あの日、自分を衝き動かしたのは、感情などという柔なものではなかったとダイゴは今になってもなお強く思う。沖へ歩いていく背を見つけた瞬間、彼女の名を叫んでいた。やおら振り返る彼女の視線を待つ前に砂浜を蹴り、海へ入った。押し寄せる波と、引いていく波と、それらを掻き分けて彼女の腕を掴んだ。
それは確かな衝動で、以前より感じていたものよりも遥かに大きく明瞭で、呼吸をするのさえ苦しく、全身を掻きむしりたくなるような熱と血潮に苛まれた。
「行くな」
決して、彼女が死にゆくように見えたのではない。消えてしまいそうだったのだ。空と海が溶ける、その一瞬の、永遠の光の中。トクサネから、あるいは自分の手のうちから。消えていくのが、許せなかった。
そうして驚きなどという単純な言葉では示せない、唖然とした彼女の瞳を見つめながら、ダイゴは自らの欲求に白旗を上げた。
それからの彼の行動は早かった。今までわざわざリーグ本部へ赴き処理していた仕事をすべて専用のタブレット端末を通じて行えるようにし、雑務は秘書に一任した。手練れの秘書だ、心配はなかった。そうして新たな体制を整え、トクサネを飛び立つことに決めた。彼女にホウエンという世界を見せるためだった。
――果たして、それだけだったか?
日に数回の定期連絡を終えてツリーハウスの中に戻ると、リビングのソファでじいと小さな結晶を見つめている姿が目に入った。
「あのとき、なくならなくてよかったよ」
そう言いながら近づくと、彼女ははたと顔を上げて少しだけバツの悪そうな顔をした。
手の中にあるのは、透明な赤褐色の石。ある日彼女が拾ってきたという琥珀だ。彼女を引き止めた日、その手からぽろりと海へ落ちてしまったのを慌てて探し出した。海水よりも比重が軽いとはいえ二人して時を奪われていたこともあり、沈みながら沖へ少しずつ流されていたそれを見つけるには骨が折れたものだ。「あった」と声を上げるころには、ジャケットの袖のみならず肩や胸まで水浸しで、気持ちとはうらはらにやけに体が重く感じた。
海に落ちたときの、迷子の子どものような不安そうな顔つきと、取り戻した瞬間の安堵と。今でもダイゴは細かに思い出せる。
だというのに、少し固くなったその表情を見て、「下手したら波に攫われてたからね」小さく苦笑した。
「明日は、鉱石でも探しに行ってみるかい」
なにせ、時間はある。リーグへは週に一度必要があれば向かうことになっている程度で、彼らを縛るものはなにもない。時間も、人も。これまでも放浪癖がついていたからか、むしろ周囲の人間には連絡を申し出たことを不思議がられたものだ。
だが、ダイゴの中のなにかが――おそらく矜持というよりかは単なる虚勢に近かっただろう。とにかく、それらがそうさせた。虚勢――だれに対する?
向かいの丸太で作られたウッドチェアへ腰掛けて、ダイゴは長い脚を組む。膝に軽く手を組み合わせて、答えを待つというよりかは愉しげに鼻唄を続けるように、肩の力を抜いた。
「鉱石、ですか」
「そう、鉱石。えんとつやまに向かってみてもいいし、そうだな、ボクのおすすめの洞窟に向かってもいいかもしれない」
洞窟と口にした途端、彼女は長いまつ毛を重そうに揺らした。
「本当に、お好きなんですね。石」
「そうだね。ごめん、もう少し楽しいところにしようか」
脳内で、それだから君ってやつは、と呆れ声が掠めてダイゴはひとりでに苦笑した。
どうしようかという半ば魂の抜けた思案顔をしていた彼女が、またひとつまつ毛を瞬く。さきほどまではあどけなさを孕んでいたのに、すっかり大人のそれだった。ダイゴは改めて彼女が自分と同年代の女性であることを認識した。
「いいですよ。洞窟、行きましょう」
今度はダイゴが間抜けな顔をする番だった。彼は合わせていた指をすり合わせて、「本当に?」と訊ね返した。
彼女は琥珀を手の中で転がして、はい、と穏やかに応えた。
次の日、彼らは朝早いうちにヒワマキを飛び立った。
霧立ち込める情景は、まさにかつて文明が起こったころの鬱蒼とした様子と神秘さを醸し出していただろう。雨が降り出す前に山を伝い、左方へ見えるすなあらしを避け、それからまたえんとつやま方面へ飛ぶと、ヒワマキと異なり、すぐに火山から吹く生ぬるい風が首すじを包み始めた。しばらくすると景色が緑から色彩を欠いた灰色に変わり、かすかに焼けた香気が鼻腔を衝く。
うん、と鼻を静かに鳴らし、ダイゴはメタグロスを降下させた。一面の、白い大地に。
彼女が提案を受け容れてから、実際には洞窟に向かわず、彼はある場所へ行くことを決めていた。それが、ここ、113ばんどうろだった。
「すごい……」
えんとつやま北の山嶺に東西に広がる道。先にはハジツゲタウンがあり、さらに進めば彼のテリトリーでもある「りゅうせいのたき」がある。格段と観光スポットなわけではない。だが、ここは彼にとって特別だった。
「えんとつやまから噴き出した火山灰の影響なんだ」
一面の銀世界に感嘆の息を洩らす彼女の隣で、ダイゴも辺りを見渡す。地面はもちろん草むらや樹々の上にまでしっとりと灰が積もり、まるで真冬のシンオウにでも訪れた気分だ。
もちろん今は冬でもないし、容赦なく世界を覆うそれは、かえって空気や人体を汚染する原因物だからと懸念されてもいる。でも――「きれい」零れた声にダイゴは頬を緩める。
「雪みたい、なのにあたたかくて、ふしぎ」
「そう、不思議なんだ」
じわじわと胸に喜びが広がっていく。はるかに小さな体がその灰色の世界に踏み出して、季節外れの紛い雪を散らしていく。服が汚れるのも厭わずしゃがみこんで、白い手ですくってふうと吹くと軽やかに風に乗ってはらはら地面へ舞った。
「植物も生えるんですね」
「順応していったんだろうね。この先にあるハジツゲタウンでは、火山灰に負けない野菜が作られている。自然の強さと先人の知恵というのは、実に興味深いものだよ」
もっとも、ここを駆け回っていたころは、そんなことまで考えたことはなかったのだが。
彼女のそばでキイと羽音を立てるエアームドの体から灰を払って、メタグロス同様ボールへ戻してやる。今日はまだ降灰量が少ないから、傘は必要ないだろう。とはいえ、前で感心している彼女の髪も、すでに灰色の彩りを宿している。
浜辺で細い腕を繋ぎ止めたとき、彼女は自分を受け容れてくれた。二人で、再び過ごすことになった。だが結局、埋められない距離があり、見えない透明な線があり、あるいはそれは頑強な壁となってダイゴの前に立ちはだかった。
今も、自分と彼女のあいだに引かれた線は消えていない。目には見えずとも、はっきりとそこには残っている。
それでも――ダイゴはカメラを取り出す彼女の後頭部を見つめ、眉をさげた。そうして自分が想像以上に表情を崩していることに気がついた。
「さて、113ばんどうろの胡椒味はここからだよ」
フィルムを巻き、景色をおさめている彼女がふり返る。ダイゴはズボンのポケットから布袋を取り出して、それをひとつ差し出した。
「どちらが早く、多く集められるか競争しよう」
「競争?」
「そう。できるだけきれいな灰を集めるんだ。なんのためにっていうのは、集めてからのお楽しみ」
そのとき、背後で灰の山から少年が飛び出し、彼女はひどく驚いた顔をした。それに思わず声を上げて笑うと、彼女は唇をほんの少し尖らせて不満げな顔をした。
