目が覚めると、そこは別世界だった。静けさが辺りを包んでいる。混沌の波も過ぎて、なにもかもがなくなったあとのようだった。シックな内装のジャズクラブが、がらんと闇に眠る。しかし、おぞましい生き物がステージの上でマイクスタンドに絡みついていた。
気を失っていたのはどれほどだろう。そんなに経ってはいないはずだが、異様な雰囲気に茫然としたままの脳を放って体が震え出した。人間のようなカタチをしているのにひとつ目がぎょろりと大きく剥き、獲物を探してぐるぐると不規則に円を描いている。体はドドメ色で、粘液がそこから滴っていた。
「あ……ぁ……」
逃げなくては、そう思うのに体が動かない。手脚に力が入らず、床に崩れ落ちたまま、戦慄に身を委ねている。
そのとき、ふたたび激しい粉砕音がした。刹那ステージにいた怪物が弾け、血のような液体が暗幕に飛び散る。
「まさか、こんなに早く出てきてくれるとは思いませんでしたね」
声がした。助けを求めようとそちらを向くと、あるはずのない姿がそこにあった。
「様子見の予定でしたが、繰り上げですね。猪野くん、君は他の呪霊を確認しながら避難し遅れた人間がいないか探してください。私は本丸を祓います」
了解、目出し帽をあごまで下ろした男性の横で、グレーのジャケットが翻る。
「な……くん……」
かろうじて声を絞り出すと、彼はこちらに気がつき動きを止めた。
「お、早速。七海さん、俺急いで下に……」
「いえ、ここは任せて。猪野くんは向こうを」
「え、なんで。ここで、七海さんの手を煩わせる必要あります? 俺行きますけど」
「いいから」
不承不承、しかし従順に言葉を聞き入れて、男性はその場を離れた。
七海くんが長い脚で瓦礫を避けながら歩み寄ってくる。その手にはぐるぐると布を巻きつけた鉈が握られていた。
「ほんとに、七海くんだ……」
安堵から顔をくしゃくしゃにしながらそれを見上げると、彼は鉈を床へ置きその場に膝をついてわたしを抱き起こしてくれた。
「すぐに電車に乗って帰るようにと連絡したはずです」
「ごめんね……携帯、充電切れちゃって…………」
そろそろ寿命、だね。場違いに笑うわたしに彼はため息をつく。
どうしてこんなところにいるのか、口にはできなかった。サングラスの奥には鋭い眼光が隠されている。かすかに滲んだ硝煙の匂いが、いつか仕事終わりに嗅いだ彼のにおいを呼び起こした。
「七海くんにね、会いたかったんだぁ。まさか、こんなところで会えるなんて思わなかった、びっくりしちゃった」
空白が苦しくて、わたしは必死に紡ぐ。笑いながら、しかし双眸から涙が溢れて止まらなかった。彼はわたしを壁によりかからせると目線をそっと合わせた。
「本当は、一生アナタを巻き込みたくなかった」
わたしの精一杯の道化にも応えず、七海くんは私の涙を硬く逞しい指先で拭っていく。精悍な顔に影が落ち、唇は引き結ばれている。これまで見たどの彼よりも研ぎ澄まされた人間の顔をしていた。
「……巻き込んでよ」
わたしは震える声で紡ぐ。
「七海くんの人生に、わたしを巻き込んで」
きっと、次に目を離したら七海くんは消えてしまう。わたしの前から、わたしの人生から。涙でぐしゃぐしゃの顔をいとわず、まっすぐに翡翠の瞳を見つめた。
「わたし、がんばるから。もっとちゃんとがんばるから」
それは、だれへの誓いだったか。隔てた薄いレンズさえも惜しい。こんなにも遠かったっけ。届かないひとだったっけ。ほんの数年前まで隣を歩いていたはずなのに……。逞しく、立派な輪郭がゆらゆらと滲む。
「だから……お願いだから、置いていかないで」
まるで、捨てられた子どもだった。必死に縋り、懇願し、届かない手を伸ばす。
大きく視界が揺れて、グレーの滑らかな生地に飛び込む。
「がんばる、必要なんてありませんよ」
七海くんはわたしを抱きしめながら言った。
「ただ、そばにいてくれれば、それだけでいいんです。頑張らないでいい」
きつく、きつく腕の中に閉じ込められる。久しぶりにかぐ彼の匂いが、わたしの凝り固まったしこりを溶かしていく。
「私から、けっして離れないでください」
額に唇が落ちて、こくりとわたしはうなずいた。冷えた体が温められる。彼の鼓動が伝わる。静けさの中で、わたしたちは空白を埋める。
「まずは安全な場所に連れていきます。優秀な後輩がついているので、少し離れても問題ないでしょう」
動けますか、小さなささやきにかぶりを振った。「わかりました」彼は言うと、わたしの体を肩に引き寄せ米俵のように肩に抱えあげる。「も、もうちょっと運びかた!」悲鳴をあげるわたしをよそに、鉈を手にすると立ち上がり器用に携帯を取り出して耳へ当てた。
「猪野くん、五分ほどお時間をいただけますか。ええ、そうです。頼みました」
それだけ告げて、胸ポケットへしまう。
「すみませんが、どうしても両手を塞ぐわけにはいかないので」
地面がはるか遠い。浮遊感にぎゅっとしがみつくと、七海くんは歩きながら口にした。
「アナタのことは私が守りますよ。必ず」
ぼろぼろと涙があふれ床にこぼれ落ちる。いくつも染みを作って、二人の進む跡を遺していく。
「すき、好きだよ、建人くん」
はじめて、その名を口にした。唇から熱がほどけて、魔法のように全身に巡る。
「わかってます。私も後ほど嫌というほど伝えますので」彼は淡白にそう告げた。「それにお渡ししたいものもありますから」
ゆっくりと、しかししっかりと歩みながら続ける。
「できるだけ早く終わらせます。待っていていただけますか」
――名前さん。
わたしの名を紡ぐ声は、ひどく優しかった。
「うん、待ってる」
いくらでも。わたしはあなたを信じて待つよ。
.
.
「あーあ、先輩と受付で話す機会も、これから先少なくなっちゃうのかぁ。戸川先生も本社勤務になっちゃったし、ほーんとさみしいなぁ」
あれから数ヶ月。職場にも変化があり、戸川先生は本社から昇進の打診を受け入れ渋谷校を去った。「好きだった、ずっと。おそらく今も」そう去り際に告げられたが、わたしは深く頭を下げて断った。しかし、彼からもらった勇気はきちんと受け取った。
「でも、まさか講師目指すなんて、先輩って意外とアグレッシブですよね」
ツンと拗ねた顔で唇を尖らせながら爪をいじっている。依田ちゃんはあいかわらずだ。昨日も合コンに参加して、お眼鏡にかなう男子がいなかったと嘆いていた。
「やっぱり、ただ黙って待っている女じゃつまらないしね。とはいえ、まだまだ渋谷校には在籍してるし、それに講師になったらここにまた戻ってくるからよろしくね」
わたしが言うと、彼女はゲェッと顔を歪めた。
「やですよぉ、私そのころには寿退社してたいんで」
「すぐ戻ってきてあげる。依田ちゃんはさみしんぼだから」
「とか言って、先輩がさみしがりなんじゃないですかぁ?」
そうかも、荷物を片しながら笑ったわたしに、彼女はぷっくり頬を膨らませる。しかしそこでレッスン生がやってきて、二人揃って営業スマイルを顔に貼りつけた。いつもの要領で他愛もない世間話を交わして、教室へ送りだす。次に、スティーブンが歌を口ずさみながら軽やかなステップでやってきた。
「名前、Congratulations!」
開口一番クラッカーのように弾けた声に肩を揺らす。ありがとう、言いながらハグを交わすと、「あ、浮気ぃ。七海さんにチクっちゃお」と依田ちゃんが茶々を入れた。
「挨拶よ、挨拶」
「どうかなぁ?」
スティーブンといくらか言葉を交わし終えたところで携帯の画面が光った。消えてしまう前にそれをとる。
《着きました》
端的な文面だったが、頬を緩めてわたしは返事を打った。
「とうとう先輩も結婚かぁ」
依田ちゃんがわたしの薬指を眺めながらぼやく。
そこには、ひと粒のダイヤモンドが光を放っていた。わたしたちの世界が混じりあったあの日から幾日、彼から手渡されたもの。シルバーリングに載った華奢なその輝きはなによりも目映い。
ふふ、笑みをこぼして自分でもそれを見つめると、彼女は「にやけてますよぉ」とすかさず突っ込みを入れてくる。
「あ、ブーケは私にくださいね、数々のアドバイスのお駄賃として」
「アドバイス? 終始、面白がってなかった?」
「えー、だって先輩カワイイんですもん」
半目で彼女を見遣ると、んべ、と舌を出してくる。やれやれ目を回すと、わたしは携帯をしまってかばんを肩にかけた。
「じゃあ、依田ちゃんまた明日」
「また明日ぁ」
ひらり手を振ったあと、あ、と彼女は思い出したように続けた。
「くれぐれも、頑張りすぎて旦那さんに愛想尽かされないよう、気をつけてくださいよ」
先輩、なんだかんだ頑張りやなんだから。
それを抱きとめて、わたしは渋谷校をあとにした。
ビルを下りると、路肩に一台のスポーツカーが停まっていた。薄暮の空に美しく艶めいている。
「建人くん、ありがとう」
「いえ」
わたしを認めるやいなや、彼は運転席から下りて律儀にも助手席にエスコートしてくれた。
「せっかくの休みなんだから家でゆっくりしていても構わないのに」
「せっかくの休みだから、ですよ。アナタと少しでも長く一緒にいたいと思ったまでです」
あいかわらず、わたしたちの世界はそれぞれ続いている。今日が終われば、彼はまた命の危険と隣り合わせの仕事に向かうのだ。それが完全に交わることは、もしかするとないかもしれない。それでも、その境界線の狭間で、わたしたちは手をとりあって生きていく。
「建人くんさぁ」
「なんです」
「ほんっとうに、いい男だね」
口もとをもぞつかせて言うと、彼はフロントミラー越しにふっと口元を緩めた。
「そういう名前さんも、この世で一番いい女ですよ」
頑張りやなところも、他人想いなところも、さみしがりやでいじっぱりで、強がりなところも。建人くんは続ける。
「すべてが愛おしいと思います」
万物が等しく変わりゆく世の中で、変わらずにそこにあってほしいものがある。現実には変化を受け入れないことなど不可能で、それこそ一秒ごとになにもかもが移り変わる世界をわたしたちは享受していかなくてはならない。
それでも、否、だからこそ、変わらずに隣に立てるように、過去へ過去へと押し戻す力に抗いながら、これからもずっと、前を見据えて進んでいくのだ。
彼と、ともに。
