それからはあっという間だった。念のために持っていた寝袋がふたつ、それから、ブランケットがひとつ。「テーブルは端に避けようか」ボールから出したボスゴドラとともに、ソファの前のローテーブルを動かしてスペースをつくる。ロコンを刺激しないよう、静かに。
銀の髪はまだ濡れていて、照明に艶めいていた。肩からはタオルがかけられたままだった。私がロコンを抱いたまま身動きがとれないでいるうちに、すっかり寝床は出来上がってしまった。ソファの前に広げられた寝袋ふたつ、そして、よくみるランタン式のランプ。
「きみのブランケットは、そこにあるね。じゃあ、キミはこれを」
腕の中の子に巻きつけたそれを見てから彼は自身のブランケットを差し出してくる。「あの、あなたは」とおそるおそる訊ねるが、彼は笑うばかりだ。
「ボクは暑がりなんだ、だからなくても構わないよ」
あの困ったような、人好きのするような顔で。果たして真意はわからない。けれど、言い出したら聞かないひとだということは、疾うによくわかっていた。私はどういう顔をしたらいいのか迷いながら結局それを受け取った。
眠りについたロコンをソファの上におろし、ブランケットをかけてやる。照明を落として、すでに真っ暗な室内を手元のランプでほのかに照らすのみだった。ゆらゆらと光が揺れる。その中で、彼がなにかを手に戻ってくるのが見えた。
「すこし、気がほぐれるよ」
モーモーミルクにほのかにラムの香りがする。ホットカクテルだ。ふたつ、マグカップを手にしている。朝ブラックコーヒーとカフェ・オ・レを飲むそれで、ソファの座面によりかかってロコンを見つめていた私は、おもむろに片方を受け取る。ありがとうございます、と。
至れり尽せりというのは、こういうことかもしれない。片付けもままならないままロコンにつきっきりだったうちに、哺乳瓶やポケフーズなどの始末をしてくれた。ほんとうにできたひとなのだと思いながら両手でカップを包み込んでふうと息を吹きかけた。
ラムの芳醇な香りがする。鼻の先から意識をさらわれ、陶酔してしまいそうな深いものだ。口をつけると、とろりとミルクが唇を包んだ。
「おいしい」
思えば、朝食べたきり、ろくに口にしていなかった。ポケモンセンターでミルクティーをもらったものの、一滴さえきちんと味わうことはできなかった。
ようやく取り戻した感覚に、声がゆるむ。彼はうれしそうに、「そう、それならよかった」とランプの光を浴びて笑う。
甘くて、優しくて、どこまでもあたたかくて、それこそランプの光が胸や全身に宿った心地に似ている。それも、直接光が宿るのではなく、カップのふちやはらに淡く瞬くその光が投影され、じわりと輪郭が溶けていくような感じだ。やけに調子が狂う。どこか落ち着かなくて指先をもぞつかせるうちに、彼は私と同じようにソファにもたれかかって、眠るロコンの顔をまじまじとのぞきこんでいた。
「とても、安心した顔をしている」
その言葉に、否応なしに眉根がゆるむ。
「……よかった」
安堵が、殻を被っていた。それが、ようやくそれを破り手足を伸ばしていく。なにもかもが手探りなぶん、彼がそう言ってくれると、そんなふうに感じた。弱々しくつぶやいた私に、彼やおら視線をもたげると、「だいじょうぶ」そっと宵闇に載せるようにささやいた。
「なにがあっても、ボクがついてる」
その言葉は、強い。そして優しく、あたたかい。しかし、呪いのような言葉だとふと目の奥がチリつく。……なんて面倒な女。
今一度カップに口をつけて、こっくりとうなずいた。頭がぼんやりと、夜に溶けていく気がした。
ぽたり、ミルクがひとすじ、線を描いたあとゆっくりとほどけていく。気がつくと、辺りはうっすらとしんじゅ色に瞬き始めていた。菱形の窓からは淡い陽射しが差し込み、宵のヴェールを見事なまでに引き上げ、明るくなった部屋はミルクを入れたまろやかなコーヒーみたいだった。
どうやら、いつのまにか寝てしまっていたらしい。今は何時だろうか。仕事に行かなくては、とふと思い立っては、そんな必要はないのだと自ら答えを見出す。だってここはあの世界ではない。あの世界の、私ではない。
とろとろと、しばらく睡夢に半身を浸からせたまま瞬きを繰り返し、カフェ・オ・レ色のやわらかな世界に身を委ねる。あたたかくて、やさしくて、ほっとするような繊細な光。その中で、あえかに輪郭が浮かび上がり景色を結ぶ。とても、うつくしいのだ。一枚の絵画のようだった。こんなこと、前の世界では考えたこともなかったのに。
しかし、目映さに目を細めていたところで、ようやく思考が眠りの向こうから戻ってくると、私は手のひらに触れる温もりに気がついた。
隣に並んだ寝袋から、伸びる腕。たくましくも優美なしなやかさがある。白いリネンのシャツを着ているのに不思議とそれを崩さないひと。その人の手のひらが、指が、自分のそれにぴったりと重なっている。
どうして? ――思ったのは、そんなことだ。まるで恋人同士のように結ばれた指、ほどけそうでほどけない、そんなアンバランスさを孕みながら、それでも離れずに繋がっている。
なぜ、この人と手を繋いでいるのだろう。はっきりと認識した瞬間、体が強張った。夜を思い返しても、そうした記憶は一切ないはずだった。本当はすぐに解くべきとはわかりつつ、身動きがとれなくなってしまった。
重なり合った肌の色が朝の陽射しに混じり合う。微熱がゆっくりとほどけて、灼熱の温度に変わりゆく。
こちらを向いた彼の寝顔を見るのは、はじめてだった。安らかに、なんの惧れも呵責もなく、穏やかにまぶたを閉じる。きれいな寝顔だった。
一メートルも離れていない、そんな距離で、ダイゴさんの顔を眺めている。呼吸さえままならず、どうしようもなく、泣きたくなる。その手のぬくもりに縋りつきたくなる。どうしてこの人は、私のそばにいてくれるのだろう。
なにも差し出すものがない。なにも、してあげられない。それだというのに、なぜ。繰り返される問いに、答えはいつまでも与えられない。与えられては、いけない。
喘ぐように酸素を取り込もうとして、その瞬間ぺろんと耳になまあたたかい感触が宿った。んっと肩を揺らしたすきに、手が離れた。
「……ロコン」
ぺろ、ぺろ、と耳たぶを舐めるのは、あの子だった。ソファから降りたのだろう、私の背後から覗き込むようにして甘えてくる。すっかり、元気になったみたいだ。とろとろと委ねていた思考が鮮やかになりしかしまろみを帯びていく。
「ごはん?」
訊ねると、きゅうと喉を鳴らした。射し込む光が強くなる。また一日がはじまる。
そっと布団を抜け出してキッチンに向かうとその足下にロコンがまとわりついてくる。ルンルン、そんな言葉が似合うようなステップで、思わず踏みそうになってあぶないと告げるが、みずみずしい大きな目が私を見上げて相好が崩れてしまう。
「ポケフーズ、食べられるかしら」
器にひと掴み、よそったポケフーズへ、人肌にあたためたモーモーミルクをかける。ふやかしてやわらかくすると、足下に置いた。自分にはコーヒーを、とびきりまったりとしたカフェ・オ・レだ。お湯を沸かしてフィルターに挽いたコーヒー豆を入れて、少し濃いめにコーヒーをドリップしたのち、温めたミルクと砂糖をそそぐ。はらはらとスプーンからこぼれていく細かな粒子が透明に光る。
背に背負った窓から光が燦々と溢れていた。溢れたそれは、部屋じゅうを満たし、辺り一面を瞬かせる。ワックスの塗られた木の壁やフローリング、ダイニングテーブルのふち、丸太椅子の座面、食器棚に並んだグラスやお皿、リビングのひとつのビードロ。そして、ダイゴさんの横顔。光を帯びて、ダイアモンドダストを纏ったように、かがやいている。
目の奥が熱く、溶け出しそうになるのを、もうひとつカップを用意して、どうにかこらえる。疼いた胸を抱えながら、光に身を委ねる。
――世界は、うつくしい。
