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 この世には怖いものなどなにもない、そんなふうに閉じられたまぶたをこの目で見たかったのかもしれない。ダイゴはランプに照らされたやわらかな頬を眺めながら思う。
 風すらも寝静まる夜半、しばらく滞在している馴染みのツリーハウスも今日ばかりは特別なひみつきちになったようだった。用意していたアウトドア用の寝袋二つ、ランプひとつという色気のないチョイスだが、キャンプをしようという半ば強引な申し出をまさか受け入れてくれるとは思ってもみず、否、実のところ、完全に彼が押し切った形で――そうなるように先手を打っていったのだが、それでもこうして二人で並んで夜を共にする日がくるとは、なんとも不思議な心地であった。
 出会ってから今日まで、丁寧すぎるほどに互いの空間に線引きをしてきた。それは、「慎重に」とも、「注意深く」とも言うかもしれない。やわらかなリネンのカーテンのように思えて、いつもそこには緊張感があり、透明な目に見えない壁越しに過ごしてきた、そんな日々。最初は背中合わせで、途中から、ダイゴはふり返り、彼女を見つめて。背中や横顔ばかりを追いかけていた。知らず識らずのうちに。だからこそ、彼女の世界に入り込むことは大変な覚悟の上でのことだった。
 だが、実際には、もはや止められない衝動をどうにか丸く抑え込んで、理性的になったつもりで動いた結果でもあった。
 ヨウコという人間の、不安定な横顔をあれほどまでに見たのははじめてのことで、たしかに所在なさそうな表情を浮かべることはあっても、指先が震え、唇を色がなくなるまで噛み締め、一点をただ見つめることしかかなわない、そんな弱々しい彼女の姿を見るのは、いけないとはわかりつつ麻薬のようだと思った。傷ついたロコンを苦しげに待ち侘びる様子に、心に芽生えたのは、罪悪感と悔恨と、しかし、一種の昂揚と期待と……。彼女に触れたくなってしまうのは、彼女に手を伸ばしてしまいたくなるのは、さほど難しいことではなかった。
 安らかというよりかは、どこか寂しげに光を集めるまつ毛に、ダイゴは自嘲する。
「ボクは、なにがしたいんだろうな」
 本当に、自分がどこへ向かおうとしているのか、自分自身もわかっていない。
 下りたまぶたを目で撫でて、どうしようもなく疼く喉を堪えるように唾を飲み込んで、ダイゴは投げ出された彼女の腕に手を伸ばす。
「ヨウコ……」
 触れた箇所が熱を帯びる。火傷しそうなほどに、全身に血潮が駆け巡る。起こさないように慎重に指先を絡めて、驚くほどにすっぽりとおさまるその感触にダイゴは思わず吐息を震わせた。
 なぜだか彼女を前にすると、いてもたってもいられなくなって、どうしてもこの手を引き止めたくて仕方がなくなる。理性という理性が崩れ去って、ボクはボクでいられなくなる。
 自分は、トオノヨウコという人間を、知りたい。
 ――彼女を知っているのは、自分だけなのだから。
 それは、揺るぎない事実。そして、願望。
 絡めた指先を宵闇の中で深めて、ダイゴはランプの明かりを落とすと、ゆっくりと目を閉じた。

 翌朝、ダイゴが目を覚ますと、すでにまっさらな陽射しが射し込んで、光が部屋を満たしていた。光だけではない、滔々と身を委ねたくなるような、香ばしい匂いも。いつもよりじっくりと朝を迎えた
 寝惚けまなこのまま上体を起こして、ダイニングテーブルでロコンとふれあうヨウコの姿を見たとき、ダイゴはしばらくそれに見入ってしまった。
 背に光を抱えながら、聖母のごとく微笑んでいる。まぶしい、その言葉がよく似合う。こんなふうに朝を迎えたのは、いつぶりか。喉が疼き、胸の奥がソワソワしてダイゴは彼女たちに気づかれないヨウコっそり頭を抱えたほどだ。
 つい額に当てた手のひらに、彼女のぬくもりを思い出して、さらにため息をひとつ。天をあおぐしかなかった。ミクリが夜から今朝までの挙動を見ていたとしたら、相当呆れたにちがいない。
 眠りについて、すべて心の裡に寝かせるつもりだったというのに。なにひとつうまく立ち行かぬことにひとりでに苦く笑っていると、おはようございます、と鈴の音色が落ちてきた。
「……ああ、おはよう」
 観念して、手をおろして。彼女の微笑みを認めるとしよう。トタトタとやってきたロコンがダイゴの指先を甘噛みする。こら、と彼女がたしなめるが、ダイゴはふとやさしくわらった。
「はやくこっちにこいってことだね」
 返事をするようにロコンはひとつ尾を揺らす。ヨウコは眉をさげ、しかし目を細めて立ち上がり、食器棚から片割れのマグカップをとりだした。
「上手に淹れられたかは、わからないんですけど」と彼女は枕詞をつけて、ドリップしたコーヒーをそそぐ。その背を眺めていると、ロコンが指先をちろちろと舐めて自己主張をした。もういい加減起きてくれということだろう。わかったよ、と言って、ダイゴは陶酔のふちから抜け出した。
 非日常から、また日常に戻っていく。トクサネを出てもうすぐ二週間、こと雨の多いヒワマキだが、ホウエン全体が今、夏へ向けての準備として緑生い茂る大地に恵みの雨をそそいでいる。相変わらずリーグからは定期連絡が届くが、そのどれもが他愛のないものであり、チャンピオンの不在によって揺らぐことのない凝固な組織体制を感じさせる。実にありがたい、しかし、逆に言えば、チャンピオンなどというものが、王座に君臨しておきながら、ただの偶像アイコンとしての存在にすぎないとも言える。
 これまで東奔西走してきたからこその今があるとはいえ、時折やけに自嘲したくなる。そんなときはダイゴはタブレット端末を手にしながら、考えているふりをして、塞ぐような重い気持ちに身を委ね、一点を眺める。
 それはさておき、甘い潮風が恋しくなるころ、しかし新たに加わった旅の仲間とともに雨の晴れ間のヒワマキを散策した。ヨウコは白いコットンのワンピースを、ダイゴもまたいつものように白いシャツとベージュのパンツだ、新しい世界にあちこちと大きな目を回すロコンを連れてツリーハウスを渡り、大地に降り立っては生い茂る新緑の中を歩いて回った。
 途中、ポケモンセンターへ向かいロコンの健診をしてもらい、すっかりよくなったことを確認して、次はフレンドリィショップへ。ここではキズぐすりやまひなおしなどのアイテムを、モンスターボールを買おうかと進言してみたが、困ったように首を横に振られてしまった。
「もしかしたら、この子は別の場所に行きたがるかもしれませんから」
 そんなことを言っていたが、実のところ、本心は別にあるとなんとなく気づいていた。だが、ダイゴは笑って、わかったと了承すると、そのほかにポケフーズやきのみなどを買ってフレンドリィショップをあとにした。
 それからは気の向くままにヒワマキじゅうをまわり、ランチをツリーハウスカフェでとってから、彼らは120ばんどうろへ向かった。

 ここ120ばんどうろは、ミナモシティとヒワマキをつなぐどうろのひとつだ。ホウエンでもとくに緑が濃い地域といっても過言ではなく、雨の降りやすいヒワマキ地帯だが、こと120ばんどうろでは高確率でスコールに遭う。それゆえか晴れていても青い草と土のかおりが辺りに充満し、さらには池から立ち昇る甘い水のにおいにすがすがしい心地になる。
 ヒワマキシティジムを突破し、ミナモシティへ向かうまでのあいだ、ひたすら水たまりを駆け抜けたり、サファリゾーンへ向かったりして長い時間を過ごしたものだ。先を急がねばならないと思いつつ、120ばんどうろへくると、たちまち時間の概念すらを忘れそうになる。ホウエンらしい場所のひとつであり、ダイゴにとってはまた113ばんどうろと並ぶほど特別な場所のひとつである。
 草むらを過ぎて、道なりに進めば、日照りの岩戸が見えてくる。かかっている吊り橋はダイゴの子ども時代から変わっていないのか、一人人が乗るたびにキイキイと軋んでは揺れ、なかなかにスリル満点だ。ダイゴを先導に、うしろではヨウコが恐る恐るといった感じに手すりを掴んで一つずつ丸太を渡っていた。
「大丈夫かい」
 ふり返ると、揺らさないでとばかりに必死な顔を向けられる。そう、あまりに必死だから笑ってしまうが、それすらも咎めるように怪訝な顔を向けられてダイゴはなおのこと笑みを深めそうになって、できるだけ辛抱した。片腕に抱かれたロコンを預かって、ゆっくりでいいよと投げかける。声すら出せないのか、こくんと彼女はうなずいた。
 ツリーハウスで散々慣れていたというのに、とは思うが、下が地面であるのと水であるのとでは意識の向け方が違うのかもしれない。カナズミやミナモで暮らしていれば、電車や飛行機もあるし、こうした自然豊かな体験をするのは難しいが、トレーナーとしてホウエンを常々渡り歩くダイゴにとっては、もはや吊り橋など慣れたもの。詳しくは聞いていないが、彼女は都会暮らしが長かったのだろうと彼は確信している。無駄な確信ではあるが。
 それはさておき、吊り橋だ。池の上を数十メートルつなぐ短い橋とはいえ、水面からはやや高さがある。橋げたをひとつ渡るたびに全体が揺れて、キイキイと軋んでは進む足を阻む。悲鳴は上げないが、ごくりと息をのむ音がして、後ろから見守ってあげればよかったかとふと思う。いっそのこと目を瞑って手をひいたほうがはやいだろう。――とは思うが、急ぐ旅でもない、じっくりと足を進める。
 一歩、二歩、ドンメルが歩くような速度で、ようやく中ほどまでくると、池の全貌を見渡すことができた。
 凪いだ水面に燦然と光がそそぐ、青空と白い雲が映っている。まるでそれはひとつの絵画がそこに出来上がったように。
「ヨウコ」
 慎重な彼女に手を差し伸べて、肩を並べて水上の空を眺める。ようやく、新たな命綱を手にして落ち着いたのか、一緒に手すりの向こうをのぞく余裕ができたようだ。
「すごい、ウユニ塩湖みたい」
 陶然と息をもらす彼女に、ダイゴは、「キミの世界にも、こんな場所があるんだね」と言った。
 行ったことはないんです、と彼女は答える。でも、こんなふうに水に空が映って、そこに立つと空の中を歩いているみたいになるんです、と。白目が潤み、反射した光を集めて、瞳がきらきらと瞬く。その横顔をダイゴはうつくしいと思う。
 なるほど、歩いてみる。それもいいかもね、と告げると、彼女は眉をさげた。
「でも、池の上は歩けませんよね」
「そうだね。でも……」
 そこまで言って、ヨウコが不思議そうに視線を寄越すと、「いや、なんでもない」と彼は笑みを深めた。
 桟橋を渡ったあとは、しびれを切らしたのかロコンがダイゴの腕の中から飛び降りて、トタトタと草花のにおいを嗅ぎに行ってしまった。おとなしく引っ込み思案な性格かと思っていたが、どうやらそれは仮の姿らしい。ココドラをボールから出してロコンのあとを追わせれば、二匹は楽しそうに飛び回っている。あっちへ歩いてはこっちへ戻って。しばらく歩いたところで、疲れたのかヨウコの足もとへ駆け寄っていった。
「この先にミナモシティがあるけど、行ってみるかい」と苦笑しながら提案すると、ヨウコはロコンと同じような顔をしてダイゴを見つめたが、やがて、はい、とうなずいた。