「すみません、戸川先生」
そそくさと帰っていく外国人講師を横目に、翌日の準備を手伝ってくれたのは戸川先生だった。彼はわたしが頭を下げると、ん、とかすかに口もとを引いただけで、掴みどころのない表情のまま教室の机を整頓してくれる。
「そういえば、昨日の体験レッスンの子、入るんだってね」
だしぬけに切り出した彼に、わたしは目を瞬く。
「あ、スティーブンが受けもった?」
「そう。スティーブンが、名前のおかげでスムーズにレッスンできた、ってめちゃくちゃ興奮してた」
ふいに呼ばれた名前にどきりとする。しかしすぐに平静を装って、「スティーブンのレッスンはいつも好評ですからね、さすがベテランはちがいますよね」と笑うと、背を向けて机を運んでいた戸川先生が一瞬動きをとめた。
「たしかに、スティーブンは第二言語習得のプロではあるけど」そして、またのらりくらりとした動きで荷を運ぶ。「人を客観的に見たうえで、的確なアドバイスを施した名字さんのナイスアシストでしょ」
その言葉にハッと手を止めて戸川先生を見た。
「アンケートのメモ、見たよ」
ふふん、という効果音が似合うだろうか、あごを軽く上げて、瞳を細めて薄く笑う。やわらかな髪が額で揺れふわりと落ちる。
「日本語でも伝えるのむずかしいのに、消したあともなにもなくサラサラッと綴ってあったからびっくりした」
昨日、なにげなく残したたかが数行の英文を、彼は今ここで誦じてみせる。戸川先生が発音すると、まるで格式高い詩になったようだった。カウンセリングを受け持った際に感じたことをただ単に書き留めただけ。相手のニーズをほんの少し汲みとり、合いそうなレッスンと照らし合わせ、「インプットとアウトプットの反復から、インテイク習得する成功体験を」といつぞやのセミナーで聞いたことをそれらしく伝えただけ、それなのに。
「やっぱり、講師目指してみたら。もったいない」
言うだけ言って、戸川先生はさっさと整頓を終えて、気だるく首をひねる。
「飯、いこっか」やさしく微笑んだ。
証券会社を第一の就職先に選んだのは、賃金のよさよりなにより、自分の可能性に挑戦してみたかったからだった。大学や好きな海外ドラマや映画からそれなりに学んだ英語を使って、仕事をしてみたかった。あの会社は社長が海外かぶれだったこともあって、グローバルワイドでの証券取引に力を入れていた。そこで、やれるところまでやってみたかった。しかし、結果は芳しくなかった。
毎日毎日、言い渡される仕事で手一杯になり、その上仕事も描いていた世界とはかけ離れ、会社の利益を第一に考える利己的な営業をしろと口うるさく言われる日々だった。そんな中で七海くんは頭角を現し、上司たちを唸らせる手腕で営業成績を伸ばしていっていた。彼に追いつきたいと思った。必死で隣に立ちたいと思った。けれど、いつのまにか心も体も擦り切れ、七海くんが仕事を辞めたあとは、わたしも自失状態になり退職届を書いた。人生ってうまくいかないなぁと思ったものだ。
いくら頑張ったって、報われないことはままある。むしろ、そのほうが断然多い。
それから、なにをどう必死になったらいいのかわからなくなっていた。七海くんにそばにいてほしいと言われて浮かれていたのもある。このまま、彼と結婚するんじゃないかと純白のウェディングドレスを想像したこともあった。ただ、彼はどんどん忙しくなり、わたしを置いていってしまった。
七海くんの仕事にできるだけ合わせられるようにと総合職から一般職に異種替えをし、せめて彼からこれ以上離れないで済むようにと融通の効くシフト制の今の仕事を選んだ。英語を使う職場にしたのは、なんとなく、未練があったからかもしれない。
でも、わたしはぬるま湯にただだらだらと浸かっていただけだった。七海くんが帰ってくるのを笑顔で待つためだから、と、自分の価値を棄ててしまったのだ。
ああ、だからか。腑に落ちた気がした。だから、七海くんに置いていかれるんだ。仕事に大した誇りも持たず、できるかぎり負担の少ないほうへと逃げるふりをして、わたしは七海くんに逃げようとしていたんだ。だから、「いつか話せるときがきたら」なんて、こないだろう「いつか」を七海くんはわたしに投げたのだ。
自分が本当にいやになる。なんて情けないのだろう。七海くんはあんなに頑張っているのに。あんなにもなにかのために闘っているのに。
だめなのは結局、わたしだったんだ。
戸川先生はわたしを連れて、向かいにある高級ホテルのジャズクラブにやってきた。仕事終わりのオフィスカジュアルなんて格好で入ってもいいのかわからなかったが、大丈夫でしょ、といつもの調子の彼のあとについてムードある店内へ踏み込んだ。
ゆるやかにテナーサックスが鳴る。黒服のギャルソンが席へ案内してくれるやメニューを差し出してくる。少し明度を落とした照明も、ステージに立つバンドマンたちを照らす赤や青のライトも、なにもかもが洗練されていて、背すじがぴんと伸びる。
「なににする。おれは、スクリュードライバーかな」
「どれもおいしそうですね。うーん、どうしよう」
指先を惑わせて、やがてスペシャルカクテルでと微笑む。
「わかった」
流暢な英語を紡ぎ、戸川先生はギャルソンに目配せをする。カクテルを二つとアラカルトでいくつか料理も頼んだ。
「戸川先生、ジャズお好きなんですね」
「ん、向こうにいたときね、ハイウェイ突っ切ってよくニューオーリンズ遊びに行ってた」
軽く瞑目してしっとりとした旋律に身を委ねる姿は、物憂げで雲を掴むような彼の佇まいによく似合う。ほんとの目当てはベニエだったけど、ときおり片目を開いてふっと笑う仕草が色っぽい。
「ベニエ、食べたことないです」
「めちゃくちゃ甘いけど、めちゃくちゃおいしいよ」
そこでカクテルがやってきて、グラスを重ねた。バンド演奏がひと息ついて、ステージに真っ赤なドレスをまとった女性が現れる。名も知らぬジャズシンガーだ。しかし、マイクスタンドの前にたち、彼女が微笑をしまいこみすっと表情を変えた途端、その空気に呑み込まれた。ドラムスのハイハットが雨垂れのようにしんと鳴り、なめらかなピアノが滴を蹴る妖精のあとを追いかける。サックスが低く耳を震わせ、コントラバスが心臓に響く。そして、息を吸ってシンガーが歌いだす。
子どものころは知りえなかった濃密な空気が身を包み、椅子にわたしを縛りつける。なにひとつ身動きがとれず、グラスへのばした指もそのままにステージに魅入っていた。
《夜は二人の空白を曖昧にするから》
そんなことを真っ赤な唇が歌う。目の前にいるのは、七海くんじゃない。
「名字さん」
思いがけず、まなじりからあふれ頬へ伝っていた滴を戸川先生が親指で拭う。すみません、慌ててハンカチを取り出すと、彼はふと口もとを緩めて、「いいよね、この曲」とだけ口にした。
ゆらゆらと宵に惑う車のテールランプのように、しんとした雨垂れの中を彷徨って、どこからともなく重なりもつれあい、最後はひとつになり消えていく。ふっと落ちた照明に、しとやかな拍手が鳴り響く。やがて称賛の音色が止んで、ぽう、と明かりが灯る。
刹那、破砕音が響いた。
「なに」
戸川先生が瞬きをするうちにギャルソンがやってくる。
「申し訳ございません、少々機材トラブルがございまして。安全を考慮しまして、お客さまには階下のラウンジに移動していただくことになりました」
ウェイターの言葉に戸川先生は眉根を寄せたが、すぐに常の冷静な言葉遣いでそれを了承した。
「ごめん、いいところだったのに」
「戸川先生のせいではないですから」
遺憾と動揺の混じる声がそこかしこで飛び交う。さきほどまでのしんみりとした空気が台無しだ。しかし、まだその余韻から完全には抜け出せなかった。
「行こう」
ぞろぞろと客たちが移動し始める中、戸川先生はわたしに手を差し出してくる。その手をとるか迷ったが、今は緊急事態だと指先を掠めるとやわらかな手がそれを掴み引き寄せた。
七海くんとはちがう、たぶんこれはペンを持つ手だ。中指の第一関節のあたりに、硬くなった痕がある。でも指のはらも手のひらもやわらかくて、まったく知らない男のひとの手。
胸の奥が軋み、なにかが込み上げてくる。目の奥が熱い頭がジンジンする、耳鳴りがひどい。ジャズクラブを出るころには避難する人の波に呑み込まれていた。
「掴んでて」戸川先生は言う。しかし、だれかが横からぶつかり、その瞬間わたしは戸川先生の手を離してしまった。波に襲われ、やがて遠くさらわれ、混沌の海から弾き出される。
「名字さん!」
声が聞こえたが、壁に強く頭を打ちつけ、やがて視界はブラックアウトした。
