5-2

 カナズミシティは、ホウエンの西部に位置する産業の要となる港街だ。同じく港であるカイナともミナモとも異なり、まさしく中枢と言わんばかりに往来には人や車が絶えず行き交っている。民家よりもオフィスビルや商業施設が目につき、都会の風が吹き抜ける。潮のにおいはなく、道路脇の街路樹やカフェのエスプレッソのにおい、あるいは香水、ときおり排気ガス。猥雑とは言い切れないけれど、どこか背すじを伸ばせさせられるような、そんな都市のにおい。
 繁華街を過ぎた先にはオフィス街があり、どの建物も瀟洒でクラシカルな印象。喩えるならば、横浜のみなとみらいみたいな感じだろうか。その中でも特に、デボンコーポレーション本社は見上げるのも一苦労なほどの立派な建物だった。鉄筋コンクリートだろうか――こんなことを考えるのも野暮だけれど――堅牢な石造りの外壁に、ガラス張りの見事なエントランス、ややアール・デコ風でいわゆるモダンな外観。
 そこが、どうやら彼のお父さまが経営する会社らしい。チャンピオンの次は、御曹司。飛び出てくる変化球には、だいぶ動じないようになってきたと思っていたけれど、これにはさすがに驚いた。それと同時に、妙に納得している自分がいた。
 彼の洗練された佇まいや、ときおり横暴にも感じるような無垢な言動は育ちからくるもので、自分の中に正しさを抱いている、石のような頑固さとそれをいやに押し出さないソツなさも、それゆえなのだろう。
 育ちがいい、を体言してるひと。与えることにも与えられることにも、慣れているひと。差し出すものが、たくさんあるひと。
「ロビーか、ラウンジで待っていてもいいけれど」
 言いかけたのちに、彼はすぐに表情を緩めて、「写真館への地図を渡しておくよ」と秘書らしい職員からタウンマップを受け取って差し出してくれた。
 東京二十三区のどこかにあるようなオフィスのエントランスは、あのつややかなスーツを纏う彼にまさしくピッタリだった。ガラス張りの壁面からそそぐ光にシルバーの髪が透けるのをまわりの女のひとたちがうっとりと眺めているのを、彼はまったく気にせずいつもの調子で続けた。
「そう長くはかからないと思うけれど、念のため、ボクの携帯を渡しておくよ。なにかあったら会社にかけてきてほしい。終わったら、タブレットから連絡する」
 はい、と、彼は胸ポケットから出した携帯を渡してくる。お父さまに呼ばれて、たしか、なんとかストーンの研究の話をしないとならないと言っていた。
 彼の熱を孕んだそれをタウンマップとともに受け取って私はかばんに入れると、「私のことはお気になさらず、どうぞごゆっくりお仕事を進めてください」と頭を下げて彼を見送った。
 つい、忘れかけていた会社員の姿を取り戻して、あっと思ったが、彼が面食らった表情をするうちに、別の社員らしき男性がやってきて彼は連れていかれた。

「どうしよっか」
 視線の刺さるロビーを出て、私は足もとを飛びまわるロコンに話しかける。
 外は快晴、ヒワマキの不安定な天気がうそのように、行楽日和のすがすがしさだった。暦の上では、もはや夏。――もっとも、これは、元の世界の感覚だけれど。とにかく、じっとしているのがもったいなく感じるほどの青空が広がっていた。
 どうしよう、と言いつつ、先に用事を済ませてしまわねばと先ほど預かったタウンマップを開く。丁寧にも、サインペンで丸のつけられた場所が写真館だった。
 カナズミシティは南北へ向けて直線上に続いていて、北にはカナズミジム、南にはポケモンセンターやフレンドリィショップがあり、それらをつなぐ大通りに面して繁華街が広がる。写真館はその繁華街からトレーナーズスクールへ向かう途中にあるようだ。
 幸い、ここからはさほど離れてはいない。カナズミの中でも頭がひとつもふたつも飛び抜けたビルを目印にすれば、どこへ行くにもわかりやすい。本当に、摩天楼が空に突き抜けるみたいだ。
 地面は西洋の街並みのように石だたみが広がっており、あちこちで革靴がそれをリズムよく鳴らすのが聴こえる。
「街灯もおしゃれね」
 ひと昔前のガス灯をモチーフにしたデザインは、なんともロマンにあふれていていて、絵画の街を歩いている心地になる。ヒワマキとはかけ離れた街並み、本当に同じホウエンなのかとふしぎになるほど。まさしく、文明の中を歩いている感じ。
 ロコンもロコンで、土や木ではない石だたみの感覚が気になるようで、歩いては足の裏を舐め、ときおり足の置き場に迷う仕草さえ見られた。でも、やがて慣れるとスキップのように飛びまわっていた。
「あぶないよ」とは言うが、なんとなく、その気持ちがわかる気がする。ささやかに海の香りが鼻腔をくすぐって、どこか懐かしい気持ちにもなる。ほんとうに、ふしぎ。
「現像に出したら、すこし散策してみようね」
 ロコンは白い尾を揺らしたあと、小首をこてんとかしげて私を見上げていた。

 写真館へ向かったあと、その言葉のとおり観光をしてみることにした。出来あがるのは数時間後だというのでちょうどいい。それくらいの時間に戻ってこれるようにと心に決めてまずはポケモンセンターへ足を進める。その足どりは思いのほか軽く、どこまでも行けるような気がしてしまう。ファインダーを通してその光景は見ていたものの、どのように撮れているかわからないから、楽しみだった。
 ポケモンセンターについたあとはジョーイさんにロコンをあずけた。デボンコーポレーションから写真館まではしばらくあったし、それからさらに歩いたから疲れを癒やすためだ。
 待っているあいだ、センター内のソファベンチに腰かけておいしいみずを飲む。そこかしこでいろいろな場所から来たのであろう少年少女や大人たちがポケモンとともにのどかな時間を過ごしており、まさにここは憩いの場だった。
 ロコンのように腕に抱かれている子もいれば、肩や頭に乗っている子もいる。黄色いねずみみたいな子が見えたときには、ほんもののピカチュウだと、どこか子どもみたいな気持ちにもなった。
 みんな、どこから来ているかはわからない。カイナかもしれないし、トクサネかもしれない、あるいはルネやヒワマキ……。もっと遠く、「カントー」や「ジョウト」はたまた「イッシュ」や「カロス」の可能性もある。トレーナーズカードを持ち、旅に出る旅人たち。
「トオノさん、お待たせしました」
 物思いに耽っていると、ジョーイさんから呼ばれる声がして私は立ち上がった。
 ロコンを迎えたあとは再び街に出て散策を続けた。見たことのあるような風景、よく知っていそうな顔のひとびと、話す言葉も空気も、同じ世界。往来にあった花屋やカフェを通りすぎながら、どこまででもいけるのではないかとふとおもう。
 トレーナーズカードがあれば、どんな場所でも、暮らしていける。どこにでも、行っていいのだ。好きに生きていいのだ。
 この船ならば、遥か先まで向かうことができる。ふしぎにも、そして、皮肉にも。
 知らない街、知らない人々、知らない世界。知っているような街、知っているような人々、知っているような世界。この先になにが広がっているのか、私は確かめることができる。
 空に聳えるビル群を遠目に眺めて、太陽のまぶしさに手ひさしを作る。その下で、カナズミの街を見つめようと前を向く。
 私は、どこまで行けるのか。
 だが、そこによく知る影が横切り、一瞬のうちに世界は暗転する。

 ――重いんだよね

 履き慣れたパンプスで歩く。ヒールが引っ掛かってカツンと音を鳴らしながら、アスファルトの暗い夜道を。滔々と広がる闇の中を。どこまで歩いたのかもわからず、どこまで行くのかもわからず。ただ、ひとつの光を求めて。出口は? 終わりは? 歩く、転んでも、歩く……。進んで、進んで、その先にあるのは、海…………。
 遠く見える船に乗りたくて、私も乗せてと身を乗り出す。
 そのとき、一陣の風が吹いた。……本当に風だったか? 私は堤防から、真っ逆さまに――否、橋から、真っ逆さまに、落ちた。
「えっと、オネーさん、だいじょうぶ?」
 この世界に、彼がいるはずなんてない。けれど、汗が止まらない。撫でつけたような黒髪に、女の人が好きそうなタレ目と甘い顔立ち。なで肩で、少し猫背で、華奢で、庇護欲をそそる。
 目の前がにじみ、空気が薄くなる。くうん、とロコンが鳴く声が聴こえる。ごめん、ごめんね。ゆっくりと後退する、その脚にちいさな塊がふれる。全身が、指先が、凍えそうになるくらい、冷たい。

 たすけて。

 ――たすけて、

「キミ、なにをしているんだい」
 聞き覚えのある声が、落ちてきた。それでもハッと荒む呼吸がつづく。目前に迫る影が離れて、指先に熱が宿る。
「おれは別に、この人が具合悪そうだったんで」
「……そうか、すまないね」
 溺れてしまいそうだ。もしかしたら、すでに私は溺れていたのかもしれない。あの夜に、闇のただ中を進んだあの日に。船に乗りたくて、海に落ちた。
 私の人生は――。
「ヨウコ、ひとりにしてごめん。近くに宿をとって、今日はそこで休もう」
 ただひたすら、かぶりを振った。それしか、できなかった。
「だいじょうぶですから、ヒワマキにかえりましょう」

 

 ――夢を見た、あのころの夢だ。
 光がたっぷりとそそぐ、オープンキッチン。花香りのするバルコニー。いつもあたたかな音がする、リビング。ぬくもりに包まれた寝室。
 しあわせだったあの日。
 未来を信じてやまなかった、あの日。
「遥子のことがいちばん」
 わたしも。
「あーあ、ずっと一緒にいられたらなあ」
 ……わたしも。
「病めるときも、健やかなるときも――なあんて。幸せだな、おれ」
 わたしも、しあわせだった。
 薬指に宿る、ガラクタの環。それが、なによりのたからものだった。どんな立派な指環よりも、いちばんに輝いて見える。わたしたちの、愛だとおもっていた。
 ――重いんだよね
 けれどそんなもの、結局、偽物でしかないのだ。

 ――くるしい。
 ごぽり、くちびるからこぼれていく。

 ――くるしい、くるしい、くるしい。

 ――だれか、たすけて。