なぜ。そうだ、なぜという気持ちが大きかった。自分はこんなにも彼女のことを想っているのに、彼女はちっともそこには入れてくれない。
トクサネの家で出会ってから、もうふた月は経つというのに、一向に交わらない平行線のまま時は過ぎていった。二人のあいだに流れる独特な空気の心地よさを知りながら、しかし気を遣わないかといえば、うそになる。彼女に不快を与えないよう持ちうるかぎりの丁寧と親切とで接してきたこの月日は、ふり返れば気苦労のほうが多かったのかもしれない。「疲れないか」と訊かれれば、大丈夫だと答えるが、「大丈夫か」と訊ねられれば、大丈夫ではないと口にしてしまいそうになる。決して、認めたくはないけれど、見返りを求めてしまう自分がいる。
ただそばにいてくれればいい、そんな綺麗な言葉を並べられたらいいのに。彼女を知るのは自分だけだから、それでいい、と思えたらいいのに。生々しい欲求は、どうにも抑えられそうにない。だって、こんなにも彼女がほしい。
――ああそうだ、ボクは彼女がほしい。
ある宗教でいう無償の愛なんてものとはほど遠い。愛であるのかさえ、わからない。ただ、この衝動はたしかだった。
昼頃になって、ダイゴはコーヒーを買いに出るとロフトにいるヨウコに声をかけた。返事はないかわりに、ロコンがまたもや顔を出した。仕方がないから、「キミも行くかい」と声をかければ、彼は梯子の一段目を降りた。なんとも危なっかしく、ダイゴはすばやく小さな体に手を伸ばした。
雨はまだ降り続いていて、家々を繋ぐ吊り橋がしっとりと雨滴に晒され艶めいていた。さあさあと糸のような細雨が空から連なり、それはまるで薄いシルクのように辺りを覆う。大地が濡れたことにより、いっそう青い香りが辺りに充満し、子どものころの記憶を蘇らせる。たとえば父に連れられて初めてキャンプをしたこと。遠くシンオウやイッシュに向かったときのこと。自然に包まれたこの感覚を酷く懐かしむ自分がいる。彼女はこのにおいを嗅いでなにを感じるのだろう。
ツリーハウスカフェで挽いたコーヒーと、それからちょうど焼きたての食パンと卵とを頼み、ダイゴはまっすぐ彼らの過ごす家に戻ろうとした。しかしロコンが肩からとびおりたので、それを追いかけることになった。
「下へおりたいのかい」
高い高い地上から下を見下ろす彼に、ダイゴは今一度小さな体を抱き上げてツリーハウスから下りた。夜更けから降り出した雨のせいで地面はぬかるみ、これは歩かせられないなと考えてその子を抱いたまましばらく歩いた。
ここへ来てすぐのこと、彼女はそぼ降る雨を眺めてカメラを構えていた。茫然と、あるいは陶然と。今でもその横顔を鮮明に思い出すことができた。
「彼女はなにを見ているのだろうね」
無償に、現像した写真を見たくてたまらなくなった。彼女の視線の先を追うことがあっても、真にその網膜へ映し出しているものを確かめたことはない。……知りたかった。
たまらなくただ立ち尽くすことすら苦しくなり、ダイゴは傘を下ろして天を見上げた。そぼ降る雨が降りそそぐ。それは、恵みの雨かもしれない。否、そうだろう。雨がホウエンという大地を営み、豊かな土地にしてくれた。
額や頬に当たる滴が、心地よい。すべて流してくれたらどれだけいいか。ダイゴはそんなことを思いながら、しばらく灰色の、はてなき空を仰いでいた。
ツリーハウスに戻ると、彼は手に入れたコーヒーをドリップし、食パンをフライパンで軽く炙った。以前だったらそんなことをせずに、すでに作られたサンドイッチやクロックムッシュなどの惣菜パンで済ませていたことだろう。じっくりとなにかに時間をかけるのは得意だが、おおよそそれはポケモンバトルや育成、採掘など、自分の興味関心の矛先が向かうものに対してだけだった。時間に限りはある。それを有効に使うには、なにかを切り詰めなくてはならない。そのなにかは大抵自分自身であった。着るもの、口にするもの、暮らす場所。決して、質を落とすわけではないが、ただ、利便性を求めて、無駄をなくすことに努めた。できる限り持つものは減らし、それを保つにも最小限の徒労で済むようにし、自分の手でやらなくて済むものは喜んで他へ回した。その結果得られたものは多くあった。時間はもちろんのこと、人生における、時にわずらわしいとさえ言える複雑さから解放された。そんな自分の生活が、楽だった。愛していたとまでは言わないが、それが普通だった。それだというのに。
じっくりと、バターを落として両面を焼いたトーストに、卵をひとつふたつと添えて。大したことはしない。ただ、サニーサイドアップの目玉焼きを作っただけ。それまでさして気にしたことはなかったが、彼女はそれが好きで、初めにパンの耳をちぎり、黄身を割ってそこへつけて食べるのだ。耳がなくなればパンへ残りの目玉焼きを載せて、しょうゆを一滴、二滴と垂らしてかぶりつく。かぶりつくだなんて言ったら、やや語弊があるかもしれない。懸命に、唇を大きく開いてそれを頬張る。はしたなさとは無縁の、子どものような無邪気な仕草。それでいて、どこか艶がある。
「キミの主人を呼んできてくれるかな」
すべての準備が整うほんの少し前、ソファの上で毛繕いをしていたロコンへ声をかけた。顔を上げた彼を抱き上げ、梯子の上へ乗せる。ややあって、彼女がおりてきた。
夜着からブラウスとアンクルパンツと、カーディガンに着替えて。その姿に安堵をしながら、「コーヒー、飲むかい」ダイゴは訊ねた。
「はい」と答えた声は掠れていて、喉から懸命に絞り出したのだろう。彼女は顔を洗うと言って洗面所へ向かった。
「目玉焼き、サニーサイドアップでよかったよね」
「はい」と彼女はこたえる。
「……すみません、なにからなにまで」
「いいんだ。朝はコーヒー豆を買いに行かなくてはならなかったし、そのついでにパンと卵が手に入った」
阿る口調もなく、淡々と事実を連ねダイゴはカフェ・オ・レを作った。ドリップコーヒーに温めたミルクと砂糖を。彼女が好きな分量で、すでに空で憶えてしまっていた。
シンクへやってきた彼女が頭を下げてそれを受けとる。バターナイフと、ナイフとフォークと、それからお皿を手に、彼女はテーブルへ向かう。
いつもの景色、いつもの音、いつもの匂い。変わるものはただひとつ、彼女の酷く隈のある顔。なにかに怯えるように唇は白く、目もとはやや腫れている。
「今日は一日雨が降りそうだ」
ジャムの瓶と、バターナイフを差し出しながらダイゴは言う。
「今の時期は、仕方がないですね」
「そうだね。明日には晴れるところもあるみたいだけど、ヒワマキの天気はどうだろうな」
他愛もない会話をかわす。核心にはふれず、その周りを大きく迂回して。いつか辿り着くのか、それとも永遠に辿り着けないのか。
「雨が止んだら、次の場所に移ろうと思うんだ」
「次、ですか」
「そう、今度もとっておきの場所さ。キミが気にいるといいのだけれど」
ジャムを塗ってその耳をちぎりながら、彼女がやや視線を上げた。かすかに混じり合ってすぐに切り離された。応えてくれるだけ、いいのかもしれない。……彼女は大人だ。厄介な、大人。彼らが齢を経るごとに身につけていく、頑固さと強さと、そして弱さとを実際に兼ね備えた女性。
そうですね、と相づちを打つ唇はたしかに迷いを孕んでいた。黄身を慎重に破り、どろりと中から溢れてくる。そこへパンの耳を浸して、彼女は口へ運ぶ。いつもどおりだというのに、目の前の壁は厚く、向こう側に温度はない。隣へやってきたロコンを、彼女は優しく撫でた。彼が寄り添うから、ダイゴは胸元に迫り上げた衝動を苦いコーヒーで押し戻した。
午後になると、ヨウコはそのほとんどをテラスで過ごした。雨を眺めながら、そしてロコンと寄り添いながら。その手にカメラはなく、ただマロン色の小さな背をずっと撫でていた。夜、彼女はロコンと共に眠りについた。何度も何度も、あえかな悲鳴と嗚咽を堪える声を上げながら。
明け方、昨日のように顔を出したロコンへポケフーズをやった。もう、ミルクに浸す必要はないようだったから、そのまま乾いたものを皿へ盛った。それから、外へ出たがる彼を連れて朝靄の立ち上るヒワマキの町を歩いた。まだ雨は降り続き、世界が深く濡れていた。
やがて町の端までやってくると、ダイゴはそこでロコンをおろした。
「好きなところへ行くといいよ。……大丈夫」
首を傾げて見上げるその二つの瞳を見つめながら、ダイゴはやわらかな頭の飾り毛を撫でた。白いひとつ尾が、かすかに毛先が色づきはじめたやわらかな尾が、雨の中に揺れる。
「さあ、お行き」
あごを撫でて、鼻先をなぞって、ダイゴはしずかに告げた。色のない声であった。あるとしたら、空虚の果ての鈍色の空だった。ロコンは彼の指先をクンと鼻でかいだあと、雨の届かぬ深い木々の重なりのもとへ駆け出していった。
