明けない夜はない。時間は否応なしに、人びとの頭上に等しく降りそそいでいる。
 ホテルを飛び出して高専で夜を明かした。どうにかタクシーを捕まえ、ピンヒールを失くした足で筵山をのぼり、うっそうとした檻の中に帰ったわけだ。
 仮にも都心に自宅マンションはあるのだから、そちらに向かえばいいものを。高専に到着したあとも電気のついた職員室には行く気になれず、代わりにもうひとつの明かりの場所へ足を向けた。
「ひっどい顔」
 中には家入さんがいた。ついさっきまで猪野がいたとかなんとか、血で汚れたガーゼや包帯をまとめてスチールのゴミ箱へと捨てながら、後輩を受け容れてくれた。
 最後にゴム手袋を外し、つま先で開けていたゴミ箱のふたを閉じる。キイと蝶番が軋む音が、夜のしじまをひそやかに裂いていく。
「フラれたか?」
「どちらかというと、フりました」
「やるじゃん」
 笑おうとするがうまく笑えなかった。
「ちょっといいなって、思ってたんですよ」
 シャンデリアの下で光る金糸。太陽に紛れ、陰の中でさえ鈍く瞬く天津水だった。冷酷な眼をしていてなお、冷静にたしかに世界を見据える――。
 熱い腕だった。指先は硬く、そこに彼の生き様があった。
「久々に聞いたな、おまえのそういうの」
 昏い医務室の明かりに手のひらを見つめていた。開いたり閉じたり。ゆっくり息を吐き出して家入さんに肩をすくめる。
「高専教師になってすぐ、行きつけのカフェで一目惚れした吉田くんは連絡先を聞くまえに玉砕しました」
「たしか、ラブラブの恋人がいたんだったな」
「ええ、しかも八人。曜日ごとにデートしても一人あぶれるっていう」
「お盛んだな」
 その次はたしか窓の男性。
「好き、なんてことはなかったんですよ。でも、スーツ着て、腕まくりしたときに見える意外な筋肉とか電話する横顔が、ちょっとかっこいいなーって。恋に憧れる少女みたいな」
「頭ポンポンされて、不覚にもときめいたってヤツか」
「はい。そのあと五条さんにされた頭ポンポンは、心が滅されるほどイヤだったんですけど」
「五条がめちゃくちゃキレてたヤツ。それで、その男とは付き合ったんだっけ?」
 ほんのすこしだけですけどね、と答える。
「任務終わりにダッシュで下界して、お茶したり買い物したり。でも、やっぱり僕じゃ君と釣り合わないよって、やんわりお断りされました」
 そのあとすぐに、小さくてかわいいほかの窓の女の子と付き合ってたわけだけれども。
 革張りのソファーに身をあずけて、肺を空っぽにしながら鈍く瞬く室内灯の光を眺めた。
「もうそんな感情なんて要らないって。求めちゃいけないって、思ってたのにな」
 家入さんはデスクについてなにやら書類を書き込んでいた。ボールペンがきつく紙の上を滑る音が響いている。
「それが人間ってものだろ」
「そうなんですかねえ」
「ああ。否定しながら、否定しきれない。拒絶しようとしても抗えない。人間の脳こそ、この世で最も厄介だよ」
 心、と言わないところが家入さんらしい。
 カルテだろうか。彼女はそこから視線すら離さずに、明日も早いんだろと続ける。
「ソファーじゃなくて、ベッド貸してやるからさっさと寝な」
 なにがあったとか、どうしたのかとか詳しく聞かないでいてくれるのをありがたく思いながら。ただ、ほんのすこし、まだ語っていたいというアンビバレンスな気持ちを抱いてもいながら。
 どろどろのドレスも足も、ぐちゃぐちゃの髪も顔もそのまま、まどろみの中へ落ちていった。

 それから、御三家パワーによって高専がなくなることもなく、日常が戻ってきた。
 朝起きて任務へ、あるいは夜もすがら任務へ。ひたすら呪霊を祓うべく東奔西走の日々。
 案の定、どこから話が洩れたのか、五条さんには「あんだけむしり取っといて、やるね」と笑われ、挙句、「次はだれにする?」云々。知ってはいたが、このひと、最低だ。
 けれども、ふだんどおりにしてくれたほうが救いだった。
 あの夜以来、禪院家からの連絡はない、禪院家最強のなんたら炳集団から命を狙われることも、総監部からいよいよ秘匿死刑が下されるなどというのもなく、時間が過ぎていった。
 まさに、すべてが夢だったような。

「悪夢だ、悪夢」
 いま、このクソ忙しい状況も含めてな!
 ……さて、なんの因果か。右から左から任務が舞い込んでは、ひっきりなしにデスクに書類が積み重ねられていた。
 中には昇級審査のための任務もあったが、そのほとんどは、当然、いつものように同行する術師の姿もなくただ単に無報酬で、無評価の呪霊の祓除を押しつけられただけだった。
 五条さんがいれば、そういった類いの任務はうまいこと事後正式な報酬(評価はさておき)へと是正され処理されるのだけど、運の悪いことに彼は遠方に出ているさなか。
 一週間は帰らないと、五条さんが高専を発って数日。見知らぬ補助監督から回される仕事の数が明らかに増えていた。
 それはべつにいつものことだ。五条さんの波及もあり表立って仕掛けてくる数が減っていただけで、終わることのないループに舞い戻っただけ。
 慣れとは恐ろしいもので、あらゆる感覚を麻痺させていく。
 またかと思う心すら、明確に反抗する意志すら。静かな職員室で、書類の山を眺めながら脳裡に庵先生の言葉がよみがえった。

『あの男も相当な数の仕事を請け負ってるって話よ』

 なぜ――だれのために、なにが理由で、などという話を彼女はしなかった。
 ただ、わたしの顔を見てなんとも言いがたい面持ちをした庵先生に、時が止まったような感覚を憶えた。
 自分の知らないところで、動いていたなにかがあったこと。大人になったのだから、そのひとつひとつを想像できていると思っていたこと。
 そして、それが消えた今、ようやく実感するなどと……。
 ああ、もう終わってしまったのだな。勝手に終わらせたのは自分で、そもそも始まりなどなかったのかもしれない。向こうは体よく遊べるただいいカモがいたと思っていたかもしれないし、それこそ上からの命令だった可能性もある。
「……そうじゃんね。それしか、ないじゃんね」
 だって、こんな死にかけの女。手篭めにしたあと、腹の子ともに闇に葬るなど造作もないのだ。
 自分で考えてその思考におぞましさを抱いた。
 それが「ふつう」の世界に対してではない、ほかでもないそれが「ふつう」だと思っている自分に対してだ。
「思ってるより、ハートがブレイクしてるみたいですよ」
 五条さん、だから特別休暇もらえませんか、なんて。ひとりつぶやきながら、消費し続けて残りわずかになった書類を手にとる。
「それ、マジで言ってんの?」なんて、それこそマジなトーンで返ってくるのがオチだ。
 ハートブレイクうんぬんに対するマジ? ではない。
「オマエ、この状況でマジでそれ言ってる?」
 と、脳内五条悟がしゃべり出して、これ以上は考えないことにした。
 それが日常、それが人生。けっして無情というほどでもなく、自分で起こしたものごとの責任は、みずからが負わなくてはならない、ただそれだけのこと。
「ぜったい、この先一生、『カンタンなお仕事です(はあと)』にはノるもんか……!」
 お金より大事なことがある。プライスレス――と心に誓って、返ってくる声のない職員室をあとにした。

「あ、今日、新田ちゃんなんだ」
「うっす! よろしくお願いしやす!」
 駐車場で黒塗りの車から降りてきたのは、ゆるくウェーブのかかった金髪の馴染みの補助監督だった。京都の呪術高専を卒業後、東京校へと派遣されてきた。
 はきはきと右手を額に当てる姿に、「けっこう、けっこう」と重役返しをしてドアを開けようとこちらへ回ってこようとする彼女を止める。
「伊地知からなにか聞いてる?」
「伊地知さんスか? とくにはなにもッスね」
「そっか、それならオッケー」
 出発、と後部座席に乗り込んで、任務の概要を擦り合わせる。
「場所は静岡と山梨の県境、数年まえに倒産した物流会社の建造物ッス」
 東京を離れ、流れゆく景色に身を委ねる。
 現場は山間にある、とある工場兼倉庫だ。土地ならびに建物は競売にかけられ、新たな買い手が決まったことから、倒産以後もそのままにされていた。
 自然豊かな山岳地帯にあり、公園や体験型施設になるとうわさされてきたが結局、計画はとん挫。廃屋はそのまま放置され、呪霊の居城へ。
「なんでも、二十年以上まえ、世間を騒がせたカルト団体の活動拠点になっていたとかで、公園にするにも何にするにも、相当地元からは反対を受けてたみたいっスよ」
 そこまでは、依頼書に書かれているとおりだ。書類の右上には、五条ならびに伊地知の印があった。見慣れた印、わずかに朱肉の色が掠れている。
「これまでも定期的に、高専術師が祓除ならびに封印の儀式にあたる――と。担当は、宇都宮さん?」
「みたいッスね。今回も、もともと宇都宮さんご指名だったらしいんスけど、ちょうど激重任務のバッティングがあったらしく」
「なるほどね~。あるよね~繁忙期」
「ッスよねえ」
 ともかく、と新田ちゃんは慣れた手つきで車を走らせる。
「まだ現場まではかなり距離あるので、寝てて構わないッスよ」
 周囲にはまだビルやマンションが建ち並んでいる。
「いつも申し訳ない。かえりにうなぎパイ買ってあげるからね」
「ぜんぜん、いらないッスね」
「じゃあ、さわやかハンバーグ」
「っし、俄然ヤル気出てきました」
「うなぎパイに謝ろうね~~~」
 好きだよ、うなぎパイ。
 そんなこんなで、車は西へと向かっていく。
 空は厚い雲に覆われていた。今にも雨がこぼ落ちそうにこれでもかと膨らんでいる。
 革張りのシートに埋もれ、振動する車体に半身をあずけながら目を閉じた。
 ずるり、闇に引き込まれるまえにちらついたのは、グラスいっぱいのシャンパンのようなきらびやかな金糸だった。

 

 ――夢をみた。

 あれはまだわたしがなにも知らない無垢なころのことだ。
 駄々を捏ねに捏ねて作ってもらった黒いセーラー服にルーズソックス。髪はていねいに巻いて、お化粧だって気合いを入れた。
 半ば浮ついた足どりで古き良き時代の趣を感じさせる校舎を歩きながら、期待に胸をふくらませてやがてひとつのドアを開いた。

「……ま、まちがえましたぁ」

 中にいたのは、少年ひとりだった。黒い詰襟に短髪、眼鏡。
 クラスにひとりはいるような、勉強のできる図書委員。いや学級委員かもしれないなどと余計なことを考えながら、扉をそっと閉じた。
 いやいやまさかね、だってスカウトしてきたひと、イケメンも美女もわんさかいるって言ってたし。めっちゃ青春だよって言ってたし。
 ほな間違いか、などと両方のこめかみを指でほぐして、教室の表札をたしかめる。

「一年一組……」

 これでまた入るのかなり気まずいヤツじゃん……でも入るしかないじゃん……。
 よしヘラヘラ作戦でいこう、なにごともなかったように。そう、あえてテンション高く。

「えへへ、また間違えちゃった」

 再度入室してきたわたしに、少年はなんとも言えない怯えたような顔でおずおずと頭を下げた。
 ひどい記憶だなと思いながら、場面が移り変わる。
 机を向かい合わせに突き並べていた。黒板には小難しい文字がめいっぱい書かれていて、「この問題が終わるまで帰宅厳禁」とトゲトゲの吹き出しが付け足されていた。

「きよたか、おわった?」
「……まだ、問三の証明問題ですけど……」
「うわっ、もうほとんど終わってるじゃん! も~らちがあかない、キリがない、きよたか写させて~~~」
「いや、合ってるかわからないので……」
「そうだっ、終わったらアイスおごるからコンビニまで行こ! ちょうど気になってたヤツ新発売するんだよね」

 また別の場面では、肩をぎゅっとすくめて呪具を抱く少年にピースサインを突き上げながら声をかける。

「きよたか~~~! 帰り、プリクラ撮りにいかん?」
「えっ……?」
「だってさ、せっかく池袋なんておしゃれな場所に行くんだよ。遊んで帰んなきゃソンでしょ!」

 はじめての任務だった。入学してから桜が散り青々とした葉が辺りを染めていた。たった二人の一年生は、四月当初よりも日に焼けた肌を青空にさらしていた。
 雲ひとつないような晴天だった。吹く風はさわやかでやわらかく頬を撫でられるかのようだった。

「あ、クレープも食べたいな。バターシュガーがいちばん好きなんだけど、あれってお店だとめっちゃぼったくりだよね。だから生クリームマシマシにして、アイスとブラウニー入ってるやつにする。それからサラダクレープと、あとタピオカミルクティー」

 少年はあ然とわたしを見つめていた。

「ねー、きよたか、聞いてる?」

 と、下から顔をのぞきこむと、彼はこわばらせた肩をゆるめた。

「聞いてますけど……まずは任務をがんばらないと……」
「もーっ心配性だなあ。わたしらだったら、だいじょーぶ! いえいっ!」

 辺りは日が暮れていた。無情にも山の向こうにわずかな光をたずさえた五重塔が、闇を広げるように漆黒色の空にそびえていた。

「……きよたか、そば、たべてく?」

 車も通らない時刻だった。ただ街灯が鈍くアスファルトを照らしていた。
 暗闇から数頭の蛾が光の中へ飛び込んでいく。

「はいばらセンパイが、あそこおいしいって」
「……」
「きよたか、きいてる?」

 光の中で、影が踊っている。

「……いまは、」

 少年が吐息をふるわせた。その先は声にはならず、弱々しい拒絶だけが闇に落ちた。
 そっか、とわたしは小さく返す。

「……でも、たべなきゃ」

 ――痛い、苦しい。
 もうこんなのやめてしまいたい。
 逃げよう、そうだすべて投げ出そう。

「ごっ、五条を呼べよ! 夏油でもいい! こんなのすぐだろ!? おまえらとちがって、さっさとなあ! あのバケモン祓えよ!」

 手も足もわからない。おぞましい形の巨大な異形が、大きな口を開いてこちらを見ていた。

「きよたか、いきてる?」
「い、き、……」
「そっか、よかった」

 目の前は赤くかすんでいた。片方の耳もよく聞こえない。

「なあ、聞いてんのか!? おまえらみたいな一年、なんで東京も寄越してきたんだよ!」

 ぜんぶ、捨てたい。痛いのはいやだ。苦しいのもいやだ。怖いのだって、汚いのだって。
 ただ笑って、くだらないことを楽しんで、おいしいものを食べてたくさん眠って。おはようって、たくさんのクラスメイトに笑いかけて一日を始めたらいいじゃない。

「……っさいなぁ」
「あ゛ぁ!? て、低級すら苦戦してるくせに!」
「……五条とか夏油とか、家入とか七海とか灰原とか」
「いや、七海と灰原は知らねえよ」
「うっさい! 五条も夏油も、家入も七海も灰原も、みんな、わたしたちがなれるような人間じゃない!」

 ――それでも。

「ひとは、自分でしか在れない。いくら他人を羨んだって、妬んだって、自分以外にはなれない」

 泣いても笑っても、おいしいものを食べても。だから――。

「そこで諦めろって? ばっかじゃないの!?」

 濡れた額を手のひらでぬぐう。イチかバチかの賭けだった。
 担任から渡された呪具を地面に投げて、それからひたすら訓練を重ねた印を結んだ。

「きよたか、あとで反省文いっしょに考えてね!」

 五条悟にはなれない。
 夏油先輩にも家入先輩にも、七海先輩、灰原先輩にも。
 でも、きっと――。
 爆ぜた光の向こうに、漆黒の衣が風圧に舞っていた。
 腕の感覚も足の感覚も、なにもかもが遠い。

「……きよたか、かえろ」

 それでも、がれきの中に、転がった二つのうちのひとつに手を伸ばす。
 ひしゃげた眼鏡には一枚のレンズも残っていなかった。それがおかしくて笑い出したわたしに、彼は困惑と動揺とそれから安堵、さまざまな感情によってひどい百面相をしていた。

 それから。
 それから――……。

「悟くんの名前なんざ、もういらんやろ」

 ――ぶつり、映像が途切れる。

 

 気がつけば、車は富士五湖を越えて山深い場所にやってきていた。わずかな街灯を残し、辺りを一面の闇が包んでいる。
「スミマセン、このあたりなんですけど」
 名前を呼ばれるまえにしぜんと目が覚めた。もはや職業病と言ってもいい。
 濃密な静寂。車内にいても感じるほどの圧迫感。ハンドルを握る新田ちゃんの声色には、たしかな焦りが浮かんでいる。
 祓除予定の等級はおよそ一級。山を繋ぐおよそ百メートルのトンネルを抜けた先、谷にあたる山嶺地帯に件の建物は建っているという。書面上は、なんら問題のない任務だ。
 衛星写真にもその建造物の存在は確認され、以前までの任務歴も詐称はないとみていいだろう。だが、必ずしも提示された情報すべてとはかぎらない。
 たとえば、祓うべき呪霊が別の場所にも存在する――とか。
「……新田ちゃん、ここで止めて」
 付近は大型車両が多く通るため、夜間も誘導灯が皓々と瞬いているはずだった。
 事前に工事を偽装し、一帯の通行止めの申請を提出済み。それが通常のやり方だ。そのお作法どおり、ヘッドライトに照らされたアスファルトには、工事現場の黄色いヘルメットをかぶった男性の立て看板が掲げられている。
「え、でもまだトンネルすら抜けてないッスよ」
「いいから。わたしが降りたら、五秒数えるうちにアクセル全開でバックして」
 だが、釈然としない顔つきの新田ちゃんの肩を叩き、「頼んだよ」と車を降りる。
「待ってくださ――」
 フロントガラスの前に手のひらを開いてカウントを開始。新田ちゃんは開けていた窓をそのままに、舌打ちをして勢いよくギアを切り替えアクセルを踏み込んだ。
 むっとした熱気が立ち籠めたあと、皮膚をざらりと冷気が舐る。
「……ついに、五条印まで偽装してきたか」
 まあ、上としたら造作もないことかもしれないけど。いや、五条をあからさまに敵にするとは――と、そこまで考えて新たな極地に至る。
「そうね、五条。五条はひとりだけじゃないもんね」
 そういうことねとため息を呑み込むように、重々しい闇が迫り来る。
 エンジン音は順調に遠ざかっていた。朽ちた通行止め看板が風に吹かれ、工事作業員の腕がくるくると回る。
「懐かしいなあ」
 たしか、あのときもこんなふうに等級外の呪霊がいたんだっけ。
 幾度かの任務を経て、ようやく呪術師として本格的なスタートラインに立ったところだった。当時から人手不足は深刻で、伊地知と遠路はるばる関西の現場に派遣された。
 予定していた呪霊の祓除は無事終えたものの、帳を出ていざ帰ろうとしていたところで観測されていた個体とはべつに、上級の呪いがわたしたちの前に顕現した。
 最初っからやたらと補助監督がうるさかったし、最悪な任務だった。高専への緊急連絡を入れたものの、救援の術師が派遣されるまでにはかなりの時間があった。
 怪我をした伊地知を抱え、腰を抜かした補助監督を転がし、どうにかこうにか生き延びた。不安定な術式を帳を下ろすまえにくり出したとして、あのときは説教からの反省会だった。
 今でもあの日の正座のキツさと、夜蛾先生の複雑な顔を憶えている。
「こういうときにかぎって、圏外だしね」
 呪霊はトンネルの中から様子をうかがっているようだ。もしかすると――否、十中八九あの工事看板が呪符の役割でもしているのだろう。結界を一歩でも越えたら、飛びかかってくる。
「イチかバチか、新田ちゃんが支援要請出してくれるとして」
 むしろ、彼女がちゃんと助かるかが心配だ。
「無茶せずいっしょに引き返すべきだったかな」
 ユニフォームのポケットから取り出したスマホの画面は、ザーザーと砂嵐が起きている。
「ついこのあいだ替えたばっかなんですけど」
 五条さんがね。とはいえ、まだ使って一か月も経ってないのにサヨナラするのは悲しすぎる。
「あーあ、こんなんばっか」
 貯金また切り崩しか。落とさないようしまいなおして、今一度、果てなき闇と対峙する。
「なんだかんだ言ったって、結局、自分との戦い」
 逃げるか、逃げないか。そんな時期はとうに過ぎた。相対する呪いとの一騎当千よりも、術師はおのれの中に渦巻く呪いそのものの力と向き合わなくてはならない。
「五条悟がなんだ、夏油傑がなんだ」
 小さな光の粒子が舞う光景をまぶたのうらに浮かべながら、嫉妬と焦燥と、怒りに振り回された日々を思いかえす。
「――懐かしいなあ、ほんと」
 ぜんぶ、ムダじゃなかった。
 それはある種、苛立たしいほどに。
「わたしは、ひとりでこうして立てるほどに成長した」
 闇を覆うさらなる闇を唇で呼び寄せる。世界は瞬く間に断絶。
「……携帯は圏外、人里から数キロ、街灯といえば奇妙な作業員のぶんぶん振り回す誘導灯!」
 しかもそれすら、チカチカと不規則に明滅している。
「ヤダな、やんなっちゃうな~、こういうときに理性とはうらはらに、ちょっと楽しくなっちゃうの」
 こんな世界に来たせいで――そう言っていた自分との矛盾に自嘲が込み上げる。
 女心と秋の空もいいところだ。全然、秋じゃないけど。
 ピンチはチャンスってね。五条さんといっしょに居すぎたなと軽く屈伸と開脚運動をして、首を左右にひねる。
 それから明滅する光に目を細め、深く息を吸い込んだ。

「無明、光芒、稚児のまなざし……」

 ひとつ、両の掌で〝しるし〟を模り。またさらに印を重ね――。
 ほんとうは、いまだって怖い。ただ戦うしかないのだ。目の前の現実と、迫りくる過去と。

「不可逆なることわりくうに非ず夢に非ず――」

 脳裡に、燦然たる金が掠める。あの熱もまなざしも。けれど……。
 ――そう、ただひたすらに。

祇管しかん

 ――射よ。

 光矢が暗夜を貫いた。肌を摩るような烈しい重圧がトンネルの向こうから飛び出してくる。
 ひどい闇だ。夜はやさしいなどと言ったのはだれだったか。包み込んでくれるぬくもりも静寂もあったものではない。
 広がるのはただ祓うべき、闇。
 衝突により爆ぜた光の鎮圧を待つことなく、さらに指を絡める。

「領域展開――」

 鼻腔から、ひとすじの赤が滴る。

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2026年3月25日Money Talks