――兵藤くんの、あれはどういうことだ。
多々良は駅のホームでの出来事を思い返していた。
二人きりにさせてやったらどうかと父に言われるがまま、幼馴染とその憧れの人を送り出した多々良だったが、結局、清春の忘れ物に気がついて彼が駅まで届けに行くことになった。
駅に着くと、彼らの間には柔らかな雰囲気が流れていて、――あれ? と思ったものだったが、それも束の間。電車がホームにやってきて、ドアが開いた時、けたたましい音を立てて、彼の松葉杖がコンクリートを打ち付けた。驚く間も無く、ジャケットの裾元をぐっと手繰り寄せられた。
――しずくを頼む。それだけ言って、そそくさと電車に乗り込む清春の背を、唖然と見つめる多々良と結梨。そのあとすぐに駅のアナウンスが流れて、彼は行ってしまった。
結梨との帰り道、彼女に「急に二人きりにしないでよ!?」と真っ赤な顔で怒られたのはまた別の話――……。
それから暫く、「しずくを頼む」という清春の遺した言葉をぐるぐると考える日々が続いた。だが、その合間にも、多々良は更なる受難に見舞われていくのだった。
群馬から赤城兄妹がやって来て、兄の賀寿が雫と公式にパートナーを組むというのだ。
自棄を起こした雫の気紛れかと周囲は考えていたが、三笠宮杯での清春の怪我、その前のグランプリ戦での風邪、それら全てを隠されていた雫にとっては、清春に対しての不信感と蟠りが確実に募っていたのだ。
「清春なんてもう知らない」という言葉を盗み聞いて、多々良は複雑な思いだった。賀寿はそこに付け入るように、彼女に手を差し伸べた。
彼のパートナーである、妹の真子が居るというのに。
そうして、カップルを組んだ賀寿と雫、そして残された真子の為に、多々良は真子とカップルを組んで、闘いを挑むことになったのである。
決戦は天平杯。
「カップル組めたの? おめでとう!」
それを結梨に言うと、呑気にも彼女はお菓子を摘みながら笑っていた。
今、二人は多々良の家の居間にいる。鉄男は仕事、美鈴は夕飯の支度の為、その場にはいない。
「全然、喜んでいいのかわかんないんだよ……」
多々良は複雑そうな表情を浮かべた。
「そうなの? え、じゃあ、花岡さんは本気で、兵藤さん以外の人と組むってこと?」
「そう言うことだと思う……」
「ええ、競技ダンスも色々大変だね」
そう、彼らが面している問題こそ、ペア競技というダンススポーツの難しさである。
多々良は結梨の言葉に頷きながら、自棄になって同じようにお菓子を頬張った。
「兵藤くんって、何考えているんだか」
チョコレートのスティック菓子を摘まんで、多々良は小さく呟きながら齧り付く。
「結梨、どう思う?」
「わたしに聞かないで」
ぱっと顔を赤くしながら困ったような顔をする結梨に、多々良は「だよね」と項垂れた。
「でも、さ、たーくんにとっては、チャンスだよね」
「チャンス?」
「うん! 花岡さんを奪うとかそういうのじゃなくて、上手くなるチャンス! 折角パートナー見つかったんだもん」
「それはそうだけど」
「相手の子もたーくんが良いって思ってくれてるんでしょう?」
「うん」
「それなら、たーくんがその子と上手くなって、見返してあげればいいんだよ!」
いいことを思い付いたとでも言うように、自信たっぷりに結梨は言い切った。
ただ、口元にお菓子のかすがついていて、格好はついていない。多々良は苦笑いを浮かべたあと、ティッシュで拭ってあげる。結梨は少し照れ臭そうに肩を竦めた。
賀寿の言葉を多々良は思い返した。
自分達に勝つことが出来たら、また真子と組んでも良いというのだ。
カッとなって、スタジオでついつい彼に喧嘩を売ってしまったけれど、正直不安もまだあった。だが、残された自分達はどうしたらいいか、それはもう決まっている。
結梨の言う通りだ。
「そうだよね。やっぱりそれしかないよね」
「うん! たーくんはいざという時、大胆且つ凄い力を発揮するから、なんとかなるよ」
「どういうこと、それ」
「褒め言葉だよ?」
そう言う結梨も、なんだかんだ先程のように、時として大胆な発言をするものなのだが。
多々良がふう、と息を吐くと、結梨はへにゃり、といつものように柔らかく笑った。
「大丈夫だよ。要さんも付いてるし」
多々良なら何とか出来ると思っているのか、それとも然程問題を重たく受けて止めていないのか、きっと、その両者であろうが、結梨はあくまで楽観的だった。
だが、多々良はそれに助けられたような気もした。
季節は移り変わり、早くも十二月。
冷たい空気が皮膚を刺し、悴む手を必死に擦り合わせる。愈々本格的な冬がやって来た。
天平杯を終えて、結梨とは初めて会う。テストがあるから、と十一月末からは顔を合わせていなかったので、それこそ一ヶ月ぶりくらいだろうか。
多々良は天平杯の結果を伝えるのを楽しみにしていた。きっと、結梨もそうだろう。伝えた時の、彼女の反応が思い浮かぶ。
多々良はワクワクしながら、彼女が改札から出て来るのを待ち侘びていた。
「たーくんお待たせ!」
電車が発車するアナウンスがしたあと、暫くして、多々良の耳に聞き慣れた声が届いた。
来た来た、と振り返ると、多々良は思わず動きを止めた。
「え、結梨?」
そこには白いマフラーと学校指定の紺のダッフルコートに身を包んだ結梨が居た。
「うん? わたしだけど、どうかした?」
「なんか、いつもと違う……?」
薄っすらと頬を染めながら、まじまじ視線を送る多々良に、結梨は首を傾げる。
「コート着てるからじゃない?」
「うーん、そうかなあ」
「特に何もしてないけど」
「でもなんか、パッと見てそう思ったんだよね」
改札を出て来る結梨の姿に、多々良はびっくりしたのだ。
白いマフラーに映える色の白さと、寒さに赤らんだ頬と唇。ぱっちりとした瞳を縁取る長い睫毛が、瞬きの度に揺れる。どこか垢抜けたような印象の顔に、少し大きめのコートがどこかあどけなさを醸し出して、上手くバランスが取れている。
――自分の幼馴染は、こんなに可愛かっただろうか。見ない内に、なんだか大人っぽくなったぞ。
多々良が一人焦るのを他所に、本人は至って普通だ。呑気に、「何それ」と笑っている。
多々良は「気のせいかなあ」とどぎまぎしながら、頭を掻いた。
「それより! 早く話聞きたい! どうだったか気になる!」
「そうだね。どこ行く? ウチ来る?」
「そこまで待てないよ。どこか入ろ?」
そう言って、結梨は多々良の鞄をちょこんと摘むと、引っ張って、商店街を進んでいった。
手頃なファーストフード店に入ると、二人はシェイクをそれぞれ頼んで、奥まった席に着いた。
「え! たーくん、七位入賞だったの!」
結梨の驚きに多々良は照れ臭そうに笑った。
「うん、初めて賞状なんて貰った」
「凄いじゃん! さすがたーくん! あ、花岡さんたちは?」
「そりゃ、優勝だったよ」
結梨はぎょっとしてストローを咥えながら多々良を見た。
「え、じゃあ、花岡さんその人と……?」
「ううん、それでね、まこちゃんが――僕のパートナーがボールルームクイーンになったんだ!」
「ボールルームクイーン?」
「その日一番輝いたパートナーに贈られる賞!」
「うそ!」
シェイクをテーブルに置いて、結梨は手で口元を覆う。その目は微かに揺れている。
「無事、カップル解消だよ!」
「うわあ、おめでとう!」
「すごいすごい」と嬉しそうに手を叩く結梨。
想像した通りの彼女の反応に、多々良はだらしなくはにかんで、シェイクのカップを両手で大事そうに包む。
「わたしも見たかったなあ」
結梨もカップを手に取ったあと、感嘆のため息を吐きながら言った。
「いや、実際は僕結構ボロボロだったから見なくて良かったよ」
「そうなの? でも、楽しかった?」
「うん、すごく楽しかった」
多々良はあの時を思い返す。
準決勝では、賀寿に煽られて、要に教わったものを全て出し切ろうとペース配分を間違えてしまった。挙句、クイックステップを踊る時には、折角の要のバリエーションにはストップがかかってしまう始末。
それが、情けなくて、悔しくて、多々良は人目も憚らず涙した。
多々良にとっては初めての競技会。仕方がない、と言えばそれまでだが、彼には賀寿や雫、真子との差が歴然として見えてしまった。
どうしてもっと早くにダンスを始めなかったんだろう、どうして自分はこうなんだろう、という惨めな気持ちで一杯になった。
それでも、諦めずに多々良は踊った。
決勝のソロ――真子を“花”にしたワルツでは、沢山の拍手が沸き起こった。
タンゴ、スロー・フォックス・トロット、そして最後のクイックステップ。最後こそ足も縺れて、それはそれは酷い踊り方をしてしまったが、どれも最高に楽しかったのだ。
「兵藤くんがね、教えてくれたんだ」
「え、兵藤さん、来てたの?」
目を瞬かせた結梨に、多々良はこくりと頷く。
準決勝の後、松葉杖をつきながら現れた清春。その彼の言葉で、多々良は新たなことに気がつくことが出来た。
「僕がまこちゃんの“額縁”になれって」
「額縁?」
「うん。競技ダンスにおけるパートナーシップの在り方の一つでね、女の人は“花”、男の人は“額縁”」
――Flower and frame;花と額縁――ボールルーム・ダンスに於ける、リーダーとフォロー、パートナーシップの在り方を象徴する言葉だ。
多々良の力では、賀寿たちには到底敵わない。だが、天平杯はパートナー勝負でもあった。だから、清春は、勝つべきなのは雫に対してであり、真子を雫より上手く躍らせろ、と言ったのだ。
その言葉は、要たちから反感を買ったものの、多々良を覚醒させるには、十分だった。
苦しそうな雫の表情、必死な真子の姿――自分が彼女達を解放してあげなきゃ、と。
「花と額縁かあ」
結梨は手にしたシェイクカップの蓋をじいっと眺める。多々良も二、三度首を上下に動かすと、同じようにして、カップを両手で包む。
「本当に、奥が深いんだね、競技ダンスって」
「うん。まだまだ、これからだなって思った」
「それに、兵藤さんって、たーくんのこと凄く認めてくれてるんだね」
「嬉しい」と頬を染めて俯きがちにはにかむ結梨に、多々良は眉を上げた。
「認めてる? 僕を?」
「うん。じゃなきゃ、そんなこと言わないよ、きっと。兵藤さんって、興味無いことには関わらなそうだし」
「そ、そうかな?」
「たーくんにはすごい魅力があるんだよ!」
力説するようにぐっと拳を握っている。
幼馴染の結梨は、自信が無い自分に対して、昔から良くその言葉を掛けてくれていたが、この時ほどその言葉が身に沁みたのは始めてだった。
結梨はそうやっていつも自分を褒めてくれる。自惚れてはいけないと思うものの、多々良は胸が熱くなるのを抑えきれなかった。
一口、シェイクを口にすると、甘いバニラの香りが多々良をさらに幸せな心地にした。
照れを隠すように、態とらしくへらりと笑うと、結梨も嬉しそうにストローを咥えた。
その清春と言えば――多々良は彼の他の言葉を思い出して、「そういえば」と話題を変える。
「兵藤くんに結梨は来てないのかって聞かれた」
「んっ!?」
「テストがあるし遠いから呼んで無いって言ったら、少し悲しそうだったよ」
実際には、「いつも一緒にいるからそう思っただけだ」とそっぽを向かれてしまったのだが、あれは彼なりの感情の隠し方なのだろうと多々良は思う。
「嘘ぉ、それなら行けばよかったかな……」
「いや、結梨テストだったんでしょ」
「そうだけどぉ。もし行ってたら、久々に兵藤さんの姿見れたかもしれないなんて」
ほんのりと頬を染めて、もごとごと呟きながら残念そうにする結梨の姿に、多々良は口元を緩めた。
