青空に桜が咲き誇る四月。
甘い梔子の花の香りもそこかしこに広がり、桜の花びらとともに風に乗ってやってくる。道端には小さな緑が沢山息吹き、辺りを彩っていた。
愈々春になった。
真新しい制服に身を包み鏡の前に立つ自分の姿を見て、結梨はよし、と口元を引き締める。
スカート丈は膝上十センチ、短すぎず長すぎず。カッターシャツの上に白いカーディガンとストライプのネクタイ、髪の毛も綺麗にブローをして化粧も軽くて施してある。まだ初々しさの残る、可愛らしい女子高生がそこには映っていた。
「結梨! 遅刻するわよ!」
「はーい!」
母親の声に結梨は返事をして、自分の部屋を後にした。
高校生活も首尾上々。既に退屈な授業も見つけ始めてはいたが、毎日楽しく過ごしていた。
友達も出来たし、部活の見学にも行った。中学と変わらず美術部に入るということは結梨の中で既に決定しているが、友達に連れられて他の部活にも顔を出してみたりした。そのおかげか、漫画のように薔薇色の日々が待っているわけでもないが、新たな発見ばかりで、新鮮で刺激的な始まりとなった。
午前中の授業を終えるチャイムが鳴ると、一気に騒がしくなる。
「結梨、ご飯食べよ」
「あっ、今日ちょっと友達に会いに行こうかと思ってて、ごめんね。明日は食べよう?」
「わかった! 行ってらっしゃい」
友人たちに断りを入れると、結梨は教科書とノートを机の中に仕舞って、お弁当袋を持って席を立った。
一年の教室が立ち並ぶ廊下で、きょろきょろと視線をあちこちに向ける。確か、真ん中辺りの教室だったはずだ。
「よし」
制服を整えて、足を進めると、正に求めていた人物が教室から出て来たところだった。
綺麗な姿勢の後ろ姿に、小走りで近付いていく。ぽん、と肩を叩くとゆっくりと彼が振り返った。その瞬間、彼の目が大きく開かれる。
「結梨!?」
「なんでここに!?」とびっくりして立ち尽くす多々良に、結梨はニッと歯を見せて笑う。
「たーくん! 久しぶり!」
「久しぶり! じゃ、ないよ! 結梨同じ学校だったの!?」
「うん、知らなかった?」
「知らないよ!」
「一言もそんなこと言ってなかっただろ!」と多々良は叫んだ。
「外部受験するって言ってなかったっけ?」
「迷ってるって話だけだったよね!?」
「そうだったっけ?」
首を傾げてとぼける結梨に、多々良は「信じらんない」と、唖然とした表情で身体を震わせる。
――なにはともあれ、サプライズ成功だ。
ふふふ、と声をあげて笑うと、結梨は「とりあえず一緒にお昼食べよう?」と彼を誘ったのだった。
「へえ、オメーがたたらの幼馴染だべな」
「あの、如月結梨です」
多々良に連れられて屋上に行くと、上級生がバレーボールをしていた。その中の一人が、今、結梨の目の前で弁当を食べている賀寿だ。多々良が彼に声を掛けた時、結梨は、「もう先輩と知り合いになったの!?」と驚いて目を丸くした。だが、話を聞けば、元から知り合いだったと言う。
賀寿は、結梨の自己紹介を聞くと、すぐに「結梨な」と呼称を改めた。
「赤城先輩って、あの赤城先輩ですか?」
「え、ガジュくん有名なの?」
「うん、昨日女子の間で話題になってたから」
「エッ!?」
ぎょっとした目で多々良は賀寿を見る。
唐揚げを口に放り込むと、もぐもぐしながら賀寿は得意げな顔をした。
「ま、俺にかかれば一年女なんべぇ……」
「あの、動物っぽくて、可愛いって」
「ハァ!? 格好いいじゃないんかい!?」
立ち上がって叫んだ賀寿に、結梨は思わず驚いてびくりと肩を揺らすのだった。
「赤城先輩って、天平杯に出てたんですね」
へえ、と感心したように眉を上げて結梨が言うと、賀寿もしたり顔で頷いた。
「おう。んで、コイツが組んでたのは俺の妹のまこだべ」
「あのまこちゃん!? たたらのパートナーだった? 世間って、狭いですね」
そう、昨年末に、多々良が天平杯で戦った相手というのが、この赤城賀寿だった。そして、コイツ――と賀寿が示した多々良のパートナーは、彼の妹の真子だ。
結梨は驚きながらも、頭の中で浮かべた関係図が完成に近づいたようで、大事そうにいちごオレを両手で持って、口元を綻ばせた。
お弁当を食べ終えて、パックジュースを飲みながら、三人は語り合っていた。
「赤城先輩は――……」
賀寿に話を振ろうとして、じいっと見つめられてることに気がついて、結梨は言葉を飲み込んだ。何か失礼なことでもしたのだろうか、と目を瞬かせると、賀寿はストローを離して、「ソレ、赤城先輩ってやめりぃ」とぼそりと呟いた。
「たたらの幼馴染だろ?」
「え、でも、先輩だし……」
戸惑うように言い淀むが、賀寿は「だーけぇ、堅いこと言わんでいいがね」と少し気恥ずかしそうに続ける。
「これから付き合い長くなりそうだんべ、俺が良いって言うんだから気にすんなや」
「じゃあ、賀寿さんって呼びますね」
彼の名前を噛み締めるように言うと、「ついでに敬語も無しな」と満足そうな顔を向けられたので、結梨はこくりと頷いた。
男の先輩というのは初めてだったので、正直なところ、まだ少し緊張するが、思っているよりも賀寿は馴染みやすいようだ。ゆるりと肩の力を抜いた。
「そんで」賀寿が呆れたように多々良に視線を向ける。
「たたらは今日知ったんかい。入学式から暫く経ってるっつーんに」
「うん。誰かさんが全く何も教えてくれなかったから」
思っているよりも、多々良は何も言わなかったことを根に持っているようだ。ジト目を向けられて、結梨は戯けるように少しばかり肩を竦めた。「いずれ見つかるとは思ってたんだけど」と苦笑いを浮かべると、「言ってくれればよかったのに!」と怒られた。
「だって、驚かせたかったんだもん」
「驚いたよ! 驚いたけど、また結梨とは離れ離れかなって、僕のしんみりした気持ちを返して欲しいよ!」
「たーくんごめんってばぁ」
ポンポンと呑気に肩を叩けば、多々良は、はああ、と長く溜め息を吐いた。結梨は謝るもののついつい口元を緩めてしまう。
そう、多々良には同じ学校に進学したことを一切伝えていなかったのだ。ただ、外部受験するか迷っている、の一言を随分と前に――それも半年前に――言ったのみ。だから、彼はずっと結梨がエスカレーター式の高等部へ持ち上がりだと思っていたのだ。
悪いことでもないので、何も言わなかったのは彼を驚かせようとした結梨の思惑でもあったが、正直、多々良と同じ高校を受験する理由を、彼に打ち明けるのが、少しだけ恥ずかしかったのもあった。
「結梨はなんでウチに来たん?」
多々良が嘆くのを見兼ねて、賀寿が尋ねた。
「その、たーくんが居るから?」
結梨は照れ臭そうに首を傾げて笑ってから、頬を掻いた。多々良は、目を大きく見開いた。
「な、それだけの理由で大学附属のところ、やめたの!? ていうか、僕が落ちたらどうするつもりだったの!?」
「大丈夫、ちゃんと他にも理由あるから。美術の良い先生がここに居るんだよね」
飄々と言ってのける結梨に、多々良は納得がいかないような顔をしている。
多々良の言いたいことは分かる。折角中学受験をして入った学校を蹴って、公立高校に来たのだ。この先の進路だって、保証も保険もない。美大に行くならば、あのまま附属高に上がって、予備校に通えば良いだけの話。――それならば、何故。
確かに、都立犬養高校に美術の凄い教員がいると知っていても、多々良に言ったあの時は、迷っていただけだった。それも、どちらかと言うと、そのまま附属高校に進もうと思っていた。内部進学試験は受けるが、ほぼ合格することができるのだから。
だが、あのあと直ぐに三笠宮杯で多々良のワルツを見て、結梨の意志は徐々に方向を変えた。
結梨を焚きつけたのは――そう、彼だった。
「結梨ってば、いつもそうだよね。なんだかんだ、色々黙って決めて!」
「ええっ、そんな風に言わなくてもいいでしょう?」
「だって! 中学受験の時だってそうだ!」
困ったように多々良を見るが、彼はいつになく憤慨して、眉を釣り上げていた。
「そ、その時は、また色々事情があって。と言うか、三年も前だし、もういいじゃんその時の話は!」
「でもっ、僕の気持ちも考えろよ!」
「今回も黙ってたのは謝るけど……」
「けど?」と語気を強めて続きを催促されて、結梨は一度俯いたが、指先に力を込めると、顔を上げた。そうして、唇を開く。
「でも、たーくんの活躍をもっと側で見たいし、もっと色々一緒に楽しみたいと思ったから。だから、ここ受けたの!!」
そう言うと多々良は顔を赤くして、言葉を失った。結梨も大きな声で叫んだ為に肩で息をしている。
――その時、「アッハッハ」と豪快な笑い声が空に響いた。
「お前らえっれぇ仲良しだんべ」
「痴話喧嘩かいな」と賀寿が腹を抱えている。
まさか賀寿にもそんな風に言われるとは思わず、結梨は途端に顔をほんのり染めて、何か言いたげに口をパクパクさせた。
賀寿が笑い飛ばしたお陰で、怪しげだった空気が和らいで、「ま、まあもう十年の付き合いになるしね」と多々良も観念したように、溜め息を吐きながら、結梨と目を合わせて言った。結梨も安心したように「そうだね」と頷く。
「たーくん、そう言うわけだから、高校でも仲良くしてね」
結梨は眉を下げて笑った。
「結梨こそ、よろしくね。僕クラスで浮いてるからさ」
「もう!?」
「色々あってさ……」
未だにニヤニヤしている賀寿をよそに、結梨は多々良のことを案ずるのであった。
「あ!」多々良が暫くしてから、時計を見て声を上げた。
「僕、委員会の仕事があるんだった」
「帰り一緒に帰ろう」と言われて頷くと、多々良は満足そうに表情を緩めて、弁当の包みを持って屋上を足早に後にした。
結梨は賀寿と二人で残されて、穏やかな空気の中でジュースを啜る。
二人きりとなると、少しだけ緊張した。結梨はそろりと視線を泳がせていた。
「結梨はダンスやんないん?」
「ダンスって、競技ダンス?」
「そうだべ」
賀寿がじゅう、と音を立てながらジュースを飲んでいる。
「わたしは、運動には向いてないんだよね」
「そうなん。なんか部活入るん?」
「うん。美術部」
「あーね。っぽいわ」
結梨は賀寿の言葉に苦笑した。
自分でも、そう思うのだ。運動部には居なさそうな人間。そもそも運動部に入ったらその部が可哀想になってしまうんじゃないだろうか。
「絵が得意なんか」
「得意、と言えるかわかんないけど、好きだよ」
「んだぁ言い方、まんずお前らって似てるのな」
「ん!?」
「たたらと結梨。つーか好きならもっと、自信持ちい!」
慣れない上州弁に戸惑いながらも、結梨はこくこくと頷いた。賀寿は満足そうに鼻で息をフンと吐き出すと、ポケットをガサゴソと漁る。
「ほれ、携帯」
「携帯?」
「持ってないん?」
「あ、持ってるよ」
「アドレス、交換すっべ」
「せっかくだし」と照れ臭そうに鼻を掻きながら、賀寿は言う。結梨は慌ててブレザーのポケットからそれを取り出すと、賀寿に渡した。
賀寿の長い指が器用に番号を打っていく。結梨の携帯で自分のそれを鳴らすと、ん、と結梨に携帯を返した。
「これでいいべ」
「ありがと。初めて男の先輩のアドレスだぁ……」
結梨は少しの感動を覚えながら、アドレス帳に賀寿の名前を登録する。
「そ、そうなん?」
「うん、中学は女子校だったから」
そんな結梨に賀寿も満更でもないようで、「まあ、なんかあったら何でも言い」と首筋を自分の手で撫でるのだった。
「あの、賀寿さんは兵藤さんと会う機会ある?」
気持ちがばれてしまわないように、出来るだけ普通を装いながら、結梨は尋ねた。
「兵藤ぉ?」
「う、うん」
賀寿は不思議そうに見つめてくるので、つい紙パックの三角を指で弄ってしまう。
「そういや、兵藤が“如月”言ってたのは結梨のことだったんか」
「へ?」
思わず、結梨は顔を上げて賀寿を見た。
「天平杯ん時な、アイツきょろきょろしてたんだべ。んで、たたらに――如月は?って聞いてたん」
「そうだわそうだわ」と呑気に空を見上げる賀寿に、結梨はそのことを思い出して、頬を赤くした。いつもの癖で髪の毛をさらりと耳から落として、頬を隠す。
「謹慎ももう解けっべ? そしたら今月のグランプリ出てくるはずだで」
「そっか、グランプリって大会だよね」
「そうなん。今月は大阪」
「大阪かあ」
――清春の復帰戦。会いに行きたいものの、そこまで行くのは憚られる。別に、雫も居るし嫌がられることはないだろうが、結梨の気持ち的にこそばゆくて仕方がなくなってしまう。
「賀寿さんも出るの?」
「当たり前だべ!」
ランキング上げなければならないから、と鼻息を荒くした賀寿に笑みを溢す。
多々良が言うには彼も相当凄いダンサーらしい。自分の周りにはそんな人たちが集まっているのが、なんとも不思議だ。
結梨は賀寿の顔を見つめたまま、考えるような仕草をした。
大阪のグランプリにもし清春が出場して、そこに賀寿も居るとなれば、自分の伝えたいことを賀寿に伝えてもらうことが出来る。会えるか会えないか分からない賭けよりかは、断然確実だ。それなら、彼の力を借りて、伝えてもらおうか。――だが、本当にそれでいいのか。
結梨は頭の中で思案する。
「なん、兵藤になんか用っきゃ?」
迷っていると、賀寿が眉を寄せて尋ねた。
――どうしよう。結梨は一寸置いて、ふる、と首を横に振った。
「伝えたいことがあったんだけど、今度会ったら直接伝えるや」
「なんだで。そこまで言うんなら、言えやい」
しゃがみ込んでいた賀寿が立ち上がって伸びをする。
「会ったら伝えてやんべ」
上州弁のせいで、酷くぶっきらぼうな物言いに聞こえるが、賀寿は優しいし、世話焼きだ。結梨はそんな彼に胸が温かくなった。
背の高い彼を見上げながら、やんわりと口元を緩めて、「賀寿さん、ありがとう」と言う。
「でも、大丈夫。きっと、わたしから言わなきゃいけないだろうから」
「そうなん。なら余計なことは言わねえべ」
「あー授業だりぃべ」と肩を落とす賀寿。
時計を見れば、もう少しで予鈴が鳴る。教室に戻らなくてはならない。午後の授業は大抵眠くなってしまうものだから、結梨は賀寿の言葉にこく、と頷く。
だが、内心では心臓がとくりとくりその動きを早めていた。
