15

 多々良と賀寿が、要の出る東京ダンスグランプリを見に行っている中、結梨は部活を終えて帰路に着いていた。
 先程、携帯を確認すれば、その多々良から「仙石さんたち決勝進出! 凄すぎて圧倒されてる」というメールが来ていた。それに頬を緩めて、結梨は後楽園に思いを馳せた。
 決勝進出とは、流石要だ。プロのボールルーム・ダンスは、きっと凄いのだろう。長身で、日本人離れした体躯をしている要のことだから、一層フロアで目立っているに違いない。
 多々良の興奮する姿が手に取るように脳裏に浮かぶ。
 ダンスをしている彼からしたら、間近で要の踊りを見ることが出来るなんて、これ以上のことはないはずだ。しかも、多々良は目が良いから、色んなことを吸収して帰ってくるだろう。結梨は呑気にもそう考えていた。実際は、圧倒されすぎて、彼はかえって自らのダンスに悩みを抱くようになるのだが。
 そのまま優勝しますように、と願いながら、多々良からのメール画面をもう一度見て、返事を打ち込む。
「たーくん、最後までしっかり観てくるんだよ! わたしの分の応援もよろしくね! っと」
 想いを込めてボタンを押す。暫くして、紙飛行機が飛ぶ画面から、次の画面に切り変わった。送信完了だ。
 よし、と携帯を閉じると結梨は顔をあげた。
「――あれ?」
 その先に、どこかで見たような顔の男の姿が見えて、結梨は目を瞬かせた。
 太陽が傾いて、西陽が強く辺りを照らす黄昏時。水色の空がほんのりと灰色を帯び始めた、なんてことない、いつもの帰り道だ。そこに、カメラを構えている彼の姿があった。デジカメや携帯カメラでも無く、黒い立派な一眼レフのバインダーを覗いている。
 カシャカシャ、と気持ちのいい音がして、男は構えていたその手を下ろした。結梨はその一連の動きをじいっと眺めていた。
 そして、男は一呼吸おいて視線をあげると、彼女がいることに気がついた。
「お前……」
 上げられた顔に、結梨はハッとした。
「あの、この間はぶつかりそうになって、ごめんなさい」
 居住まいを正して、ぺこりと謝ると、「別に、気にしてねぇ」と、ぶっきらぼうな答えが返って来た。
 そう、目付きの鋭い彼は、先日結梨がぶつかりそうになった、多々良のクラスメイトだ。制服を着ていなかったので、すぐには分からなかったが、その顔立ちで思い出した。
 おずおずとした様子で、感謝の意も込めて、結梨はもう一度頭を下げた。
「あの、写真、好きなの?」
 結梨はゆっくり歩み寄ると、彼の手の中にある一眼レフを見て言った。
「あー……これは、その……」
 バツが悪そうに、彼は視線を逸らす。手の中のカメラを隠すことも出来ず、添えられた指先が微かに動いている。
 結梨は笑いもせず、丸い大きな目で彼の顔をじいっと見つめていた。幼馴染によくやるような、無垢な眼差しだった。
 その視線に耐えきれなくなった彼が、観念したように、「……悪いかよ」と小さく声を捻り出すと、結梨は勢いよく首を振った。
「全然! 一眼レフ使えるなんて、凄い!」
「慣れれば簡単だろ」
「ええ、嘘だ。簡単じゃないよ絶対!」
 笑みを浮かべて、勢いよく否定する結梨に、彼は視線を逸らし、頭をガシガシと掻いた。
 その姿がどこか照れ臭そうにしていて、結梨は彼のことを恐れていたというのをすっかり忘れていた。
「わたし、同じ学年の如月結梨です」
 そういえば名前を言っていなかった、と思い出したように自己紹介をすると、室井は難しそうな顔をしたが、渋々といった様子で答える。
「……室井だ」
「室井くん!」
「よろしくね」という結梨に、室井は「勝手にしろ」と言い放って、カメラを仕舞おうとした。だが、再び結梨にじい、と見つめられて、動きを止める。
「なんだよ」
「何を撮っていたの?」
「別に、なんだっていいだろ」
 結梨は室井の態度に微かに戸惑うが、そのまま彼のことを見つめていた。
「あーもう、なんだよ!」
 その視線に、室井は苛立ちを隠せずに、声を荒げながら言った。
「あの……きっと、綺麗な写真を撮っていたんだろうなって思って」
 結梨はあたかも空気を読んでいないかのように臆せず、苦笑いを浮かべながら、夕焼けに染まる空にちらりと視線を向けた。
 室井は思わぬ言葉にハッと言葉を失った。
「よかったら、写真見せてもらえないかな?」
「ハ?」
 自分でも不思議な程、積極的な姿勢だと結梨は思った。ほぼ初対面に近い彼に――しかも一見取っ付きにくそうな男に――こんな申し出をするなど、彼女を知る人が見たら驚くに違いない。だが、彼のカメラを構える横顔が、真剣そのものだったのを見ていた。だからだろう。
 何だこいつ、と変な人でも見るかのようにとぼけた顔をした室井に、結梨は慌てて否定をする。
「ごめん、変な意味じゃなくて! 写真撮るの好きな人って、センスがあるっていうか。構図を考えるの上手いじゃない? だから、勉強っていうか」
 捲し立てるように言うと、少しの好奇心が篭った目を向けられる。
「カメラ、やってんのか?」
「ううん、カメラじゃないけど、絵を描くのが好きで」
「お願いっ」と顔の前で手を合わせられて、室井はたじろぐ。
 一つ舌打ちをすると、仕舞おうとして電源を切った一眼レフを再び起動して、慣れた手つきで操作した。そうして、首からストラップを外して、そっと結梨に渡す。
「ほらよ」
「いいの!?」
「お前が見たいって言ったんだろ」
「ありがとう!」
 結梨はパアッと顔を明るくして、カメラを大事そうに受け取った。室井は結梨に簡単に操作を説明する。「ここと、ここで次行ったり戻ったりすっから」と、ボタンを実際に押して見せた。
 静かに一眼の画面に魅入る結梨。室井の撮った写真を一枚一枚、ゆっくりと見ている。
 それを室井はそわそわと落ち着かない様子で視界に入れながら、ジーンズのポケットに手を突っ込んで、身体を微かに揺らしていた。
 暫くして、結梨が、ほう、と息を吐く。
「やっぱり、上手……」
 室井はびくりと肩を揺らして目を丸くして、結梨をみた。
「室井くんには、こんな風に見えてるんだね」
「綺麗」と言う結梨は相変わらず、画面に釘付けだ。惚れ惚れするような美しいシーンが収められた写真たち。それを撮ったのは、他でもない彼、室井だ。
 ――室井は、自分に似合わないと言われた思い出を胸の奥深くに仕舞い込んで、その結梨の横顔を眺めていた。
 大きな瞳が自分の好きなものに真っ直ぐに向けられている。瞬きをする度に長い睫毛が揺れて、やがて、柔く細められる。なんて優しく、慈しむような目で見るのだろう。夕陽に照らされて仄かに橙に染まる頬と、木苺のゼリーのようなぷるっとした唇が何故だか艶めいているようで、室井はうまく呼吸ができなくなった。
 すう、と浅く息を吸って、飲み込む。
「すごく、素敵だね」
 呟く結梨に、室井は顔を赤らめて、視線を逸らしながら、「そう、かよ」とぶっきらぼうに言い放って、アスファルトに転がった小石を蹴飛ばした。

 週が明けてまた一週間が始まった。
 結梨は新しく出来た友人達と、朝の挨拶を交わしながら、廊下を歩いていく。今日は一限目が化学だから、寝ないようにしなくては、体育があるから疲れる、だとかそんな事を話しては一日の始まりを緩やかに笑う。
 多々良の教室の前を通ると、結梨は少しだけ足を止めた。
 窓際の席で、多々良が女の子と話をしているのが目に入った。どうやら、先日、結梨が借りた席はあの女の子の席だったようだ。長い赤茶の髪の、すっきりとした美人が振り返って多々良を見ている。
 結梨は思わずうわあああ、と声をあげたくなって、慌てて手で口を覆う。
 彼も、やるじゃないか。あんな美人な子と仲良くなれるなんて。
 結梨からは彼らが仲睦まじく話をしているように見えた。実際はそうでもなかったのを、後に彼から知ることになるのだが。
 むくりと起き上がった好奇心に、今度どんな子かこっそり聞いてみよう、と生暖かく彼らを見守る。
「あ」
 すると、結梨は視線の先に、ある人物を見つけた。
 気怠そうに机に伏せながら、携帯を弄っている。まさか、多々良の後ろの席だったとは――彼らの関係を彼女は知らない為――もう仲良くなったかな、と呑気にも彼女は頬を緩める。
 すると、頬杖をついて顔を持ち上げた彼の視線が、結梨が立っている廊下の方へと向いた。
「室井くん」
 届くわけがないとわかりながらも、小さく彼の名を呟いてはにかむ。そして、結梨は控えめにひらりと手を振った。
 目を丸くして固まる室井。
 いきなりこんな風に馴れ馴れしくされても、戸惑うだろうか。結梨は少しだけ不安に思った。彼女の男子に対する肖像は大半が小学生の頃の記憶のままだったからだ。それでも、少し周りを見渡せば、教室の中で気が付いているのはきっと彼だけだった。彼女は愁眉を開く。
 「結梨?」と声をかけられて、結梨は思考から身を起こし、慌てて前を向いた。
「どうしたの? 行くよ」
「ごめん! 今行く!」
 結梨は余韻に惹かれて、外した視線をもう一度室井へと戻した。
 教室の奥、一番端の一番後ろの席。彼は頬杖を付いていた方の掌を、こっそりと結梨に向けていた。彼の表情はよく見えない。だが、気のせいではないだろう。
 新たな友達が増えたような気がして、嬉しくなった。笑みを深くして、結梨は友人の後を小走りで追った。