まだ目が覚めたばかり。涙声で、「安静になさってください」と告げれば、痛みに耐えながらも片眉を跳ねていたずらな顔をした。
「色男が、こんなところで臥せってるわけにはいかねえからよ」
「なりません。これ以上無理をしてなにかあれば、悲しむ人間がたくさんいます」
「ま、アンタに悲しまれるのは御免だな」
しかし、言葉とはうらはらにセキさまは無理やり上体を起こした。横たえていた身体は大きな音を立てて軋み、セキさまの表情はさらに険しいものになった。それでも、「ナナセ」とわたしの名前を呼び、濡れた頬を指先でなぞる。
「今すぐ、応える必要はねえ。オレの独りよがりで済ましてくんな。けどよ、すべてが終わったら、教えてくれ」
――オレとの未来があるのか、ないのか。
共に先を見つめる明日があるのか。
「セキさま」
「応、ナナセよ」
「……わたしは、おそらくここの人間じゃありません」
「それがどうした」
セキさまは唇に弧を描く。
「だってあなたは、……あなたは、コンゴウ団の長たる御仁」
「そんなの、とは言えねえな。けど、オレだって、自分が何者か、どうあるべき人間なのかわかっちゃいねえ」
苦しそうに眉根を寄せて大きく息を吸い込みながら天をあおぐ。そんなことをしたら傷に障ると背に手を伸ばすと、彼はわたしの肩に頭蓋を預けた。
「今が大事なことは知ってる。今があるからこそあすがある。積み重ねてきた過日の先に今がある。時を大事にすること、それがじいさまから教えられた道」
わかってる、と、セキさまは続けた。
「みなに認められる長にならなければいけない、それがオレの道だ。シンオウさまを崇め、シンオウさまとともに生きる、それが運命。……けど、ナナセ、おめえの隣で胸張って生きられる男になるにはどうしたらいいか、なによりそう思うだけよ」
セキさまの容態はその後安定し、一度試練を中断してムラへ向かうことになった。ただ、ショウちゃんやわたしは足を踏み入れることすらできないので、太陽が昇りきったころ、ようやく帰ってきたウォロさんと心配になって駆けつけてくださったラベン博士がセキさまに付き添う役目を担ってくれた。
「ナナセ」
別れる寸前、セキさまはわたしを呼びとめた。ひとりで歩くこともままならずラベン博士に肩を借りる彼のもとへ身を寄せれば、彼は懐からあるものを取り出しわたしの手のひらに握らせた。
「これ……」
「アンタのだ、すまなかったな」
白金の花かんざし――失くしたと思っていたものだった。茫然と手のひらの瞬きを見つめるわたしに、「情けねえ話だよ」とセキさまは自嘲気味に一笑する。
「オレには到底見繕えやしねえものを、どこぞの男に贈られちまうんだ。挙げ句、仕様のない嫉妬に、とんでもねえことをしちまった。……大事にしな」
行きましょうかとウォロさんが声をかける。しかし、彼は離れるどころかわたしの腕を引き、耳元でささやいた。
「だが、いつかその髪を梳くのはオレの作ったモンでよろしく頼むぜ。……カントーじゃ、そういうのが流行りなんだろう?」
途端耳を押さえて目を見開くわたしに、セキさまは不敵に笑った。
「さ、学者先生、すまねえが肩を借りるぜ」
「これくらいお安い御用です。ウォロさんが向こうに荷車を用意してくださいましたから、そこまでは頑張って歩いてくださいね」
ラベン博士にやさしく微笑まれ、わたしはどんな顔をしたらいいのかわからぬまま頭をさげた。こんな状況でなにをと思うが、大地をゆっくりと踏み締める群青の背を見つめて、わたしはようやく胸を新鮮な空気で満たすことができた気がしたのだった。
ショウちゃんとわたしはカイさまの到着を待ち、隠れ里へ戻ることになった。ただショウちゃんも本調子ではないため、その旅路は行きよりも時間をかけてのものになった。
「ポニータ、進化したんですね」
銀河たなびく美しい駿馬を見上げてショウちゃんは感心したように告げた。
「あなたを助けに行きたいと言ったら、力を貸してくれたの。振り落とされるかと思うくらい、すさまじい速さだったのよ」
こうべを垂れるギャロップにショウちゃんは手を伸ばす。
「……この子、捕まえてからほとんど放牧場に預けっぱなしだったんです。でも、外に出たかったんだね」
彼女の手のにおいを嗅ぐように鼻先を寄せ、ギャロップはいなないた。その姿は、返事をするようにも思えたし、ただ単に子どもが無邪気にじゃれるようにも思えた。
「ショウちゃんは、ポケモンを愛し、愛されるために、きっと生まれてきたのね」
ふと口にすれば、彼女はギャロップの戯れを受け止めながらきょとんとした顔でこちらを向いた。
「あなたを想う気持ちが、ポニータをギャロップに進化させた」
ラベン博士によれば、進化の原理はまだ詳しく判明していないが、共に過ごす時間や研鑽はもちろんのこと、ポケモン自身の願いが関係しているのではないかという。
ポケモンごとに進化に要する時間はもちろん、必要条件も異なる。ギャロップがどうだったのか、この世界では、わたしは知らない。だが、ほかならぬ、ショウちゃんを助けるために、ポニータは自らギャロップになるという道を選んだ。それまで進化を必要としなかったポニータが、このとき自発的に進化することを望んだのだ。
――ポケモンがいなかったんです。
蘇るのは、そんな言葉だ。
――だって、そんなの、ありえないから。
「気に障ったのなら、ごめんなさい。勝手に、生まれた理由や意義を決めつけられるのは、気持ちのよいことではないわよね」
首をすくめれば、ショウちゃんはいまだ青白い顔でじっとわたしを見つめたまま、唇を噛み締めた。
「なんで」
「どうかした?」
「……なんで、私なんだろうって、ずっと思ってきたんです」
その顔は、いつもの困り顔ではなく、ひどく苦しげなものだった。
「気がついたら、この世界にいて、生きるためには調査隊に入らなければならなくなって、獰猛に襲いかかってくるキングたちを相手にしなきゃならなくて。なんで、私がこんなことしなくちゃならないんだろうって」
ただ私は自分の部屋で眠りについただけなのに。表情のわりに、声は淡々としていた。だが、胸から浮き上がる言葉はいくら吐き出しても止まらないようだった。
「私が知る野生のポケモンたちともちがう。まわりにいる人だって、全然知らない。冷蔵庫もないし、テレビも電話もない。これがあったって、だれかと繋がれるわけじゃない」
これ、と言って取り出したのは、白い電子機器――アルセウスフォンだ。
「何度もいやになりました。帰りたいって思いました。少しずつよくしてくれる人も増えたけれど、でも結局、追い出されて、あれしろこれしろって」
彼女はアルセウスフォンの暗い画面を眺めたあと、力なくポーチにしまう。
「どうして私だったんだろうって、眠る前にいつも考えました。今でも、考えだすと寝られなくなることがあります。私は、英雄でもなんでもないのに」
ギャロップがいななき、ショウちゃんの頭に鼻先を擦り寄せる。彼女はこそばゆそうにその首を撫でてやった。
「……私で、よかったのかな」
寂しげに丸まった背に手を添える。
「どうして、シンオウさまがあなたを選んだのかは、わからない。神の悪戯かもしれないし、天啓なのかもしれない。でも……」
美しく聡明な駿馬と目が合い、わたしは頬をかすかに緩める。
「ショウちゃんだから、ここまで乗り越えてこられたのだとおもうわ」
ショウちゃんはなにも言わず、ギャロップのたてがみをなぞり、そして隣立つわたしの肩へその額を押しつけた。
頭に巻かれた巻き木綿から消毒液のにおいがする。ぬくもりと重みとを受け止めるようにわたしはその身体を抱き寄せ、彼女の髪に頬を寄せた。ありがとう、ショウちゃん。そっとささやけば、すすり泣きが聞こえてきた。
「ありがとう、たくさん頑張ってきてくれて」
小さな身体を、今はひたすら抱きしめるばかり。
その後、カイさまが原野へたどり着き、隠れ里へ再び足を踏み入れたのは二度目の朝日を拝んだころであった。あまり揺られてはいけないからと速度を落としての道のりではあったが、道中ショウちゃんの体調が悪くなることは幸いにしてなかった。
「セキはちょうど、お医者さまの治療を受けているらしい」
というのはカイさまの言葉で、ラベン博士がケーシィ伝いに文を届けてくれたのだのだという。わたしたちが隠れ里へ進むあいだ絶対安静が言い渡されていたが、それも解け、順調に回復に向かっているとのこと。ショウちゃんがホッと息をつくのを微笑んで見守りながら、自分も深く安堵していた。
「ショウさんの怪我のこともあるから、原野へ向かうのは三晩空けてからはどうかって」
それでも、あまりに生き急いでいるくらいだが、悠長にしていられないのも確かだ。うかがうようにショウちゃんとわたしを交互に見遣るカイさまに、わたしは、そうですね、と額に手を当てる。
「二日、様子を見て、体調に問題がなければ、ケーシィに文を届けてもらいましょう。セキさまの容態にもよりますが」
「本当なら、セキは置いていきたいところなんだけれど。でも、これはセキのやるべきことだから。這ってでもきてもらわなくちゃ」
可憐な容姿で勇ましいほどにふんと鼻息を荒くするカイさまにおもわず眉を下げた。
コトブキムラからウォロさんが戻ってきたのは、わたしたちが隠れ里に着いた次の日のことであった。背嚢をこれでもかと膨らませて、顔を出すや常の騒がしさで荷を広げた。
折良くいい品が手に入りましてね、いやあこれで試練を再開できます、心配は御無用ですよ、などと、饒舌さに拍車がかかっているようにも思えた。コギトさんはやれやれといった顔でそれを見届けると、すぐに川縁の洋机に着いてギャロップへ火を焚べるようにお願いしており、エルレイドもそれに伴い嬉々として鉄瓶とティーセットとを用意していた。
「ナナセさん」
カイさまとショウちゃんに商いを繰り広げたあと、彼はわたしに声をかけてきた。
「アナタにはこれを」
差し出されたのは、華奢な模様の記された缶であった。なにかと思いながら受けとると、開けてくださいと言われるがまま、蓋を取った。
「……キャラメル」
ムラにいたころ、よく彼に仕入れてもらっていたことを思い出した。
「大陸から船がきたので、運良く手に入れることができました」
缶に描かれている模様や文字は見慣れないものだったが、包まれたその形は変わらない。すぐに懐から代金を取り出そうとすると、彼はわたしの手を止めた。
「売り物にする予定はありませんでしたから」
「でも」
「せめてもの労いと償いです。病み上がりにもかかわらず、アナタには原野までひとりで来させるという無理をさせましたからね」
「あれは、わたしが勝手にしたことです」
それでもウォロさんは笑みを湛えただけで、それ以上の問答を許さなかった。
「試練はすぐに再開できそうですか」
「……ええ、このままであれば」
「それはよかったです。空は一段と赤く染まっていくばかりですからね。なにやら、コトブキムラでもきな臭い動きがあるようですし」
彼の横顔を眺める。わたしが見上げる顔はよく美しい金糸の下に隠れていた。彼の目を見たいと思っても、かなわないことがたびたびあった。彼を、遠くからも近くからも眺めてきた気がする。だが、わたしは彼を見つけられない。
「ウォロさんは……」
はくはくと唇を開いてはみたが、言葉にはならなかった。ふとふり向いた彼の瞳が灰燼のような色に思えてしまった。そこになにが残るのだろうか。いまなおなにかが向こうで燃えているのだろうか。
確かめなくてはならないことが山ほどある。ショウちゃんの拾ってくれた「身分証」のこと。そこに映る「ナナセ」と、ここにいる「わたし」のこと。なぜ彼はわたしを「カントーからやってきた商人の娘」だと言ったのか。見えない真実には、果たしてなにが隠されているのか。確かめるべきであった。
けれど、ウォロさんの横顔を、その瞳を見つめるとわたしは黙り込んでしまう。
いつしか見た夢のように――立ちのぼる泡の向こうで、隔てた透明な玻璃の向こうで、小さな彼が泣いているような気がしてしまうから。
それからしばらくして黒曜の原野での試練を終えた。いよいよ「あかいくさり」のための試練は、残すところひとつとなった。
北へ向かうための装備を固めいよいよ出立となる前日、偶然にもコギトさんとショウちゃんと女三人だけでティーポットを囲む機会があった。ウォロさんは拠点にいるというイチョウ商会の同僚のもとへ、セキさまは集落へ一度戻られた際のことであった。
「おぬし、自分のことがわからないと言ったな」
ウォロさんの買い付けてきた紅茶を、優雅にもふうと吐息で冷ましながらコギトさんは言った。あまりにだしぬけだったために、わたしは一度動きを止めたが、エルレイドの持っていた瓶を受け取って、花びらのジャムをひと匙ショウちゃんの紅茶へ落とすと、「ええ」とうなずき自分のカップにも同じ要領でジャムを落とした。
「目が覚めたら、ヒスイ地方にいました。とある親切な方に助けていただき、しばらくこの世界のことを教わりながら過ごしました」
穏やかな日々であった。稚児のように頼りない視線を送るわたしを、彼は辛抱強く受けとめてくれた。自分のもとにいては苦労と危険が絶えないから、と、まだ足場の組まれている洋館へと連れて行ってくれた。彼から授けてもらった知恵と知識と、そして彼の言葉添えのおかげで、わたしは医療隊で面倒をみてもらえることとなった。
「ふむ。して、どのようにヒスイにたどり着いたのか一切をおぼえておらなんだ」
「……はい。けれど、空が赤くなった気がするのです。空を見上げて、頭が鋭利な錐などで、ひと息に突き刺されたような痛みを感じた気がしました」
そして――……。
「ふたつの黄色い眼を見た気がします。それから、脳裡に何度も響く声も。ただ、それがなにかはわかりません」
気がついた先は、天幕の天井であった。金糸の美しい男が、穏やかな顔でわたしをのぞきこんできた。まるきり、わたしなどという存在がそのとき初めて生まれたように。わたしは、そこに存在した。過去を与えてくれたのは、そのひとだった。
なるほどのう、とあごを可憐な指先でなぞって、コギトさんはティーカップを置く。働きもののエルレイドが、すかさず紅茶を継ぎ足した。恩に着るぞと言って、コギトさんはエルレイドを労った。
「つまりおぬしは、一対の眼を目の当たりにし、おぬし自身を失ってしまった」
「そう、なのでしょうか」
「まあ、なんでもよい。しかし、そうだとするとちと厄介よの」
おもむろにコギトさんの顔を見れば、憂愁をかすかににじませた瞳がこちらを向いた。
「これよりおぬしらが向かう純白の凍土には、叡智をつかさどるポケモンがおるとされている。そのポケモンに関しては、次のような話を聞いたことがある。――その眼を見たものは一瞬にして記憶がなくなり、かえることができなくなる、とな」
そのとき、ガチャンと陶器の強くこすれる音がした。左隣を見れば、ショウちゃんの手にしていたカップがひっくりかえり、中の紅茶がこぼれていた。
「だいじょうぶ? 怪我はない?」
胸元にしまっていた手ぬぐいを取り出し、琥珀色の液体を拭いとる。ショウちゃんは震える瞳でわたしを見つめていた。
「……なんで」
「うん」
「なんで、ナナセさんは、平気なかおをしているんですか」
今にも泣きそうな顔で、彼女は唇を噛み締めた。
「だって、もう二度と、元の世界に戻ることができないかもしれないのに!」
ひっそりとしていた隠れ里に、悲痛な声が響く。立ち上がったショウちゃんは、やはりきつく唇を噛んで、わたしを見下ろしていた。
「だいじょうぶよ、ショウちゃん」
「でも……!」
「もっと、恐ろしいことが待っているのかとおもった。だから、大丈夫。……ううん、むしろ、よかった。これで、あなたのことを最後まで見守ってあげられる」
ね? と小刻みに揺れる手に自分の手を重ねて、紅茶で濡れた指先をそっとぬぐえば、花のかんばせはあられもなく崩れてしまった。そんな顔をさせたいわけではなかったのに。優しいその手をとって、着物の帯の間に挟んでいた小さな巾着を握らせると、彼女は大粒の涙をこぼしながら目をしばたいた。
「これ……」
「お守り。ウォロさんにいただいた花びらを入れたの、とってもいいにおいがするのよ」
そんなわたしたちを、コギトさんはなにを言うでもなくじっと見つめて、それから紅茶を口にした。
夜、天幕でふたりきりになるとショウちゃんが眉をこれでもかとさげて、しかし唇だけはツンとへの字にしてわたしの隣に横になった。
「……手、つないでもいい?」
すっかり、細かな傷跡も瘡蓋となり、赤みが引いてきたその顔を見つめながらわたしは訊ねた。こっくりと、彼女はうなずいた。
「もっと、早くにあなたと話していればよかった」
知らないことがたくさんある。空から人が落ちてきたと話題になったとき、心細そうに原野へ向かう背をただ遠くから見送った。彼女は自分からは遠い存在だと思っていた。
ほんとうは、こんなにも近い存在だったというのに。つながった手のひらから伝播する温度は、こんなにもあたたかい。ショウちゃんは唇を噛み締めたあと、「ナナセさんのばか」と掠れ声でうなった。
「ナナセさんのこと、絶対に忘れません」
うん、とちいさくておおきな手を握る。
「わたしも、これから先、ずっとショウちゃんのことを憶えてるわ」
朝、着替えを済まし外に出れば、いつのまにやら戻ったウォロさんが防寒具を手に朗らかな笑みとともにわたしたちを出迎えた。
「ショウさんはご存じかと思いますが、北は想像を絶する寒さですからね!」
備えあれば憂いなしですよ、と指振り言い募るウォロさんにそうですねとわたしも苦笑する。動きづらくはなるものの、着物の上にさらに一枚羽織をまとい、その上から外套を着た。足もとは革の洋靴だ。これでようやくまともに雪道を進むことができる装いとなった。仕上げに毛皮のついた帽子をかぶれば、ウォロさんは、「よくお似合いです」とやわらかな声を出したが、その瞳は灰にしずんだ埋火のようだった。
装備を整えていると、どこへ行っていたのかケーシィがパッとテレポートをして現れた。
「どうかした?」
ふとそのゾロアにつままれたような顔をのぞきこむ。ケーシィはなにやら念じ始め、否や、目の前にボンッと音を立ててなにかの山ができた。
「……懐炉灰?」
筒状になったその道具の山は、今でも目に焼き付いている。指先を黒く染めながら、本部の地下で作ったもの。一番上の灰筒に手を伸ばせば、「健闘を祈る」とだけ無骨な字で綴られていた。
あの偏屈そうな、気難しそうな顔が浮かんで目の奥が熱くなる。ああ、どうしてこんなにも。もうここはわたしの居場所になっていたのだろうか。しばらく瞑目し頬を叩くと、「これを袋に詰めてギャロップに積みましょう」とわたしはエルレイドに笑いかけた。
わたしは、ここにいる。たしかに、この世界に、ヒスイに存在している。それはわたしですら否定できないことだ。「ナナセ」がだれであろうと、「ナナセ」を知らなかろうと、否応なしにわたしはいまを生きている。
「おぬしにとって、少なからず過去が変わったのじゃな」
懸命に荷を積むわたしに、コギトさんはグローブの指を唇に添えたあとやれやれとかぶりを振った。
「あとはなに、未来を変えるだけじゃ」
未来――その言葉に鼓動が早くなる。未来などという、不確定なものをわたしに変える力があるのか。そもそも、未来を変えるというのは、どういうことなのか。コギトさんが答えを授けてくれることはない。ただ、湖のポケモンたちのように、「かけら」を与えてくれるだけ。かけらなどという形のあるたしかなものではないかもしれない、蝶の羽ばたきに似た、かすかな風を送るものかもしれない。
ショウちゃんが一足先にセキさまを追って隠れ里を発ち、後続のウォロさんとわたしも彼らを追って湿地帯をあとにした。
「ほんとうに、行くのですか」
ここからの道のりは、以前よりもはるかに厳しい。銀河たなびく駿馬に跨るわたしをふり返り、ウォロさんは言った。だが、「ええ」と答えれば、彼は、「怖くありませんか」とわたしに訊ねた。
怖い――はっきりとその気持ちを意識するとすれば、間違いなくわたしはこの先の未来を恐れている。寒くて、痛くて、寂しくて……。果たしてどの記憶をもとに形成された感情なのかは、わからない。わからない恐怖が胸を占めている。
「怖いです」と告げたわたしに、ウォロさんはどこか安堵したような表情をつくり、「そうですか」と口にした。歩を進めていた彼は、いよいよ立ち止まった。
「純白の凍土は、ジブンにとっても、そう容易い土地ではありません」
「ウォロさんがおっしゃるほどですから、本当にそうなのだと思います」
だが、実のところわたしには、苛烈な大地へ向かうという選択肢しかなかったのだ。そこ意外に、どこへ行く必要がある。どこで立ち止まる必要が、ある。
「ウォロさんは、わたしに来てほしくありませんか」
ギャロップのたてがみが視界をさえぎる。それでも、美しい炎の向こうに彼を見つめれば、視線が重なった気がした。
「……正直な気持ちを申し上げると、そうですね。アナタにはあたたかな春の、のどかなひなたが似合いますから」
いつだったか、白い花を手にしたわたしを彼が褒めたことを思いだした。「まさしくアナタみたいだ」と、彼はわたしに言ったのだ。純真無垢で、なにひとつ知らない。自然と、腰につけたポーチに手が伸びた。白金のかんざしは、その中にしずかに仕舞われていた。
小さく唇と噛むと、でも、と彼は言葉を止めて、それからおどけたような声を出した。
「言ったところでアナタは止まらないでしょう。それは、よく知っていますから」
捻っていた上体を前へ戻し、行きましょうかとウォロさんはささやく。かれの乗るアヤシシが動き出す前に、ギャロップを二、三歩すすませその隣へ並んだ。
「……泣かないで」
鋭い眼が、見開かれる。
「……ジブンが?」
ギャロップがいななき、わたしはその首に抱き着くことになった。目を離したすきに、動揺を見せた瞳はもとの怜悧さを取り戻していた。「ナナセさんってば、おかしなことを言い出しますね」鼻でわらい、彼は帽子のつばをおろした。
「――もしも、ショウさんがあかいくさりを手に入れ、それでも時空の裂け目が広がりこの世が滅ぶとしたら」
――アナタはどうしますか?
息を呑んだ。一瞬の空白のうちに、ウォロさんは、「さあ」とアヤシシの首を撫で、歩み出した。
純白の凍土は、美しく残酷なまでの牙を剥いた。吹きつける雪の中を、キッサキ神殿を目指してすすむが、その足は思うように前へ向かってはくれなかった。
この苛烈な大地で、キングを鎮めたという少女を思うだけで心臓が凍りつく。彼女も、数多の警備隊員たちも、五体満足で帰還したことをシンオウさまに感謝したくなるほどであった。ショウちゃんとセキさまはすでに氷山を登り終えただろうか。懐炉は足りているだろうか。足の捻挫や、肩や腰部の怪我は無事だろうか。わたしは、必死に豪雪のなかをウォロさんの背を追いかけ進んでいった。
「ナナセさん」
「……ォロさん」
「まもなくシンジュ集落に着きます。一度、そちらで暖をとりましょう」
すぐに声を出すことはかなわないから、どうにかかぶりを振った。
「……じょうぶです、まだ、いけますから」
なにかが起こってからでは遅いのだ。ナナセの役立たず。自分を奮い立て、息を吐くが、厳重に巻いた襟巻越しだというのに、酸素を取り込もうとすれば喉には氷のつぶてが刺さるようであった。
この吹雪では、ギャロップたちの力を借りることもできない。無論、自らの足に頼るしかなく、刻まれた先から雪のかぶる足あとをひたすらたどる。頬や全身を横殴る雪のかたまり。ヒスイという土地の自然の苛烈さを、身をもって痛感する。
前へ、前へ、と進む視界を白い風がさえぎる。その中を、ひとつの背を見失わぬように、歩み続ける。
――この光景を、わたしは知っている。
「……気がつきましたか」頬に触れるぬくもり。「ウォロさん」ちいさくつぶやけば、彼はわたしを背負い直し、吹雪の中を迷わず歩を進めていた。
「アナタ、倒れたんですよ」
「……ごめん、なさい」
「ええ、仕方ありません。慣れない人間にとって寒さは命取り、その上アナタはなにも知らず、のうのうと生きてきたヒトですからね」
冷淡な声とはうらはらに、この熱を、この振動を、この鼓動を――わたしは知っている。
「ねえ、ウォロさん……」
ああ、どうして、こんなにも。
「あなたのせなかは、どうしてこんなにも、あんしん、するのでしょう」
この先は踏み込んではならない。ただ、そう脳裡で警鐘が鳴る。しかし、寒さのせいか唇が言うことをきいてはくれない。
知っている。そうだ、わたしはこれを、……。
「ずっと前にも、ここで、こうして背に乗せてくれましたね」
ごうごうとうなる強風の中で彼は低く喉を鳴らす。
「それを知って、どう思いますか」
ああ、こんなにも、どうして涙があふれて止まってやくれないのだろう。このままでは凍ってしまう。一生、目が開かなくなってしまうかもしれない。なぜ、人は与えられた道を、黙って歩いていくことができないのだろう。
どうでしょう、とわたしは声を震わせた。
「幸福に思います。だって、ウォロさんに出会わなければ、わたしはこの世界にいなかったはずですから」
それは、なにひとつ疑いのないことば。
「なにがあったとしても、あなたは、ウォロさんは、わたしにとって、この世界に居場所を与えてくれたひと」
たしかな、真実。
「……おめでたい女ですね」
凍てつく風が、ふたりの行く手を阻む。……
