10

結梨は、静かな廊下を歩いていた。
 いつも授業を受けている教室からは離れた棟だからか、部活動をする生徒たちの声も聞こえない。それとも、今日が冬休み初日のクリスマスだからだろうか。
 どちらにせよ、結梨は落ち着いた気持ちでゆったりと目的地に向かって歩いていた。階段を上がって、四階。廊下の一番奥にその教室はある。
 教員から借りた鍵で扉を開けると、ガラガラと大きな音が鳴った。足を踏み入れば、埃っぽい匂いと、絵の具や木材、粘土の匂いが彼女の鼻腔を擽った。
 大きく深呼吸をして、結梨は薄黄色のカーテンを勢いよく開け放つ。
「あら、如月さんまだ部活に参加しているの?」
 突然、聞こえて来た声に結梨は肩を揺らした。振り返れば、通りすがったらしい彼女のクラスの担任教諭が美術室を覗いている。
「受験生なのに」と続けられた言葉に、結梨は苦笑いを返す。
「あの、描いている途中の絵があって」
「熱心ねぇ。こんな日まで」
「先生も、お仕事まだあるんですか」
「先生たちはまだまだ休めないのよ」
「辛いわあ」と態とらしく肩を竦める姿に、結梨は教員というのも大変なのだな、とぼんやり考えた。長期休みに入ったあと、先生達が何をしているかを自分たちは知らない。
 そんなことを考えながら彼女のことを眺めていると、目が合った。二者面談の時のような感覚になって、少しどきりとする。
 だが、そんなこともお構い無しに、彼女は口元を釣り上げると、美術室の中まで入ってきた。
「何を描いていたの?」
「まだ、全然未完成なんですけど……」
 結梨は美術準備室に置いていたイーゼルとキャンバスを持ってくる。
 明るくなった美術室。窓から射し込む太陽の光に照らされて、小さな粒子が宙を舞い、きらきらと輝いて見える。
 先生は、まじまじと絵を眺めた。
「へえ、素敵じゃない」
 彼女が、瞳を大きくして、ゆったりとした声をあげた。
「ありがとう、ございます」
「これは、描く価値があるわ」
「そ、そんな……」
 彼女の言葉にこそばゆさを感じて、結梨は制服のスカートをぎゅっと握る。
「完成するのが楽しみね」
 ふわり、頭に温かな手が置かれた。
 見上げれば、彼女はゆるりと目を細めて微笑んでいた。厳格できびきびとした印象がガラリと変わった。
 彼女は一年生の時からの持ち上がり教員だからか、結梨のことをよく分かってくれている教師の一人だった。赤面症で、前に立つことが得意でない結梨のことをずっとそっと見守ってくれていたのだ。今も、そうであるような心地がして、嬉しくなった。
 結梨はスカートを握る手を緩めて、ほんの少し頬を染めて、こくりと頷いた。
「でも、勉強も疎かにしては駄目よ。いくら如月さんが優秀とは言え、都立受験は何が起こるかわからないからね」
「う、ワカリマシタ」
「ま、何かあったらいくらでも頼りなさい」
 もう一度結梨の頭を撫でて、「それじゃ」とひらり手をあげて先生は美術室を後にする。
 その姿は女性なのに、どこか男らしくて、凛とした、頼れる人のそれだった。
 その背を見送って、結梨は撫でられた頭に自分の手を当てた。
「両立、させるぞ」
 そうして、彼女は筆とパレットを手にすると、一枚のキャンバスに向き合った。

 帰り道、辺りはもう薄暗かった。
 日直だという教員がやってきて、生徒はもう下校時間だと告げられるまで、結梨は筆を握っていた。
 長い時間、油彩の香りに包まれていたからか、外の空気がとても新鮮に感じる。疲れているはずなのに気分が良い。
 大きく息を吸うと、結梨はふふ、とひとりでに笑った。
 学校を出て、電車に乗った。休日ということもあってか、電車内は緩やかな空気感に包まれている。
 扉付近に立って、外を眺めると、其処彼処でクリスマスのイルミネーションが灯っていて、結梨は今日がクリスマスであることを、再び思い出した。
 ――中学三年生のクリスマス。何も特別なことはないが、それでもどこかふわふわとした気持ちになれるこの日が、結梨は好きだった。
「真っ赤なお鼻のトナカイさんは……」
 電車の走る音に紛れて、結梨は歌を口ずさむ。
 どれも一部分しか知らない為、豪華なクリスマスメドレーだ。
「あれ、結梨ちゃん」
 有名な洋楽ポップのワンフレーズを歌い始めたところだった。
 後方から聞こえてきた綺麗なソプラノの声。気持ちよく指先でリズムを取っていた結梨は、声を掛けられて肩を揺らした。
 ガラス越しにその声の主の姿が見えて、目を丸くする。
「あっ、花岡さん」
 私服姿に眼鏡を掛けた雫が居た。
 結梨は慌てて振り返って、会釈をすると、雫もひらりと手を振った。
「楽しそうだったね」
「み、見てました?」
「ふふ、ごめん。バッチリ」
「恥ずかしい」と赤くなる顔を結梨が両手で覆うと、雫は優しく口元を緩めていた。
「こんな日まで学校行ってたんだね」
「はい、用事があって。花岡さんは?」
「私はダンス用品の買い物。でも結局買わずに帰ってきちゃった」
 結梨はそれを聞いて彼女の置かれている状況を思い出した。なんて返したらいいか迷っていると、雫が苦笑いを浮かべた。
「結梨ちゃん、同い年なんだから、呼び捨てでいいよ。敬語もナシ!」
「えっ、いいの!?」
「もちろん」
 てっきり違うことを言われるかと思っていた結梨は、予想外に反応を大きくしてしまったが、雫は笑みを深めるだけ。
 リーダーの謹慎及び怪我、そして天平杯という出来事があったにも関わらず、明るく優しい雫の姿に、――強いんだなあ、とぼんやり考えた。
「じゃあ、しずくちゃんって呼ぶね」
「うん。よろしくね。あ、席座る?」
 ちょうど駅に着いて、空いた座席に二人で腰掛けた。
 雫の姿勢の良い座り方に感化されて、結梨もすう、と背筋を伸ばして座ってみることにした。
「結梨ちゃんは、絵を描くのが好きなんだってね」
「あ、うん。小さい頃から好きで、美術部に入ってるんだ。たたらが言ってた?」
「ううん、清春が言ってたの」
 結梨はびっくりして雫を見た。
「え、兵藤さんが?」
「そうだよ。三笠宮杯(みかさ)の時も絵描いてたって」
「あの、ごめんね。勝手に絵描かれて、嫌な思いしたかな……?」
 あの時を思い返して、気まずそうに膝の上に載せた鞄をぎゅと握る。
「全然! むしろ嬉しいよ!」
「よかった……」
 ホッと息を吐く。すると、姿勢が緩んでしまい、結梨は慌てて背筋をピンと伸ばした。その様子に雫は声を上げて笑った。
「結梨ちゃんと話してみたかったんだ」
「そういえば、まだちゃんと話したことなかったよね」
「うん。清春に先越されちゃったからさ、ちょっと悔しくて」
「そ、そういうもんかな?」
「そうだよ! 折角女の子同士なんだもの、仲良くなりたいって思ってたんだ」
 雫は人タラシというやつなのだろう。しかも、天然の、だ。そんなことを言われて喜ばない人間がいないわけない。
 結梨は嬉しさ半分照れ半分、頬を染めながら、口元の緩みを止められなかった。
「わたしもっ! しずくちゃんと、友達になりたかったんだ!」
「ふふ、もう友達、だよ?」
 雫も嬉しそうにはにかんでいる。
 クリスマスの日の、素敵な思い出になりそうだった。
 その時、二人が電車を乗り換える駅名がアナウンスで流れた。
 降りなくてはならなかったので、二人は立ち上がって、開いた扉の合間をすり抜ける。車外へ出た途端の冷たい空気に、体を震わせて笑いあった。
「あ、ねえ、少しだけ寄り道しない?」
 雫の言葉に、結梨は目を丸くしながらも首を縦に振った。
 そして、駅を出て、彼女に手を引かれてクリスマスムードの街並みを進んで行く。
「人、多いねぇ」
「クリスマスだからかな」
「クリスマスか、そうだあ。うわぁ、カップルばっかり」
 至る所で、男女が仲睦まじく身を寄せ合っている。結梨がきょろきょろと辺りを見渡していると、雫も「本当だね」と感心するように呟いた。
 ふと、視線が向けられる。
「結梨ちゃん、彼氏は?」
「えっ、居ないけど。しずくちゃんは?」
「私も居ないよ」
「本当に!?」と驚く結梨に、雫は頷く。
「正直、勉強もダンスもあるし、今はいいかなって」
「そうだよね。わたしも、そんな余裕ないもん。女子校だから、出会いなんてないしさ」
 ふと結梨はある人物を思い浮かべたが、そっと胸の内に仕舞っておいた。
「そういえば、仙石さんには“フジ田くんの嫁”って言われてたね」
「もう……全っ然違うのに、要さんのせいでネタになってるよね」
 雫が思い出したように言うと、結梨は唇を尖らせた。
 彼のせいで小笠原ダンススタジオの人々には、すっかりそのネタで揶揄われてしまうようになっていた。誰も本当だとは思っていないのは、わかっているのだが、なんとも言えない心境だ。
 息を思い切り吐き出すと、白い息がもわもわと見えた。
 雫は口元に手を当てて笑うと、そっと眼鏡の奥から結梨を見つめた。
「清春がね、二人はなんとなく似てるって言ってた」
 雫の言葉に、お決まりのように、目を丸くして何度もパチパチと瞬きをする結梨。先程仕舞い込んだものが、引き出されてしまい、心臓が大きく波打った。
「えぇぇ。兵藤さんしずくちゃんに変なこと話してない!?」
 三笠宮杯と、多々良の家からの帰り道、清春と結梨が二人で話したのはその二度だけ。その二つのうちで、確かに同じことを清春に言われたのを思い出して、気恥ずかしくなる。
 清春にとって、自分はどんな人間に見えているのか。不思議でならなかった。
 雫は慌てふためく結梨に「大丈夫だよ」と返す。
「でも、なんとなく、分かるって思っちゃった」
「えー!! そんな、似てるかな!?」
 確かに、小さい頃から度々言われてきたものだが、中学生になってまでも、こうも立て続けに言われるのは、驚きだ。半信半疑になって、必死に尋ねると、雫は躊躇うことも無く「うん」と頷いた。
「雰囲気とか、かな? 仙石さんが嫁って言うのも、納得しちゃった」
「嫁じゃないよぉ! 付き合いが長いだけなんだもん!」
「うえぇ」とマフラーに顔を埋めると、雫は愉しげに肩を揺らしていた。
 そして、ふと目の前を見上げて、小さく、あ、声をあげた。
「見て見て、結梨ちゃん」
 雫が指差した先には、大きなクリスマスツリーが立っていた。
 煌びやかな電飾と色取り取りのオーナメントがモミの木を鮮やかに輝かせている。どこからか聞こえてくるジングルベルと、人々の騒めきが柔らかに混ざり合う。
「わ、すごい!」
 結梨の瞳もツリーを映して、宝石のようにキラキラと輝いていた。
 寒さと一瞬の興奮から、頬が染まる。
「クリスマスの寄り道、成功だね」
「素敵! ありがとうしずくちゃん! クリスマスっぽいこと、できてよかったぁ!」
「やっぱり、ツリーを見るだけでも違うよね」
「うん!」
「わあ」とはしゃぎながら、携帯を取り出して写真を撮る結梨と雫。遠くからと、近くから。
 二人で飾りの可愛さや、クリスマスらしい雰囲気のカップルを見て密かに盛り上がったり、あれこれ話は尽きなかった。はたまた照れ臭いさそうにジンジャーブレッドを食べるフリをする雫の写真などを撮ったりしていた。
 ちなみに、それに関しては結梨はあとで多々良に見せてあげよう、としっかり保存をしたのだった。
「ねえ、結梨ちゃん写真一緒に撮らない?」
「い、いいの!? 撮る!」
 そして、雫からの嬉しい誘いに、舞い上がる。
 二人で頬を寄せ合って、携帯の画面をくるりと回すと、ツリーが少しでも入るように、ギリギリまで雫は腕を伸ばした。
「いくよ、ハイチーズ」という緩やかな合図と共に、パシャ、と乾いた音が鳴った。
「しずくちゃん、その写真送ってもらっても、いい?」
 あっ、と結梨は眉をあげる。そして、携帯をぎゅう、と両手で持つと、照れ臭そうにはにかんだ。
「アドレスも、教えてくれる?」
「ふふ、いいよ。今赤外線で送るね」
 距離が一気に縮まったことに、結梨は胸の中で小躍りをしたくなるほど興奮していた。
 まさか、あの雫と、こんな風に隣で他愛もないことを話せる日が来るとは、出会った頃の自分は、想像もしていなかっただろう。結梨はフロアのみならず、雫の人柄にも魅了されていた。
 受験生ということも、絵のことも、今は気になること全てが上手くいくんじゃないかと思える程に、気持ちが昂ぶっていた。
 ――明日からも頑張ろう、と心の中でガッツポーズをする。
 ホクホク、とした顔で雫の携帯に、自分の携帯を差し出した。
「あ、これ、清春にも送っとくね」
「えっ!?」
 だが、雫の突然の爆弾発言に、結梨は顔を真っ赤にして固まった。
 呑気にもピロリン、と通信終了の軽快な音が聞こえる。
「うん、送れた。って、結梨ちゃん?」
「しずくちゃん、わたしっ変な顔してなかった!?」
「え、全然。可愛かったよ?」
「本当に……でも……」
「あ、清春から返ってきた。『風邪引くなよ』だって。清春がそんなこと言うなんて珍しいー」
 何事も無いかのように澄まし顔の雫に、彼女は天然だ、と結梨は確信するのだった。