「人生、いろいろあるよね」
まだたった二十八年。決して楽しいことばかりではなかった。ふり返ればむしろ、暗いリビングでひとりたたずんでいるような記憶ばかりで、その生き方だけが正しいと思っていた自分が、今となってはひどく滑稽に思える。
「ずっと、まじめに生きなきゃ、真っ当な人間でいなくちゃ。道をはずれてはいけない、ただまっすぐ進むまなくちゃ、そうでなくちゃ自分に価値なんてない、そう思ってたけど。でも、結局そんなこと、全然ないんだよね」
人生なにがあるかなんて、本当はだれにもわからない。もしも運命というものがあるのだとしたら、それを決められるのはわたしたちの手の届かない神様や仏様みたいな神秘の存在であって、決してそれは人間ごときが認知できるものでもないのだろう。
なにが正しくて、なにが間違っているか。その人の価値や生き方を他人が好き勝手決めていいわけがない。
ずっと、怖かったのだ。ひとつ否定してしまえば、すべてが台無しになる。厳しくて抑圧的な両親を、わたしが拒絶し非難してしまえば自分自身の生きてきた人生をすべて否定することになる。
だから、肯定するしかなかった。わたしは間違っていなかったのだと、苦しくても辛くても、寂しくても虚しくても。決して間違っていない、きっといつかは幸せになれるから、と――……。
すべてを否定したくて、この子にひどいことをしたのも理解している。築き上げてきたなにもかもを壊したくて、そうしてあの人たちを否定したくて。
でも、その反面でこんなふうに育ってしまったわたしでも、この子を助けられるんだ、わたしなら――わたしだけは、この子を救ってあげられる、そんなふうに恍惚に浸ってもいた。
ただ抱きしめてあげたかった。
ひとり静かにどこかを眺める彼を、暗闇の中でうずくまっている小さな女の子を。
自分のことながら、思い返すとひどい精神状態だ。ここが〈呪い〉の生み出した空間だとしても、〈呪い〉によって歪められ再構築された〈場〉だとしても。
わたしは、わたしのすべてを認めよう。
「外に出たら、探しにいくから。もうあんなことはしてあげられないけど、でも、キミが大人になるまで見守っていてあげる」
わたしには、この場所を望んでしまった責任がある。彼の手を掴んで引きずり込んでしまった、引き止めてしまった。救いたいと思ってしまった、救おうとしてしまった、その責任が。
今一度、彼の冷えた身体を抱きしめて、十五歳にしては大きな背中を、とんとん、とそっと叩く。
子ども扱いしすぎてしまったかな。「あほらし」と憎まれ口が返ってきて、そのとおりだなと小さく肩を揺らす。
それでも、小指を差し出して。
「やくそく」
ぬくもりを離した身体はどこか虚しさが込み上げる。人の温度は麻薬みたいだ。一度知ってしまったら、二度と忘れられない。
――きっと、忘れない。
「ね?」
懲りずに指を差し出して、いつのまにかあの物々しさのある木の幹は消えていた。白い空間に彼とわたしがいて、膝を抱える彼の手をとりみずからの小指を絡めた。
「ゆびきりげんまん」
うそついたら、針千本だと幼稚ながらも指で契って。
わずかに濡羽色の絹糸が揺れて、琥珀の瞳がわたしを映した。
――その瞬間、パリン、となにかが割れる音がした。
「ほんまに、しょうもな。どいつもこいつも……」
それはまさしく世界の崩壊の音だった。あるいは、再構築。落ちた影の中から、金玉の光がぎらりと瞬く。ほんの一瞬、たった一瞬。それでも目が離せない。
時を取り戻したように、ニイ、と形好い唇が薄くひしゃげる。
「術師の〝約束〟は重いねんで。――ほな、忘れんとってな」
たしかにその唇がわたしの名前をかたどった。子狐の顔が、蛇の形相を帯びていた。
刹那、〈空間〉が崩れ、落ちゆく瓦礫の中に一人の男の広い肩が消えていった。
「おっつかれサマンサ~!!!」
目が覚めた先は、あの病室だった。
コングラッチュレイションの横断旗を振りながら、「あるいはハッピーサマーウェディング? 夏だけに! イェーイ!」と五条さんが乗り切らない独特のテンションで捲し立てる。
「おわっ、た……?」
「ええ、無事、終わりました。ご苦労さまです」
ピ、ピ、と心拍音の音が響いている。夜の帳に包まれた辺りは再び明るくなっていた。太陽は西へと渡ったのか、わずかに赤みを帯びている。いまが、いつ、どの時間なのか。
鮮烈な光が影とのコントラストを生み出していた。窓辺にはプリザーブドフラワーで作られたフラワーアレンジメントが置かれている。前回、目覚めたときにあったお菓子の包みが消えていることもあれば、また新たに増えているものもある。
「……しばらく、眠っていたんですか」
「そうですね。負担が大きかったようで、さらに二日ほど」
「そっか」
五条さんに代わり、答えてくれたのは七海さんだった。安寧を報せるような低い声が緊張をやわらげる。
しばらくの空白を経て、呪霊の消失反応がありわたしを覆っていた不可思議な〈領域〉はたちまち消え去ったのだという。
自分的にはそこまで寝ていた感覚というのはないのだけれど、「センセイへ」と書かれた窓際のメッセージカードを見てわずかに実感する。
「それで、救えた?」
寝たきりだったというのに、ふしぎと身体は軽かった。謎な横断旗を持っていた五条さんに、そうですね、とわたしは笑った。
「……手放して、あげられたかな」
それからはしばらく夢のさなかにいるようだった。
呪霊事故専門の医者がやってきて、さまざまな検査をしたり、五条さんと七海さんからいわゆる調書というものをとられたり。警察沙汰――ではないけれども、そういうものが初めてだったからか、当事者ながらドラマでも見ているような感覚であった。
病院には諸々の検査と経過観察のために数日滞在、五条さんからの承諾が出たあと退院した。
事件当初から放置されていた携帯には連絡が山ほど届いていて、中には職場からの事務連絡もあり心臓がいやに跳ねたが、事情は呪術高専のほうから管理職へ伝えてくれていたようだ。
退院の日、迎えにきてくれたのは安室さんだった。身内へ連絡をするか迷う必要などもなく、身元引受人の役割をほかでもない彼が引き受けてくれていた。
おどろくわたしを見て、安室さんは「さらに痩せてしまいましたね」と眉を下げたあと、小さく息をついてまなじりを緩めた。
「でも、表情が以前よりスッキリしています」
病み上がりだから、ドキドキハラハラの東都ドライブとはならなかったが、ゆっくりと安全運転で安室さんは白いスポーツカーを走らせてくれた。
季節が進んでいたのもあったかもしれない。湾岸沿いの道路を走るとき、見えてきた景色は以前見たときよりも異なって見えた。
探偵もので言えば、ケース・クローズド。スパイ映画であれば、ミッション・コンプリート。とにかく、幕は下りたのだ。
「で、結局、辞めることにしたんだ?」
現在進行形、わたしの前で特大パフェをつつくのは五条さんだ。
「まっじめだね~、あんなのだれにも言わなきゃわかんないのに」
パフェはゆうに五条さんの顔の倍くらいの大きさがあった。具はイチゴとチーズケーキとコーンフレーク。夏真っ盛り、外はもう熾烈な日差しが降りそそいでいる。
そんな灼熱の季節にぴったり、たっぷりのったバニラアイスをコーンフレークと混ぜ合わせながら、「そんな生き方してるとハゲるよ」五条さんは続けた。
「たしかにそうかもしれないですけどね。結局、自分が知っているというのが、いちばん厄介な問題なんだなあって」
「そんなモンか」
「そんなモンですよ」
あれからすでにしばらく経っていた。事件直後は、呪術高専と病院、さらには職場とのやりとりで忙しくしていたがそれもようやく落ち着いてきたころだ。
非常勤講師をしていた時代から合わせて六年、短いけれど教員生活に終止符を打つことに決めた。
五条さんの言うとおり、〈夢〉は〈うつつ〉であったとしても〈呪い〉の影響下だ。〈呪い〉に関する専門の臨床心理士からは、あの状況自体が異常であり、正常な判断を下せる非術師はいなかっただろうと言われている。
「――人間はだれしも、生まれながらに社会的規範というものに縛られている」
何度目かの通院のさい、五条さんが同席して教えてくれた。
「人を殺してはいけないとか、法を犯してはならないとか、そうした社会的規範は人を人たらしめるものでありながら、人をもっとも人から遠いところにあるものへと変えてしまう」
自我が芽生えたとして、表出する感情や欲望はその自我によってセーブされ歪曲のすえに整形されたいわゆる〝綺麗〟なもの。
だれしもその人間の皮を剥いだところに、本当の望みがある。その望みは、感情である。
救われたいとか、救いたいとか――。
「厄介なのは当然、表出したものよりも、奥底に抑圧されたそれらでさ」
と五条さんは続けた。
「〈夢〉は、記憶や情報を整理する機能から、生身の感情をよりドラマティックに表出する。隠された欲望をより過激に、鮮烈に――。
もとより抑圧されたものなんて、激しいに決まってるのにね? ま、つまり、君の出くわした呪いは、そういうのをさらに増幅させるのが得意だったみたい」
京都の山奥の集落にこんな言い伝えが残っていた。
なんでもその集落は呪われていて、夜になると、夢枕にひとりの女性が立つのだという。
十二単を着た美しい女性だ。都にでも行かなければお見えにならないだろう、やんごとなき御身の方。
桃の花や梅の花が似合うようなたおやかな女性で、御簾を隔てることもなくたたずむ姿に、はじめのうちは吉夢を見たのではないかと浮かれていた。しかし次第に夢は様相を変えていく。
女性はいつも泣いてた。その泣き方は決して激しくはないが、なにせ延々涙に暮れているのでこちらまで気が滅入ってしまう。さらには、いつしか女性は取り憑かれたようにげっそりと痩せ細り、しまいに病を得てみずから首を括り命を絶ってしまう。
毎夜、その酷い光景を見せつけられるのだ。
「それで、あまりに気味の悪い夢だから、陰陽道の人間を読んで〈夢解き〉を行った結果、その地で実際に起きた悲劇の〝たたり〟だと言うじゃない」
その悲劇というのが、貴き身の女が情人と駆け落ちしようとしたところ、卑しい出自のために男のほうが殺されてしまったというものだ。
約束の場所で落ち合う前に首を切られてぽっくり。女は父親の言うとおり泣く泣く嫁いだけれど、嫁いでまもなく、夜着を裏返し手首を桑の木の枝へと結びつけた状態で絶命しているのが発見された。
「まあその夢が本当になんだったのかは、今となってはそれこそ神のみぞ知るところではあるけれども。とにかく、それ以降、昔のお偉いさんが菅原道真を神として祀ったのと同じく、その地域では女性の御霊を丁寧に魂こめて鎮めてきたわけだ」
人は認知を超えたものを恐れる。その恐怖心が集合体となり、〈呪い〉に転じることもある。それを防ぐための〈御霊信仰〉だという。
けれども、そのせいで「たたり」が風化し、信仰だけが俗世に残ってしまった。結果、「恋の悲劇」信仰が新たな〈化け物〉を生み出すこととなった。
「ま、結局、恐怖も欲望も元を正せば人間の感情なんだよね。正負に限らず、それらが集まればおのずと暴走をしだす」
その地域の御神木である桑の木を信仰の象徴とし、その木からとれた香木を集落では〈香守り〉として利用した。〈香守り〉は形を変え、香になり匂香となり、最後は香水となった。
それらにはいずれも、御神木からつながる桑の葉や根、あるいは幹が使われ呪物としての媒介の役割を大いに担った。
言わずもがな、昨年、修学旅行で訪れた貴船の山奥の神社がその「悲劇」を祀る場所だった。
毎晩、ルーティーンのごとく枕にふりかけていた香水こそが、今回の火種であり、また呪いの種子にそそがれる、〈水〉そのものだったとは。
「とんだもらい事故だよね~」
と、五条さんは言ったが、なぜ〈領域〉に引き込まれたのか、あまた呪物の所有者はいたはずなのに〈領域〉が選んだのがわたしだったのか、それらの理由については判明していない。
「ウチ、事務員募集してるよ~? 給料、待遇、福利厚生、ぜーんぶバッチリ。万年人手不足だから、面接きたら即採用」
「ありがたいような、ありがたくないような」
好条件と見せかけて深い穴があるアレだ。一度、踏み込んだら足を洗うのが大変なやつ。
じゃくじゃくと溶けたアイスをかき混ぜて、五条さんはなにごともないように続ける。
「ま、しばらくは呪いを集めやすくなるから、定期的に七海から連絡がいくと思うよ」
「七海さんにありがとうございますとお伝えください」
「気が向いたらね」
子どものようなしぐさで、しかしハイペースにパフェを平らげていく姿に苦笑しながら、そういえば、とレモネードを口にする。
「男の子のほうは、無事だったんですか?」
「あ~、直哉?」
「そう、直哉くん」
ぺろりと大きな塊を口へと放り込んで、「まあ無事なんじゃない?」あっさり。
「それならよかったですけど」
「そっち的にはよかったかどうか、僕は知らないけどね。アイツの命の点で言えば、安心しなよってとこ? 実際に、君が安心できるかは別として」
「言葉の節々が不穏だなあ」
なにはともあれ、閉幕だ。
長期休みを間近に、校内はどこかゆるやかな空気が漂っていた。
階上から聞こえてくるのは吹奏楽部の練習で、水面から顔を出したクジラのような低音がのびやかに響いている。
ここで過ごすのもあとわずか。管理職の先生方にはすでに退職の話をしている。同僚には、事故の後遺症のため、呪術界の事情を知る理事長にだけは実際の理由を。
年度途中に担任が変わることで生徒たちに不利益があるのはもっとも避けたいことではあったけれど、話し合いの結果、長期休みを区切りに学校を離れることにした。
そこまで決めるには覚悟だけではなく勇気も必要だったけれど、自分なりのけじめだ。
期末テストも終わって待つのは成績表のみ。廊下を歩く生徒たちの足どりは当然軽く、羽が生えたら海へでもすぐに飛んでいってしまいそうだ。人魚などと優雅なものではなく、彼女たちは小さなトビウオみたい。勢いよくびゅーんと水面を跳ねていく。
それを追いかけるには歳をとってしまったけれど、見守るぶんにはちょうどいい。
走る彼女たちに、「転ばないようにね」と声をかけて、自分の教室へと向かう。
「先生」
中には、ひとり生徒が残っていた。その手には愛らしいステッカーの貼られたスマートフォン。
校内への持ち込みは可能だけれど、使用自体は校則で禁じられているはずだ。
まずい、と顔を青くした少女に、眉をさげる。
「見逃してあげたいけど、こればかりは許してね」
他の生徒との、公平不公平という観点からねと言い聞かせて、手のひらを差し出す。
「もーっ、先生、教室入るならノックして!」
「それはたしかに」
「扉閉まってたら、いきなり開けずに確認しましょうって言ったの、先生なのに!」
「ほんと、ごめんって」
あと五秒あればしまったのにと、悔しそうにしながらも渡してくるあたり正直者だ。
この子たちが好きだった。十代の女の子たちのジェットコースターのような心の機微に振り回されて苦労することもあったけれど、それでも心から大切だった。
いつまでもそばで――なんて思う気持ちもあるけれど。
自分だけは、あの〈夢〉のことを忘れてはいけないから。
「ステッカー、かわいいね」
「でしょ!? この子、推しのコラボグッズなんだ」
「へえ、なんて子?」
「えっとね~……」
わたしはわたしなりに、この子たちの未来が明るいことを願おう。
すっかり、夏の陽気だ。ついこのまえまでは桜が咲いていたと思っていたのに、往来の木々は青々として灼熱の風に吹かれている。
時刻はそろそろ陽射しが弱まってきてもいいころだというのに太陽はまだまだ健在だ。その光や熱があまりに苛烈だから、焼け焦げないようにビルや木々の影を選んで歩いていく。
駅からポアロまでは数分。外の植え込みに水をあげていた梓ちゃんがわたしに気づいた。手を振ると、大きく腕をあげて振り返してくれる。誘われるがままに店内へと入って、ハムサンドを運ぶ安室さんにあいさつをする。
座席には学校がえりの園子ちゃんや蘭ちゃん、それからコナンくんとお友だちたちが。みんなわたしに気づくと、笑顔で顔を上げてくれる。
「ひとりです」
「カウンター、テーブル、どちらになさいますか?」
「じゃあ――」
「センセイ、こっちこっち!」
「――決まりですね」
安室さんに苦笑を返して、園子ちゃんの隣のテーブル席に腰かける。
メニューはいつもの特製レモネード。それから、新商品の半熟ケーキも頼んでしまおうかな。
「元気になって、なによりです」
小学生たちに囲まれる女子高生二人を眺めながら、安室さんと会話をする。
半熟ケーキは口の中でとろけてほっぺたが落ちるかと思った。
失敗から生まれたメニューだというけれど、そんなことを感じさせないくらい、しゅわっとした食感は見事。ヨーグルトを使ったソースもしつこくなくて、ぺろりと平らげてしまえるほど。
食後には、身体が冷えてしまうからとホットティーを淹れてくれた。カフェインが苦手ならばこれはどうかと安室さんイチオシのピーチルイボスだ。
遠い昔に、レモネードを頼む理由を梓ちゃんが聞いたときに答えたようなことを彼が知っているとは。そのあたりはやっぱり安室さんなのだと思いながら口をつける。
ルイボスティーの清涼な風味の中に、どこか喉もとを撫でてくれるような甘い果実の香りがした。
「それにしても、教員人生、諦めてしまっていいんですか?」
いつもながらチョイスがおしゃれだなあなんて、白いカップを両手で包みながら少年少女たちを眺めていたわたしに安室さんは言った。
そうですね、と純白のそれを指のはらで撫でる。
「もったいないかな、とも思ったんですけど」
「ほかでもない、あなた自身がこれまで積み上げてきたものですからね」
園子ちゃんや蘭ちゃんの短いスカートも、もうさほど気にならない。
冷や冷やすることはあっても、今はただかわいいなあと思うくらいだ。子どもたちがはしゃいでいても、胸の奥に募る焦燥もない。
「正直、責任を感じすぎているのではないかなと思いますけど」
そこがあなたの魅力ではありますが、そう安室さんは言うけれど。
「やだな、安室さん。わたし、逃げるんですよ」
抱えてきたものを下ろしてみるのも、悪くはないものだ。
無意識に、身動きが取れなくなってしまうほど手放せなかったものたちを。自らの手で壊して、もう一度拾い集めて丁寧にまとめながら押し入れの奥へしまう。
「親や親戚じゅうからなにを言われるかはわかりませんけどね。三十年近くいい娘キャンペーンしてきたから、少しくらい、いいかなって」
「――そうですね」
安室さんには、呆れられちゃうかもしれないですけど、とおどけて言えば、彼は困ったように眉をほんの少し下げたあとまさかと目を閉じてかぶりを振った。
「あなたは、強い女だ」
それはどうだろう。明日には将来の不安に怯えているかもしれないし、実家に帰れば両親からの圧力に早々に屈してしまうかもしれない。
強いと思えるのならば、それはきっとここにいる彼らやこの世界のだれかがわたしを認めてくれているからだ。
けれどそれにも気づかなかったころからすると、成長はしたのかなと、ふ、と笑みが込み上げる。
「おかしな話ですよね、二十八歳にもなってはじめての反抗期なんだから。でも、どこか楽しみでもあるんです。これからなにしようかな、なんて」
「いいですね。人生、さまざまな経験をしてこそ。きっと、あなたはもう間違えない。……僭越ながら、僕もそのお手伝いを――」
カラン、カラン――とドアベルが鳴った。
入り口近くで、園子ちゃんたちと話していた梓さんが気がついて、声をかける。
「いらっしゃいませ、お一人さまです――」
か、と。紡がれるはずの、明るいあいさつは大きな影に呑み込まれていった。
園子ちゃんたちが飲んでいたアイスティーの氷が崩れる音がやけに響く。
「見つけたで」
黒い――漆黒の着物が翻った。
「お客さま、よければカウンター席に案内いたしますよ」
空気が凍るなどといった言葉があるけれど、そんな生やさしいものではなかった。見かねた安室さんが梓ちゃんをその背にかばい、彼へと立ち向かう。
だれもが息をのみ身動きがとれない中――しかし、漆黒が揺れて、大きな手がそれをひらりと制止する。
窓から差し込む光に、金色の髪が瞬いていた。あろうことか、着物に詰襟シャツ、それからつややかな袴姿の男性は、最奥のテーブルに着くわたしの前に座った。
「あの……どちらさま……?」
おそるおそる訊ねたわたしに、彼は精悍な顔つきをこれでもかと愉悦に染める。
「ヒドイなあ」
笑っているのにそうは思えないような琥珀色の瞳。
低く心臓の裏を撫でる声は、静まりかえったポアロによく響いた。
「いたいけなガキやった俺に、あーんなこと、えらいたくさんしておきながら」
――まさか。
「あ、な、もしかして……」
「思い出した?」
漆黒の着物に白い詰襟シャツ。袴は銀鼠の絹で足もとは珍しい紐つきのわらじ。
あの烏のような美しい黒髪はどこにもないけれど、ツンと天を向いたまなじりがゆっくりと細まる。
「キミのだぁーいすきな、直哉くんやで」
長い脚を組み、頬杖をついて。
琥珀色がわたしをのぞく。
「あかんわあ、いけずすぎひん? 俺、身も心もぜんぶ捧げたんに。まだジュウゴ歳やったんやで? ジュンスイな心、弄んで、そおやってキミ、カンタンに男捨てる女なんやね」
あーあ、ほんま、悲しいわあとちっとも悲しそうではない口ぶりだ。
すぐそばでは、悲鳴なんだか黄色い声援なんだかわからない女子高生たちの声と、安室さんの息を呑む音と。
声が大きすぎると、すっかり薄くなった唇をふさごうとして、伸ばした手を掴まれた。
「くるんが遅いから、迎えにきてもうたんやよ」
手のひらに触れる吐息。白い歯が、わずかに皮膚を捕らえた。
「迎えに、来たって……」
「約束したやろ? 外に出たら探しに来てくれるて、俺、いい子に待っとったんやで。ま、だれかさんがトロいからここまで来てもうたわけやけど」
なあ? と、小さく歯形のついた手の甲をするりとすべる指先はもうあの華奢さや儚さなどは一切なかった。
たくましく筋ばった太い指は、燃えるように熱い。
わずかに宵をまとった金糸が揺れ、琥珀色が鈍く瞬く。
救いたいとか、救われたいとか。そんなものの行き着く先なんて……。
ひとつだけ言えることは、〈夢〉はたしかに〈うつつ〉であったということ。
〈夢〉は逃避の〈場〉としての機能を失い、いつしか現実へと反転していく。結局は、どこまでも〈うつつ〉と地続きでしかない。
――かくあはれなりけり。
だから言ったデショ? なんて脳裡に白髪が揺らぐ。
「ほな」
薄い唇の端が、ゆっくりと持ち上がる。
「夢のつづき、しよか」
こぼれたのはわずかな吐息だけだった。
彼から離れた影が、音もなくわたしを呑み込む――。

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