「――古く、夢は、この世ならざらむ〈異空間〉に人をいざなうものだと考えられていた」
真白の光の中で、男性の声が響いてくる。
「人が神仏と交わるため、神仏が人に何らかの意志を伝えるため、神仏の往還の回路として語られ続けた〈夢〉は、やがて単なる個人の体験ではなく、だれもが触れうるひとつの〈場〉として観念されるようになる」
つらく悲しい現実、どうしようもならない無情な日常、あるいは、想い人と結ばれることのない憂き現し世から、遠く離れた世界――。
「そしてそれは、〈夢〉に新たな価値を与えた。あらゆる苦痛や困難から逃れるため、あるいは閉塞したこの世から身を剥がすため、ここではない別天地――うつつには現世から抜け出せないと知りながら、人は〈夢〉という〈場〉としての〈異空間〉を求めた」
いやあ、なんとも僕たちにおあつらえ向きってわけだ――と。
飄々と、どこか大空にたなびく白衣のような声だ。ふれる先から風にひるがえり、するりと空をまとう。
「〈空間〉即チ、是レ〈領域〉ナリ。
呪極シ者、己ガ呪力ニテ〈領域〉ヲ構築ス――」
人は〈夢〉という不可思議な現象に絶大なる関心と希望を寄せ、神的な価値を見出し、多くの力を〈夢〉というものに与えてきた。
それは日々の生活を左右するものであり、人の人生を舵とるものであり、また国の命運を握るものである。
「〈夢〉はもはや〈夢〉ではなかった。この世の道理からはずれた力を持つ〈夢〉を、ときに都合よく扱いながら、人は畏怖すべき対象として正しく畏れた。
陰陽道、加持祈祷、あらゆる術師たちのみならず、多くの人間がその力を利用した結果、どうなったかっていうのはまあ想像にたやすい話だ」
やがてパチン、と小さな破裂音が響いて意識が完全に浮上する。おもむろにまぶたを押し上げ、真っ先に視界に映ったのは白い天だった。
無機質な硬質さ。明度の高い、天然の光。朝日かそれとも夕日か、左側から存分にそそぎこんでいる。
シルバーのフックのついた棒が天井からぶらさがっていた。透明な液体の入ったビニール製のバッグが鎮座し、その眩耀を屈折させていた。
屈折率は何パーセントなどといったそんな話は、遠い昔の置き土産だ。光は透明な隔たりを経てどこかへ向かっている。
ピ、ピ、均一な電子音が響いていた。
「あ、起きた」
踊る――まではいかないが、跳ねるような軽い音色だった。大きな影が左方から伸び、光を遮断する。
光明のただ中に立つ姿は、奇しくも光を背負う者のそれだ。
「や、元気? とりあえず、君、あと少しで死ぬところだったから連れてきたよ」
かなり大きな人だ。妙な黒い布を目のあたりにつけていて、髪は重力に逆らうように天に伸びている。
わずかに輪郭が光り輝いて、逆光の物々しさと神々しさを同時に物語っている。なんて、思っていたところでの、爆弾発言だ。
「死ぬ……え……?」
「そ、死ぬ。デッド・オア・アライブのデッド。むしろ、デッド・オア・デッドのデッド?」
この場所が凪いだ水面だとしたら、そこそこ大きな鉛玉だ。波紋は小さくさりげなくなどという、一石を投じてみた程度のそんなかわいいものではない。
まったりとした光に浮遊していた意識がひと息に集結して、視線を天井伝いに動かしていたわたしの視界に見慣れた色彩が飛び込む。
「〝とりあえず〟、〝連れてきた〟。相変わらず言葉の選択に誠意の欠片もありませんね。そもそも、元気なはずがないでしょう」
「間違ってはないでしょ。あの金髪の優男くんがオマエに電話してこなかったら、今ごろ呪霊と仲良くおててつないで、亜空間で堂々マイムマイム! ってね。なかなかアグレッシブでデンジャラスな未来が待っていたわけだ」
真っ黒な衣服に身を包んだ男性とは対照的に、明るい色合いのグレースーツに青いシャツとイエローのヒョウ柄ネクタイ、そして特徴的なサングラス。
「……七海さん」
「ご無沙汰しております」
足下からしずかに姿を見せたのは、カフェで出会った彼だった。都内の宗教系私学の関係者で、ときおり講師を務めることもあると言っていた。
慇懃にも頭を下げた七海さんは、いくつかわたしの体調に関する確認をしたあと、事の顛末を説明してくれた。
「――つまり、わたしは、その七海さんたちのいう〈呪い〉にまつわる怪異事件に巻き込まれた、と」
「端的に言えばそういうこと」
透きとおるような白髪に目隠しの男性――五条さんは答える。
「実際には怪異なんて可愛らしいもんじゃないけどね。呪いのビデオだなんだそんな一般人が想像するようなものとは一線を画す。正直、生きてるほうが不思議なくらいだ」
曰く、ここは都内の病院ということだった。数日まえ、とある駅前の交差点で意識を失い、その場で救急搬送された。
最後の記憶が数日もの空白を経たものだということに驚きを隠せなかったが、幸いにも、臨床的には命に別状はなかった。ただ、彼らからすれば決して安易に考えてはならない状況だったという。
「このまえ、インフルエンサーが死んだっていうのもあったでしょ? ちなみにあれもそう」
「……インフルエンサーって、あの?」
「そう、ユメなんたらって子? ああそう、ユメニャン。衣服の表裏を返して、身体に紐を結ぶなんて、もうオーソドックスすぎて逆に遊び心がないってヤツ」
五条さんは、「こちらの男性は私の仕事関係の先輩となります――」と七海さんが紹介してくれた男性だ。
たった一枚の上質な白い紙を片手に、いまだ現実についていけないわたしをよそにお見舞いのクッキーを容赦なく貪りながら説明してくれる。
この世には、目に見えない〈呪い〉という存在が実在するということ。その姿かたちは大小さまざまであり、〈呪い〉――すなわち〈呪霊〉は人びとの負の感情を糧に存在そのものや力を増幅させる。
そしてその〈呪い〉を〈祓う〉のが、かれら〈呪術師〉――。
「はじめ、七海からあの曰くつきの指輪を好きにしていいかって聞かれたときは、えーっついに七海にも呪いたい人間でもできたの、悟くん気っになるぅ~なんて思ってたけど。まさかナンパに使うとはね」
「語弊が過ぎますよ」
「語弊もなにも、事実でしょ。ほぼ初対面の相手に指輪、もはやプロポーズ! いやー、やってくれるねえ、七海! よっ色男!」
「ハァ……」
住む世界がちがうというのは、こういうことなのかもしれない。自分たちの目の前に広がる生活の裏側で、起きている〝なにか〟。
人はいつだって見たいものしか見えない。
次から次へと言葉の豪速球を飛ばしてくる五条さんはさておき、特上に高品質な名刺には、「都立呪術高等専門学校」と書かれていた。
宗教系の学校法人としての私学というのは建前上のものだ。通称――呪術高専は七海さんたちのような〈呪術師〉のための育成機関であり、また彼らが所属する機関そのものでもある。
あの日――元交際相手と遭遇し、倒れたわたしを救急搬送するかたわら、安室さんが七海さんに連絡をとった。
なぜ、安室さんが……しかも、七海さんに……。湧き上がった疑問は浮かび上がるだけ浮かび上がって、破裂することもなく天を漂い続ける。
「心底、判断を誤った自分を軽蔑します」
「なにが? 呪霊の等級を見誤ったこと?」
「それもそうですが、アナタをこの場に連れてきたことですかね」
「ツレないこと言うなよ、オマエと僕の仲でしょ?」
「だからですよ」
大丈夫ですか、と、半ば放心状態のわたしを七海さんは気づかってくれる。
こんなときでも生真面目なひとだ。あのとき必死で一縷の望みを掴んだことを後悔などしていないというのに。
「貴女を危険にさらしたことは自分の不手際です。申し訳ありませんでした」
「いえ……正直、自分でもこんなことになるなんて思ってませんでしたし、荒唐無稽な話を聞いてくれただけでも……」
ありがたい。そう口にしようとして、五条さんからなにかを差し出される。
「これは……」
「コイツが君に贈った指輪ね」
真っ二つどころか原型をとどめないほどみごとに破砕している。
紛れもなく、カフェで「肌身離さず持つように」と渡されたシルバーリングだ。二連につらなっていたはずのデザインは、いまは見る影もない。
「お守りや魔除けなんてものは、その実、そのもの自体が魔だったり邪であることが多い。これもそうでね。それ自体はなんら問題ないんだけど、まあなかなか〝お守り〟として優秀な代物がコレだ」
七海さんとカフェで再会した日、往来でわたしを見つけた彼はわたしが〈呪い〉の影響を受けていることを知り、わざわざカフェで隣の席に座ったという。
それよりもまえ、米花百科店へ向かう道すがらすれ違ったときにはもう影響を受けていたと言うが、呪いも千差万別。大なり小なりこの世には呪いがあふれている。酷い状況であればその場で対応したが――と七海さんは口にした。
だが、次に見かけたとき、明らかな事態の急変に驚いたそうだ。
「ま、状況を読み違えた七海は、あとできっつぅーい反省会をするとして」
「ええ、それは当然」
「ここからは、その君の全身びっちりにこびりついた〈呪い〉をどうするかだ」
正しくは、〈残穢〉――〈呪い〉が残した痕跡。人間にたとえれば、しつこくとれない無数の手垢、あるいは無尽蔵に刻まれた足あと。
「におうね~。それもかなりの年季ものだ」
「……十年二十年どころではないのでしょうね」
「まあね、三桁でも足りないくらい? ただの漬物も、ちょうどいい時期に食べれば美味だけど、長く漬けすぎたら漬物どころか腐敗するってとこかな。もとはなんの変哲のない白菜でも、有りようによってはとんでもない呪物になるわけだ」
「漬物……白菜……」
「とにかくにおうってこと」
抽象的な表現に眉根を寄せるわたしとは打って変わり、七海さんは神妙な顔でサングラスを押さえた。
「拡張された術式、あるいはそもそもが遠隔性。その時点でそうお目見えになれるものではありませんね」
「まあ、それこそ、もとは胡蝶の夢みたいなものだったかもしれないけどね。〈夢〉ってのは、いつの時代も人間の感情を多かれ少なかれ暴き出す。いい意味でも悪い意味でも、よりドラマティックにね」
「……あの〈夢〉は、やっぱり〈夢〉ではないんですか」
五条さんはクッキー缶から星形のバタークッキーを手にとった。
「良い観点だね。〈夢〉は〈うつつ〉であり、〈うつつ〉もまた〈夢〉である。実を言うと、君が言う〈夢〉そのものの全容を僕たちは知らない」
「〈夢〉は、〈うつつ〉……」
「そう、平安時代の概念だけれどね。七海が君から聞いたこと、またあの優男くんが君から聞いて教えてくれたこと。結局、第三者の手を経て集まってきた情報しか手元にはないわけだ」
ただ言えるのは、と五条さんは続ける。
「君がその〈夢〉という〈領域〉になんらかの要因で取り込まれた。そして、その〈夢〉を知るのは、君と君の出会った十五歳の少年のたった二人」
妙な静けさが、まるで溶液の中にいるような心地にさせた。生理食塩液を通した光がシーツの上でたゆたい、波間を描き出している。
「その少年は……」
「七海、オマエ、なんか聞いてる?」
「……御三家の話をアナタではなく私が知るはずもないでしょう。そもそも、なにかあったとしても、あの家のことです。外に話が出てきたころには、すべて終わったあとでしょうね」
「ま、それもそうだね。アイツの人望の薄さが仇となったか、吉と出たか」
ふむと一度だけ逡巡するしぐさを見せて、「じゃ」と彼は言った。
「君、入っちゃおうか」
星が、わたしを向く。
「え……入る……?」
「そ。君の持ってた香水や、インフルエンサーの家にあったお香をどうにかこうにか使ってみたんだけどね、だぁーれも〈夢〉の中には入れないワケ。頼みの綱でもあるその少年も音沙汰なし。今ごろこっわーい呪いの腹の中かな。だからまあ、君しかいないってコト」
いやあ困った困った、などと困ったように聞こえない声が無情にも光の溶液の中を拡散していく。
「呪いの本丸が見えないことには、僕らはどこまでも無力だ。いくら痕跡があったとしても、闇雲に探したところで時間を浪費するだけ。いまは一刻を争う事態として、唯一の手がかりは君」
さあ――どうする?
「……わたしが、〈夢〉に入れば道は開けますか」
「確証はないけど、まあ蜘蛛の糸程度にはなるだろうね」
五条さんは星を食らった。無情にも奥歯で噛み砕く音がする。
答えは、決まっていた。脳裡に浮かんだあの子の静かな横顔をそっと胸に抱いて、「行きます」とわたしは答えた。
「いいねー、いい度胸だ。そういう人間、嫌いじゃないよ」
「……彼女を巻き込んだ以上、なにかあれば上への言い逃れはできませんよ。とくに今回は外部からの圧力も十分、想像しうる」
「ヤダね~、こういうときばっかり。事件は会議室で起きてるわけじゃないのにさ。ま、当然、もろもろ折り込み済みさ」
じゃあ、そういうことで――たった数音の呪いで白昼夢は重々しい夜の帳の中に消える。
深い伽羅の香りが鼻腔を満たしていた。
サイドテーブルに置かれた砕け散った指輪の残滓を眺めながら、あの夜、指先でかたどった名前を唇に載せた。
直哉くん。
――すぐ、行くから。
「そういや、僕、言ったっけ。アイツ、本体二十七歳のピッチピチのアラサーだよって」
「…………」
「ツラだけはアレだけど、多分想像してるより中身エグいよって」
「……………………」
「おーい、七海聞いてる? 聞いてない? じゃあ、ま、いっか」
――〈夢〉というものは、いつの時代も畏怖や忌避の対象でありながら、人びとに希望や安寧を与えてきたはずだ。
昔の人びとが想い人を夢路に追いかけたのも、太平の世や草木生い茂る大地、空から降る美しき翠雨、それらを〈夢〉に託したのも、きっと一縷の望みをその手に握っていたからである。
そこに隠された願望や、歪曲されたあるいは抑圧された感情があったとして、人は自らや他者を壊すために〈夢〉をみるわけではない。そこには純粋な望みがあり、感情があり、人の生命がある。
――〈夢〉は人が生きるためになにかを手にしようともがいている証なのだ。
決して、それは絶望の象徴ではない。
目が覚めると、そこは以前みた世界からかけ離れていた。
あたたかみさえ感じていたオフホワイトの壁や毛長のラグの敷かれた床、何度蹴り飛ばされても次来たときには必ず二脚揃っていたイスとテーブル。二人でうずもれた雲のようなクッションも、ひそかに成長を見守っていた植木鉢の植物も。
否――すべてがたしかにそこにあり、なにもかもが揃っていた。ただ、茫洋と包み込むような錯覚さえあった壁は崩れ、そこには底はかとない闇があった。
瓦礫のはざまには脚の折れたイスや割れたテーブル、無惨にも食い破られた布の残骸。そしてそのなにもかもを大きく育った木の根が呑み込んでいる。
光源はどこにも見当たらない。だが、不可思議にも月明かりを浴びるようにそこかしこが黒く照り光っていた。
いまなお、成長しているのか、幹や根はときおりうごめいて、生命体としての脈動を示している。
「……なおや、くん」
その木の幹の中に銀鼠の袴が見えている。両腕を何本もの幹のあいだに取り込まれ、上体がぐったりと投げ出されていた。
わずかな隙間から袴のすそがのぞいて、彼のまわりには真っ赤な血で書かれた呪符のようなものが何枚も張りめぐらされている。
俯いた顔からはどんな表情をしているのかはうかがえない。それどころか、彼が生きていることさえ定かではなかった。
地面に張りつく足をどうにか引き剥がして、瓦礫と木の根のあいだを彼のもとへとよじ登っていく。
奇妙な空間だった。底も天もはかり知れないというのに、音はどこまでも反響し何重ものエコーとなってかえってくる。
白い部屋もおかしな場所だったが、ここは異常ささえあった。無臭に近かったはずのにおいも、いまはむせかえるような甘い花の香りに満ちている。
「直哉くん、おきて、直哉くん――!」
ようやくたどり着いたころには、額に汗をかいていた。そのいやな感触が、ここが〈うつつ〉であるのだといよいよ実感させる。
わずかに蠢く音、あるいは脈動。それは植物というよりまるでそこに大蛇が潜んでいるような恐ろしさがあった。それらの感触を耳や手のひらに感じながら、木に呑み込まれた少年の身体を揺さぶる。
「……んやねん……」
かすかな吐息がこぼれて、ぐったりと倒れ込んだ彼の上体をかき抱いた。
「なんで逃げなかったの、ずっと、ここにいたの?」
身体は冷え切っていた。白い肌はさらに血の気を失い、人形のようにただそこに鎮座していた。はたから見れば幻想的な光景にも見えたかもしれない。深い森の奥で、その身を大地に捧げる――。
いつから? なんで、どうして。くり返すわたしに、直哉くんは「どうでもええわ」と掠れ声で吐き捨てる。
「家も、将来も、もう、なんでもええわ。しょうもないねんあんなもん。どいつもこいつも、壊れた瓦礫だ朽ちた骸だそんなもんばっかぎょうさん。なにもかもハリボテ、ほんましょうむない」
どこにおっても同じや、彼は口する。
「どこにおっても地獄なら、ここでもどこでもなんも変わらへん」
心底あほらしいと言う彼の声が低く掠れながら、それでいて強い叫びのような気がした。
わたしよりもたくましく、大きな肉体だ。でも、もう十五歳――まだ十五歳。ほかの少年少女たちが学校という箱庭の中で楽しく笑い合っているあいだ、彼は命をかけて戦っている。
この歳になるまで、そんな世界があること知らなかった。この世界にはたくさんの国があり、いまだ戦渦にある場所も少なくはない。毎日あたたかい布団で眠れない子どももいて、満足のいくまでご飯を食べられない人もいる。
安心してあすを迎えられることがどれほどの幸福というのかを、頭で知ってはいても理解はしていなかった。
彼を前にしたときの言いようのない違和感や、湧き起こる不安や焦燥のすべて、ほんのすこしの感覚が、明確に形を成し肥大してわたしのもとへと戻ってきた。
「……どうしたら」
――〈夢〉を終わらせる方法?
五条さんは言った。
――さァ、詳しくは知らないけど。言えるのは、〈夢〉が終わらない理由は、〈夢〉を望むからだろうね
夢を望むということ。
この世界の存続を願うということ。
――ここなら、だれも傷つかない。
だれも、直哉くんを傷つけない。
――そんなの。
「ごめん、ごめんね。わたしがあんなこと、想ったから」
わたしひとりの力ではないことはわかっている。それでも、この空間に残ることを彼のぬくもりを感じながら願ってしまった。
その思考の種子は、あるいは欲望、願望それらの種子はすこしずつそして確実に育ってしまった。
小さな花殻が頭上から雪のように降りそそぐ。濡羽色の彼の髪にわずかにこぼれて、いつしか彼の肉体をすべて覆ってしまうのだろう。
「帰ろう、直哉くん」
それならば――。
真っ白な果実が、漆黒に色をつけてしまうまえに。降り積もった希望の残滓ごと、直哉くんを抱きしめる。
「いっしょに、かえろう」

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