「あ゛――ッ、だだッ、あァ――――ッ!」
「うるさい、もうすこし静かに受けろ」
 身体の中をぐりぐりと容赦のない呪力が渦巻いている。
 わき腹から背部――背骨にかけての損傷、右肩の脱臼、左脚大腿骨の粉砕骨折、その他もろもろ。聞いているだけで痛みが増しそうなラインナップだ。
 呪霊討伐から一夜明け、血みどろのわたしを新田ちゃんが号泣しながらピックアップしにきてくれた。
 逃げろと言ったのに、麓のコンビニで待機していたのだ。帳を上げたころには夜も明け、薄暮の空から闇のドームが消えたのを視認し車を走らせたという。
 お迎えよろしくと、復活したスマホで電話をかけようとして、キィーッというブレーキ音が聞こえたときは、「これ、なんて映画?」とつい思ってしまったものだ。
 その後の彼女の、泣いているんだか怒ってるんだかわからない説教を聞きながら、麓の病院に運びこまれた。
 そこから緊急ヘリで高専に戻ってきて、現在。
 すごいね、ドクターヘリ、はじめて乗っちゃった。通常は呪術師のために飛ばさないのだけれど、そこは五条パワーが効いたとかなんとか。
 悶絶するわたしを横目に、その男が博多とおりもんの袋を出して食べ始めたときには、本気で号泣しようかと思った。
「あ、ああ……死ぬかとおもった……」
「たしかに死にかけてたな」
「そうなんですけど……そうじゃないっていうか……」
 通常の医務室ではなく、手術室に運び込まれるとは。電気がピカーッとして、マスクとキャップ、そのうえ術着に身を包んだ先輩がいて終始ひょえひょえしてしまった。
 メスと針を使った手術なら麻酔があるものだが、肉が切れても骨が折れても、内臓がぽろりしても反転術式に麻酔は同時併用できない。
 そもそもの仕組みが呪力の負の流れにこれまた負の流れを当てることだから、負たる正の流れを鈍らせてはいけないのだ。完全に傷がふさがるまで、数時間。絶叫が校舎に響いていたとか、なんとか。
「いや~ホント、おつかれ。僕がいないのによくやったよ。山を三分の一くらい吹っ飛ばしたことは許さないけど」
「それくらい許してくださいよッ。こっちは半分、呪いのお口に入りながら戦ったんですから! というか、とおりもん! それ、わたしへのおみやげではないんですか!?」
「そうだったんだけどさあ、オペ長すぎて食べ切っちゃったよ伊地知と」
「いっ……それは仕方ないですね」
 同期の名前に急に静かになったわたしに、五条さんはサングラスをわずかに揺らして笑う。
「そういえば、一週間かかるんじゃ?」
「ああ、もとはといえばその予定だったんだけどね」
伊地知から連絡があって、オマエが僕らの承認してない任務に向かったっていうからさ、と五条さんは続ける。
「その上、同行者不明、さらには連絡がとれないってきた。とりあえず戻ってきたと思えば、新田は半狂乱、伊地知は胃痛、ガチでわりと笑えない状況ってね」
「さすが、われらが潔高。そしてありがとう新田ちゃん」
 マジ、GWWなんて謎のアルファベットを打ち出す五条さんにも頭をさげる。
「ま、二人には感謝しとけよ。オマエに万が一があった場合に備えて、ド深夜に県の救急対応の医師確保してヘリまで飛ばす準備整えたんだから」
「えっ、あれ五条さんのコレじゃなかったんですか!?」
 親指と人差し指で丸を作ってみせる。
「もしかすると請求くるかもしれないけどな。でも、飛ばすまでのもろもろをまとめたのは二人だよ」
「うわ、本当、申し訳ない」
「そこはちゃんと、ありがとうだろ」
「五条さんから言われるとなんかムカ――あっ、ヤーーーーッ、わき腹もげる!!!!!!」
 にゅっと手を伸ばしてこないで! 無下限いきなり切って接触しないで!!!! 叫んだら、今度は家入さんが来客用のスリッパでパシーンッ。
「僕まで殴ることないだろ」
「騒ぐなら追い出すぞ」
「そうだそうだ! とおりもんだけ置いて帰れ!」
「おまえもな」
「アッ……」
 慌ててお口にチャックである。
 いつもの全身真っ黒のユニフォームではなく、ラフな白シャツ姿で五条さんは隣の手術台に腰掛ける。
「それで、ここからはまじめな話。ご想像どおり、今回も上のおイタだ。そこに余計な人間が乗っかって、僕も伊地知もいないタイミングでことが起きた」
「……五条家の」
「そ。ま、今回は遠縁の遠縁。ほとんどウチの血なんてないに等しい人間どもだったけど。や~ひさびさにムカついちゃったよな」
 うしろに大きな身体を仰け反らせながら、ゆっぬり首を捻る同僚を横目に、家入さんが会話をつなぐ。
「そいつら、おまえと五条が結婚するって早とちりして上と手を組んだらしい」
「けっ……エ゛ッ」
 まじかと五条さんをうかがい見ると、白髪が揺れていた。
「ウケるよなあ、ホント。僕がオマエと結婚するかは置いておいて、そういうことして逆鱗に触れる可能性を考えないのかって話だ」
「自分の娘がどうたらってヤツだっけ?」
「そうそう、うちの娘のほうが五条にふさわしい――ってね。万が一、コイツが僕の恋人だったらどうしてたんだろうな」
「そいつら命拾いしたな」
「ま、公文書偽造と殺人容疑で秘匿死刑になりそうだけどね」
「や、まだ生きてます。ノット殺人、イエス未遂」
「オマエ、突っ込むところはそこかよ」
 ま、無事でよかったと、頭をガシガシ掻き混ぜられて押し黙る。
「あんまり伊地知を心配させてやるなよ」
 こちらの事情なんてお構いなしの容赦のない手だ。でも昔より、わたしの好む力加減を知っている。
 家入さんが言っていたとおり、かつてはこの手にげんなりした顔をしてめちゃくちゃキレられた。きっと今はもうそんなこと、ないのだろうなと思うと寂寞が募る。
「それで、これからの話だけど」
 しんみりした心地だった。やおら、蒼を見上げると、いやに楽しげな光を携えてサングラスのレンズの向こうで瞬いていた。
「次、だれ行く?」
「へ?」
 ぐしゃぐしゃどころではなく、アーティスティックにこんもり盛られて。レンズにはたいそうまぬけな姿が写っている。
「コレ」
 人差し指に親指で、まるっ。さっき自分がやったことがこんなにも早くかえってくるなんて。
「福岡の旧財閥系御曹司、見た目はどこかのだれかさんに似て、ややツリ目だったかな。んで、ふだんは温厚なフツーの九州男児」
「言葉の節々に、不穏さマックス!!!!」
 というか出張ってそれ込み!? せっかくエモな雰囲気醸し出してたのに!
 ノーサンキューと拒絶しようとして、治療したばかりの肩やわき腹を思い切りひねって、本日何度目かの絶叫。ついに、五条さんが追い出されることになった。

「それで、五条の提案、受けなくてよかったのか」
 手術台から下りて、診察着から洋服へ着替える。
 黒いオーバーサイズのパラシュートパンツにチューブトップは血だらけだがとりあえずそのまま。
 スウェット素材のショートパーカーはボロボロになってしまったから、五条さんから借りた高専ジャージだ。
 五条と記されているあたり、実際に学生時代に着ていたヤツかもしれない。ダサいことこの上ないが、ロッカーに行くまでの辛抱である。
 着慣れたパンツに身を包み、安全靴を履き直すと戻ってきた心地がする。
「なんだか、スパイ映画みたいですよね。アメリカとかにあるナントカプログラム的な」
「証人保護プログラムな。制度としてはまったくちがうが、別人として生きるっていうのは似たようなものだな」
 今回の事件を「殺人未遂」ではなく「殺人」として扱う――五条さんはそう言った。
「さすがに、私も今回の総監部のやり方には、疑問を抱かざるを得ない。長年、おまえの存在はないものとして扱われてきた。上の首をすげ替えるまで、いっそのこと五条の案を受け入れるのも手だと思うけど」
 なにも一生ではないと、五条さんは指先をすり合わせながら続けた。
 掃除・・が済むまで、オマエを別人としてこっちで囲う。そのあいだに臭うこともろもろ突き出して総監部ジ・エンド――と。
 靴の編み上げを整えて立ち上がる瞬間、バランスを崩した。とっさに家入さんに支えられて、もう一度手術台へと寄りかかる。

「ねえ、家入先輩。入学してすぐ、灰原先輩が歓迎会開いてくれましたよね」
 なにを言い出すのか、と。彼女は脚の動きを確かめながら、うろんにわたしを見上げた。
「潔高とふたりで、なぜかろうそくの火を消すことになって。誕生日じゃないんだからって夏油先輩が笑っていました」
 五条先輩は心底、面倒くさそうに大あくびをしながら。七海先輩も似合わない三角帽をかぶせられて、いやいや拍手をしていた。
 欠けていたパズルのピースがはまったところで、輝かしい光景ではないのがいかにもだ。
「なんだ。わたしこのあいだのパーティーが、はじめてじゃないんだ」
「十年まえのアレをパーティーと呼べるかは、また別だろうけどな」
 郷愁も懐古もない顔つきで淡々と脚を曲げたり伸ばしたり、作業を続ける彼女に小さく笑う。
「ほかにも、五条先輩の実家から大量のさくらんぼが届いたときとか、七海先輩の誕生日とか。バースデーパーティーのときは、五条先輩も夏油先輩も任務でいなかったけど、五人でコーラ片手にどんちゃん騒ぎしましたよね」
「主におまえと灰原がな」
 躊躇のない言葉が返ってきて、いよいよわたしは肩を揺らす。
「そっか、そっかあ……」
 込み上げるものはなんだろう。わたしはそれを知っている。
「……わたし、ちゃんと生きてきたんだ」
 苦しいことばかりじゃなかった。痛みばかりでもなかった。
 静けさや沈黙の中で、貝となって水の底で立ち止まっていたわけでもない。なんでこんな大切なこと忘れてたんだろう。
 だったら、とまなじりをぬぐう。

 ――悟くんの名前なんざ、もういらんやろ

 風のごとく思考の隙間へと滑り込んでくる声に、ふと、それはどうだろとひとりごちてしまう自分もいるけれど。
「わたしは、わたしとして生きていくしか知らないんですよね」
 ばかだな、と家入さんは小さく口許をゆるめた。

 

 さてはて、めでたしめでたしとなるわけでもなく。相変わらず日常の延長、毎分毎秒の先に新しい時がやってくる。
 さらなる仕事が積み重ならないように、ついさっきまで生死をさまよっていた重傷患者だったとしても、デスクを片づけに向かう。
 手術室から別校舎に行く道のりは、青々といのちが瞬き、風がかぐわしく光を放っていた。
 まもなく雨の季節を迎え、夏本番となれば術師の仕事もピークを迎えるだろう。まだひと息をつくにはすこしだけ早い。
 筵山の燦然たる景色を眼前に、背後から吹き上げる風にさらわれる髪を眺める。
 結局、「念のため」と、家入さんに押しつけられた一本の松葉杖で身体を支えながら。

 ――遠い日に浮かぶのは、まだ自分が無敵だと思っていたころのこと。
『へえ、今年はお顔で選んだんやないんやね』
 いつ思い出してもひどい第一声だ。考えれば、最初から意地の悪い男だった。
 高専入りたてで浮かれているところもあった。新緑の季節、京都へ行くのははじめてだったから、行きの新幹線で伊地知とどこへ観光しようかとルンルン気分でガイドブックを開いていた。
 先生に連れられ、交流会の打ち合わせをするからと京都校の敷居をまたいだその日だ。
 紋付袴と見紛う上質なそれと白い詰襟シャツ。いわゆる書生服姿で現れたその金髪の男に、やっぱ京都は和装ひとが多いんだなあと思っていたところのそれ。
 とはいえ、上の世代が顔も能力も特級一級ばかりなのは自他ともに認めることだった。伊地知といっしょになってポカンとした顔で、それこそ関西でいうアホみたいな表情をしていただろう。
『きよたか、アレ、ぶぶ漬けみたいなアレだ』
『ぶぶ漬け?』
『ホラ、ジャマな客を帰すときに、わざと出すヤツ』
『いけず、ってことですか……?』
『そう、それ! いけず!』
 ウワァ、本場のいけず初体験しちゃった! と、伊地知の肩を(力いっぱい)叩いて迷惑そうな顔をされた。

 その次はいつだっただろう――たしか、東京から派遣されて京都に再訪したとき。
 酷い任務のまえだった。たまたま総監部のダレソレの関係者が来校しているからと、「お前らは顔を出すなよ」と京都校の先生に念を押されていた。
 まあ、しっかりバッティングしてしまったのだけど。
 ただこの件に関しては不可抗力もある。鍛錬場で腕ならしをしていたわたしたちのもとに、その男と、書生服姿のあのいけすかない御三家のお坊ちゃんがやってきた。
『あーあ、五条悟じゃないのかよ』
 大きな声だった。辺りで組み手をしていた面々が一度に手を止めるほどだ。だれもが息を呑んでそのふたりの動向をうかがっていた。
『いくら禪院の次期当主って言ったって、五条悟より格下だろ?』
 まわりの反応は良くも悪くも冷静だった。事態を静観している者、さも当然とばかりに小さく鼻笑いだけを浮かべる者。
 さわがしい人間のうしろを数歩遅れて歩く男。燦然たる金色の輝きがわずかに翳りを帯びる。
 鈍く、闇を背負った胃の奥がギュッと重くなるような翳りだ。淡々とした顔で前を歩く人間の背を眺めながら、その冷酷な眼を憶えている。
 だれかの固唾をのむ音がして――気がついたら、地面を蹴っていた。
『ちょ、っ……!』
 伊地知の制止も間に合わず、かなりの助走をつけて腕をひと振り。
『すみませえん、手がすべりましたあ』
『はっ!? おかしいだろその距離で!』
『あ、こんどは足が』
『アァ――――ッ!!!!!』
 ギブギブとルーズソックスの脚を叩く手を無視しながら、腕関節を反らせる。
『すみませえん、五条悟でも夏油傑でもなくってえ。でも、ほら、ウチらプロレス習ってきたばっかなんでえ。ピッチピチのプロレスギャルなんでぇ』
『いた、いたたたたたた』
『もし落としたい相手なら、首をこう腕にはめて、キュッと。キャッ、胸がドキドキしちゃ~う。ま、試合じゃ一発アウトらしいんですけどぉ』
 首に腕をかけようとしたところで、眉を吊り上げた京都校の教師が飛んできた。
 その後は、急きょやってきた夜蛾センに特大のゲンコツをもらって、何時間も正座をすることになった。

「われらが潔高の真っ白な顔をみて、やめるんだったな」
 理由なんて、とくにない。なんとなくプロレス技を決めてみたくなった。あと、あのひとの声がちょっとキモかったから、低音ボイスだったらだ許せたのにな、なんて。
 なぜギャル? とも言われたな。「プロレス好きのギャル、かわいいじゃん」と言ったら、意味不明って顔。
 デカいたんこぶをこしらえながらも、「いえい」とピースサインをしたわたしに、伊地知は心臓を押さえながら嘆息していた。

 しばらく歩いたところで、本校舎が見えてくる。グラウンドには一年生。初々しく――はない、彼らの楽しげな声が響き渡る。
 ああだこうだと言いながら、拳を突き合わせて。友情、努力、勝利――なんていい言葉だ。アオハルだなと右腕を上げそうになって、松葉杖をわきに挟み、左で手ひさしを作る。

 ――もしあの日、あのとき。
 ああしていたら、こうしていたら。
 そんなものはしょせん、たらればだ。

「ふつう、なんてねえ」
 ジャージのすそから伸びた腕には引きつった傷がいくつもあった。アームホルダーに吊られた右腕は肩より上には上がらない。

 古い同級生が、写真の中で白いウェディングドレスを着て笑っていた。
 どこまでも血を呑み込む黒ばかりでもなく。特級呪霊が襲ってきても穴ひとつ開かないブーツでもなく。可動性ばかりを考えたスポーツタイプの下着でもなく。
 ――ふたりきりの、教室でも卒業式でもない。
 たくさんのクラスメイトと顔を合わせて声を上げながらお弁当を食べることや、仲良しの先輩を体育祭や球技大会で応援すること。帰り道に恋バナをしながら、ファーストフード店でいつまでも笑っていたりさ。
 名前も知らないだれかに縋りつかれ、罵倒暴言を浴びせられながら、消えた命のぶんだけ重たくなる足を引きずって同期と二人で帰るんじゃなくて、「ふつう」という人生。

 山を越えた先にはたしかにありふれた人びとの営みがある。
 仲睦まじく手を繋いでセンター街を歩く高校生、池袋のゲーセンで大きなぬいぐるみを抱えながらああだこうだとはしゃぐ男女、また明日ねと笑って手をふる友人たち。
 なにひとつ疑うことなく、恐れることもない。奪い奪われ、呪い呪われ、血反吐をのむような生活とはまるきりちがう。

 たったふたつの机を広い教室で突き合わせる日々だった。前日まで、否、当日の朝まで顔を合わせていた人間が音もなく消えて、静寂はすぐにただの嘆息や小さなつぶやきで満たされた。
 真綿で包んだような分厚い膜の中、獣に成る日を指折り数える。あるいはすでにもう……。
 ――それでも、あの日々をなかったことにしたいとは思わない。

 キラキラのJKを見ると、いまでも正直、胸の奥が軋むけれど。「いいなあ」なんて、キャピキャピのギャルたちを眺めながらぶっちゃけ声に出して、教え子たちにキモがられるけど。
「左足の感覚が鈍いのも、言ったほうがよかったかなー」
 地面を蹴る音がいつもより長い。まだ治療して間もないから。再生した骨や筋肉が定着していないから。そんなものではないだろう。
 いつの怪我だっけと空をあおいで、耳の裏でもう聞こえない先輩の声が響いて、「一生付き合っていくやつか」と吐息を洩らす。

「おっ、きーよたーか~~~~!!!!」
 遠くに見えた人影に、松葉杖ごと左腕を大きく振った。
「な、えっ、は?」
「やっちゃったー」
 たはー、と掲げた松葉杖を下ろすまえに、背広姿の同期は駆けてくる。
「なに、動き回っているんですか!」
「えっ、だって家入さんに追い出されたし」
「医療棟を出たところで待つように言われませんでした!? 直帰に決まってるじゃないですか!」
「えー、だって絶対、机の上ヤバいことになってるじゃん」
「そのくらい、私と五条さんで片づけてます!」
「じゃあ、新田ちゃんが心配で?」
「彼女も念のため、報告を終え次第、本日は半休です!」
 両手いっぱいの紙の束を抱えて、トトトッなんて小走りでやってくる姿がハムスターみたいだなと思いながらニシシと笑う。
「そもそも、内臓半分飛び出てた人間が、意識回復してすぐ活動していいわけないでしょ! あいかわらず無茶なことをする! 無茶苦茶するのは五条さんひとりで十分! 聞いてますか!?」
 ひさびさだなあ、このお説教。学生時代はただ、血の気をなくしてオロオロするばかりだったのに。
「聞いてるよ」と答えると、「ぜったい、聞いてませんでしたね」とため息をついてこめかみを押さえる。
「いやあ、潔高も成長したねえ」
「二十五を越えた男に言う言葉ですか、それ……」
「まさしく、ひらがなで『きよたか』じゃなくて『潔高』ってカンジ」
「それは、あなたが漢字で書けなかっただけでしょ……」
 風が吹いて――背後からザッと砂利を踏む音がした。

「……なぜ、特別一級がこのような場所に」
 潔高もそんな声色できるんだね、ではなくて。
 振り向いた先、艶めかしいジャケット姿ではなく、いつもの上等な袴を揺らして。あの男が、わたしを見下ろしていた。
「あーあ、見てて痛々しいなあ。こんなとこに来んかったら、そないな痛い思いしなくても済んどったのに」
「……禪院特別一級、お言葉ですが――」
 表情を固くして前へ出ようとする同期を止める。
「いいから、潔高。……それで、偉いお方が、わざわざ東京のど田舎までいらしてなにか御用ですか」
 まばゆいほどの太陽の光に照らされ、晴天の下、漆黒の袂が翻る。
「君、ホンマ、知らん間に死んでてもおかしないで」
 いまいち噛み合わない会話に小さく息をついてから、色の読めない男の顔を見上げる。
「たしかに、いつか呪霊の領域の中でぽっくりでしょうね。でもそれ込みでこの世界で生きていくって決めたので――って、痛ッ」
 えっ、なんで? このひと吊ってる肩がグァシッて掴んできたんですけど。ガシッじゃなぬて、グァシッね。とてつもない力なんですけど。
「えっ、ま、待っ、ギブギブ、ギブギブギブギブ」
「なんで逃げんねん」
「いまですか? 生命の危機を感じる以外にありますか?」
「あの日や」
「あの日……?」
 どこそこのホテル――と最後に訪れた場所の名が端的に返ってきて、潔高の顔を慌てて確かめる。
 うん、けげんな顔するよね。逃げたとか、ホテルとか。なんでもないよ、ナンデモナイヨー。
 そんなふうに視線を泳がせるわたしとは異なり、目の前からは琥珀色の瞳がまっすぐわたしにそそがれている。
 宝石と見紛う瞳だ。鋭いけれど、わたしを拒絶するものではない。
 見つめていれば、ふしぎと頭が冷えて。
 お金で手に入らないものも、あるんですよ――なんて言うのは、今さら馬鹿馬鹿しいようにも思えた。
 ――さすがに、もう理解できる。
 彼が一人の女を陥れるために、あんな厄介なことをするような人間ではないこと。いくら総監部の命令があったとしても、あんなふうに時間をかけてなにかをするほど、彼は物好きでも暇人でもないこと。
 彼のまなざしや言葉、呼吸の仕方、ひとつずつ。それらをたどった先に、ほかでもない彼自身が教えてくれる。
 ばかだなあ、わたしも。
 ブランク長すぎてそういうアンテナ、ぶっ壊れちゃったのかも。
 熱く膨らむ胸を隠して、女の子はムードもタイミングもだいじなんですよ――なんて。
 はくはくと息を紡いで、ゆっくりと口を開こうとしたところで、視界をさえぎるものが飛び込んできた。
「……禪院特別一級。すみませんが、現在、事情が込み合っておりますので、日を改めて」
 思えば、潔高の背中をちゃんと見るのは、はじめてかもしれない。
「ああ、キミ、この子の金魚のフンくんやん」
「私のことはどうとでも。彼女は、安静が必要ですので。あと、うちの同期は何億、何十億出されたとしても渡すことはできません」
「われらが潔高……!」
 ちょっっっと、いやかなり、お姉さん感動しちゃった。いつもはくたびれた同期のスーツもこの日ばかりは皓々として見える……!
 けれども、そんなわたしを置いて、「しょうもな」と低く唸るような声が続く。
「ええよ、何百億、何兆、金ならなんぼでも出したるわ。そちらさんがほしいブツも、ウチにならいくらでもあるやろ? 欲しいんなら全部くれてやんで」
「だから、お金で買えるものでは」

「――俺がほしいモンは、昔っから決まっとんのや」

 しかし、と立ち向かおうとする背を止める。
「いいよ、潔高。冥さんに呼ばれてるんでしょ、それこそ遅刻十秒ごとに一万の遅延金がついちゃうよ。十日ならぬ、十秒ね。新手の悪徳商法ってワケ、あ、悪徳って言ったのは内緒にしてよね」
「なぜ、冥冥一級に呼ばれていることを……」
「そんなの、潔高の持ってる書類でわかるよん。じゃ、数えるよー、じゅーう、きゅーう、はーち」
「ああもう!」
 わたわたと眼鏡をずり上げるしぐさは、昔と変わらない。
「あとで、報告! 場合によって始末書! 書き終わるまで帰れないので覚悟してくださいよ!」
「もいもいー」
「それはフィンランド語で『こんにちは』!」
「Теперь я Чебурашка!」
「『ぼくはチェブラーシカ』じゃ、ないんですよ!」
 そうだ、あとこれを、と、手のひらになにかを落とす。
「ちょうど、あの稲荷神社に行く予定があったので」
 もうなくしてしまった、クリスタルの丸っこいキーホルダーだ。傷や擦れもなく、光をこれでもかと撥ねかえす。
「そっか、どこのかと思ったら、潔高と行ったとこのかー」
「なんですか、それ。私にどっちがいいか、木彫りとガラスの二つを突きつけて、一時間は迷ってましたよね。木彫りと言ったら、挙句、こっちにするとか。ああもう、ともかく、報告! 頼みましたよ!」
「はいはーい、おつかれちゃーん」
 片手には書類を山ほど抱えて、もう一方で親指と小指を伸ばして電話の念を押して去っていく。
 古くさいなあと笑ってそれを見送りながら、渡されたきつねのクリスタルを太陽にかざす。七色のプリズムが、やわく鮮烈に網膜を灼いた。
「うちの同期、いい男でしょ?」
「……」
「十年まえのことも、あんなふうに覚えててくれて。あーあ、どこかに傷だらけの生い先短い女でももらってくれるひと、いないかなー」
 おなか痛いときは毛布に包んで、よしよししてくれて。アイスが食べたいって言ったらコンビニまで走ってくれて。
「ディカプリオ並みにイケメンで、背が高くてマッチョで。顔よし度量よし、そのうえ世界でいっちばんお姫さま扱いしてくれるスパダ――ウワァッッッ」
 手にしたキーホルダーが、シュンッと目の前の男の手で吹っ飛んでいくのは、一秒にも満たなかった。
「アッ、潔高の形見!」なんて、プリズムの残像を追いかけているうちに、地面に突き刺していた松葉杖をダァンッ!
 長いおみ足で支えを蹴飛ばしたかと思うと、視界がぐるんっと地面に真っ逆さま。
「ちょっ、まっ、夢みてた展開とちがう!」
「うっさいねん。夢と現実は別モンや。夢、夢ばっか言っとるとめっちゃ痛いで」
「小学生時代、なかよしに憧れてたちゃおっ子を舐めるなよ!」
 アッ、わき腹ァ! そこ抉れたとこ! 内臓がちょっくらぽろんってしちゃったとこ!
 担ぎ上げられた肩のうえで悶絶パーティー開催! それでもさらさら揺れる金髪は止まらない!
「だから女の子は、ムードとタイミングがですねっ」
「うっさいねん。こちとらだれかさんがプロレス技決めたときから、チマチマチマチマ外堀埋めてんのやぞ」
「ハァ!? そんなひと、知らないんですけど!?」
「あんっなクソおもんないタイミングで、上の人間相手に飛びかかる女がホイホイおってたまるか。それやのに、遊びならよそを当たれ? どこのどいつが遊びや言うたんや」
 ああだこうだ、後輩やら学生やらが不思議そうな目でこちらを見る中――もちろん真希氏は蛆を見るような平たい目だったが――白髪のグッドルッキングガイが、わざとらしく口笛を吹く姿が見えた。
「悟くん、ほなそゆことで。最後ん振り込んだ金で、上もボチボチ黙らせられるやろ。おまけに一人くらい術師余分に雇えるんやから、あーほんま、俺ってやさしい」
「まいどあり~。末永くお幸せにどうぞ~」
 ……いま聞こえたのは幻聴でいいのだろうか。五条さんは人差し指と親指で丸を作り、「ヨ・ロ・シ・ク」とぷるぷるな唇でかたどってみせた。

「五条悟――!!!!!!!!」

「大丈夫、大丈夫。そこに愛はあるからさ!」
 そういうことじゃないと叫ぶ前に、わたしのわき腹がついに悲鳴を上げる。
「いッいま、わざと掴んだでしょ!?」
「俺がおるのに、ほかの男と話す余裕があるんやな」
「ハァ!? 嫉妬する男はみっともないですよっ」
「こちとらみっともなく、だれかさんがほかの人間にちょっかい出されんのを、何年も潰して回っとんねん。いくらでもウジが湧きよって、ほんまうざい女やわ」
「な、女の子にうざいとか! かわいいかわいいってよしよしするんですよ!」
「はい、かわええかわええ」
「心がこもってない!」
 最初から今日までいけすかない男! もっとやさしく! 情感たっぷりに、愛を込めて! などと注文をつけるわたしをよそに、表情を落とした顔で着物の懐に手を差し込むと彼は傷だらけのきつねを指先で揺らした。

「この世で俺が欲しいのんは、おまえだけやで」

 ねえ、そこで声のトーン、本気マジにするとか……!
「なっ、あっ……」
「それはそれとして、悟くんのジャージ着てるとか、ほんまにムカつくわ。いまここでひん剥いたろかな」
「そういうとこ!!!!」

 さて、この後どうなったって? ミスター・アンド・ミセス・ゼンインとして、ハリウッド映画さながらのスリル満点な日々が待っている――なんてことはなく。
 あ、いや、スリルという点においては正しいのだけれど、ハリウッド映画はちがうかな。

 数々の監禁、軟禁を振り切り、「お待たせ」なんて、嫁いだ同期が片足引きずりながらひとりの補助監督の前に現れるとか。それをものすんごい形相で夫が追いかけてくるとか。
 いつしか「おっ、不貞旅行? いいよ、いっちゃう? いやあ、一回やってみたかったんだよね、間男役」なんて五条さんが参戦。挙句、収拾がつかずにわたしだけぐるぐる巻きにして七海さんに放逐されるとか。

 一連の流れを、家入さんが煙草をふかしながら夜蛾学長と眺めているとか。
 われらが潔高はひたすら胃のあたりを押さえてたりね。

 こんな人生、あってもいいか、なんて――そんなわけないでしょうが!

 求む、平穏な未来!
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2026年3月25日Money Talks