1-4

「……おい」
 美月はクラウドの声で目を覚ました。
 瞼を押し上げると、目の前に、淡い明かりを受けて金の絹糸が煌めいていた。さらり、動きに合わせて揺れる様は、まるで風そよぐ、小麦の丘のよう。整った精悍な顔立ちが彼女を覗き込んでいた。
 いけない、わたし――美月はハッとする。
「すみませ、つい、寝ちゃって」
「っ、起き上がるな!」
「へっ?」
 シーツの中から慌てて上体を起こそうとして、クラウドが美月の肩をベッドへと押し戻した。
 突然の行動に、美月は目を瞬かせる。
「……アンタ、戻ってるぞ」
 気まずそうに視線を逃して、薄く頬を染めるクラウド。珍しく表情が崩れている。初心な少年にも見えなくもないその仕草に、美月は思わず胸を高鳴らせたが、すぐに彼の言葉に頭を殴られることとなった。
「えっ、戻っ……? って、うそ!」
 そういえば、喋る声も、もうあの間の抜けた猫語ではなくなっている。シーツを抱きしめて体を隠しながら、手を確認する。白いもふもふの手ではなく、れっきとした人間の手のひらが目に映り、美月は胸を撫で下ろした。
「ほんとだ……」
「眠りこけたアンタをエアリスがベッドに移したんだ。で、俺が様子を確認しにきたら、アンタはその姿に。眠ると戻るのか?」
「どう、でしょうか……」
 手のひらをグーパーグーパー、開いたり閉じたりを繰り返しながら、美月は考える。
 覚えているのは、幸福にも似た、全身のあたたかさ。スッと空気と同化するかのように眠りの世界に誘われて――気がつけば、人間に戻っていた。果たして、なにが猫化のトリガーなのだろうか。
「とりあえず、詳しくはあとで訊こう。ひとまず着替えてくれ」
「あ、そうでした……でも、服……」
「エアリスに事情を話して借りてきた」
「す、すみません……」
 ほのかに呆れを滲ませた瞳で白いワンピースを差し出すクラウドにも、それを貸してくれたエアリスにも感謝してもしきれない。それから、ティファにもだ。今朝借りたティファの服は、猫になるときにどこかへ脱ぎ捨ててしまったのだろう。心の中で、下げた頭はいつまでも上げられそうになかった。
「……次からは服をしまうことにする」
 なぜ、とは訊くまでもない、いや、訊くことはできなかった。シーツの中で、美月はぎゅっと体を抱きしめて、すみません、と謝った。

「入っていいか」
 着替えの間、外に出てくれたクラウドに気を遣って飛ぶようにワンピースを被ったのだが、ドアがノックされたのは、しばらくしてからのことだった。
「はい、どうぞ」美月は答える。
 クラウドもクラウドなりに女の事情を考慮したのだろう。ぶっきらぼうだけど、なんだかんだやさしい。出会って数日、それがクラウドの印象である。気難しそうな見た目とはうらはらに、彼の振る舞いにはどこか感心するものがあった。
 ドアが開いて、まみえた精悍な顔立ちにどきっとしながらも美月は頭を下げる。
「……あの?」
 顔を上げると、クラウドはドア口で立ち尽くしているようだった。美月の問い掛けにハッとして、彼は小さくかぶりを振った。
「いや、すまない。少し、話いいか?」
「はい。わたしも、訊きたいことがありましたので」
 クラウドは静かに部屋へと入ってきた。
 美月は反射的にベッドから腰を上げる。
「どうした」
 クラウドがわけがわからなそうに眉を寄せたので、そこで美月は自然と元の世界で培った社会人の振る舞いが出てしまったことに気がついた。
 冷やかに一瞥され、取引先や上司との会議でもあるまいし、と気恥ずかしさに前髪を撫でつけながら、「いえ……」と再びベッドに腰掛ける。
「このあとのことだが、夜中にここを出て行くことにした」
 クラウドは部屋の奥にあるソファに腰掛けることもなく、美月の目の前の壁に背を預けながら言った。
「わかりました。でも、エアリスさんは?」
 送っていく、と頑として聞かなかった彼女のことを思い出し、美月は首を傾げる。
「どうやら、ソルジャーにいい思い出がないらしいからな。妙なことに巻き込むわけにはいかないだろ」
「お母さんに、釘を刺されたんですね」
「ああ。もとより先を急ぎたかった。かえって都合がいい」
 よくしてくれたエアリスの手前申し訳なさを抱くが、ここへやってきたときのエルミナの顔を思い出せば納得がいく。
 そうですね、と美月は頷いた。
「わたしも、そのほうがいいかもしれません」
 さっきは猫の姿しか見せていないのだ。いきなり女が増えたとあれば、余計いい顔はしないだろう。金色の髪が微かに上下した。
「そういえば、ティファさんたちは……」
 しばし沈黙が訪れて、目の前の彫刻にどこか落ち着かない気持ちを抱きながら、美月はおずおずと口を開いた。
「覚えていないのか」
「はい……すみません」
 気がついたら教会で、とこうべを垂れる美月に、クラウドはあからさまに息をついた。
「エアバスターが現れたところまではいいな?」
 腕を組むその顔は、渋々といった調子だ。
「……はい。皆さんが、倒してくださったんですか?」
「ああ。だが、トドメを刺したところで、爆発したんだ」
「え、だ、大丈夫、でしたか?」
 自分が気絶している間にそんなことが起きていたとはつゆ知らず、眉根を寄せてすまなそうにクラウドの顔を覗くと、彼は肩をすくめた。
「巻き込まれてこのザマだ。猫になったアンタを助けようとしたら、一緒に落ちた」
 まさか、ティファたちと別れた原因が自分だったとは。いよいよいてもたってもいられず、「す、すみません!」と土下座する勢いで頭を下げる美月だった。
「途中も、いろいろ助けてもらったのに……本当、すみません、迷惑ばかりかけて……」
 そう、クラウドには幾度となく助けられているのだ。列車でも、魔晄炉でも。モンスターが現れるたび、こっちへ危険が及ばないよう守りながら戦ってくれた。
 罪悪感で胸が満ち、鼻の奥がツンとする。
「アンタ、謝ってばかりだな」
 ぎゅっと膝の上で拳を握り、唇を噛んだ美月に落ちてきたのは、そんな言葉だった。
「顔を上げてくれ」
「でも……」
「連れて行った俺たちにも責任がある。アンタが役に立たないことは予想がついていた」
「や、役に立たない……」
 全くもって正論だ。とはいえ、心にグサッと突き刺さる。美月が泣きそうなんだか悔しいんだか、よくわからない情けない表情を浮かべて顔を上げると、クラウドは、小馬鹿にするようにフンと息をついた。
「気づけばいきなり猫になってるしな」
「もう、ほんとう……」
 謝ってばかりだと言われた手前、すぐにそれを口にするのも憚られ、美月は口の中で言葉を転がしながら顔を両手で覆った。
 ――コンコン
 と、そこで、控えめにドアがノックされた。
「クラウド、入っていい?」
 すずらんのそよぐような澄んだ声が聞こえて、クラウドが視線を寄越してくる。美月がこっくり頷くと、彼はゆるりと長い睫毛をひとつ揺らして、ああ、と扉の向こうへ返事をした。
「猫ちゃん、目、覚めた?」
 エアリスだ。開いた扉からひょっこり顔を出した彼女は、美月の姿を見るやいなや、目を飴玉のように丸くした。
「わっ、ほんとだ、女の子になってる」
「すみません、洋服お借りしました」
 美月はまたしても慌てて立ち上がり、白いワンピースの裾をつまみながら、ぺこりと頭を下げた。
「ん、いいのいいの。昔着てたやつだけど、よかった、サイズぴったりだね」
 立ち上がった美月の爪先から頭のてっぺんまでを眺めると、エアリスは花が舞うように笑いながら部屋に入ってきた。
 猫の目で見たときも思ったが、エアリスを喩えるならば、花だ。太陽の光を集めて、可憐に花びらを開く、恵みの象徴。美月は近寄ってくる彼女に、思わず息を飲んでいた。
「わたし、エアリス。猫ちゃん、あなたは?」
 猫ちゃん、その愛称にどこか恥ずかしくなって髪を耳にかけ直しながら、「ミツキです」と答えた。
「ミツキ」舌に馴染ませるように繰り返したあと、エアリスは、「いい名前、だね」と頬を綻ばせた。
「まさか、猫ちゃんがヒトだとは思わなかったから、びっくりしちゃった。クラウド、はじめに言ってくれればよかったのに」
 後ろ手に手を組んで、ムッと唇を尖らせた彼女に、クラウドは肩をすくめる。彼も言うに言えなかったのだろう、言葉はなかったが、美月はその心中を察して、「いろいろ、複雑で」とエアリスに眉を下げた。
「ふうん、そっか。なら仕方ないね」
 エアリスはじっとりクラウドを見ていたが、美月のその言葉にあっさり引き下がり、立ったままだった彼女に、「座っていいよ」と一笑した。
 こっくり頷いて、美月はベッドに腰掛ける。ふと、クラウドを見遣ると、おもむろに首を捻ってこちらを向いた彼と目が合った。女子と見紛うほどの長い睫毛に覆われた、不思議な、碧い光。
 ――ぴちゃん。耳の奥で音がした。
 びくん、美月は肩を揺らす。それでもなぜだか吸い込まれるように、美しい虹彩から目を離せずにいた。
 壁に背を預け、腕組みをしたままのクラウド。
「そういえば、ミツキ、聞いた?」
 エアリスが部屋の奥のソファに腰掛けながら、そう声をかけるまで、彼らは見つめ合っていた。
「――えっと、なにを?」
「明日、七番街まで送ってく、って話」
「あ、はい。猫のときも意識はあったので」
「そっか、なら話は早いね。しーっかり案内するから、任せてね」
 慌てて目を逸らした美月は、ガッツポーズをしたエアリスに、お願いします、と眉を下げて苦笑する。
 まさか、この親切な彼女は今夜自分たち二人がここを去るとは思っていないのだろう。「同じくらいの女の子とお出かけ、うれしい。明日、たくさん話そうね」なんて、無邪気に笑っている。キリキリと良心が痛むも、クラウドの無言の圧力で余計なことを顔に出さぬように必死で笑みを作る美月であった。
「それじゃ、今日はゆっくり休んで。明日、もしかすると、大冒険になるかもしれないから」
「……勘弁してくれ」
「ふふふ」
 やれやれと息をつくクラウドの横で、相変わらず可憐に花は咲いている。美月はどこか穏やかに彼女の横顔を眺めた。
「あ、そういえば、二人ともおんなじ部屋でいいよね?」
 と、途端にその花が爆弾を落として、気まずそうにクラウドを見遣ることになった。
「あれ、だめだった? てっきり、そういう仲かと」
 こてん、首を傾げる様も、まるですずらんの花笠が風にそよぐよう。とはいえ、その口から飛び出るのはとんでもない勘違い発言だ。
「ち、違います!」
 クラウドがなにかを答える前に、美月が手を勢いよく振って否定する。
「あの、一応出会って、まだ二日、なんで」
 誤解を解こうと必死だ。だが、彼女の気を知ってか知らでか、エアリスはのんきに、そなの? と巻き髪を揺らしている。
「なあんだ。落ちてもあなたのことだーいじそうに抱えてたのに、ね、クラウド?」
「……興味ないね」
 なんだかんだ、彼女がこの場に現れてからというもの、完全に彼女のペースに飲み込まれている二人である。
 クラウドの言葉に少々ムッとする美月であったが、ここはぐっとこらえて、「とりあえず、部屋は一緒でも大丈夫です」と流れを変えることにした。
「ソファもあるので。わたしなら、横になっても狭くないですし」
「だって、クラウド」
 女の子にそんなことさせて、いーの? エアリスの意味深な視線に、クラウドはあからさまにため息をつきながら、「俺がソファで寝る」と言うのだった。

「あの……」
 明かりの消された一室。美月はうっすらと浮かび上がる天井の板組を眺めながら、ベッドの上の存在に声をかけた。
「なんだ」
 美月のもとに心臓を撫でるような声が落ちてくる。
 結局、もうひとセット布団があることから、クラウドがベッド、眠り慣れているという美月が布団で眠る形になった。真夜中にこの家を出ていくので、実際に眠るかどうかはわからないが、昼間のアバランチのミッションのときから、クラウドが動きっぱなしだったことを考えて、少しでも休んでもらおうと美月は頑として譲らなかったのである。
「お話、してもいい、ですか」
 言うと、ああ、と低い声が返ってきた。
 いろいろと、美月には気になることがあった。小さなことも大きなことも一緒くたに積み重なって、すでに大きな山ができあがっている。その中から、一番重要なことを取り出すのは至難の技で、正直、なにから訊ねたらよいかはわからない。こうして彼も頷いてはくれたものの、どこか気まずさはあった。
「その、クラウドさんは……」
 暗がりの中、唇をひと舐めして、ひとつ、山から探り出す。
「クラウドでいい」
 と、遠慮がちに話し出した美月の言葉を彼が遮った。意外ではあったが、美月は彼の声を飲み込んで、「クラウドは」と言い直して続けた。
「ソルジャー、だったんですよね」
「ああ、昔の話、だけどな。それがどうかしたのか」
 訊き返されて、布団の上で手を組み合わせる。
「神羅の社長さんが、その瞳のことを仰っていたので。ソルジャーは、みなさんその色なのですか」
 深紅のダブルのスーツを纏った男を思い出す。プレジデントは、クラウドの瞳を見て、「その目の輝きは魔晄を浴びた者」と呟いていた。美月はなんとなくそのことが引っかかっていた。
 エアリスも宝石のように綺麗な瞳だったが、クラウドの瞳はそれよりもはるかに幻想的で、美月が魅入ってしまうほどの不思議な輝きを放っていたからかもしれない。
 魔晄を浴びるとそのような色になるのか。そもそも、魔晄を浴びるとはなにごとか。石油を浴びるのと同じなのか。あまりに印象的な瞳だったので、そんなことを考えていたのだ。
「ああ」クラウドは答える。
「個人差はあるが、多かれ少なかれ、ソルジャーの目はこの色だ」
「じゃあ……その、魔晄を浴びたっていうのは」
「そのままさ。俺たちソルジャーは、ソルジャーになる過程で高濃度の魔晄を――魔晄の光を浴びる」
「魔晄の光……」言葉を転がすと、「魔晄炉で見なかったのか、アンタは」とクラウドが呆れをこぼした。
 伍番魔晄炉を思い返す。くり返される機械音と、鉄の匂いと、土の匂い、それから、油のような妙な匂い。大きなバルブのついた鉄塔のような高い建物。上部から微かに漏れる、緑の光――。
「あれを浴びると、その色に」
 たしかに、クラウドの瞳に混じった色は、その光に似ていた。
 美月の呟きに、クラウドは、ああ、と返事をした。その声に、色はない。クラウドがなにを思っているかはわからなかった。
 魔晄の光を浴びる――にわかに想像しがたい。浴びて、体に害を及ぼさないのか。効果はなんなのか。それに、なぜだか、彼の瞳は初めて見たはずなのに、そうではないような、そんな気もした。なにかほかに似ているものがあるのだろうか。
 次から次へと疑問は沸き上がるが、彼女がそれを口にすることはなかった。
「アンタは、一体何者なんだ」
 しばらくの沈黙の末、今度はクラウドが訊ねる番となった。
「何者って、しがないOLですけど……」美月はありのままを答える。
「じゃあ、なんで猫になる?」
 なんとも痛いところを突かれてしまった。それは、と言葉を詰まらせる美月に、クラウドは息をつく。
「ここへ来た前後のことを覚えていないと言ったな」
「……はい」
 ぎゅっと指先を握る。
「その日は、たしかに仕事を終えて、会社から家に帰っていた、はずなんですけど」
「最後の記憶は?」
「ぼんやりと、会社から家までの道のりは、浮かんでくるような……」
 会社を出て、ネオンの瞬く東京の街を歩いていく。途中、コンビニに寄ったりしながら、やがて私鉄の駅について、電車に乗った。いつものごとく帰宅ラッシュと重なったから、大勢の人に囲まれて電車に揺られていた。
 脳裏に描かれる映像は、まるで、擦り切れたビデオテープを流しているかのようだった。目にした光景はたしかに自分のものであるはずなのに、どこか客観的に、それを観察している。なぜだか、みぞおちのあたりが気持ち悪い。
「この世界に来た瞬間のことは?」
「すみません、目が覚めたらあそこにいて。いつこっちに来たのかも、さっぱり……」
 ずきん、頭が軋むように痛んで、同時に不安のような恐怖のような、複雑に入り混じった負の感情が押し寄せてくる。自分の意識の外でなにかが起こることが、こんなにも恐ろしいとは。体が途端に冷えた。
 ――なんだか、さむい
 ぎゅう、と美月は布団を抱きしめて、今にも震え出しそうな体を温めようとする。と、
「……いつか、思い出すんじゃないか」
 やわらかい声が上から落ちてきた。
 美月の胸のあたりをそっと撫でて、すうっと体に溶け込んでいく。先ほどの色のない声とは大違いだ。たしかに、慰める声かというと、そうでもないかもしれない。だが、今の美月にとっては、彼の考えていることが少なからず感じられるようで、それだけで十分だった。
「そう、だといいです」
 布団を抱く力を少し弱めて、寝返りをうつ。余韻の残るほうへ、そうっと。シーツが擦れる音が静かに響く。
「アンタのことは、ティファと合流したあと、とりあえず安全なところまで送り届けてやる」
 元の世界に帰してやる、とは言わない。ほのかに落胆しつつも、彼らしいそのぶっきらぼうなやさしさがかえって、好印象だと美月は感じた。
「報酬は……」
 彼の職業を思い返して口にする。
「言い値で受ける」と、すぐさま返ってきた。
 デート、一回? 美月の頭に浮かんだのはお茶目な言葉だったが、さすがに彼女は暗闇の中でかぶりを振った。
 いやいや、あれはエアリスさんが言うからいいのであって、と心の中でぼやく。
 そもそも、自分とデートしたところでなんの報酬になろう。鼻で笑われるのがオチだ。自分で考えておきながら、虚しくなる。ひとりでに唇をむっと隠す美月であった。
「では……お金はご存知のとおり持っていないので、して欲しいこと、とかでどうでしょうか」
「たとえば?」
「ええと、料理とか、掃除とか……?」
「そそられないな」
「そっ……! じゃあ、また考えます!」
 世話になっている以上、文句は言えないのだが、美月は大人げなく声を大きくすると、荒々しく寝返りを打った。
(この人、なんなの。下着姿は見られるし、いきなり肩に抱えて列車から飛び降りるし、人を役立たずだなんだ……って、それは、事実なんだけど)
 ぶつぶつ、心の中で呟く。クラウドも体勢を変えたのだろうか、どくどくと激しい心臓の音に混じって、布が擦れる音がしてきた。美月は怒りを治めるように、それに耳を澄ますことにした。
 軽いとも重いともとれるクラウドの寝返りの音、それから、水のせせらぎが聞こえてくる。とく、とく、心臓の音が静まっていく。不思議と、先ほどの冷えが遠のいているのに気がついた。
「その、なにができるかはわかりませんが、なんでもやるので、考えておいてください」
 背を向けたまま、小さく口にする。
 ああ、と微かに丸みを帯びた声が、暗闇に溶けた。
 この家を出るまで、あとどれほどだろうか。つかの間の安息であった。

「行くぞ」
 ひっそりとしたクラウドの声に、美月は頷いた。隣で夢の世界に浸かっているだろうエアリスを起こさぬように、忍び足で部屋を出る。気配と物音を消すということですら、元ソルジャーのクラウドはなんともないふうであったが、美月にとっては至難の技だ。息を殺しながら廊下を抜け、最難関である階段を慎重に降りていく。言葉を交わさぬまま、そのままクラウドの背を追って、エアリスの家を出た。
「……怒りそうですね、エアリス」
「ああ。だが、なんらかの事情で神羅に狙われている身だ。頼るわけにはいかないさ」
 クラウドの言うとおりである。美月もスーツを着た赤毛の男が教会を訪れた場面を目の当たりにしていたので、なんら異論はない。あるとしたら、ほんの少しのもの寂しさだ。髪を撫でていた手がすっとなくなるような。
「彼女、不思議なひとでしたね」
 ひっそり呟くと、クラウドは、ん? とこちらを見てきたが、やがて、ああ、と静かに頷いた。
 引き締まった無駄のない背を追いかけながら、伍番街を抜けていく。夜が更けたスラム街は、よりいっそう鬱蒼としていた。
「お早い出発、ね。おふたりさん?」
 だが、六番街まであと一歩、というところで、彼らの行く手は阻まれることになった。
「エアリスさん……」
「ミツキ、ひどい! おしゃべりするって、約束したのに」
 そこには、ムッとフグのように頬を膨らませて、仁王立ちしているエアリスの姿があったのだった。
 結局、七番街まで一緒に行くことになり、女二人、男一人という真夜中のスラムにはそぐわないメンバーになってしまった。
 元ソルジャーであるクラウドの目までも盗んで先回りする彼女は、もしかすると彼よりも何枚も上手なのかもしれない。否、確実に上手だろう。ぐいぐいクラウドを引っ張っていくエアリスの姿を見て、美月は思う。
 六番街はエアリスによると街を建設中らしく、ここまで訪れた中でひときわ不気味な雰囲気を感じさせた。まさに、計画の頓挫した工事現場。剥き出しの鉄骨や、壊れたクレーン車などがそこかしこに放置されている。だが、クラウドがいるおかげか、それともエアリスの案内のおかげか、難なく抜けていくことができた。
 廃れた公園までたどり着き、一行は休憩することになった。
「なつかしい、まだあったんだ」
 ネコだかクマだか、よくわからない動物の頭部を象った遊具の上に、エアリスは登っていく。
「クラウド、ミツキ、こっち!」
 天辺にたどり着くと、立ってこちらへ手を振った。
「……元気」
 無邪気な姿に思わず呟く。
 本当ならば、七番ゲートを目前にしたこの公園で彼女と別れるはずだったのだが、なんだかんだと言いくるめられて、今に至る。
 クラウドがエアリスのあとを追いかけて、遊具へ登っていく背を見送ったあと、美月はぐるりと公園を見渡した。
 遊具は残っているものの、仮にも綺麗とは言えない廃れた公園。ブランコと、すべり台と、砂場と――やっと、美月の知っているものが現れ、どこか、安堵と哀愁を覚える。そのうちの一つ、ブランコに近寄ると、美月はそうっと金具を撫でた。
「わたし、どうなっちゃうんだろう」
 七番街まで行けば、クラウドが安全な場所へと連れて行ってくれる。だが、そのあとは――?
「星、見えないな」
 天を仰ぐ。鉄のプレートが空を遮り、まるで巨大な地下駐車場に閉じ込められたみたいだ。緑色の妖しい光の腕が、辺りを包み込んでいた。
 そのとき、物々しい音が響き渡った。咄嗟に、美月は音のするほうに顔を向ける。地震に似た揺れとともに、奥にあるゲートが開いたようだった。
「ば、馬車……?」
 現れたのは、黄色い鳥とそれに引かれる赤い屋形。
「――ティファ?」
 そして、そこには、ティファの姿が。
 クラウドの声に、美月はハッとする。彼らのいる遊具を振り返ると、エアリスがすべり台を滑り降りてくるところだった。
「エアリス?」美月が名前を呼ぶ。
「待て、あんたは帰れ!」
 クラウドの制止も虚しく、エアリスは鳥車の消えた方角へと走って行ってしまった。
「行くぞ!」
「っ、はいっ……」
 なにが起きたのかいまいち状況を把握できぬまま、大きく遊具を飛び降りたクラウドに腕を掴まれ、美月はそのあとを追いかけることとなった。

 揺れるピンク色のリボンを必死で追いかけ、クラウドと美月がついたのは、六番街スラムの先に広がるウォールマーケットという歓楽街であった。比較的、屋根と壁のまともな建物などが立ち並ぶ様は、これまでのどのスラム街よりも整備されているようにも見える。だが、目を灼くのはいっそう妖しく煌びやかな魔晄色のネオンだ。もう夜更けだというのに、まだまだ眠る気配はない。
「ここ、いろんな意味で怖いとこよ。特に、女の子はね」
 エアリスが怯えもせずに、街を見渡して言う。なんだかんだ、彼女の破天荒さと肝の据わりっぷりには、驚かされる美月である。とはいえ、彼女の言葉どおりならば、なおさら、ティファを見つけ出さなければならない。
 クラウドに掴まれていた腕をそっとなぞりながら、美月もなにか手がかりがないかとぐるりと街を見渡した。
「なんか、一人で歩いたら最後って感じですね」
「うんうん、そんな感じ。クラウド、ミツキから目離しちゃダメだよ」
「……ああ」
 エアリスのほうが心配だ、という言葉は飲み込むことにした。
 歓楽街のウォールマーケットはどこもかしこも明かりが灯っていてにぎやかだった。一歩歩けば、キャッチが目敏く声を掛けてくる。どことなく香る泥臭さに混じった香水の匂いまでもが、歌舞伎町に似ているような、いや、池袋の北口だろうか。ともかく、ティファのようなスタイル抜群の美女にとっては危険な場所だ。
 ぼやぼやもしていられないということで、三人は彼女について訊きまわることにした。
「ねえ、ミツキはアバランチなの?」
 クラウドが蜜蜂の館といういかがわしい店のほうへ聞き込みに行っている間、エアリスが訊ねてきた。
「わたしは、全然、ただ事情があってお世話になってるんです」
 やっぱり、とエアリスが言った。
「ミツキ、あんまりスラムに慣れてないみたいだから、プレートの上の人なのかな、とか思ってたの」
「プレートの上……」
 聞く話によると、上部は富裕層や限られた人々が住まう街とされている。断じてそんなことはないのだが、もしかすると、内心スラムに怯えおどおどしているのが伝わってしまったのだろうか。できる限り、平静を装おうとしていたのだが。
 美月が眉根を寄せて言葉を濁すと、エアリスは彼女に気を遣ってか、話題を変えた。
「ねえ、敬語やめない?」
「ええと、いいん、ですか?」美月はたじろぐ。
「ここまで一緒に来て、悪い、なんて言うひと、いるのかな?」
 くすくす、とおかしそうに笑われて、美月は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「じゃあ、よろしく、ね?」
「うん、よろしく、美月」
 子どものようにいたずらに笑ったり、かと思えば、花のように可憐に微笑んだり、エアリスは不思議な存在だ。どことなく、太陽に似ている。そう美月は思った。
 やがて、クラウドが戻ってくると、なんとティファがウォールマーケットを牛耳る、ドン・コルネオのもとに向かったというのがわかった。
「ティファさんは、なぜコルネオというひとのもとに?」
「さあな」
 美月が訊ねるも、クラウドは視線も合わせない。
「ふうん、クラウド怪しい。なんか隠してる?」
「べつに、そんなことない」
 あのいかがわしいお店でなんかあったのだな。女二人は目を見合わせた。
 一同はまだ、この時点でこのあととんでもない展開になるとは思いもよらなかったのである。