朝起きると、生きている音がする。それは木であったり、土であったり、はたまた水や風、空であったり。余計な雑音を一切取り除いて、しいんと溶け込む静けさの中で息衝いている。
音だけではない、目を開いた瞬間の射し込む朝陽、鼻腔を掠める香り、すべてがこの世界の息吹を感じさせる。すぐにベッドから出なくていいのを脳も体も理解しているからか、瞑目してその場に佇む。それから寝返りを打って微睡みに身を預けて。もはや習慣になりつつあった。
少し前まで、鉛を背に抱えていたように全身が重くて、布団から出られないことはよくあった。でも、今はそうではない。ふわふわと水面に浮かんでいて、そのまま温もりに包まれ思考の先にいざなわれる。
決まって、そこから私を連れ出すのはコーヒーの匂いだ。樹の上に建っていることもあってか、ゲストハウスの中は無駄な壁や扉を取り払い開放感に満ちている。玄関を入ってすぐのリビングダイニングは天井が高く映画みたいにシーリングファンが回っているし、浴室や洗面所をのぞいて間仕切りがない。リビングの奥にはベッドがひとつ、そこはダイゴさんが。あとロフトがあって、そちらを私が使わせてもらっている。
グランピングというより、秘密基地とか、おとぎ話に出てきそうな妖精の家かもしれない。とにかく、二度寝に入る前に私を呼ぶのは、下のキッチンから届くかぐわしい香りだ。
この日もそうだった。彼は大抵私より早起きで、それはトクサネにいたころから変わらないけれど、ロフトから顔を出すといつもキッチンに立つ背中が見える。今日も真っ白いシワひとつないシャツにラフなパンツで、背すじを曲げることなく綺麗な所作で立っているのだ。シンプルなのに、それだけでなぜだかCMを見ているみたい心地になる。トクサネではインスタントだったコーヒーも、先日カフェで挽いてもらったものを買うようにしてからはペーパーフィルターを用いて淹れているので、なおのこと。
窓から射し込む朝陽に目を細めながら、寝巻きから着替えると、窓際のビードロが燦いていた。ひと撫でして化粧ポーチを手にすると下へおりた。
「おはようございます」
控えめに口にした私を彼はやおら振り返る。
「おはよう」と応え、それから「コーヒーは?」必ず訊いてくる。淹れたよ、ではなくて、さりげなく必要かどうか確認をとるところは、親切さとソツのなさを感じさせるものだ。押しつけがましくしない。けれど、実際には受けとるように投げかける。そのかすかな微笑までもが目映くて、たちまち私は落ち着かなくなる。
「お願いします」と頭をさげると、私は逃げるように洗面所へ向かう。
鏡の中の自分を見るたび、ああ間違いなく、これは遥子だ、とどこかホッとする。日本という国で生まれ育った、二十代の女の顔。目の下に深く刻まれた隈は少しとれただろうか。窶れていた肌もだいぶ血色がよくなっている。それでも、十代のころとはちがって年齢を感じる顔。
見るのもうんざりするほど、嫌になった時期があった。メイクをしながら、自分の顔から目を背けていた。鏡のウロコさえも、なにもかもから私を包んでくれる優しいヴェールとさえ思えて、酷い自分を、現実を見ないようにしていた。
でも今は、ウロコひとつない鏡の中で顔じゅうを泡まみれにしてそれから次は水浸しになった顔を拭う。タオルの匂いにはもう慣れた。ハーバルサボンの香りの柔軟剤だ。昔使っていたものに比べるとにおいは薄いが、イヤミがなくていい。
前髪をピンで留めて、遠野遥子と向き合う。
――おもたいんだよね
形のない声が蘇る。
たしかに、と思った。とろんと落ちかかったまぶたはどこか眠たげで、その奥に下りたもやを隠せずにいる。それに、ややぽってりした頬や丸みのある輪郭、通っているとはいえない鼻梁。甘ったるさを残したそれらに、笑いが込み上げた。重たい女の顔がする。
――行くな
その手に、音色に、この身を委ねてもいいのだろうか。
声にはならず、喘ぐように息だけがこぼれる。すぐに、化粧ポーチを漁った。
「雨だね」
ぽつぽつと雫の滴り始めた灰色の空を見上げて彼は言う。
トオノヨウコの鎧を身につけ、ミルクたっぷりのカフェ・オ・レをいただいたあと、私たちはハジツゲタウンにやってきていた。ヒワマキとうってかわって、色彩の欠いた街並みはまさに灰に眠る街のように思える。えんとつやまからの火山灰が北向きの風によってここハジツゲ一帯に降り注ぐ。昨日訪れた113ばんどうろもまるで雪をかぶったように辺り一面銀世界であった。
「火山灰はとくに、多量に吸い込むと危険なんだけどね」と彼は言うが、特別な世界に紛れ込んだようで幻想的で、どこか心がはずむ。
そんなハジツゲでブランチをとったあとのんびりとりゅうせいのたきという場所へ行く予定だった。だが、思っていたよりも雨足が早かったらしい。
「雨の中、洞窟へ向かうのは危ないから、少し休んでいこう」
ポケモンセンターに立ち寄れば、時間を潰すには困らない。オーガニック食材を食べられる、そんな謳い文句の古民家カフェの軒先、「そうですね」とうなずいて吹き込んでくる雨に濡れた前髪をさっと撫でる。
「先に行って、傘を買ってくる」
待っていて、と隣で彼が駆け出そうとする。こう、と決めたら行動が早い。
私が雨に濡れないように彼は気を遣ってくれるのだろう。そんなことまで、しなくていいのに。そう思うが止めるまもなく霧雨に飛び込んで、その背は遠くなる。
ハジツゲという町はまだ知らない町だ。ヒワマキよりも静かなのかもしれない。ぬるりとした風が首すじを撫で、どこか閉塞感が襲う。一抹のめまいを感じていると、子どもを抱いたお母さんが前からやってきて軒下に入った。うしろには人によく似たポケモンがもうひとり子どもを抱いてついてきていた。
「ごめんねえ、サーナイト。あなたには小さいころから助けてもらってばかり」
足もとや腕がひらり翻り、ドレスを纏った女性みたいだった。そのポケモンは構わないとばかりに微笑んで、三、四歳ほどの少年を地面に下ろす。トレーナーとポケモンというより、姉妹みたいだった。少年の頭についた雨の雫までも拭ってあげ、またひとつその子は微笑んだ。少年は礼を述べたあとすぐに母親の足もとに抱きついて、「おなかすいたぁ」と声を上げる。
「今、入るよう。なに食べよっか」
「えっと、グラタン!」
「グラタン、いいねえ」
カラン、ドアベルが響いて、彼女たちはカフェへ入っていく。
私にとっては、ゲームの中の世界だった。けれど、目の前に広がるのは、決して作られたハリボテの世界などではない。人々とポケモンの息衝き、支え合い、手を取り合う世界。
しとしとと雨が降りしきる。空気中に舞った砂塵をも大地に還して、すっかり静けさが戻り、空を見上げる。
「お待たせ」
彼が戻ってきた。
「どうかしたのかい」
透明な傘を差しだしながら、プラチナの瞳が訊ねてくる。
「……いえ。すてきだなあって思って」
ここが、ポケモンというゲームの中の世界だった――彼に、そのことはまだ告げられていない。言ったらどうなるのかなど、そんなのわかりきっていることだ。
雨の中、小首を傾げながらその先を待つ彼に、「傘、ありがとうございます」話題を切って礼を言う。
「濡れちゃいましたよね」
「少しね。でも、このくらいはいつものことさ」
肩口にはぽつぽつと灰色のシミができている。髪にも滴が載っていた。
「あまり、なんでもしなくていいんですよ」
ハンカチを取り出して、まずは服についた雨を拭う。
「なんでもって」
「私は、ただの居候ですから。そんなに、気を遣わなくてもいいのになって」
髪に手を伸ばすのは憚られて、ハンカチを握ったまま彼を見上げる。
あいかわらず、端正な顔。肌はきめ細かくて、眼なんかそれこそ宝石みたい。彼の部屋にあったセレスティン ――あの天空の石みたいに、透きとおっていて奥が計り知れない。だから、少し怖いのだ。信用していないわけじゃないけれど、これは私の問題で、このひとの全てを頼るのが、怖い。
そんなことを考えていると、ふっと息がもれる音がきこえた。
「いや、すまない。たしかに、居候、か。ボクたちの関係は、どう説明したらいいんだろうな」
困った、というよりおかしそうな顔で笑うから、私はつい唇を結ぶ。傷ついた、そんな顔をしてくれたらいっそのこと、楽だったのかもしれないのに。
「でも、これでもキミが思っているより、気を遣っているわけじゃないんだ。ただ、そうしたいってだけで」
気にしないで、と彼は傘を差し出してくる。
「腑に落ちない顔だね」
「……ええまあ。でもきっと、私が言ってもあなたは聞かないんだろうな、とも思います」
「うん、当たりだ」
小さく息をついて傘を受け取ると、空へ開いた。
「恋人、怒りませんか」
「怒ってくれる人がいてくれたらいいんだけど」
「意外です、モテそうなのに」
でも、いたらもともと私を助けることなんてしていなかっただろう。ポケモンセンターの赤い屋根がいくらか先に見え、そこへ向かって歩く。
きちんと話さなくてはと思うこともある。けれど、本当にそれは必要なのかと警戒する自分もいる。――結局、にげてばかりなのだ。すべてうやむやにして、自分の世界に閉じこもって。ならばなぜこの人についていこうと思ったのか。なぜ、流されたのか。傘の柄をにぎりしめ、唇を隠す。
でも、この人のそばは……。
ちらりと半歩先をゆく彼の瞬く銀糸を眺める。
おもいのほか、悪くないのかもしれない。
……そう、思い始めている自分がいた。
結局、雨は止まず、その日はりゅうせいのたきへ向かうことなくヒワマキへ帰った。
