結果から話そう、堂々三時間の睡眠とてつもなく最高でした。

 いやあ人間、徹夜が続くと感覚がマヒするって本当だね。隣にアウトレイジよろしくアングラすれすれの男がいるっていうのに問答無用で爆睡してたもん。
 一時間なんて禪院さんは言っていたけれど、なんだかんだ車を走らせて数時間も空白の時間に付き合ってくれた。
 そもそもこの人が普通免許を持っていることに驚きだ。いや、それは人間だれしも持っていてもおかしくはないのだけど、ねえ?
 運転席に座ってハンドルを握る姿には、感動までおぼえた次第。横か後ろか問わず人を乗せて自分が運転するなんて、ま、ものの一分後には爆睡していたわけだけれども。
 目が覚めると、都内のどこかのビルの駐車場に車を停めていた。ほどよい暗さと静寂、彼は隣でスマホをいじっていた。
 すみませんと勢いよく上体を起こしたわたしに、彼はいつもの小言を言うでもなく。「あァ」と声をこぼして「ほんなら行くで」とサイドブレーキを下げた。

 と、まあここまでは穏やかな一日の始まりだったね。
 なんだかんだと任務に付き合うたび、一千万どころかゼロの桁に目が飛び出るくらいのお金をホイホイ渡してくれていた彼だ。
 そのたび白髪目隠しが「いいねえッ、つぎ億いっちゃう? むしりとれるだけむしりとっちゃってさあ、ホラッ、札束ビンタ! 夢の札束ハンカチも目じゃないッ」なんて横やりをつんつん刺してくるのが面倒だったというのは置いておいて。
 まあとんでもない賠償金を背負わされたとはいえ、総監部の干渉も含めてたかが潜入程度でチャラにしてくれるというから、わたしもそれなりに気合いを入れていた。
 今日も今日とて、シャンパンカラー。そんな淡い色彩をまといながら、正装姿の彼の隣に立っていた。
 総監部はこのごろ呪詛師たちを警戒している。わたしには直接話は入ってこないが、たまたま今年の交流会の打ち合わせをした庵さんいわく、とある宗教団体の動きがきな臭いのだとかなんとか。
 裏にだれがいるか、お上がだれとだれ・・・・・を厳戒しているのなんかは考えるまでもない。
 おいしいお酒を飲んで、呪いなんて知りませんといった気楽な顔で、気の知れた人間と談笑をする。そんな平穏な男女の横顔を眺めながら、これが仕事というのは、なんだか夢みたいだなと思っていた。

 きらびやかな世界、明るい声、疑いを持つことのない無垢なまなざし。
 知らない世界、知っていた世界、知りたくなかった世界、思い出したくなかった世界。

 ただ、ひとりじゃないのは、どこか心強かった。

 ――さて、そんな感動的な回想はさておき、ただ今の状況である。
「ちょっ、禪院さん、しっかり」
 ふかふかの赤い絨毯、いいえここはオスカー授賞式の会場ではありませんが、レッドカーペットをひとりの男を支えながら歩いていた。
 全体重を預けてくるのは、麗しいタキシードに身を包んだ禪院さんで。さきほどまで、胡散臭い笑みを口許に浮かべてやってくるゲストたちを、問答無用に往なしていた男だった。
 いや、情報収集しなきゃなんだから、往なしちゃダメじゃん、という言葉は置いておいて。
 他のゲストにお酒をあおられそうになったわたしをかばい、彼はグラスいっぱいのシャンパンを一息で飲み干した。
「だからあんなの放っておけばよかったのに」
 その場ではよかったけれど、ターゲットを追って会場から出たところで容態がおかしくなった。
 顔面蒼白、軽度の発汗、おまけに唇が震えて全身の脱力だ。十中八九、あのお酒になにかが仕込まれていた。
 ふだんならば絶対に彼が口にしないものを、わたしがいたから、そうせざるを得なかった。
 どうにかターゲットを落として任務は遂行させたからよかったけど、ターゲットを追うのが、あるいは会場を出るのが少しでも遅ければどうなっていただろう。
「禪院さん、部屋に向かいますからね」
 禪院さんはよほど余裕がないのか、わたしの問いかけにも一切答えない。
 どうにかこうにか、近くのスタッフからクロークに預けていたバッグを受け取ったあと、自分よりもいくらも大きな身体を抱え、有事のさい利用予定だった部屋へと向かう。
 エレベーターは目立つから、非常用の階段をえっちらおっちら。一階、二階、三階……え、待ってこれどこまで続くの?
 何階のみならず十何階かぶんのぼった先である。シラフでも体調崩しそう。地獄の階段めぐりかな?
 そんなこんなで目的階まで到着し、さらにふっかふかな絨毯、廊下には見たこともない豪奢な花瓶や絵画、そして重々しいドアを開けてびっくり。

「いや、スイートルームやんけ」

 しかも、デラックススイート。超ひろびろ、ゴージャスでスウィート(はあと)なソファーやテーブル、おまけにでっかいガラスの向こうは東京の夜景がきんきらきん。
 その表現に教え子ふたりの食えない顔が思い浮かぶが、どうにか吹き飛ばして五条悟が五人は寝れそうなベッドへ禪院さんを横たえる。
「いつも介抱される側だから、酔っ払いの助け方なんてわからん……」
 伊地知、酔っぱらってダルがらみしてマジでごめん。それなのに、タクシー手配したり水飲ませたり。ケラケラ笑ってる先輩たちをよそに甲斐甲斐しく世話焼いてくれてほんと、心底感謝する……。
 われらが潔高のありがたみを再度確認するとして、とりあえず記憶をたどりながらジャケットのボタンをはずしそれからボウタイをゆるめる。
「禪院さーん、お水ですー。飲めますかー?」
 そもそも酔っ払いじゃないじゃんね。この大男がタイムラグがあるとはいえ一発ノックアウトなのだ。むしろこれ家入さん案件なんじゃないのとベッドによじのぼって横たわる彼に声をかける。
 ゆさゆさと肩を揺さぶって、あっいけねっ、これ一番ダメだわとわれにかえって、いつもどおりゆるキャラのキーホルダーをつけたバッグからハンカチを出す。
 額には大粒の汗をかいていた。それをハンカチで拭う。
 整髪剤をつけているのにさらりとした金糸、聡明にも幼気にもみえる秀でた額。きれいに整えられた眉と、閉じられたまぶたを縁どる長いまつ毛。いくつもピアスのついた耳は、腫れぼったくもなく形が好い。
 ふわり鼻腔をくすぐる彼の香りと、甘ったるくむせ返るようなお酒のにおい。飲んでいたのはあの一杯だけだから、これが仕込まれた劇物のにおいなのだろう。
 危険なのに、まるで花の蜜みたいに甘美で。吸い寄せられる蝶のごとく、わずかにかさついた唇をなぞる指を止められない。
 いつもはひしゃげた唇が力なくゆるんでいた。長いまつ毛が、目元に陰影を作っている。避けたはずの前髪がはらりと額へ落ちて、わたしは思わず唇を噛む。
「ばかじゃないの」

 ――あの男も相当な数の仕事を請け負ってるって話よ

 応接室で庵先生が教えてくれた。最初は、「五条さんですか?」なんてのんきに返していたのに、「禪院家の」と言われて開いた口が閉まらなかった。

『まあ御三家が忙しいのは、いまに始まったことじゃないですからね』
『ばか、頭イカれてるくらいあちこち飛び回ってるのは五条ぐらいよ。御三家の人間なんて、ヤツのアホみたいな体力にタダ乗りしてる連中ばっか。五条じゃなくても、とくにあの家の上の男たちは、通常の任務程度じゃ外になんか出てこない』

 禪院家術師集団――「炳」。
 高専とは異なる形態をとり、西側最強の一団のひとつとも言われる準一級以上の術師の集まりだ。平安から数多くの術師をとりこみ、家を繋いできた集大成。
「筆頭」と呼ばれる禪院直哉をはじめとして、その姿は一般人がおいそれと拝めるものではない。
 その証拠に、彼以外の「炳」の人間にわたしすら会ったことがない。
 まあ五条側かつ、やらかした側の人間の「ふつう」なんて参考にならないけれど。でも、夜蛾学長でさえ「炳」には強く出られない。
 高専とは一線を画した、御三家ならではの雲上人たち。

 そんなひとが、なんでこんな。

「死にかけの術師をかばうなんて」

 立場も、いのちも。人のいのちに差はないとだれかは言うけれど、その重みは歴然じゃないか。
 天文学的値段の賠償金を、お小遣い程度とはいえない高額の寄付金を。何千、何億という大金を、払う価値がわたしにあるだろうか。
「そんなものなくても、いくらでも手伝うのに」
 まあ、通常の給料手数料はいただきたい所存ですけれども。
 早朝でも深夜でも、同僚からの電話ひとつで駆けつける軽い女だ。色のついた勘定なんて分不相応。
 わたしに関わっているのが大っぴらになったら――もしかするともうなってるかもしれないけど――上からどんなことをされるかもわからない。

 西東京の山奥、あのうっそうとした校舎でしか生きられない。籠の中の鳥なんてかわいい存在でもないから、檻に入れられた手負いの獣。
 五条の名前がなければ、いともたやすく消されてしまう存在。
 生きるための術や道を失ったしょうもない女。

「やっぱ十年まえ、ジャーマンスープレックスも決めておくべきだったな」
 もはや、顔も忘れてしまった人間のことだ。

『五条悟じゃないのかよ』
『次期当主って言ったって、五条悟より格下だろ?』

 問答無用で華麗にプロレス技を決めたわたしの横で、感情などそぎ落とした冷ややかな眼をいまでも憶えている。
「五条悟とか、夏油傑とか。ほんと……」
 結局、人間ひとりなんだよ。自分以外のだれにもなれない。自分の人生からは逃がれられない。
 自分が、戦うしかない。
 ――このひとはそれを知っているひとだ。

 五条悟の名前で生き永らえてる人間が言うのも、おかしな話かもしれない。
 でも、だれにもなれないんだよ。わたしたちはわたしたちだから。その名前を羨ましいとも妬ましいとも思わない。思えない。
 なだらかな頬をそっと撫でる。痛々しいほどに身に着けられた金属製のピアスに指を伸ばした。
 はずだった。

「えらい情熱的な告白やな」

 ものすごい力で掴まれたと思ったら世界が一変していた。
「え?」
「金なんざ、なんぼでもくれてやんで。あないな端した金」
 シーツの海に溺れるという表現はけっして大げさではないのだろう。ふっかふかのベッドで、真っ白なそれの中に沈んでいる。眼前には、シャンデリアの光を背負った男。
 そう、さきほどまで青白い顔で冷や汗をかいていたはずの彼。
 ニヤリではなく、ニイと。そんな擬音が似合う笑みを浮かべて、無情にもわたしを見下ろしている。
「は、え、ええ? 薬は?」
「そないなしょうもないヘマ、俺がするわけないやろ。仮にも一級やで、体内の毒、異物、そういうモンは呪力でどうとでもなる」
 高専に入り、まず教わったのが呪力の操作だった。おなかの中心からうずを巻くように全身を伝って、血潮が管の中で烈しい奔流となるのをその肌や肉で感じ取る。
 呪力操作を身につければ、肉体を鎧のように屈強にすることも、失った血液を呪力でまかなうことも可能になる。
 そして欠かせないのが、呪力による多種多様な怪我や病を癒すのも、また呪力ということ。
 血は呪力で洗い流され、抉れた肉や骨が新しく形成される。四肢の欠損や臓器の破損・破裂を補うのは最難関だとしても、体内に取り込まれた異物を押し流すことなど、一流の術師には赤子の首をひねるほどに簡単なことだ。

 このひとは、特別一級。高専で希釈された青い春を経験することもなく、あの有象無象の家でその力をその地位をたしかに手にしてきたひと。
 当たり前じゃないか。
 こんなの、考えなくてもわかることだ。
 一分一秒が生死を左右する世界で、慢心は自らの首を狩る。
「ありえない」
「そんなん、考えたらだれでもわかるやろ」
「こんなの……」
 ざらついた硬質な指が唇をなぞる。
「じゅうぶん待ったで、俺は」
 何年、何十年、そんなの知らない。
 状況を見誤った?
 油断した?
 騙されて遊ばれて、落ち込んだ?
 男はふと目を細め、反対の手をも絡め取った。すべてを奪うように一本一本指を絡めて、今まさに蹴り上げようとしていた脚の上に乗り身体の自由を奪う。
「ずいぶん焦らされたぶん、なにがなんでも……て、泣くなや」
「泣いてない!」
 それなのに目の奥はおろか脳が溶けたみたいに涙があふれていた。
 自分でもうまく言葉にできない。ただ自分が情けなくて、不甲斐なくて、ばかばかしくて。
 結局、自分はこのひとの腕ひとつでどうとでもできる存在だ。手のひらの上でもてあそんで、飽きたら捨てられる。
 そんなのはわかっていた。いやになるほど、自分の矮小さを理解していたはずだった。
 でも、そんなことすら忘れようと、忘れてしまいたいと心の底で願ってしまっていた。
 熱をはらんだ瞳の中で、ただひとり存在していることに。灼熱にとろけそうな視線を向けられているのが、ほかでもない自分であるということに、抗えないほどの悦びを感じてしまったから。
 顔を背けようとするが、すぐさま唇が下りてきて逃げ場をひとつずつ潰していった。甘ったるさの中に、彼が車中でいくつか噛んでいたガムのミントのかおりがして、それがやけに現実味を帯びていて、喉の奥から声が洩れた。
「っはじめて、なのに!」
「へえ、そら儲けモンやな。待ちぼうけた甲斐があったで」
「こんなチューだって、好きなひととじゃなきゃ、しちゃいけないのに!」
 君、貞操観念大正なんかと、転がる声がする。
「こんな世界に来たせいでっ! イケメンでやさしくて、おなかが痛いときには毛布でくるんで、よしよししてくれるスパダリな恋人に恵まれることもなく。なぜかわからないけど一生白髪目隠しにこき使われて、名前を与えてもらわなくちゃならなくてっ」
 いいなって思った感情すら、まやかしで。わたしの存在そのものが、提示されてきた金額のぶん荒唐無稽でどうしようもないものに思えてならない。
 期待していたわけでもない。じゅうぶん受け容れて生きてきたはずなのに。
 だれかの隣が心地好くなってしまうなんて。その心地好さを手放したくなくなって。
 まだ心のどこかで受け容れられたい、なにもなくてもただ抱きしめてほしいという欲が残っていたなんて。

「悟くんの名前なんざ、もういらんやろ」

 けれど、それなしでは生きられない。胸を張って存分に歩くことすら、叶わないのだから。
「だいたい君、悟くんの隣に立てると思とるん。えらい思い違いやで。雑魚は雑魚らしく、必死こいておっ死ぬ場所探さんで、ただのうのうとあほみたいに笑っとったらええね――」
 思い切り、そう、思いっきり。ありたけの力を込めて丸々とした額へ自分のそれを打ちつけた。
「ッ、やりおったな、このクソアマ!」
 拘束がゆるんだ隙に上体を強く押しやって、シーツの海から飛び出していく。
「遊ぶなら、わたしじゃなくていいじゃん!」
「だれが、そないなこと――」
 背伸びして履いたピンヒールが脱げるのも厭わず。むしろそれを拾って投げてつけて、無我夢中でバッグだけを引っ掴んで部屋の外へ。
「っあそこまで、言わなくてもいいでしょ!!!!!」
 自分でもわかっている、支離滅裂だ。それでも、たまらずに分厚い扉のまえで絶叫して。
 立ち止まるわけにはいかないから長い高級な絨毯を全速力で駆け抜け、やってきたエレベーターへすかさず滑り込む。
「アー・ユー・オーケイ?」
 ひどい顔で嗚咽に肩を上下させるわたしに、外国人の観光客が声をかけてくる。

 バッグにつけていたはずの愛くるしいきつねのキーホルダーが消えていた。
 そんなことにも気づかぬまま、ごめん夜蛾センセー明日高専無くなってるかも、などとくだらないことを懸命に考えて、唇にこびりついた熱を手の甲で拭った。

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2026年3月25日Money Talks