「たーくん、のクラスはまだかあ」
結梨は終礼が終わって、多々良の教室の前へとやって来た。
だが、扉が閉まっており、彼のクラスはまだ終礼中のようだった。それが分かると結梨はスクールバッグを肩から下ろして、両手でぶら下げながら、窓側の壁に寄り掛かる。西日に照らされて、クリーム色の床に彼女の影が映った。
それを眺めながら、まだかなあ、と少し首を傾げて多々良を待つ。遠くからはガヤガヤと下校していく生徒の喋り声、目の前の教室からは男性教師の声が微かに聞こえてくる。
結梨は、そうっとそれらの中に佇みながら、清春のことを考えた。
「兵藤さんも、高校生なんだよなあ」
ぽつり、ひとりでに呟く。
初めて見かけた時、まさか彼が自分と同い年などとは思わなかった。麗しい見た目もそうだが、彼の眼差しや漂わせる空気感が、結梨は同年代に感じたことのないものだったからだ。とても大人びて見えて、実際の年齢を知った時には驚いたのを覚えている。
彼をそう見せた原因は、未だにはっきりは分からないが、今では年相応に思えるようになっていた。結梨が彼ときちんと話さなければ、そうは思わなかっただろう。
少しばかり茶目っ気があって、抜けている清春の面は、いい意味で結梨に衝撃を与えた。
そんな彼も、同じ高校一年生。最後に駅で階段から転げ落ちそうになるのを助けて以来、会っていない。
「また、階段から落ちてないかなぁ。大丈夫かな」
今、何しているのだろうか。どんな高校生になっているのだろうか。きっと、さらに格好良くなっているのだろうな。
会いたい。清春の顔を、一目見たい。
胸をぽわっと温かくして、結梨は薄っすらと表情を緩める。
そんな結梨の前を数人の男子生徒たちが通り過ぎていく。
一人が肘で友人達を小突いて、皆で一様に彼女のことをチラリと視線に入れているが、結梨は考えることに夢中で気が付かない。
特別、目を惹くわけではないが、どこか華奢そうで穏やかな雰囲気を持つ結梨。女子校出身ということもあってか、周りの女子とは違った空気を醸し出している、と男子生徒の噂に上がり始めているようだった。高校に入ってからするようになった化粧も、程よく彼女の魅力を引き立てて、あどけなさの中に色気を生み出している。
「あの子、ちょっと良くね?」という声が少し離れたところで聞こえる。結梨はそれが自分のこととは思いもしなかったが。
その時、日直の号令が聞こえて、ガタガタと一斉に物音がした。そして、間髪入れずにガララ、とドアが開かれた。
「あ、終わった」
部活動に向かう為か、生徒たちがぞろぞろとドアを通り抜けていく。
結梨はそっと考え事をやめて、壁から身体を浮かせて、ふらりとドアの前に身を寄せた。
ひとりふたりと生徒を見送って、しばらく経っても、多々良はまだ出てこない。
「たーくんどうしたんだろう」
ひょっこり、教室を覗き込もうと顔を出した、その時。
「っ!」
目の前に大きな影がかかって、結梨はきつく目を閉じた。
「っぶねえな」
だが、男の声が聞こえただけで、想像していた衝撃はなかった。
結梨は恐る恐る目を開くと、目付きの悪い男が結梨を見下ろしていた。
髪の毛は多々良よりも少し長い黒髪。前髪がさらりと額に掛かって、彼の動きに合わせて揺れている。結梨は彼の目付きに一瞬動きを止めた。
急に顔を出したから、彼にぶつかりそうになってしまったようだったのだ。だが、彼が踏み止まって、それは避けられた。
「あのっ、ごめんなさい……」
結梨は意識を戻して、慌てて謝る。
「……気をつけろよ」
「はい……」
出した顔を戻して、身を小さくする結梨。
自分のそそっかしさに羞恥を感じていると、男は彼女を一瞥だけして、教室から出ていった。その背を見送りながら、結梨はほとほと気をつけよう、と心に誓う。
気を取り直して、そうっと教室を覗いた。
「たーくん!」
「結梨、ごめん!」
多々良は教室の掃除をしていた。
「掃除当番?」
「ううん。手伝ってる」
「たーくんは優しいね」
「わたしも手伝うー」と結梨も掃除用具入れから塵取りを取り出して、箒を持っている多々良の近くに寄るのだった。
「そういえば、今週末仙石さんの試合があるんだって」
「要さん? 帰って来たんだ?」
「うん! イタリアから昨日帰って来たんだって」
「この間は上海じゃなかったっけ? プロって忙しいねえ」
塵取りにゴミを集めて、結梨はそれをゴミ箱に捨てに行く。多々良のクラスメイトの女の子から礼を言われたので、にっこり笑って返した。
掃除用具を戻しに行こうとすると、多々良が手を伸ばして来たので、その手に塵取りを渡した。
「結梨、一緒に行く? ガジュくんも行くんだけど」
「えっ、行きたいぃぃ」
掃除用具を戻しながら、「じゃあ」と表情を明るくする多々良に、結梨は息を吐いて、肩を落とす。
「でも、部活があって行けないや」
「もう始まるんだ?」
「うん。まだ仮入部期間だけど、参加していいって」
「そっか。それなら仕方ないよなぁ」
要の試合を見たいのは山々だったが、部活の先輩たちに参加する旨を伝えてしまっていた為、断念せざるを得ない。何事も、始まりが肝心だ。
残念そうにする結梨に、多々良は「大丈夫」と続ける。
「多分、っていうか、絶対まだあるから!」
「そ、だよね。いつかはちゃんと見て見たいな」
「まだ、見たことあるのは三笠宮杯だけだもんね」
「そうそう、兵藤さんとしずくちゃんの踊りももっと見てみたいし、ガジュさんも凄いんでしょう?」
「凄いなんてもんじゃないよ、想像を超える凄さなんだよ!」
「あー見たい見たい見たいー!」
窓側の多々良の席の前に座って、体を子どものように揺らした。
小学生の頃の結梨のままで、多々良は笑みを溢す。結梨も思わずとってしまった行動に、少しだけ照れ臭そうにすると、多々良が帰り支度をするのを眺めた。
少しずつ傾き始めた日差しは、洋梨のコンポートのように辺りをまったりとした黄色に染めている。放課後の教室。少しずつ静かになっていく校舎内。窓際の特等席で、窓枠に背中を付けながら幼馴染と他愛もない会話を交わす。まるで漫画のようなワンシーンだった。
椅子に座って、立っている多々良を眺めれば、すらりとした姿勢がまっすぐと天井に伸びているようで、結梨の中の小さな多々良はもうそこには居なかった。
結梨は頬を緩める。
「たーくんは?」
「僕?」
「うん。カップル組めた?」
無邪気な結梨とは違って、多々良は途端に暗い表情で、視線を逸らしてしまった。痛いところをついてしまったようだ。溜め息まで吐いているではないか。
「えっ、なんかあった……?」
心配そうに多々良の顔を覗き込む。
「カップル、組めるか心配すぎて胃が痛い……」
「思い出しちゃった」とお腹をさする多々良に、「何を?」と聞きたいところだったが結梨は言葉を飲み込んだ。
「気楽にね、気楽に!」
「うん……」
結梨は自室に入ると、着ていた制服を脱いで部屋着に着替えた。
シワにならないようにブラシで埃をとってから、制服をハンガーに掛ける。中学生になったばかりの頃は面倒だと思っていたものの、毎日のように母に口うるさく言われたお陰か、今ではすっかり習慣化していた。
部屋の隅に立てられたイーゼルのそばに寄る。日光焼けをしないようにと掛けていた布を指先で丁寧に摘むと、そっとイーゼルから外した。現れたのは、一枚の油彩画。新聞を見開いた程の大きなキャンバスがイーゼルに立て掛けられている。
鮮やかな色彩の中に、クレオパトラの真珠のように、煌めく淡い白色の、ひらひらとしたスタンダードドレスを纏った女性の背、そしてその女性の手をとって、リードをする黒の燕尾服を着た男性。二人が、今にも次のステップを踏もうとしている。
優雅なワルツの曲が、脳裏に流れ始めた。
この先にどんな踊りが飛び出してくるのか、胸が踊る。どこかワクワクさせられるような高揚を生む、躍動感と色彩。女性の美しい背のしなりの向こうに、こちらを捉えるかのように向けられた男性の顔が描かれている。流れるような筆跡で、決して細部までは描かれていないというのに、その表情は、何故だか、笑っているように見えた。
結梨は指先でキャンバスに触れる。
凹凸のある、ざらりとした感触。少しまだ残る油彩の香りにすうと息を吸い込んで、胸をいっぱいにした。
ふふ、と笑みを漏らす。
「嬉しい」
自分で描いたものだと言うのに、何度でも見ていられる。そして、その度に胸が高鳴る。そう、あの日、多々良のワルツを見たときのように。
愛おしそうに指先でなぞっていく。
――早く、彼に伝えたい。
どんな顔をするのだろう。どんな印象を受けるのだろう。
いくらでも、そんなことを考えていられる気がして、結梨は瞳を閉じた。すぐそばに、自らの鼓動を感じる。
「兵藤さん」
彼の名前を唇に載せれば、心臓が弾けたように勢い良く、全身に血を巡らせていく。
外国人形のような精緻な顔立ちと、シャンペントパーズのような瞳。何を考えているか分からない口元が、「見せろよ」と微かに緩められる。
胸が熱い。思わず息が漏れる。
果たして、彼の鼓動はどんな風に波打つのだろうか。
