第四幕 第一話

「ありゃ、姉さん良いモン食べてやすねィ」
 仄かに花薫る縁側。先輩女中から頂いた桜餅を今まさに口に運ぼうとして、左手から間の抜けた声が飛んできた。口を大きく開けたまま声の方を向くと、春のやわい日差しに煌めく金糸が目に映る。
 沖田さんだ。なにも言葉にはできずに一度ゆるりと目を瞬かせるわたしに、彼はプッと吹き出して唇の端をちょん、と頬に軽く食い込ませた。
「なんでィ間抜けなツラしやがって」
「この時間一番隊は道場で稽古だと伺っておりましたが」
 そう、それだ。居るはずのない人間が目の前に現れたとあれば、間抜けな顔もしたくなる。
「桂が現れたってんで、市中に出てたんです。ま、変わらずデマでしたがねィ」
「はあ、そうですか」
 桂さんのことだ、本当にかぶき町にいた可能性は高いだろう。ともかく、桜餅にかぶり付くタイミングを失ったわたしが名残惜しげに手を下ろすと、彼は気怠げにあくびを拵えながらすぐそばまで歩んできた。よっこらせ、と零しながら隣に腰を下ろす様は、十代とは思えない貫禄だ。
「あー朝からいい仕事したなァ、その桜餅褒美に俺にくんねェかなァ」
「……これはねこ屋の限定桜餅なんです」
「へぇ、ねこ屋ってェとあれですかィ、江戸随一の菓子屋と名高い」
「ええ、女中頭のご主人の勤め先のお得意さんらしくて、いただいたんです」
 狙われている。確実に狙われているぞ。沖田さんのくりくりの瞳が、わたしの手に一直線に注がれている。そこまでされたら、どんな鈍感な人間でも気づくだろう。いや、沖田さんはワザとやっていらっしゃるんだろうけど。
 ごくり、唾を飲み下して、獲物を狙う強敵を窺い見る。いつものお団子やらせんべいやらなら喜んで差し出すところなのだが、この桜餅は特別なのだ。ちょうど掃除担当の隊士たちと板張りの廊下をピカピカに磨き上げ、昼餉の支度に入る前の至福の時間。そして、季節限定桜餅。人間、限定という言葉に弱いのはもはや定説だ。大人げないとはわかりつつ憚ってしまう。
 沖田さんはふうん、と相槌を打つ間もまったく視線は逸らさない。それどころか、挑発するように眉をあげていた。
 その時、遠くから、「総悟ォォオオオ」と地響きが聞こえてきた。つまり、だ。
「沖田さん?」
「なんでィ」
「また、抜け出して……」
 粘りつくような視線を向けると、いつものように彼はやれやれと眉を上げただけだった。
「ほら、沖田さん。早く戻られたほうがいいですよ」
「あーあ。東雲の姉さんならわかってくれると思ったのになぁ、そんでその桜餅くれると思ったんだけどなぁ」
「そんなこと言っても無駄ですよ」
「せっかくの昼寝日和だってェのに、あんな汗臭い道場に籠るなんざ人生世知辛ェ」
 ちぇ、と子どものように舌打ちをする。だが、土方さんが怒るのも面倒なのか、またひとつ欠伸を拵えると沖田さんは首を二、三度ゆっくりと捻って立ち上がった。
「んじゃ、戻るとしやすかね」
「そうですね。副長の血管が切れてしまう前に、ぜひそうなさってください」
「切れる前に俺が切ってやるんで安心してくだせぇ」
 ニヤリ、じゃない。いやそれ全然安心できないから、という言葉は飲み込んで、わたしは笑って肩を竦めた。
「――隙あり」
「へっ」
 だがしかし、沖田さんの声に、きょとん、と目を瞬かせる。
 気が付けば手の中は空っぽ。桃色の可愛らしい饅頭は、吸い込まれるように沖田さんの口に消えていった。
「わたしの桜餅……」
「ごっそーさん」
 油揚げならぬ、桜餅をトンビに掻っ攫われ、ひらり後ろ手に振られた手を恨みがましくわたしは眺めるのだった。

 さて、そんなこんなで悲劇を終えたあとは昼に向けての大仕事だ。大きな釜で米を何回か炊き、それから大鍋に味噌汁と主菜のサワラの照り焼きを大量に作る。ひと息ついたかと思えばあっという間に、昼。午前の勤務を終えた隊士たちが食堂へぞくぞくとやってきて、先輩女中と数人、休む間もなく給仕にまわる。
「東雲さん、おかわりお願いします」
「はい、大盛りですか」
「っす、たんまりと」
「俺もお願いしまァす」
 そんな声を受けながらお茶碗に白米をこれでもかと盛り付けて、一気に賑やかになった食堂にわたしも気を引き締める。
 つやつや粒のしっかり立ったそれは武州の米農家から届いたもの。女中方も握り飯にして賄いにいただくが、甘みの絶妙なとても風味のいいお米だ。なんでも武州は近藤さんや土方さん、沖田さんの故郷であり、定期的に送られてくるらしく米には困らない真選組である。
 秋でも冬でも、夏でも春でも、どんな季節でも白米はご馳走だ。少し気温も上がってきたから、こんな日は菜の花のからし和えや冷や奴を副菜につけるのがいい。
 昼は怒涛の忙しさだが、隊士たちを席へ送りながら賑やかになった食堂に頬を緩める。少し前までは黒い隊服すら目に入れたくなかったというのに、和気藹々と箸を進める彼に自然とやわらかい心地になる。
「東雲さん、おかわり!」
「俺も!」
「おいおい、テメェは昨日たらふく食っただろうが!」
「んだと、昨日は昨日の風が吹くっつうだろ! 今日は今日だ!」
「明日は明日の風が吹くゥゥゥ!」
「覚悟ォォオオオ!」
 気を許すと、すぐ乱闘会場になってしまうけれど。周りのみんなはまァたスマ◯ラやってらァ、とでもいうような面持ちだ。
 はいはいと手を叩いて、「おかわりはまだありますからね」とわたしも声を張り上げた。

 昼餉の片付けを終えたあとは朝一番干した洗濯物の回収だ。途中、ラケットを振り回す山崎さんに遭遇したり隊服を血まみれにした近藤さんを迎え入れたりなんやかんやとあったが、中庭に向かうとずらり並んだ物干し竿に白いシーツがたなびいている。隊士全員分は到底干せないから三分の一ほど。といっても、かなりの量だ。蒼い空に純白のそれがいくつも踊る姿はなんとも清々しい。
「春ねえ」
 まだ幾分か桜の時期まではある。それでも暦の上ではもう春だ。ちらついていた雪も雨に変わるようになり、寒々しい景色に緑が少しずつ芽吹いている。
 この世界に来たのは初夏だったから、あとひとつふたつと季節をまたげばいつのまにかぐるりと一年を迎えてしまう。早かったような、そうでもないような。
「――あっという間ねえ」
 シーツから撥ね返る目映い光に片目を閉じつつ、どこか郷愁に浸る。同時にやってくるのは、いつ、戻るんだろう、という疑問だが、すぐにほのかに甘い風が吹き飛ばしていく。
 不安は、特になかった。かぶき町にいるからかもしれない。まだまだこの生活を楽しんでいたい気持ちがあったし、それに、それよりもこの洗濯物をいかに効率よく捌くかが今は重要だった。
 先々のことを考えすぎて、それでテメェが動けなくなったら本末転倒だろ――なんて銀さんは言いそうね。
 そんなことを思いながら、シーツに手を伸ばして、布団叩きでいくらかはたいたあと両腕いっぱいに抱えて縁に上がった。
「東雲」
 すると、背後から低く泰然とした声が届いた。
「はい」と振り返ると、うおっと驚く声が続く。
「お前、少しは周りを見やがれ」
「申し訳ございません、土方副長」
 シーツの山からちょいと顔をのぞかせると、向こうには副長が立っていた。黒い短髪と銀さんに言わせればやや瞳孔が開いている眼、皆と同じく制服にぴっちり身を包み、腰にはすでに帯刀している。わたしを真選組に連れてきてくれた人。
 初対面どころかしばらくの印象は最低最悪で、マリアナ海溝並みに深い溝が彼との間にはあるのだろうな、と思っていたが、今では以前よりもはっきりと気楽に話すことができる。
 厳しい物言いだが決して怒ってはいない。――とはいえ少し呆れているみたいだが。トレードマークの咥え煙草が今は指先にある。落ち着き払った様子ではあるものの、どうやら煙草の火がシーツにつきそうだったらしい。
 そういうところ、この男所帯では珍しくらいに繊細というか、几帳面というか。ちがうかな、やさしいのかも。
 鬼の姿を思い返してまるきりちがう感情が浮かび上がる自分に苦笑しつつ、今一度すみません、と頭をさげると彼は、ああ、と端的につぶやいて煙草を咥えなおした。
「なにか御用ですか?」
 こんな場所で彼から声をかけてくるのは稀だ。訊ねると彼はわたしの手元を眺めて紫煙を吐き出した。
「いや、手が空いてるなら頼みたいことがあったんだが、どう見てもそうじゃねェしな」
「そうですね。でも、少しお待ちいただければすぐお部屋に参りますよ」
 土方さんはまたひとつゆっくりと煙を吐き出したあと、助かる、と口にした。
「では、後ほど――」と言おうとしたところで、手が伸びてくる。
「貸せ」
 あ、シーツ泥棒だ。
「副長、いけませんよ」
「なにがだよ」
 逞しい手をさりげなく避けてしたり顔をする。
「副長たるもの女中を甘やかすべからず。特に新入りの調子に乗りやすい女には」
「んだよそれ、そんな局中法度なんざ聞いたことねェ」
「わたしが今作りました。とにかく、これくらい一人で運べますから、沖田さんのお相手もあったでしょうし副長は先にお部屋へ」
 なんだかんだ、世話焼きなのだ。だが、ほかの隊士の手前副長の手を煩わすわけにもいくまい。とはいえ、土方さんも土方さんなりに引けないところがあるらしい。
「近藤さんにどやされんだよ、いつも世話をしてくれる女中の皆さんには親切に! とか、人としてウンタラカンタラ」
「近藤局長らしいですね」
 やれやれと土方さんは、「あととっつぁんな」と付け加えた。
 即座、拳銃を取り出す警察庁長官の姿が思い浮かび、ああ、と苦笑する。
 そして近藤さんが撃たれるわ畳が穴だらけになるわ大変な嵐が巻き起こるのだ。ここにきてから何度畳の張り替えを頼んだことか。
「でも、わたしの仕事ですから。副長はこのあいだに一本でも多く煙草をお吸いになって、ゆっくりしていてください」
「俺を長生きさせてェのか、早く殺してェのかわかんねー女だな」
 そういうさりげない気遣いが女にたいそうモテる秘訣なのだろうな、と思いつつ、半ば諦めたのか鼻を鳴らした彼に、にんまり大胆な笑みを向ける。
 では、後ほど――今度こそ告げようとしたところで、廊下の曲がり角からニュッと頭が飛び出てくる。
「凛子ちゃん、なんか手伝うことあるぅ?」
「オレ、オレ、力には自信あるからさっ」
「おいお前、抜け駆けすんじゃねェ!」
「んだと!?」
「凛子ちゃぁーん、前話してた雑誌だけどォ」
「テメ、なんだその小花は」
「こ、これは、なんでもねぇよ」
「東雲さーん! ラケットもう一本見つけて来ましたー!」
 思い浮かんだのはアレだろう。

「テメェェらなぁぁにしてんだァァァアアッッッ」

 四十秒で持ち場へ戻りやがれ! という怒号とともに蜘蛛の子を散らすように黒い隊服姿の男たちが散っていったのは言うまでもない。
 山崎さんだけは頬へ拳を食らって、「なんでオレだけェェ!」と叫んでいたけれど。

 ――なにはともあれ、今日も真選組はにぎやかだ。

 

「凛子ー! 迎えきたアルー!」
 門前の隊士に深々を礼をして、一日の仕事が終わる。すると背中に飛んでくるのは、飛び抜けて明るくて甘い声だった。夕方になるとまだまだ肌を刺すような風が吹くが、そんな寒ささえ吹き飛ばす元気玉。
 ドッドッドッドッ、地響きはもちろん定春。
 門前の隊士はもはや常のこととの微塵も動じない。とてつもない白いモフモフと背中に乗ったチャイナ服の少女を迎え入れると、彼女はぴょんっと軽やかに下へおりてきた。
「今日の夕飯はステーキにするネ!」
 下りていきなりの注文も、お馴染み。
「一昨日もステーキだったよ」
「先週もネ! 銀ちゃんが、食いてェモン聞かれたら、一に肉、二に肉、三、肉、四に寿司って言ってたアル。フレンチとかイタリアンは育ちがバレっからって」
「パパ活のすゝめじゃあるまいし」
 万事屋を出て早三月。結局、週の大半は彼女たちと過ごしている。お登勢さんづてに紹介してもらった長屋での一人暮らしにももう慣れたし、なに不自由ないのだけれど、どうにも寄る辺があるとそこにふらふらっと吸い寄せられてしまうのが人間というもの。
 半ばたかられているような、いいように財布をこじ開けさせられているような気もしなくないが、週三、四回、彼らと騒ぎ立てながら過ごすのがすっかり日常となっている。
 この場合、日常を取り戻したというほうが正しいのかもしれない。なんだかんだ、独り立ちすると言っておきながらこれだもの。
「もう少しあたたかくなったらお花見の季節ね」
「キャッホウ! 凛子特製三段お重アル!」
「また食べ物。でも、お弁当持って皆んなで出かけるのもいいね」
 甘くて少し暖かな風が吹くと、気持ちもどこか明るくなる。この世界がどんどん好きになる。
 そんなことを考えながら神楽ちゃんの隣を歩いていると、突然定春が勢いよく駆け出した。
「あっ、待つネ定春!」
「ちょ、神楽ちゃん!?」
 銃口から飛び出した弾はもはや止められないのと一緒で、地面を蹴った彼らを止めることなど不可能だ。先ほどまでのしみじみとした心地はどこへやら、待って、と必死に縋りながら、着物の袂を摘んで走り出した。
 まさか春の訪れが新たな騒動の訪れとなるとは、このときのわたしは知るよしもなかったのである。