仰々しい音を立てて、静けさはやってきた。先ほどまで喧しく喚いていた甘い声は刺すような静寂の中へ遠ざかる。
あまりに無情な崩壊だ。その音の消えた世界が心底苛立たしくなって傍に置かれていた塵箱や照明、手当たり次第を蹴飛ばす。
酷い音がした。デザイン性に満ちた美しい切子のグラスや灰皿、大理石のテーブル。浴室と部屋をつなぐ硝子さえ、無惨にも粉々に砕けていた。
「……んやねん」
しょうもない雑魚と思っていた。
どこにでもおるような頭の軽い女。どうせこいつもすぐに消えていくんやろなと顔すらまともに憶えていなかった。
東京校がなんだ、京都校がなんだ。どこにいて地獄も極楽も変わりやしない。ただそこに存在するのは無比なる存在だけ。
ああほんま、しょうもな。なんも、おもろいことなんざあらへん。どうでもええ人間なんざ、さっさと死んだらええ。
変わり映えのない毎日だった。終わることのないひたすらの闇冥。そこにひとすじ落ちる光の滴を――待ち侘びていた。
それを掴むのは自分やと、ほかでもない己れのみだと疑ってならなかった。
「あーあ、五条悟じゃないのかよ」
たとえそんな声があったところで、嘲笑すら湧かない。おまえになにがわかんねん、悟くんのなにを知っとるんや。
「いくら禪院の次期当主って言ったって、五条悟より格下だろ?」
隙しかない背ェから胸を突いて、その心臓を抉り取る。そんな想像をしながら、辺りを眺めていた。
困惑気味に閉口する間抜け、どこか勝ち誇ったような物知り顔の愚図。どいつもこいつもおもんないねん。
空から降りそそぐ光すら煩わしかった。腐臭を思わせる季節が刻一刻と近づいている。偉そうに御高説を垂れる背を放っていよいよ帰ったろかと思っていた。
「ちょ、っ……!」
どこからともなくそんな声が聞こえ、目の前の男が小さい影に吹き飛んでいた。
「すみませえん、手がすべりましたあ」
などと間延びしたアホな声が響いていた。
「はっ!? おかしいだろその距離で!」
「あ、こんどは足が」
「アァ――――ッ!!!!!」
白いルーズソックスを履いた華奢な脚だった。黒いひだのスカートから生白い大腿部がのぞいていた。
赤いラインに赤いリボン、結い上げた髪が緩やかなうねりを帯びて揺れている。
「すみませえん、五条悟でも夏油傑でもなくってえ。でも、ほら、ウチらプロレス習ってきたばっかなんでえ。ピッチピチのプロレスギャルなんでぇ」
「いた、いたたたたたた」
「もし落としたい相手なら、首をこう腕にはめて、キュッと。キャッ、胸がドキドキしちゃうっ。ま、試合じゃ一発アウトらしいんですけどぉ」
浮ついた声とはうらはらにその顔は昂揚すら見せていなかった。背後に立つ蒼白の男の姿に、あああんときの――と記憶が結ばれた。
「いっ、硝子の後輩、アンタなにを――!」
「いまから、キャメルクラッチを決めようと思います!」
「思います、じゃねえよ! まずその男の首から手を離しなさい!」
紅の袴が翻って現実が断絶する。
「これだから、五条の後輩は!」
「庵せんせー、ひとくくりにするの、よくないとおもいまーす。ちなみに五条先輩より七海・灰原組の後輩と呼ばれたいでーす」
「あいつもあいつだけど、あんたもあんただわ! もーっほんっとう、余計なことしやがって! あそこに伸びてる人間、だれだかわかってんの? さあ、って首傾げてんじゃねえ! お偉いさんが来るって! 朝! 説明! した! だろうがッ」
首根っこを掴まれるあいだも、あたふたする眼鏡の男に指二本を突き立てて白い歯を見せていた。
「は、無茶苦茶な女やな」
こちらなど一度も見やしない。ただその女は――そいつは前だけを見据えていた。
特別なことがあったかといえば、否だろう。瑣末な用件を終えて洛中に戻るさなか、どこそこの現場に救援で向かう指示を出す焦り声を耳に挟んだ。
価値もないと思いつつ、物見遊山の気持ちでそこをのぞいてみれば、血みどろの情けない姿で呪いの前に立っていた。
五条とか夏油とか、そんなことを喚いて。まわりの人間なんざ置いて逃げればいいものを、たどたどしく掌印を結び、女は光を爆ぜさせる。己れすらもその怒涛の光に投じながら、そいつはただ立ち向かっていた。
「なんや、大したことないやん」
あんなんも祓えんで、この先、生きてけるんか。ここで死んだほうが楽なんちゃうん。肩も腕も上がらへんくせに、のんきに笑うてほかの人間に手ェ差し出しとる場合やないやろ。
「アホらし、雑魚は雑魚らしく雑魚と手ェつないでろや」
考えれば考えるほど、頭は冷え込んでいくばかりだというのに。闇を背に抱えながらそれでもそれを素知らぬふうに屈託なく笑う女の顔をいつまでも眺めていた。
「……ハァ? 直哉おまえなんでこっちいんの?」
「用があんのは悟くんやないねん」
「あっそ。オマエの探してるヤツなら、上から抹消命令出されてっけど。秘匿死刑すら名誉の死だと」
白髪が蒼穹に揺れる。
「あんな弱っちいガキ相手によくやるよ。その存在すら、はじめからなかったものとして消すって意気込んでるらしいぜ。ちなみに俺にも命令回ってきてる」
「……ほんま、しょうもな」
「それな。めずらしくオマエと意見が合ったとか」
オエ、と舌を見せるポーズをよそに、視線をはるか先に投げかける。
地獄の業火などみじんも気づかぬに、青々とした翠の中で女は光を浴びていた。
同期の男に見せる無邪気な笑みが、どこか寂しげに校舎を見上げる横顔が。その先に佇む、自分と似て非なる金色の頭をしたひとりの男が。
――なにもかもが癪にさわって仕方がなかった。
「ホンット、そんなことしてるくらいなら、もっとやることあんだろって」
「悟くん、金は要らんよな」
「ハァ?」
丸い玩具のようなレンズの向こうで、空が光を吸い込む。底までをも見透かすような心地悪さに内心で舌を打った。
「なに、止めろって?」
「ええわ、しょうもな」
「いいぜ。クソしょうもねーけど、オマエがそんなん言うのはじめてだろ」
ゾッとした。その軽い言葉がかえって重々しく腹の底にのしかかるようだった。
今度こそ盛大に舌を打って目の前の大空から顔を逸らすと、男はくすりとも笑わずに迷いのない指先を生い茂る草木の先に向けた。
「悟くんに頼まんでも、どうとてもなんで」
「あっそ。俺はどっちでもいいけど。つうかオマエが助けたところで、どうにかなんの?」
しずかに音もなく。わずか一拍の静寂ののち大量の野鳥が飛び発った。
「アイツに救われる覚悟と準備がねえなら、なんも変わんないだろ」
光は、網膜を容易く切り裂く。
「……直哉、おまえなにこそこそと動き回ってる」
無駄に磨かれた板廊下を足袋で容赦なく踏み締めていた。角から現れた男に、「なんや甚壱くんかいな。驚かせんのは顔だけにして」と軽口をかえす。
「五条悟の下にくっついている女」
「――が、なんなん?」
派手な着物を着流し、男は伸び腐った髪をわずかに揺らし、間の抜けた形をした小さなガラスの飾りを板の上に放り出した。
鈍い音が無機質に響き渡る。欠けるほどの重みもない、ひと息に砕ける強度もない。ただひたすら地の上を横たわっている。
「取るに足らない存在に足を掬われても知らんぞ」
「待ってぇや、なに本人不在のとこで話進めてんねん。俺がその女のことなんか言うとった?」
「……」
「なんやねん、そっちからビイビイ話しかけといて、黙りかいな」
着物の袂をわざと揺らすように、しょうもない虚ろを引き千切るように。手を振り上げ空を掴む。
「あかんわ、この家虫多ない? そやからさっさと建て替えよて扇のオジさんにも言うとったのに。知らん間にご自慢の梁や床が崩れ落ちても俺知らんで」
ほんまブンブンブンブン。だっるいわあそんなふうにあくびを拵えながら。男が舌を打って去っていくのを細めた視界で見届ける。
何百年と踏み続けられた板の上にそれは転がっている。
影が眼前に迫っていた。もしかするとそれは過ぎた後かもしれない。濃密な闇とはうらはらに、窓の向こうから射し込む烈日に七色の光彩を放っている。
「……アホらし」
アホらしくてたまらんわ。だが、その小さな存在を踏みつけようとして白々しい思いに身を包まれた。
いつからなどという言葉は馬鹿げている。そんなの知らん間にや。そっちが勝手に土足で上がり込んで、他人の網膜灼き尽くして。……それしか見えんようにして。
「なんで、俺がこないな……」
膝を折ることもなく腕を伸ばして、ただのガラスの塊を拾い上げる。
「ブッサイクやな」
シュッとした肉食動物の顔とはほど遠い。丸みを帯びた、寝ぼけたような気の抜けた顔。
「こんなんどこがええねん。伏見の白狐でももっとマシな顔しとるやろ」
――それ、好きらしいよと寄越してきた白髪の男を思い出して舌打ちをする。
「……しょうもな」
――ほんまに。
いろを失った瞳で虚ろを見つめながら、細い指先で小さな狐をにぎりしめる。
魂さえも未練ではないように、いまにも消えてしまいそうな儚さで。ひとりで立つ背を何度、眺めてきたことか。
この手にとることは叶わない。伸ばすこともかなわない。
ならば、いっそのこと。
――それで、どうなる?
「どいつもこいつも、目ン玉ないんとちゃうか」
それでも鮮烈な光からは逃れられない。
あの馬鹿げた日から。漆黒のスカートと真っ赤なリボンを揺らして、この世に飛び込んできたその日から。
太陽がのぼり宵闇を切り裂くように、真夏の日差しが天からふりそそぐように。一切の影をこの世から消し去るように。
あれから、何年経とうと――。
静まりかえった広い部屋で、流れる東京の夜景を背にしていた。ベッドのシーツが乱れている。悪くない質の調度品たちは、無惨にも瓦礫となって転がっていた。
鋭利な破片が散らばる絨毯の上で、女が残していった傷だらけのキーホルダーを見つめている。
「もう要らんやろ」
要らんやろうがッ――!
新しいモンならいくらでも用意してやれた。あの男の名前がなくとも、女ひとりどうこうする手なんぞ山ほどこちらには存在していたのだ。
それは今をもって最も高き山となったはずだった。家の名など語らずとも、たとえこの身ひとつとなったとしても、ただ唯一の女のためにその山さえを崩す覚悟さえあった。
「救われる覚悟? 救われる準備? そんなんあの女にはハナからないねん」
ひとりで殴りかかるような人間や。後先も考えず、後ろを向くこともなく得意げに指を二本突き立ててみせる。
そんなら、悟くんの名前やって要らんかったやろ。なんで俺やないねん。なんで、おまえのこと微塵も視界に入れてへんかった奴に、のうのうと守られてんねん。
「……んで、俺から、逃げんねん」
身体はいまだ仕込まれたものの影響で気だるさが残っていた。甘ったるい砂糖菓子のようなまとわりつく味だった。味と同じく残滓までもがいつまでもくすぶっている。
「……クソが! おぼえとけよ、お前らが手ェ出そう思てる女が――だれのモンか」
背後から忍び寄る巨大な影を分厚いガラスに押しつけた。ありふれた夜景を隔てるその一枚は呆気なく砕け散った。
風が強く吹き抜けた。細い指が撫でつけた髪が生ぬるい夜気にさらわれていく。
轟々と紺色の空が啼いていた。いのちの円環を示すかのごとく矮小な光が目下を行き交っている。
突き上げる空気の渦が押し寄せる。勢いを失することなくその威力を増して。轟々、轟々とただひたすらに啼いている。
「――地獄の底まで堕としてでも、わからせたる」
いつまでも尽きることのない、地獄の業火を感じさせる宵の風だった。

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