6-1

 すべてを受け止める覚悟を固めながら、あの濡れた瞳の理由わけを探している。
 穏やかに過ぎる日々の中、ひだまりでビードロを鳴らす彼女のそばにはいつもロコンがいた。ペコ、ポコという音に合わせ、ぴょん、ぴょん、と一本の白い尾を揺らしながら跳びはねる。ときおり、そこにココドラが混じっては手足をあげて愛らしいダンスをする。そのたび、彼女はやわく花のかんばせをほころばせる。
 それを眺めているのが、幸福だった。それでいて、自分の裡に渦巻いていく昏いなにかを、ダイゴは感じとらずにはいられなかった。
 はじめて知ったものではない。むしろもっと最初から、彼女に出会ったときからそれは存在していた。感情などというには、烈しすぎる。彼女に向けられる、彼女に対してだけの、彼女と自分とを結びつけるとてつもない衝動。
 星空を眺めて、ひと知れず頬を濡らした意味を、今なおダイゴは探し続けている。そしてこの瞬間、彼女が抱えた苦しみを、彼は求めている。
 ロフトから落ちてくる小さなすすり泣きと、それからときどきの悲鳴と、それらをただ受けとめる夜が過ぎた。
 カナズミシティへ向かったのは、最悪な結果を招いたかもしれない。ダイゴはあのときの判断が間違いだったかと何度も親指を噛みそうになる。しかし、すぐに理知的なおのれが「あれは防ぎようのない事故だった」と言い訳を募らせた。――そうだ、事故だ。だが、本当に、防ぎようがなかったか?
 はめ殺しの窓からそそぐ光が家具たちに輪郭を与えている。だれの心を映したのか、夜更けから降り出した雨が今なおサアサアと屋根やガラス窓を打ちつけてしずかにシンフォニーを奏でているが、変わらぬ世界が今日もここにある。
 穏やかすぎる、朝。いつもの目映い朝陽ではなく、何重にも白いガーゼで太陽を包み込んだようなあえかな光。夜明けというには弱々しく、覗きこんだ窓の向こうにはいまだうっそりとした空とヒワマキの景色が広がっている。
 結局、眠れぬ夜を過ごして、すっきりと冴えない頭を抱えたままダイゴは湯を沸かし始めた。電気ポットではなく、水の張ったホーローのケトルを火にかけて。キッチンにたたずむことにも、すっかり慣れた男の姿だった。トクサネの、殺風景な風景の中に立つ彼とはまるきりちがう。
 コーヒーを淹れるためのフィルターやメーカー、あるいはミル、そのほかにも料理をするためのフライパンや小鍋、ターナーなど、あらゆるものが揃っていて、彼はそれらを自由に手にとることができる。
 一日、二日を過ごすためのホテルではなく、この木の上のツリーハウスを選んだのは、なぜだったか。ただ、彼女にうつくしいものを見せてあげたいという無償の気持ちだったはずなのに、それは確実に変わりつつあった。
 シンクの横に置かれたグラススタンドには、マグカップがふたつ並んでいる。備え付けのグラスではなく、ここへきてすぐに雑貨屋で買ったものだ。彼と彼女という存在を示す、ふたつの色。それを見るたびやわらぐ気持ちもあれば、無性に胸を掻きむしりたくもなる。
 彼と彼女、自分とヨウコ。単なる同居人。言葉であらわすなら、たったそれだけ。
 湯が沸く音がして、ダイゴは瓶詰めのコーヒー豆をフィルターへすくう。ツリーハウスカフェで買った、いくつかの豆を挽いたブレンドだ。苦味と酸味のバランスがよく、気がつけばこれがないとダメな体になっていたのだから、自嘲したくもなる。
 瓶の中身はもう三分の一もなくて、また買いに行かなければと漠然とおもいながら丁寧に湯をそそぐ。すぐに香ばしい香気が立って、目が冴えてくるような気がした。それでも、気持ちは重たいままであった。
 あれは事故だった――ダイゴは心の中で反芻する。けれどやはり、彼女を一人にしたのはよくなかったとも考える。……なぜ? もう子どもじゃないし、息抜きをすることも大事だと思っていた。それでもあの彼女を見たら、もう二度とどこにも出してやりたくなくなってしまうのだ。
 自分がもっと早くに辿り着いていたら、そばを離れなかったら、もっと彼女を理解していたら。そんなことばかりが浮かぶ。もしも自分が彼女をこの腕に閉じ込めていたのならば、あんな顔をせずに済んだのか。今なお心の扉を閉ざし、ダイゴをも締め出して一人で泣くこともなかったのか。
 ――あの男は、いったい彼女のなんなのか。
 蒸らしを待つあいだも、ダイゴはシンクの前に立って見るともなしにどこかを眺めていた。調味料の入ったボトルだったり、壁にかかった調理器具だったり、あるいは、瓶のふちに宿る光やシンクに落ちた影。しばらくして、はたと視点を外に転じれば、雨が降っていることをその目で再び認識する。雨に濡れて葉を重々しく垂らす樹々と、分厚い雲に覆われた灰色の空と。恵みの雨とはよく言うが、ここぞとばかりにどこまでも心を覆ってしまいそうで、人知れずため息がこぼれた。
 やがて、きゅう、と声がしてダイゴはふりかえった。ロフトの上から、顔を出していたのは、ロコンだった。
 主人よりも早く目覚めたのだろう。下りたいのか、カリカリとハシゴの端を手でかいていた。
「やあ、どうしたんだい」
 足音を盗み、それでも急いで向かったダイゴに、ロコンは爪でハシゴをかくのをやめた。彼の問いを理解しているのかいないのか、なにを要求するわけでもなく下にある彼の顔を見つめている。
「落ちたらあぶない、おりようか」
 その黒々とした目はまるで人形のようで。あまりに華奢で愛らしいそれに背すじが逆撫でされる心地になった。背すじだけではなかったかもしれない。心臓の裏側が浮き上がるような、そして耳のそばがすっと冷えるような。
 依然なにも示さず、ただこてんと首をかしげるロコンを見かねて、ダイゴは何段かハシゴをのぼりそっと抱き上げる。
 下りてからはミルクを沸かした。片手でできるからロコンを抱いたまま、それを小皿に盛ったポケフーズにかけてやわらかくする。「どうぞ」と皿を床へ置くと、彼は一度ふしぎそうにダイゴを見上げたがやがてしずかに食べ始めた。
「彼女はなにかを言っていたかい」
 そんなことを聞いたとて、返ってくるはずもないのに。ダイゴは自分で訊ねてすぐに自嘲する。
 もちろん、返事はなかった。いまだ白き尾が揺れ、遠い雨のしじまに、小さなポケモンの咀嚼音が控えめに響くだけだった。
 ポケフーズを食べ終わったあとは、昼寝タイムか。ロコンはソファの上に乗って体を丸めた。しかしすぐに心許ない顔つきでダイゴを見つめてきた。
 ――だから、だろうか。ダイゴは頭を抱えてある考えを打ち消そうと努めた。そしてそれは今のところ、どうにか薄れてくれた。
「ロフトへ乗せてあげる。……ボクはなにもできないからね」
 朝はまだ早い。日常が動き出すまではしばらくある。自分のコーヒーが冷めるのも厭わず彼を抱き上げると、ダイゴはヨウコの眠るロフトの下まで彼を連れて行ってやった。梯子を数段のぼり、ロコンを上へ乗せてやると、ベッドで丸まるヨウコの姿を見つけた。
 白いシーツに、大きく波打たせながら、小さく縮こまっている、まるで、赤子のように。
 微動だにしないあたり、どうやら、眠ってはいるらしい。距離があるためそのすべてを確かめることはかなわないが、今だけはそっとしておこうとダイゴはただそれを眺めていた。
 ロコンがとてとてと歩いていく。荷物を伝って、ベッドの上に飛び乗り、さも当然とばかりに彼女の頬に擦り寄りその腕の中へもぐりこむ。彼女がみじろいだ。桜色のくちびるがかすかに形づくる。
「そばにいて……」
 そのあえかな声に、湧きあがったのは、荒々しく重苦しい衝動だった。