一月二月も早々に過ぎ、季節は春に近付いてきた。時折吹く風が、肌寒さの中に花の香りを載せている。
結梨は、背が伸びて短くなったスカートの裾を気にして、指で伸ばしながら、電車に揺られていた。
もうすぐ、この制服とも別れを告げる。三年前は膝頭が隠れるほど長かったのに、今ではもう膝の上の肌の白ささえ露わにしてしまっていた。校則には煩い私立女子校だったからか、そのスカート丈にどこかそわそわしてしまうが、もうほんの一ヶ月後にはそれも無くなるのだと思うと少しばかり寂しい思いだった。
結梨は昼下がりの穏やかな空気の中でぼんやりと振り返る。
三年間の中で、この半年が一番濃い日々を送ることが出来たように思えて、結梨は頬を緩めた。
それは、やはり幼馴染である多々良の影響が大きい。彼を通して新たな出会いがあり、さらには、ずっと見失っていた自分というものを取り戻すことが出来たような気がしたからだろう。
そうして、結梨は大きな決断をした。彼が、その勇気を与えてくれたのだ。
――この先もきっと、素晴らしい生活が待っている。結梨は寂寥感にそっと蓋をして、期待に胸を踊らせる。
あの日、彼が三笠宮杯でフロアに立っていなければ、きっと自分の道は変わっていなかった。受験を終えた今でも、あの時の衝撃を忘れていない。
稲妻が走るように身体中をアドレナリンが駆け巡り、この瞬間を逃してはならないと鉛筆を握った。胸の高揚と、描きたい、描かなくてはと急く気持ち。彼のあの姿は目に焼き付いて、結梨の中に今でも残っている。
目を閉じて、揺ら揺らと心地の良い電車の揺れに身を委ねる。
大きなキャンバスに、鮮やかな色彩、癖のある油彩の香りが手に取るように思い出された。
もう少しで、あの絵も完成する。
中学最後の年、更には不調の末に、大作が仕上がるとは思ってもみなかったわけで。いつまでも、多々良は結梨の恩人だ。絵を完成させるのに、何ヶ月もかかってしまったが、それが結梨には嬉しかった。
また好きなことに没頭できた喜びと、自分の中に秘めた衝動や感動、感性を形にすることの幸せを噛みしめる。
――完成したら一番に、誰に伝えようか。それを思い描いて結梨は頬を緩めた。
「兵藤さん、かな……」
伝えることが出来たら、だが。最後に会ったのは何ヶ月も前のことだから、それこそ次はいつ会えるかわからない。それでも、彼女があの日の絵にかける思いを知っているのは、彼しか居ない。幼馴染の多々良には、まだ絵を描いていることを打ち明けていないのだ。
清春に見せろ、と言われた言葉を思い出して、結梨は熱に浮かされる。
そう、彼に、一番に伝えたいのだ。
「今、なにしてるんだろう」
足はもう良くなって、ダンスの練習を再開したのだろうか。六ヶ月の謹慎も、もうそろそろ解ける時期か。
明かりに透けるように色素の薄い絹のような髪と、きめ細やかな肌、気怠げな目元――彼の姿を頭に思い描く。何を考えているのか分からないような眼差しや纏う空気が、逆に彼の繊細な美しさを増していて、結梨にその瞳の奥を垣間見てみたいと思わせる。
フロアの上の彼と普段の彼、そのどちらも、結梨はまだほんの少ししか知らない。兵藤清春という人間が、どのようにその心臓を鳴らしているのか、未知の世界だった。
勿論、彼が自分の絵を見てどんな顔をするのか、想像することも出来ない。その答えを手に入れる日を結梨はどこか待ち侘びていた。
――会いたい、なあ。
スカートをぎゅう、と握って、心の中で呟く。
見上げた先、ガラス越しの空は穏やかで綺麗に晴れ渡っていた。
『次は池袋……』
電車のアナウンスが流れて、結梨は席を立った。
乗り換えの為に電車を降りると、平日の昼間だというのに、多くの人が行き交っていた。その流れに乗ってホームを進む。良いことを考えていたからか、足取りが軽やかだ。
すると、制服姿の男子学生が結梨のすぐ前を歩いているのが目に入った。のんびりと歩いて居るのか、いつの間にか追いついてしまったようだ。
その後ろ姿がどこか見たことがあるような気がして、首を少し傾けてみるが、わからない。声を掛けるのも憚られて、ただ彼の背を見つめながら歩く。
だが、階段に差し掛かろうとした時、その身体がゆらりと揺れた。
「あぶなっ――」
結梨は咄嗟に手を伸ばしていた。
指先が彼の腕を捕らえて、ぐっと力を込めて、後ろに引っ張る。ぐらりと視界が揺れ、男の人の体が結梨の方へ傾く。流石にそれを支えきることは出来ず、勢い余ってその手を掴んだまま後ろに倒れこんでしまった。
「ったた……」
コンクリートに尻餅をついた結梨。痛みに腰をさすっているが、幸い怪我は無さそうだ。
彼女は俯いた顔を上げる。
「如月」
彼女は目を見張った。
「ひょ、兵藤さん!?」
同じように地面に尻をついているのが、あの清春だったからだ。
結梨は思わずきょろきょろと辺りを見回す。他に地面に倒れこんでいる人は居ない。ということは、彼があの男子学生だったようだ。
あの眠たげな瞳が見開かれていて、そこに自分が映っている。
まさか、このタイミングで清春に会えるとは。運命のような偶然に、思わず感動してしまうところだが、そうともいかない。
「そうだ!」
結梨はハッとすると慌てふためいて、手をアワアワと動かして清春に迫る。
「怪我、ない!?」
「俺は無い」
「良かったぁ……」
きょとん、としている清春に、結梨は安堵の息を吐いた。
多々良から彼はよく階段から落ちるようだと聞いていたが、本当にそうだとは思っていなかった。だが、目の当たりにしてやっと納得した。本当に階段から落ちるのか、と結梨は彼の体がゆらりと揺れたのを思い返しながら、まだバクバクする心臓をそっと押さえる。
また怪我でもされたら、雫達に見せる顔がない。
「はあぁ……兵藤さん、心臓に悪いよ」
「悪かった」
「もう、怖かった……」
「生きてるから大丈夫だ。心配しすぎ」
「それはそうだけど!」
何事も無かったように綺麗に立ち上がる清春。
「兵藤さん……」
その仕草でさえ洗練されていて、胸をつくものがある。押さえていた胸をぎゅ、と掴んで、思わず彼を見つめてしまう。
その顔はさながら乙女の顔で、多々良が見たら、ぎょっとするだろう。
「何?」
「う、ううん……!」
結梨は視線から逃れるように、力なく首を振った。
「如月、ほら」
清春はへたりと地面に座っている彼女に手を差し伸べた。
今度はその手をじっと見つめる。その手に触れていいのだろうか。触れたら溶けてしまうかもしれない。先程とはまた違う高鳴りを感じて息を浅くした。
だが清春は当然その様子に気が付かない。自然な仕草で上半身を屈ませて、彼女の手を取る。触れ合った肌と肌の熱。彼の温かさが一瞬で伝播する。
「ひゃっ」結梨が思わず悲鳴をあげるが、彼は澄まし顔でひょいと軽い力で彼女を立ち上がらせた。
足に地面の感覚がする。そうして、あっという間に手が離れた。
「あの、ありがと」
少しの名残惜しさを感じながら、頬を染めて俯きがちに礼を言う。
「ん。怪我、無いか」
「う、うん。わたしも平気だよ」
「なら良かった」
ぽんぽん、とスカートについた埃を払っていると、清春も肩の辺りを手でサッと拭ってくれた。思わずじいと彼の顔を見上げてしまえば、彼は首を傾げた。
先程の手といい、自然なボディタッチはダンサー故か。結梨は内心溜め息を吐きたくなった。
相変わらず、彼はマイペースだ。
「そういえば、松葉杖、無くなったんだ」
結梨は頭の中を切り替えるように、清春の姿を見て言った。
以前会った時は松葉杖を突いて、足を引きずっていたが、今ではそれらも無くなって、綺麗な姿勢で立っている。
「ああ、年明けにはもうなくなった」
「そうなんだ、もう踊ってるの?」
「筋トレは大分前からしてたから、杖無くなってすぐ始められた」
「そっか、たーくんも心配してたから、それ聞けてよかった」
清春が結梨の言葉に微かに眉を顰めた。
「たーくん?」
「あっ、その、たたらのこと!」
清春の前で小さい頃からのあだ名を言ってしまうなんて。恥ずかしさに顔を赤くして、スカートをぎゅうと握った。
「フジ田のことか」
「うん、つい癖で」
「たーくんって呼ばれてるのかアイツ」
「そうなの!」
わざわざ蒸し返すように言わなくても、と更に顔を赤くする結梨に、清春はわざとか否か、「たーくん」と小さく呟く。そして、微かに口元を緩めた。
「そのたーくんは元気か」
「……たーくんは、元気だよ。受験も終わってホッとしてるみたい」
「へえ」
――多々良にあとで怒られそうだ。そんなことを思いながら、清春に苦笑いを返す。
「でも、また兵藤さんのダンスが見れるんだね」
「四月からだけど」
「楽しみだね」
「まあ、俺も楽しみだな」
階段の前で立ち尽くしていても邪魔なので、二人は歩き出した。
清春は相変わらず大きな欠伸をしている。また階段から落ちやしないか心配になってしまったが、彼はそんなこと微塵も気にしてはいないだろう。
フロアではあんなにもキリッとしているのになあ、と考えて結梨は思わず眉を下げて口元を緩めた。
「如月は?」
「へ!?」
不意に名前を呼ばれて、結梨はびくりと肩を揺らしてしまった。
「如月の最近はって」
「あ、わたし? わたしは元気だよ! たたらとは、相変わらずだし、時々しずくちゃんとも遊んでるよ」
「ああ、仲良いよな」
「クリスマスの時からなんだけどね。この間は一緒に映画見にいったよ」
「受験お疲れ様会?」清春が首を少し傾げながら言った。
「そこまで知ってるの!?」
「しずくが言ってた」
少し柔らかくなった表情から、清春がなんとなく耳を傾けてくれていることがわかり、嬉しくなって話が止まらなかった。
「あとは?」
「へ?」
視線を感じて、横を見ると、視線が絡み合った。
物言いたげな眼差しから、結梨は清春が言わんとすることに気が付いた。
「順調、だよ」
清春はまだあの絵のことを忘れていない。
それを実感して、結梨は胸がいっぱいになって、溢れる笑みを清春に向ける。
「そうか」と一言だが、彼は優しい返事を返してくれた。
――なんか、やばいかも。
だが、その反面、急に彼を意識してしまい、心臓が少しずつ早くなっていく。とくとく。鳴り止まない心臓。ほろ酔いのピーチフィズのように染まる頬。そして、階段を一段一段降りる度に、彼の体が振動して、ふわり、隣から爽やかな香りがする。もう、ドキドキが止まらない。
結梨は清春には見えないように、一歩だけ後ろにさがって、頬に手を当てた。
暫く二人は黙っていた。周りの喧騒がどこか遠くのようで、不思議だった。だが、どこか心地良かった。
ふと、結梨は新年早々に引いたみくじの結果を思い出して、――神様ありがとう、と心の中で祈りを捧げるのだった。
背の高い清春を見上げる。
すらりとした体躯。伸びた首筋に、広い肩。長い手足。だが、それは半年前とは印象が変わっているような気がして、まじまじと視線を送る。
どこか大人びたようで、それだけではない。以前よりもがっしりとして、結梨にはとても男らしく見えた。
「兵藤さん、なんだか、身体大きくなったね」
清春は動きを止めて、微かに目を見開いた。
「怪我辛かったのに、頑張ってたんだね」と気恥ずかしそうにはにかんで、結梨は言う。
すると、清春は顔をフイ、と外に向けてしまった。
「え、どうしたの?」
その様子に、「何か変なこと言ったかな」とあたふたする結梨。
清春は口元を手で覆う。
「兵藤さん?」
「如月、うるさい」
「えっ、わたし、喋りすぎた!?」
「そう言うことじゃなくて……」
小首を傾げる結梨に、清春はそっぽを向いたままだ。
「いきなりそういうのは、やめろよ」
「そっ……!?」
だが、その耳が赤く染まっているのに気が付いて、結梨もまた顔を真っ赤に染め上げるのだった。
