あっという間に一週間は過ぎていった。
気が付けばもう四月も終わろうとしていた。日差しは、日に日に強く照りつけるようになり、鼻孔を擽る香りが少しずつ夏に近づいている。校門前の桜並木もすっかり緑色に変わり、いつもの風景を取り戻していた。
変則的だった生活のリズムも徐々に整って、高校生活にも慣れた頃である。新たな生活への高揚も鎮まって、周囲の生徒の制服の着こなしが崩れてきたり、浮き足立った雰囲気が落ち着いて、すっかり平常運転に近付いた。
結梨は友人と学校の最寄駅で別れると、一人電車に乗った。帰宅ラッシュよりかは少し早い時間だったので、運良く車内は空いていた。
いつものように、結梨は扉の前のスペースに立って、心地の良い揺れに身を預けながら、外を眺めた。
すっかり日も長くなって、窓から晴れ渡った空が覗いている。この時間から夜に向けて、様々な色彩を帯びていくそんな空が好きだった。特にこれからの時季――初夏は空の変化が美しい。青々とした緑の香りの中で、少しずつ黄色を帯びて、次に灰色や紫色、そして、紺色を孕んでいく。そんな風情ある移り変わりを、ゆっくりと味わうことができる季節だ。
青が薄まり、そして、尚、深まっていく青い色彩は、空の無限さを呼び起こす。どこか心を落ち着かせてくれるようで、自然の尊さに胸を熱くさせられる。
空というのは、不思議だ。いつ見たってそこに同じものはないのだから。
今目の前にある空を切り取って、いつでも眺めることのできる“窓”を人々の人生の中に作れたらいいのに。結梨はぼんやりと考える。
どんな絵の具を使ったら、あの空を描くことが出来るのか。空の“あお”の構成色は? 筆は何を使おう? どうやって描く?
胸の奥が、じくじくと熱くなっていく。どこかむず痒くて、じいっとしていられなくなる。
家に帰ったら少し試してみようか、結梨はふと口元を緩めた。
自宅の最寄り駅に着くと、傾いた太陽が、空や辺りを金色に染め始めていた。
慣れた足取りで、ホームから改札へと向かう。駅前のマンションの向こうから、西陽が強く差していた。定期入れをスクールバッグから予め取り出しておいて、外側のポケットに出しやすいようにしておくと 、一度足を止めて、歩いているうちに下がってしまった靴下を立ったまま器用に上げた。そのまま、スカートのひだを整える。夕方になり気温が落ち着いてきたものの、汗ばんでしまった首筋を、せっけんの甘く爽やかな香りがするシートで拭った。
改札という表示が見えてくると、結梨は定期入れを手にする。疎らな人の流れに沿って、するりと改札を抜けた。
画材屋にでも寄って行こうかな、とのんびり定期を鞄にしまいながら、券売機の前の三段の短い階段を降りたところで、結梨は身を固めた。
赤い看板のコンビニエンスストアを正面に、駅を出てすぐ左手。クリーム色の壁に、ポケットに手を入れながら背を預ける美少年の姿がそこにあった。彼は空を眺めている。
「兵藤さん?」
結梨が恐る恐る声を掛けると、彼は視線だけを寄越したあとに、眠たげな瞳を見開いた。
「如月」暫くして、彼は微かに彼女の名を呼んだ。
「どうしたの? こんなところで」
尋ねるが、返事はない。清春が黙ってこちらを見ているその合間にも、通り過ぎていく女の人たちが皆、彼を見て頬を染めていく。
黒に近いダークグレーのブレザーと、ストライプのスラックス。無造作に放たれたブレザーの前ボタンとシャツの首元。どこか無頓着そうに見えて、かえって清春らしい着こなしだ。だが、開けられたシャツの合間からは、鍛えられた鎖骨が見え隠れしている。
結梨も彼の姿を頭のてっぺんから足のつま先まで一気に盗み見ると、同じようにほんのりと頬に熱を帯びた。
「兵藤さん?」
清春は目を見開いて結梨を見たまま。
少し気恥ずかしくなって、風に攫われた髪を耳にかけた。
「あの……」もう一度声を掛けると、「悪い」と言って、彼は視線を逸らした。
「もしかして、たたらと待ち合わせ?」
「いや」
もたれ掛かっていた姿勢を直して、清春は小首を傾げる結梨の正面に向き直った。
その拍子にふわり、彼の爽やかな香りが結梨の鼻孔に届けられた気がした。
「如月を待ってた」
えっ、と声を上げて、結梨はまじまじと清春の顔を見る。
「わたし!?」
「うん」
「え、じゃあ、もしかして、ずっと待ってたの!?」
「そうだけど」
ぎょっとする結梨とは正反対に、なんか変なことであるのか、とでも言うようにのらりくらりと首が上下に振られた。
――どういうことだ!? もしかしたら、自分が勘違いをして、待ち合わせをすっぽかしてしまったのかもしれない、と心配になったが、頭の中のどこを探っても、清春との約束はなかった。何かあるのだろうか。まさか自分の最寄駅に彼が立っているとは――しかも、自分に用事があるというのだ――思わず、結梨は混乱してしまっていた。
「ごめんねっ! その、兵藤さん待ってるの知らなくて」
「それはそうだろ。言ってないし」
呑気に欠伸を噛み殺している清春に――言ってくれたら、もっと早く帰って来たのに! ――と心の中で叫んだ。
「どれくらい待った?」
「そんなに。寝てたし」
「立ったまま!? 危ないよ!?」
「そうか?」
はてな顔でこちらを見るので、結梨は清春に、もっと自分の格好よさを自覚するよう叱りたくなるのを堪えるのだった。
ここまで来てもらったのもなんだから、と結梨は清春を連れて、家へと向かっていた。彼を自宅に上げるのも迷ったものだったが、「どっか入る? それとも、その……お茶くらいなら、出すけど」と言葉を濁しながら清春に尋ねたところ、「じゃあ、お邪魔します」と言われてしまったのである。その瞬間、自分の出した選択肢を悔やんだ。
多々良以外で男子を家に上げるなど、初めてだ。しかも、多々良の次が清春なんて――ハードルが一気に上がってしまった。彼を上げられるほど、家が綺麗だったかを必死に思い出しながら、選択肢に入れなければよかった、と頭を抱えたくなった。
結梨はライナスの毛布のように鞄を前でぎゅっと抱きながら、隣を歩く清春をちらりと盗み見る。
見上げるほどの身長、制服の上からでもわかる、引き締まった肉体。初めて二人で夜道を歩いた時よりも、さらに大人っぽく成長したその姿には、彼が独特に醸し出す憂いや気怠さとともに、色気が香っていた。
結梨が想像していた以上に、格好良くなっていた。彼以上に麗しい男の人など、見たことがないと思うくらいに。
それだからか、彼と話すのも慣れたと思ったのに、胸が高鳴って仕方がない。今、二人で自分の家に向かっているというシチュエーションのせいで、意識してしまっているからかもしれないが。緊張して余計なことを喋り出さないように、口を噤む。
――格好良い。
胸の奥がむず痒い。結梨は緩みそうになる頬を堪えるのに必死だった。
「なに?」視線に気がついた清春が瞳を擡げて結梨を見た。
「あっ、や、高校の制服初めて見るなって」
「ああ、そういや、高校上がって会うの今日が初めてか。別に、そんな変わらないだろ」
いやいや、と思い切り首を振りたくなったが、「そうかな?」と、ほんのりとピンク色の顔で曖昧に苦笑いを返した。
「そういう如月こそ」
「うん?」
「……なんでもない」
清春はふい、と視線を戻した。
もう少し見ていたい気もしたが、そんな勇気はないので、結梨も前を向いた。他愛もない会話と沈黙を繰り返しつつ、時折密かに視線を向けるのが精一杯だった。
商店街を歩いていく。駅前の長閑さとは違って、すでに夕飯の支度に走る人たちで、賑わい始めていた。
隣の清春はとにかく目立つ。フロアの上でもそうだが、燕尾服を脱いで道路を歩いているだけでも、その美しさは健在だ。どこかアンニュイな印象がミステリアスで、思わず人々が振り返るのがわかる。
それに少しばかり――いやかなりかもしれない――ショックを受けながらも、結梨は出来る限り背筋を伸ばして歩いた。
「ねえ、兵藤さん。今日わたしが違う改札から出てたら、どうするつもりだったの?」
――突拍子もないことをするよなあ、と少しばかり呆れながら結梨は尋ねた。
「別に、どうしようもしない」低く落ち着いた声で彼は答えた。思わず、ぽかん、と口を開けてしまう。
「え?」
「その時はその時」
「ええ、そんな」
「正直、考えてなかった。今日何も無いし、何時間でも待つつもりだった」
何気なく言ったようだが、その言葉はとんでもない威力を持っていた。ゆっくりと言葉を噛みしめるように、結梨は目を瞬かせて清春を見上げる。
彼は飄々とした顔付きで、切れ長のシャンペントパーズの瞳を結梨に落としていた。さも当然のことを言っているように「何か変なこと言ったか」とでも言い出しそうな表情である。
またこの人は――と結梨は熱くなっていく顔を誤魔化そうと、「兵藤さんは本当……!」とふにゃふにゃと呟いて、両手で顔を覆った。
「なに?」
「ううん。良かった無事会えて」
忙しなく働く心臓を落ち着かせるように、大きく息を吐くと、「そうだな」と相槌が聞こえた。
商店街を抜けると、話は週末のグランプリ戦の話になった。
「そういえば、グランプリ戦、出たんだよね?」
「ああ。ガジュから聞いたのか」
「うん。先週、言ってたから」
はにかみながら「お疲れ様」と言うと、「ありがとう」と柔らかい声が返ってきた。
今日は月曜日。週末に大会に出場したというのに、清春はなんともない様子で、疲れを微塵も感じさせない。歩き方も、怪我をしていたというのを忘れさせるほど――もう既に、三月には完治していたようだったが――相変わらず綺麗だ。
結梨は彼の体力と気力に感心した。もし、土日に体育祭でもあったら、自分は一週間筋肉痛と疲れに悩まされるだろうに。想像するだけで白目を剥きたくなった。
「復帰戦、どうだった?」
「まずまずだな。でも久々にしてはいい感触だった」
その声色がいつもより高くて、きっと愉しかったのだろうと想像した。結梨は「そっか」と相槌を打って、ゆるりと頬を緩める。
「結果、聞いてもいい?」
「富士田やガジュから、何も聞いてないのか?」
「うん。今日は会ってないしね」
そういえば、と、結梨は多々良や賀寿に会いに行こうとして、タイミングが無かったのを思い返した。朝、多々良の教室をチラッと覗いた時も居なかったし、昼休みは、クラスの友達と一緒に昼食を食べた。登下校や昼食を約束する日もあるが、毎日そうしているわけではないので、会わない日や会えない日もあるものだ。多々良とセットである賀寿も、また然り。
明日でも会えたら、賀寿にも「お疲れ様」と告げよう、結梨は考えた。「おん。まーず疲れたべや」とでも言うだろうか。しかし、もしかしたら彼も根っからのアスリートだから、「まだ踊り足んねぇくらいだべ」なんて肩を回すかもしれない。
ともかく、朝、登校する前に何かお菓子でも買っておこうかな――うんうん、とひとりでに頷くと、二つの瞳がじいっと此方に向けられていた。
「あ、ごめん。それで、えっと、どうだった?」
「そんな遠慮しなくてもいいぜ」
「え?」
「勝ったから」
「本当!?」
結梨がパッと目をこれでもかと大きくて清春の方を向いたので、かえって彼は驚いたように目をぱちくりと瞬かせた。
「優勝!?」
「ああ」
「うっそぉ」と頬に手を当てる結梨に、「嘘じゃない」と清春は目を瞑って、鞄を持ち直した。
「すごいね!」
「そうか?」
何かを誤魔化すように眠たげな瞳を擡げて首を傾げる。だが、その瞳は微かに細められている。
結梨はそれには気が付かないが、少しばかり息を荒くして、大きく頷いた。
「いやいや、すごいよ! だって優勝って、一位でしょう?」
「まあ、そうだな」
「一位ってことは、一番ってことでしょう!?」
「何回言うんだ、それ」
「同じことだろ」ついに、清春がふっと笑った。それは、微かに口元を緩めるほどの笑みだったが、初めて、三笠宮杯で見たときの表情よりも、うんと柔らかくて、思わず見惚れてしまいそうになった。
「ごめ、ちょっと興奮しちゃって」
「如月は面白いな」
「それ、どう言う意味!?」
「多分、良い意味」
結梨がきょとんとして眉を上げると、すぐに彼は瞼を閉じて、前を向いてしまった。彼は本当に読めない人間である。結梨はササっと乱れた前髪を指先で揃えた。
「とにかく、おめでとう、ね? あの、兵藤さんが勝ってくれて嬉しいの」
「それガジュにも言ってやれよ」
「えっ、それは怒られそうだからやめとく」
真顔で首を横に振れば、今度はフッと鼻で笑われたのだった。
「そういえば、今日はどうして?」
聞くなら、緊張が解れてきた今だと思い、結梨はさり気無く尋ねた。
今更だが、わざわざ、路線を乗り継いでまでやって来て、来るかもわからない人間を待っていた清春が、不思議だった。結梨としては、羨望していた清春に会えるなんて、またとない幸運であるし、完成した絵を見せたいと思っていたので――家に上げることになったのは、本当に予想外だったが――小躍りしたくなってしまいそうなほど、喜ばしいことだ。だが、彼が自分を訪ねてくるなど想像の範疇をサラリと超えてしまって、その理由が彼女には浮かばなかった。
首を傾げて清春を見上げた結梨に、何か物言いたげな眼差しが向けられる。視線が絡み合う。え、と瞬きをする結梨と清春は、静かに見つめ合った。
暫くして、清春は小さく息を吐きながら、口を開いた。
「言いたいこと、あったんだろ?」
なんでそれを――不意打ちすぎて、言葉にならずに、結梨は足を止めた。清春も、つられるように数歩先で立ち止まると、ゆっくりと振り返った。
「ガジュから聞いた」
「そっか……ガジュさん、伝えてくれてたんだ」
「ああ、言いたいことがあるけど、会ったら直接伝えるや――って」
「そこまで!?」
一字一句違わず、自分でも忘れていたような言葉を伝えてくれたことに、驚きながらも結梨は賀寿に感謝した。
賀寿と出会った日のことを思い出した。伝言を頼もうとして、結局は辞めたと言うのに、彼は結梨がそうしたがっていたことに、きちんと気が付いて、気を利かせてくれたのだ。
賀寿というのはそういう男だ――本当いい人だなあ、と彼のことを思い浮かべると「気にすることねぇべ」と照れ臭そうに言う姿が想像できた。
清春が「行かないのか」というので、結梨はハッとして彼に追いついた。
「でも、もしかして、その為に?」
おずおずとした様子で、結梨は尋ねる。
「ああ」
「わざわざ?」
「気になったから、聞きにきた。どこかで会うのを待つより早いだろ」
低くゆったりとした声に、自惚れてしまいそうになる自分がいた。
治ったはずの熱が、再び体の底から湧いてくる。感極まって泣きそうなるのを堪えて、唇を噛む。指先が震えてしまうから、ぎゅう、と握り締めた。
――わたしが伝えたいことをわかってくれてるんだ。それだけではない。それを、聞くのを彼も待ち侘びてくれていたんだ。
隣を歩く清春に、その熱が伝わってしまうのではないかと思うくらいに、血液が身体中を駆け巡ってジンジンしている。まるで、全身が喜んでいるようだった。ぎゅう、と目を瞑って、その喜びに浸る。
「嫌だったか?」黙り込んだ結梨に、清春が見兼ねて尋ねた。
ふるふる、と頭を振る。
「全然、むしろ、嬉しいよ」
目に薄っすらと膜を張りながら、彼女は目尻を下げて、頬に浮かび上がる感情を露わにした。
辺りを染め始めた金色が、少しずつ濃くなっていっていた。そこかしこで、きらきらと何かが煌めいているようで、黄昏の始まりを緩やかに告げていた。結梨は爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「泣きそうになるくらい?」
「こ、これはっ! 違うの! 目にゴミが入って!」
「へえ、見てやろうか?」
ずい、と急に寒く距離が縮まって、清春の端整な顔が目の前にやって来た。長い睫毛が瞬きの度に揺れている。半開きになった瞳の虹彩までもが見えそうになって、思わず結梨は反射的に体を仰け反らす。
「見っ!? いやっ、いいから!」
「揶揄わないでっ」と両手で目をガードをするも、その下では、これでもかというほどに真っ赤に顔を染め上げて、瞳を潤ませていた。
清春は、つまらなそうに澄まし顔をして正面に直ると、こっそりと片側の口角を上げていた。
