五月序盤の連休も明けて、本格的に部活動が始まった。
結梨は使用していたパレットを美術室の隅にある手洗い場で流しながら、ぼう、と窓の外を眺めた。
美術室のある場所は、四階だ。目の前には見渡す限りの家々と、青空が広がっている。一年の教室も同じ階のはずだが、そちらとは見え方が全く違った。遠くの方に高いビル群が見え、あちらが都庁の方だろうか、それとも、全く違う界隈か。見たことのあるような建物が建ち並んで、スカイツリーや東京タワーを探すが、生憎その姿を見つけることは出来なかった。
それでも、晴れた空を眺めていると、不思議と頭の中に今まで掛かっていた靄が霧散していくような気がして、目が離せなかった。
ひとつ、息を吐いた。見兼ねた友人が「どうしたの」と声を掛けるが、彼女は「なんでもない」と誤魔化して、水道の勢いを緩めた。
ゴールデン・ウィークはどうだったか、などと部活の仲間たちが、ワイワイと賑やかに作業をしている中、結梨は少し肩を落としていると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「お、結梨だんべ!」
振り返ると、賀寿が居た。不意打ちだったので、驚きのあまり言葉も出ず、目を瞬かせた。
「オイ、なんで居るんって顔することねぇべ!」
「だって、ガジュさんがこんなところに居るなんて珍しすぎる」
思ったことを素直に述べると、彼は「まあ、んだな」と頷いた。
「先生に頼まれてお使いだで。てんで人使いの荒い人だいの」
気怠げにブレザーのポケットに手を突っ込んで、賀寿はチラチラと教員が居ないか確かめながらボヤいた。
確か、美術の教員は二学年の学年教諭でもあると聞いていたので、賀寿は親しいのだろう。文句を言いながらも、満更でもなさそうだ。
「ガジュさんが遅くまで残ってるの、珍しいね」
時刻は放課後。部活動に入らず、スタジオでダンスの練習がある賀寿ならば、普段はもう学校に残っているはずのない時間だ。
結梨が尋ねると、賀寿は手洗い場のシンクに寄っかかって、欠伸を噛み殺した。
「ん、週一回はオフ作ってるん。今日はダンスやめて、バスケ部参加してらいな」
「助っ人してるって、本当だったんだ」
「一年にゃ、んな噂まで流れてるんかい」
苦笑いをしながら頷くと、「ムーブメントの勉強にも、息抜きにもなって、丁度いいで」とブレザーの下に着ているパーカーの襟元を整えながら言った。
「結梨はちゃんと美術部入ったんきゃ」
「うん。色んな部活見に行ったけど、最初から決めてたからねぇ」
丁寧に洗い終えたパレットの水を切ると、水滴が飛んで頬に冷たい感触がやってきた。手の甲でそれを拭ったあと、今度はパレットを白い布巾で拭いていく。
賀寿はそれを眺めていた。
「今、何してらいな?」
「今はアクリル絵の具で絵を描いてるとこ。一年生の課題なんだ」
結梨の所属する犬養高校の美術部では、例年学年ごとにそれぞれ課題が与えられて、その制作に取り掛かる形で部活は進んでいる。仮入部期間が終わって、一年生はまずアクリル絵の具を使った作品を描かねばならなかった。そして、お題は「日常の中で目についた物」――。
「そのアクリル絵の具っちゅーんは、普通の絵の具と何が違うん?」
ふうん、と相槌を打ったあと、賀寿が首を傾げた。
「水で溶かすのは一緒なんだけど、絵の具を作る顔料を固める材料が違うんだって。普通の絵の具だと、乾いたあと水を零すと、またじわじわって溶けちゃうよね?」
「あーね。そういや、昔まこが描いた絵にコップの水倒して、えっれぇ怒られたんだんべ」
「でしょう? それに比べて、アクリル絵の具は乾いたあと水に強いんだ。だから、油絵よりも初心者向けで、でも、長持ちするから作品作りには向いてるの」
賀寿は目をほんのりと丸めて、感心したように、へえ、と呟いた。
結梨はスカートのポケットに手を突っ込んで、先程使用していたアクリル絵の具のチューブを一つ取り出して見せる。
「小学校の図工とかでよく使ったのは、水彩絵の具。で、これがアクリル絵の具だよ」
「お、これ中学ん時使ったことあっべ。確か、木を彫った時に色塗りに使ってん」
「うん。木に塗ったり、布に塗ったりも出来るからね」
白色のチューブに黒の文字で"PERMANENT LEMON"と書かれているアクリルガッシュ。正に檸檬のような爽やかな黄色が色見本としてチューブの蓋の手前に載っている。
「さんきゅ」と礼を述べられて、結梨はとんでもない、とでも言うように肩を少し竦めると、チューブをポケットにしまった。
「結梨のはどれなん?」
「わたしのはね、こっち」
賀寿を手招きした。木製の机の合間を縫っていく。体格差があるので、するりと進んでいく結梨と違って、賀寿は時折机にぶつかって、「あ、イタ」と声をあげたりしていた。同級生たちが不思議そうな顔をしてこちらを見ているので、結梨は曖昧に微笑んで返した。
結梨が絵に取り掛かっていた席まで辿り着くと、忘れないうちに、まずはポケットの中のアクリル絵の具をケースに仕舞った。洗濯してしまったら一大事だ。
そして、隣に立つ賀寿を見上げた。要よりは小さいが、高校の中でも彼は身長がかなり高い。少しだけ不思議な感覚になった。
「へえー、思ったより本格的だいね」
「まだ途中だから、その、見せるの恥ずかしいんだけどね」
「んなこと言わんでええがね」
照れ臭そうに頬を掻くと、頭にポン、と軽い衝撃がやってきた。
「ちったぁ自信持ちいって言ったべ!」
「え?」
賀寿の手が頭に載っていた。思わずきょとんとしてその顔を見上げると、むっとしたように唇を尖らせていた。結梨の視線に気が付くと、軽く掴まれて、ガシガシ、と頭を振られる。「ひゃああ」となすがままにされて、結梨はふらふらと体を揺らした。
「目が回った」ぼうっと定まらない視点に、両手で頬を包む。賀寿は呆れたように鼻で大きく息を吐いた。
「ったく、妹が増えたみてぇだで」
「えっと、ガジュさんみたいなお兄さんは、いいと思います」
「だぁーこといって! あほちんかや!」
頓珍漢な答えをした結梨に、「そうじゃねぇべ」と言いながらも、賀寿は照れ臭そうに首筋を撫でている。
「これ夏みかんだべ?」
賀寿は顎先をキャンバスに向けて、結梨の描いた絵を見て言った。
ランチョンマットの上に転がる、橙とも黄色とも言い切れぬ色合いの夏みかん。その表皮は小さな粒を残しながらも、艶やかで、鮮やかな初夏を感じさせた。
「うん」結梨は頬を綻ばせながら答える。
「家にお祖父ちゃんから送られてきた酸っぱいやつがあってさ」
「そおけぇ、結梨の絵だと甘く見えるがね」
「食べたら、びっくりしちゃうよ」
夏みかんは熟しても、酸味が取れないものが多い。特に、父方の実家に成っているというそれは、毎年送られてくるが、そのまま食べるには酸っぱすぎる。インテリアになるか、下処理を丁寧に行って砂糖と煮込んでマーマレード・ジャムになるかだ。記憶を辿っても、前者が殆どだったが。
綺麗な色の夏みかんは、見ているだけでも少し甘酸っぱい気持ちになる。
結梨は後ろで手を組んで、愉しげにふふ、と声を上げた。
「これは?」
すると、賀寿がすぐ近くの机に置いてある紙に気がついて、手に取った。
「あ、今日配られたやつなの」
「へえ、美術部も本格的にやんべな」
そこには、大きく「第六十二回東京都学生美術展」と書かれていた。
「結梨は出すん?」
結梨は頬を緩めて、「うん、そのつもり」と頷いた。
「ふうん、この夏みかんじゃねぇんきゃ?」
「これは、応募しないよ」
「なんべぇ勿体ねぇ」
つまらなさそうに肩を竦めながら、賀寿は美術コンクールのチラシを元の場所に戻した。
「帰ぇったらみかんゼリーでも食うべ」と伸びをする姿に、結梨は笑みを堪えきれず、「わたしもそうしようかな」と呟いて、へにゃりとも目尻を下げて笑った。
「そういや、兵藤に会えたん?」
ふふ、と肩を揺らしていると、賀寿は尋ねてきた。
「え?」不意の問い掛けに目を瞬かせる。
「言いてぇこたあるって言ってたべ?」
「あ、うん」
そうだ、グランプリ戦で清春に伝言を伝えてくれたのは他でもない彼だった。賀寿からの言葉を聞いて、清春はあの日結梨を待ち伏せした。
部活中はなるべく考えないようにと隅に押しやっていた記憶が顔を覗かせて、お腹のあたりが疼く。
「えっと、無事会えたよ」
それらをひた隠すように、結梨は染まる頬をあげて目尻を思い切りくしゃっと皺くちゃにして笑った。
わざとらしすぎるかと背筋がひやりとしたが、賀寿は微かに眉を寄せたあと、すぐになんでもなかったようにいつもの調子に戻った。
「そうなん。なら安心したやい」
「ガジュさん、伝えてくれてありがとう」
「優しいよね、本当」結梨は頬を掻く。
「ん、気にすんでねぇで。面白いもん見れらいな」
面白いもん?
結梨が首を傾げると、賀寿は意味深に口元を釣り上げるだけだった。
