雨だからといつのまにか用意されたレインブーツを履かず、私は楽なサンダルを突っかける。綿のワンピースにカーディガン。透明な傘を手に湿気でうねる髪をまとめる。
熱帯雨林で過ごす恰好とは言えないだろう。それを認めるように、現れた彼は私の足もとを見て笑った。わかりきっていた、そんな顔つきで、それは子どもが言うことを聞かずに困る大人の表情によく似ていた。彼も、なぜかブーツではなくラフなスニーカーを履いて外に出た。
行くあてがあったのかは定かではない。実に周到で聡くまたいろんなことに敏感であるのに、ときおり彼はすごくものぐさで思考を放棄したように振る舞うことがある。もしかすると、わざとそうして、バランスをとっているのかもしれない。無駄なんて嫌いそうな顔をして、実際に完璧な地位や名声を手に生活していながら、あえて無駄を取り込んで、自分の中に空白をつくる。
ただ、前を歩く彼の少し跳ねた髪を見ると、それが彼自身なのかもしれないと思うことがある。どちらにせよ、彼がわからなかった。わかっていいのかも、わかってほしいのかも、わかりたいのかも、わからなかった。
私は、ときおり、私すらわからなくなる。
「すべるから、気をつけて」
透明な傘をさしてツリーハウスにかけられた吊り橋を渡る。地面から何メートルあるのだろう。下を見ると足がすくむから、ひたすら前を見て手すりを掴む。
濡れた木の感触はあまり気持ちのいいものではない。前の世界だったら、絶対に触りたくないと思っていただろう。それでも、彼の歩いたあと揺れる吊り橋ではそうするしかないから、手を伸ばす。ひやり、ぴちゃり。次第に、手のひらのほうが慣れて楽しくなってくる。すべすべと、雨を潤滑油に木を撫でると鼓動が伝わってくるような気がした。切り倒され、材木になった木に鼓動があるのかはわからないけれど。
「大丈夫かい」
彼がふり返る。ハッと子どもみたいに手をベチャベチャにしていたのを見られてしまい、途端小さくまなじりがゆるむ。これは、娘を見る父親の顔。
「すべてが自然の恵み。すばらしいよね」
同じように手すりに手を伸ばして、感触を確かめる。シャツの袖口にポツポツとシミができる。このひとは、そうして汚れるのを気にしない。
あと少しだよ、と連れてこられたのは個人経営のカフェだった。もちろん他のツリーハウスと同様木の上にあるから、自然派とか都会のグランピングとかそんな謳い文句を掲げるどんなカフェよりも本格的だ。
薄手のニットにジーンズというラフないでたちの女性に案内されて窓際の席に座る。ふかふかしていて、革のなめらかなソファ席。コルクボードに貼られたメニューから、彼はBLTサンドを私はデミグラスのオムライスプレートを選ぶ。
店内にはゆったりとジャズが流れ、地元民とそれから流れ着いたトレーナーでほどよく賑わっていた。新聞を読む老紳士や、ぐるぐるうずまきの目をしたうさぎポケモンを連れたマダム、チェックのネルシャツにデニムのサロペット姿の女性、ピチューを抱いた少女とおとうさん。皆がそれぞれの時を過ごしているのに、どこか一体感がありツリーハウスカフェという空間に溶け込んでいる。
焙煎されたコーヒー豆の香気は、インスタントのそれとは比べものにならない馥郁さで、カウンターの向こうの狭いキッチンからはベーコンの焼けるにおいがする。隣のテーブルでは、紳士のポケモンなのかピンク色の子ネコが足もとからポンポンの尾を揺らしながら出てきた。
「キミも、ポケモンを捕まえてみたらどうだい」
その子を見ていると、指輪を外しながら彼が言った。
「ポケモン、ですか」
「そう、せっかくだからね。必要ならばボクのポケモンを貸してもいいし」
ことり、音を立てる。
「……でも、いつ、戻るかもわかりませんし」
私が戻ってしまったらその子はどうなるのだろう。責任ないことは、できない。その反面、トクサネを出たら相棒を探してもいいのかもしれないと、漠然としたビジョンの中には思い描いていたくせに。
彼は、そっか、とどこか安堵と寂しさを含めた様子でかすかに表情を崩すと、隣のテーブルへ視線を移し、「あのポケモンはエネコっていうんだ」と教えてくれた。
「エネコ……。このエネココアって、あの子のことですか?」
「うん。エネコのしっぽみたいに、やわらかな舌ざわり、っていうのが売り文句だったかな。チョコレートクリームとモーモーミルクで作る濃厚なココアさ」
頼む? と訊かれ、少し迷うと、そのうちに彼は店員を呼び寄せて二つ頼んだ。またそうやって、というのが顔に出ていたのか、彼は私の顔を見て肩をすくめた。
待っているあいだ、話をする。その中心はいつもこの世界のことだ。カイオーガとグラードンという二匹のポケモンから大地が生まれたこと――はヒワマキに来ていくらか聞いたので、そこから発展してレックウザやジラーチというポケモンのこと。はたまたこの世界や地方の成り立ち。
彼は話がうまいし、決して押しつけようとしないから聞いているのはおもしろい。えんとつやまのふもとのフエンタウンのことや、シダケ、ハジツゲタウン。そこまで話したところで、「キミをハジツゲに連れて行きたいんだ」と彼は臆することなく言った。なにがあるのかと訊ねると、彼は行ってからのお楽しみだと笑った。
そうしているうちにエネココアがやってきて、話を中断する。白くて丸みを帯びたマグカップに、愛らしいラテアート。
「そっくり」
思わず隣のテーブルを見やれば、いつのまにか椅子に座っていたエネコが甘く喉を鳴らして男性が新聞から顔を上げた。目が合って、会釈をした。
冷めないうちに口をつけるダイゴさんを前に私はエネコのアートをしばらく見つめる。カカオパウダーと砂糖と、バターを練って作ったチョコレートクリームから生まれたココアは、たしかにぽってり濃厚で、上に乗ったふわふわのフォームを崩すのが憚られるくらい、可愛らしい。
樹々と雨が奏でるシンフォニーと、ささやかなジャズとに包まれてやがて口をつける。やってきたオムライスも、とてもおいしかった。
カフェを出たあとは、また街の中を散策した。カタツムリが隠れていそうなのに、いないのが不思議で、雨やどりのために行列をつくるアリも、曇天を逃げ回るスズメも見当たらない。寂しさを感じる、というより、ただひたすら興味と感心が掻き立てられる。
ジャングルに似たそこを歩くのは心地よくて、水溜まりをはじいて足が濡れるのすらすがすがしくて、なりふり構わず下へおり、ぬかるんだ地面に飛び込んだ。
透明な傘を差して上を見上げると、懐かしいにおいがした。青々とした甘い、胸が、疼き熱くなるかおり。視界をいっぱいに覆う緑。ともすると、心が体を突き動かすのは容易いことで、カメラを手に取り私はそれらを写真に収めていく。
濡れた樹々、建ち並ぶツリーハウス、雨やどりをするナゾノクサやクサイハナというポケモンたち、天高く首をのばしきのみを食べる、恐竜のようなトロピウス。水溜まりにできるいくつもの波紋、びしょ濡れでいまにも溺れそうな花々、白くくゆる景色。
空からは細い糸が幾重にも連なる。雨を糸と表現するのは、日本人特有の感覚なのかもしれない。かつて葛飾北斎が描いた雨の情景に西洋の人々がこぞって感銘したという話がある。高明な評論家、優雅なマダム、それからあのゴッホまでも。高性能なカメラではないから、そこまで写せないのは、少しだけ残念だ。それでも、雨を感じようと傘の向こうに何度も手を伸ばす。
掴めそうで掴めない。細いそれは極楽から垂らされる蜘蛛の糸なのかもしれない。そんなふうに思うと手繰り寄せてみたくもなって、雫をたくさん手のひらに載せる。
雨の森は心地よかった。静謐な、冷たくてでもあたたかい、じっと目を瞑りずっと感じていたくなるような、優しい空気がそこにあった。
彼は、カメラを手にする私の前で、隣で、はたまたうしろで、ただそこに佇んでいた。なにを言うわけでもなく、空気で急かすわけでもなく。ただ、ぬくもりのこもった瞳で私を見つめていた。
帰り道、水溜まりをはじきながら歩いているとなにかにぶつかって、彼は笑いながら、「カクレオンだね」と腕を引いた。
