「じゃあ、僕夕飯の手伝いあるし、結梨、兵藤くんのことよろしくね」
と、視線を泳がせながら手を振った幼馴染を、この時ほど恨めしいと思ったことはないだろう。わ全く、余計な気を遣われてしまったようだ。たーくんのばか、と結梨は小さく溜息を吐く。
富士田家を後にして、清春を駅まで送っていくことになった。松葉杖を突きながら、ひょこひょこと歩く清春の隣に、緊張した面持ちで並ぶ。
「富士田と仲良いんだな」
前触れも無く聞こえた声に、結梨は大きく肩を揺らした。
「あ、うん。小さい頃から近くに住んでたし、親同士が仲良くてね。幼馴染って、いうのかな」
「ふうん。俺としずくみたいなもんか」
「二人も、幼馴染なんだね」
結梨は清春がどんな顔をしているのか気になったが、辺りが暗くてよく見えない。
松葉杖がアスファルトをつく音が響いている。結梨の普段の歩調と同じくらいゆっくりだった。それでも、無理をさせていないかと心配になって、結梨は、「あの」と清春の顔を覗き込もうと窺い見た。
「怪我、大丈夫?」
「別に、すぐ治る」
「そっか」
会話が続かない……! と結梨は内心泣きそうになって、ぎゅ、とカーディガンの袖口を握った。
窺い見た清春の顔はというと、やはりいつも通りの面持ちで、結梨のことをなんとも思っていないかのようだった。
――まあ、そうだよね、と内緒で息を吐く。嫌な顔をされないだけ良かった、と結梨は結論付けた。
その時、清春が急に止まった。
「どうしたの?」
「あの時」
振り向いた清春の視線と目が合う。どきっとして、結梨は思わず少しだけ唇を噛んだ。
「どう思ったんだ」
「あの時?」
「三笠宮杯(みかさ)の時。富士田のワルツを見て」
「たーく……」
顔が赤いのがバレないといいな、と結梨は願いながら、「たーくん」と呼びそうになって、咳払いをする。
「たたらがあんなに楽しそうなの初めて見たから、嬉しかった、かな」
「それだけ?」
「あ、ううん……こう、なんだろう、ビビビッて来て、居ても立っても居られなくなった」
仄かな明かりに、清春がどこか嬉しそうに口元を歪めたのが見えた。
「如月と富士田って、なんか似てるな」
「わたしとたたらが?」
「ああ」
「そ、そうかな!? 幼馴染だからかな?」
「それは知らないけど」
あっけらかんとした返事だったものの、意外と話をきちんと聞いてくれることに、結梨は少し驚いた。そして、一度話し出せば、不思議と会話のキャッチボールが続いていく。最初に感じていた緊張や不安はいつのまにか無くなっていた。
また違う一面を見つけた気がして、結梨は嬉しくなった。
ゆっくりと二人は再び、駅に向けて歩き始める。
「如月が何か描いてたのを見て、そう思った」
「え、見てたの!?」
「そんな奴、なかなか居ないから」
結梨は多々良のワルツに夢中になって、一心不乱で鉛筆を握って居た自分を、まさか清春に見られていたとは思わず、口元を手で覆った。
「恥ずかしい……」
「なんで?」
「なんでって……あの時、ワルツが終わるのにも気が付かなかったくらいで」
「知ってる」
涼しげな清春とは対照的に、どんどん結梨の顔は熱くなっていく。彼は勿論それには気が付いていない。
「如月も楽しそうだった、そん時」
追い討ちをかけるように、清春は松葉杖を突いて、足を引きずりながら言った。
今度は、思わず彼女が足を止める番だった。何気ない一言だったが、耳にはっきりと届いた。結梨はついに何も言えなくなって、唖然とした顔で清春を見つめている。
「どうした?」
キイキイ、と松葉杖の音が止んで、清春が振り返る。
「わたし、楽しそうだった?」
「うん。楽しくなかった?」
揶揄するような物言いでは無く、それは純粋に心から出た言葉であるかのようだった。清春の眼差しが、声が、そう物語っていた。
結梨は首を横に振る。
――清春になら、色んなことを話せるかもしれない。
「わたし、ずっとスランプで」
気が付いたら、結梨は唇を震わせていた。
立ち止まっているのを急かすこともなく、清春ひ同じように足を止めて、数歩前で彼女を待っている。
「思うように描けなくて、悩んでたの。でも、たたらを見て、これを描きたい! 描かなくちゃ! って思えた」
結梨は肩に掛けていたトートバッグを握り締めた。そこには、今日、寄り道をして手に入れた画材が入っている。
そう――それらは、あの日、三笠宮杯で見た多々良の姿を描く為のものだった。
「たたらは、すごいよね。あんな大きな舞台に立って、楽しかったって言うんだもん」
清春は黙って結梨の言葉を聞いている。
「昔から、変なところ大胆なの。小学校の頃かな、わたしの靴が下駄箱から無くなって困った日があって……たたら、自分の靴を差し出してくれたの。自分が靴下で帰んなきゃいけないのに、結梨が履いてって聞かなくて」
懐かしむように、優しく肩を竦める。
結梨の頭には、小さな多々良と自分が手を繋いで歩いている姿が浮かんでいた。多々良は靴下を汚しながら結梨の手を引いて、彼女は静かに泣きながら、繋いでいない方の手で涙を一生懸命拭っていた。
「ごめんね、って泣いて謝るわたしに、たたらなんて言ったと思う?」
清春は答えない。結梨もそれを責めることもせず、ただ、頬を緩める。
「――いつか、結梨に僕の絵を描いてもらうんだ、って。だからいいんだって」
結梨はその時のことを鮮明に覚えている。その時の多々良の顔を、声を。眼差しを。いつもは弱々しくて、へらへらしてる幼馴染がとても大きく見えたものだ。
彼女は、夜空を見上げた。そこには雲は一つもない。冬の大三角形や、オリオン座が霞むことなく、綺麗に見えていた。
その時の気持ちを鮮明に思い出して、結梨は胸が温かくなった。
「それからずっと、わたしの夢は多々良を描くこと」
恥ずかしさなどは消えていた。結梨は、自然と笑みを浮かべて、清春の前に立っていた。
「やっと、いいものが描けそうなんだ」
空を見上げるのをやめて、清春に向けて、くしゃっと目を細めて笑う。
「見せろ」
すると、すぐに粒の揃ったテノールが、響いた。
「うん?」首を柔らかに傾げる。
「描けたら、見せろよ」
じい、と見つめられて、結梨は彼の瞳の美しさを知った。
街灯の光では、仄暗くてその色まではきちんとわからなかったが、きらりと煌く何かが彼の瞳にはあった。眠たげな眼差しが優しく彼女に擡げられている。
だが、結梨がまじまじと彼のことを見つめ返していると、清春はくるりと踵を返してしまった。
初めはきょとんとしていた結梨も、嬉しそうに早足で彼に歩み寄って行く。
「ふふ、見せられるように頑張るね」
不思議な人だな、と結梨は思った。
清春がどんな気持ちであの言葉を紡いだかは、彼女にはまだわからない。だけれど、彼の隣にいると心地よいことに気が付いて、幸せな気持ちに笑みが止まらなかった。
