浮遊する意識の末に光が差して、ああこれは〈夢〉かと認識する。
真っ白な景色が広がっていた。窓も、ドアもない、大きなラグの上に広げられたクッションに白いテーブルセット。植木鉢の上で、青々と茂った低木だけが鮮やかな色彩を与えてくれる。
いつのまにか子葉は育ち、小さな木になっていた。背丈は大人の肩くらいだろうか。幹は子どもの脚ほどの太さになり、青々と緑が生い茂る。
葉のあいだには先が二つに裂けた花柱がぶら下がり、小さなつぼみが顔をのぞかせていた。
純白の床や壁に影が落ちるさまをまどろみながら眺めている。
隣にぬくもりが宿っていることに気がついたのは、それからしばらくしてのことだ。
「キミ……無事だったの……」
漆黒の着物もやや色の薄い袴も、中に着た詰襟シャツさえ同じだった。黒髪の下に瞬くピアスがひとつ、ふたつ、増えている。
ぼんやりとした意識をたぐり寄せて手を伸ばすと、大人の階段をのぼる真っ最中であるなだらかな頬は、意外にもつるりとしていて指先にしっとりと吸いついた。
「……あァ、またか」
憎まれ口にももう慣れたものだ。掠れ声に合わせて上下に揺れた胸や腹部には血の痕はない。長いまつ毛が瞬いて、まぶたに白い光がすべる。
大きなあくびをひとつ。それから彼は左手で髪をかき上げた。ストレートの黒髪からあらわになった額はきれいな丸みを帯びている。
「ケガは、よくなった?」
「あのくらいどうとでもないわ」
「それなら、よかったけど。あの大きさだと二十針くらい縫うの、もっと?」
「さァな。縫わんと傷閉じられへんとかヤブやろ」
視界が明瞭になり、いま自分たちが大きなクッションにうずもれていることがわかった。彼は身体を大胆にも投げ出したまま、天井かあるいは宙を見るともなしに眺めている。
「二週間、ぶり?」
「どうだか、そこまで数えとらんわ」
「そっか。でもそれだけあれば、傷もだいぶふさがるかな」
脳内に響くあの不可思議な重音もいまは届かない。静けさの中で、重苦しさを超えて軽すぎるほどの静謐の中で、彼の胸がおだやかに上下している。
「もう、会えないかと思った」
「それは暗に、会いたかったて言いたいん」
「そうね、そうかも」
はっと鼻で笑って、「もの好きやな」と彼は一蹴した。
わずかに歪んだ唇のいびつさも、もはや愛嬌がある。
「ねえ、名前は?」
「知って、なんかいいことあるん」
「どうかな、ただ名前を知っていたほうが、キミのこと憶えていられる気がして」
けれど、十五歳、その年齢のわりには精悍な横顔だった。彼の静かな森のようなそれを見るのは、もしかするとはじめてかもしれない。
一度目に出会ったとき、彼はテーブルに頬杖を突いてそっぽを向いてどこかを睨みつけていた。言葉はなかったが、その眼や頬、唇は雄弁で、彼の中にはたしかな怒りや憎しみが見え隠れしていた。
それが、いまはすべてが凪いでいる。
よかった。
かれが、泣いていないで。
ほんとうによかった、そうふと口にしたわたしへとあの琥珀色の色素のうすい瞳が――昏く落ち窪んだ眼窩の底で――わずかにこちらを向く。
「着物の腹んとこに得物が入ってんねん、そこに書いてあるわ」
「得物って、また物騒な……」
もしかして時代の認識が間違っているのだろうか。そんなことを思いつつも、「みせて」と彼に告げる。
自分でとれと言われるかと思ったが、彼は予想外にも自ら着物の合わせに手を差し込んで三十センチほどの小刀を寄越してきた。
「思っていたよりも、大きいのだけど」
「やいのやいのうっさいわ。見いひんのならなおすで」
軽々と渡してきたはずのその、ずしりとした重さにどこか現実味を感じて、取りこぼさないよう両手で小刀を支えた。
「ぜん、いん……なおや」
いかめしい家の名前だと思った。かろうじて読めたことに安堵しながら、だからそのような伝統を重んじるような格好をしているのかと小難しい字を親指でなぞる。
「――直哉」
「なんやねん何度も」
「いい名前だね」
力強く、ひたむきで、どこまでも響き渡るような音がある。
小刀の柄に彫られたその凹凸を指のはらに何度も刻み込んで、ふしぎとそのときにはもうその重さが手に馴染んでいた。それから彼の手に小刀を戻して、ふと重なった手をしずかに絡ませる。
「きょうは、なにもしなくていいのかもね」
心地好さがまさっていた。いつものあの独特の焦燥と絶望とを今はまったく抱いていなかった。
ただ包み込むような静けさと温度があり、ふだんならば目映すぎる色彩も今日かぎりは網膜を労わってくれるようなそんなやさしさがあった。
「なんか、眠っちゃいそうかも」
「夢ン中で眠るとか、どうなってんねん」
「いいじゃない、気持ちいいんだから」
とっぷり、温められたミルクの中を浮かんでいる。朝の光よりもやわらかく、夕方の鮮烈な光よりもあたたかい。
このまま、ここにいようか。そんな誘い文句が喉の奥からこぼれてきそうだ。
「ここなら、だれも傷つかない。だれも、直哉くんを傷つけない」
だいじょうぶだよ。だからずっと、ここにいようよ。
幼い子どもに言い聞かせるように、それを告げていた相手はほんとうに彼だったのか。
「のんきで、アホっぽい、しょうもない女やな」
そんな悪口さえ笑って包み込める。彼のたくましい手首の内側を、親指で撫でるように包み込んで。たしかな脈動が指先にふれる。
わずかに華奢さを残した鋭利な肩が、こわばりを一切ほどいていた。
白い海に彼の肉体が沈んでいく。ただ呼吸の証だけが漆黒の着物を上下させている。
それが彼の答えのような気がして、すべて呑み込まれてしまうそのまえに、彼の硬くなった指先をなぞり、もうすでにひと回りも大きな手のひらを捕まえる。
「しあわせに、なってね、なおやくん」
小指だけだなんて、そんな頼りない契りは結ばない。ほどけないように、はなれないように、たしかに手を重ねて指を絡めて。
「やくそくだよ、なおやくん」
じょじょに思考が重くなる。
「……せやったら……んで……ずっ……と……来おへん……ねん」
まどろみの奥底で小さなつぼみが花を開いた。
わたしはたしかに幸福を感じていた。
目覚めて、安堵よりもさみしさがまさったのははじめてだった。シーツの中には、彼のぬくもりは最初からなかった。
日が昇るまえだからかいっそう闇は色濃くシーツの海に落ちている。その中で悠々と泳ぐ気にもなれずに投げ出していた腕を双眸の上に乗せる。
そのとき、手首の内側がわずかにひりついて。あえかな月明かりの中に腕をかざす。
「……傷?」
のろのろとサイドランプを点けると、時刻はまだ夜といえる時間だった。明かりに腕をさらすと、手首のすじを噛みちぎるような歯形がはっきりと浮かんでいた。
否、浮かぶというよりは深く色濃くそこにたしかに刻み込まれていた。
「えっ……!?」
動揺に上体を起こすと身体じゅうのそこかしこが同じように引きつるような、あるいは沁みるような痛みが走る。
サイドテーブルの手鏡を掴みおそるおそるのぞきこむと――そこには無数の花が咲いていた。愛らしい花びらなどという形状ではなく、くっきりと歯を突き立てた大きな花房そのもの。
「……これ、わたしのからだ?」
眠るまえにはこんなものなかった。シャワーを浴びて湯船に浸かり、いつもどおりのルーティーンで眠りについたはずだ。
ああ、いつもどおりと言えば、毎晩ワンプッシュしていた香水は割れてしまったのだ。それでも伽羅のような深い香りがまだ残っている。ただ、それだけ。
首や鎖骨、寝巻のサマーカーディガンの肩をずらせば、二の腕や乳房にも。
「……まさか」
思い当たるのはひとりだけ。
――〈夢〉はそれきりだった。容赦なく烈日がアスファルトを照らすようになり、いよいよ一学期の終わりが見えてきた。
定期テストの準備や長期休みの課題作成も大詰めである。テストが終われば成績処理も待っているし授業が少なくなるとはいえなかなか帰れない日が続いていた。
家から学校までの道のりを往復する日々、余裕があればポアロに寄って新作ケーキを楽しむなんてこともできたのだけれど。
ことごとく開店時間に間に合わず、かといって自炊をするにも身体が重くて駅前のコンビニで総菜や弁当を購入して済ませていた。
梓ちゃんや園子ちゃん、蘭ちゃんからはありがたいことに、いつ来られるのかなどというメッセージが届くが週末までは厳しそうだ。
わたしの勤務校と同じくテスト期間に突入したらしく、女子高生たちからは教えてほしい単元があるとかわいらしい「おねがい」ポーズのスタンプとともに送られてきていた。
なるべくまずは自分たちの力でね、なんて最初は返していたけど、「忙しくしていると聞いたから」と、時間があればいっしょにおいしいケーキを食べないか気づかいの言葉を添えてくれる彼女たちのやさしさには心を慰められるところもあった。
できればわたしもすぐに会いに行きたかったのだけれども。職員会議や教科会議、成績会議など会議のオンパレードであれば、ひとりお先に学校からエスケープするわけにもいかず。
梓ちゃんからは一度仕事帰りに遭遇して、「ご自宅まで出前の特別サービスをしましょうか」とありがたい提案をしてもらった。「安室さんもいることですから、電話一本もらえたらすぐに届けますよ!」なんて。絶対に二人も忙しいのにね。
厚意に甘えて、と思わず額を地面にこすりつけたくなったのだけれど、それもまた勤務時間の壁により阻まれざるを得ず、結果として気持ちだけ受けとったのだ。
朝は早いし夜も遅い、それでもそれがわたしの仕事だから。ただ、毎朝毎晩どんな顔をして電車に乗っているのかは――あまり人には言えたものではない。
そんなこんなで、教師になって数年。非常勤講師の経験を入れたとしても片手で数えられなくなる瀬戸際だ。いい加減、慣れてきてもいいころだろうに、残業と連勤を重ねるごとにどんどん肉体は重力に逆らえなくなるばかり。
歩く足どりも重たくて、けれど自分で歩いているような感覚も少なくなって。気を抜けばそのまま地面に呑み込まれてしまいそう、だなんて。
年齢的なものかな、と怖いことを考えながら帰路に着いた日のことだ。
すっかり日の入りも遅くなり、まだかろうじて空が薄い時間、最寄り駅よりも前に電車を降りて大型書店に向かおうとしていた。
この日は朝から頭痛と肩こりがひどくて、こめかみの内側からぎゅっと絞めつけられるような鈍い痛みが続いていた。
どこか世界が遠く感じるような、そんな調子だから駅前のロータリーで信号待ちにぼう然と大型看板を見上げていると、突然、背後から腕を掴まれた。
「――おい! 無視すんなよ!」
決して小さくない声量でがなりつけてくるのは、かつての恋人だった。
もうすでにその顔のつくりさえ、ほとんど思い出せなくなっていたというのに。撫でつけた髪を振り乱しながら、男はわたしの手首を強く握ってくる。
「……なん、で、ここに」
「なんでって、たまたまだよたまたま!」
付き合っていたころは、気分屋なところはあったけれどこんなふうに暴力的になる姿は見たことがなかった。
目は落ち窪み、頬は心なしか痩けている。あんなにも身なりに気をつかっていたのに、あごには無性ひげが伸びていた。
最後に見た姿は、忌ま忌ましいほど「人生いまが絶頂です」みたいな顔をしていたというのに。
そんならしくない――とはいえもはやこのひとのなにを知っているのかという話なのだが、荒れた様にどこか言いようのない安堵を覚えつつ、腕から逃れようと後ずさる。
「その、久しぶり」
なにを、話すというのか。二年近くも顔を合わせることなく、そもそもこっぴどく振った相手に。
こんなことされても困ると、手をはなしてもらおうと思っていた。声をかけられて気づかなかったことには申し訳なく思うが、過去の恋人なんて、それも自分の都合で勝手にも関係に終止符を打ってきた相手に今さら、こっちはなんの用もないというのに。
けれども腕に爪がめり込んでいた。男と女の力の差だ。腕を引いたところでびくともしない。ちょ、そりゃあないよと、友人くらいの仲だったらふざけて言うこともできたのに。
信号はすでに変わっていた。歩き出したひとびとのあいだ、遅れてやってきた腕の痛みを感じながら。往来のただ中で逃げられずに、立ち尽くしていることしかできない。
大学を出て、非常勤講師として働いて。そのあいだには当然、数回の教員採用試験があった。そんなときに、居酒屋で出会ったひとだった。
共通の友人がいて、たまたま話も合ったことから意気投合した。一か月ほど友人として遊びに出かけ、彼から告白された。
自分のお店を出すのが夢だと熱く語ってくれたのを憶えている。さまざまなひとから愛され、周囲を巻き込んでいつも豪快に笑っているひとだった。
わたしが採用試験で気持ちがいっぱいになるたびに、「考えすぎだよ」といろんなところへ連れ出してくれた。
情けないところもたくさん見せたけれど、そのぶん、お互いに理解していつまでもいっしょにいられると思っていた。
いつからボタンを掛け違えていたのだろう。きっと想像するよりももっとはやく、気持ちは離れていたのだろう。
「あのときの子と結婚したんでしょ」
ようやく自分のお店をもち、オーナーとして従業員を雇うようになったとき。自分よりも一回りも若い、十代のアルバイトの子を彼は選んだ。
笑顔がかわいい、明るくていい子なんだ。学歴も職歴もなにもないけれど、これから先いっしょに店をやっていくのは彼女しかいない――と、その子がまだ高校生だったころから手をだし、挙句、卒業したばかりの子を妊娠させた。
責任をとるのだと下げた頭の、その整髪剤でガチガチに固められた頭頂部を見つめながら。きっとみじめに切り刻まれちぎり捨てられるわたしの気持ちなんて、この先考えることはないのだろうなと思っていた。
ごめん、ゆるしてくれと謝りながら、絶対に自分は間違っていないのだという自信がその瞳や頬に強く宿っていた。
なにを、いまさら。
正採用の試験があるから、生徒や保護者の目があるから。夜遅くまで飲み歩いたり、クラブやパーティーにはいけない、と。
先輩のお店で、あるいは自分のバーで、こんなことやあんなことをしたのだと過激な武勇伝を語るその姿を、どこか引いて見ていた女のことなど。
つまんね、のひと言で、あっけなく否定できてしまう相手のことなど。
もう一年以上もまえのことなのだ。わたしこそ、終わったことをいつまでもぐちぐちと。
オッケーグー〇ル、アンガーマネジメント――なんて、深く息を吸おうとしたとき。
「僕の愛しいひとに、なにかご用ですか?」
たったひとつ、潮騒のような低く落ち着いた声が落ちてきた。
「あむ、……さん」
「やだなあ、いつもみたいに透って呼んでくださいよ」
いつのまにか、きつく握りしめられていた腕は解放されていた。
それに気がついてはじめて身体が傾くと、ポアロで見かけるようなラフなシャツやパーカーなどの姿ではなく、グレーのシックなスーツを着た安室さんがそこに立っていた。
「とおる、さん」
「はい、あなたの透です」
なんてこった。声が好すぎて、たいていのことはスルーできてしまうや。
どんな甘い砂糖ジャリジャリの言葉であっても、それこそハニー、ダーリン、なんて呼称であっても、「はい、あなたのハニーです」なんて気づかぬうちに答えてしまいそうだ。
遠ざかっていた意識が碧い瞳につながれる。わずかにネオンをまとった宵の街並みに、その淡い金糸がまたたいていた。
元交際相手に凄んでいた男は、安室さんに気圧されたのか舌打ちをして腕を払った。
「俺はただ、ひさびさに見かけたから声をかけただけで」
「彼女はあなたに用はないと思いますが。わざわざこんな街中で執拗かつ強引に声をかけるのだから、そちらにはよほどの事情があると見える。
――そうだな、たとえば金銭関係のトラブルを起こし、婚姻関係にあった女性に逃げられた、とか?」
あからさまに唇がひしゃげた。図星だったのか眉をつり上げ、わたしに手を伸ばしてきた。
こういうとき、やけにものごとがスローモーションに思えるのはどういう理屈なんだろう。実際には人体の運動にかかる物質的な速度というのは、第三者の目を通したところで変わるはずがないのに。
刺青の入った指が伸びてきて、とっさに避けようとするのに身体が思うように動かない。
年齢かな、なんて。三十歳を手前に、そんなことを気にするするようになるとは。
こんなことなら途中下車をするんじゃなかった。梓ちゃんの厚意に甘えて、特製からすみパスタをデリバリーすべきだった。あるいはJKふたりの誘いにのってもよかったのかもしれない。
安室さんからもメッセージが何回かきてたよね。「食事はとれていますか」「ちゃんと眠られていますか」「変な男につかまっていませんか」――最後の一通はとてもとても余計な心配ではあったけれど、わたしはいろんなひとに見守ってもらっていたのだ。
できる、できない。ちゃんとしなくちゃ、ちゃんとやろう。しっかりできるように、失敗しないように、足を踏み外さないように。
もうあとがないんだから。
両親にとって、せめて恥ずかしくない娘であれるように――。
――そんなもの。わたしは、わたしだ。いくら失敗しても、情けなくても、それでもわたしが積み上げてきた日々は、決して無駄ではない。
そして、たやすく崩れるようなものでも、たとえもし崩れてしまったとしても、すべてが消え去ってしまうものでもない。
わたし、よくやってきたよ。
――よく、やってるよね?
スローに見えていた動きが、勢いよく時を取り戻す。掴みかかってこようとした男は、目にもつかぬ速さで安室さんに制圧されていた。
いやいやSATじゃあるまいし、その言い方はどうなのと思うかもしれないけれど、たしかに、うん、制圧されていた。
刑事ドラマなどで見かけるような、腕をとって地面に組み伏せるという見事な逮捕術。正確にはまだ逮捕してないけれども。
「都内在住、飲食店経営、■■■■。同業他店への偽計業務妨害のほか威力業務妨害、ならびに知人への暴行・恐喝罪。
――ああ、こっちはもっと逃れられませんね。麻薬及び向精神薬取締法違反、外国から合成麻薬を輸入・取引した罪にて、逮捕状が出ている」
役満じゃないの。麻雀、やったことないけれど。でも、ロイヤルストレートフラッシュ的なあれでしょう? もちろん、ポーカーも未経験なんだけれども。
なんてことはさておき、地面に押さえつけられた男のくたびれた頭頂部を見下ろしている。
「……風見、件の男を拘束した。ああ、例の件だ」
安室さんは携帯でどこかへ電話をかけている。
そのときだ――バーチャルアイドルの宣伝広告が流れていた大型モニターに、速報のニュースが流れ込んだ。
〈本日未明、インフルエンサー『yume-nyan』として若者に人気を博していた動画クリエイターの■■■■さんが、東都米花町内にある自宅マンションにて亡くなっているのが発見されました〉
大画面には、つい最近まで教え子たちと話題にしていた女の子の写真が映っていた。愛らしいハーフツインテールに甘辛ミックスの今どきのファッション。韓国アイドルのようないでたちで、漫画キャラクターのキーホルダーを手にしている。
――yume-nyanでーす!
明るい声が脳裡によみがえった。
――ほんとさあ、好きなひとがいるって人生輝くよね!
流行を先取りしたスタイルでありながら、飾らないその人柄。困っている女の子たちを助けようと奮闘する一生懸命さ。勤務校の女の子たちにも人気だった。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ。あなたもユメもがんばってるからさ
彼女のまねをして髪を結ったり、紹介された文具やアイテムを取り入れたり。ときには指導の対象になってしまうこともあったけれど、彼女のことを話す女の子たちの姿はいつも輝いていた。
〈自宅マンションの寝室にて、腕や首を紐で結んだ状態でベッドに横たわっているのを同居人である女性が発見。現場には遺書が見つからなかったことから、事件の可能性も視野に捜査が進んでいます〉
そうだ、ついこのあいだもポアロで彼女のことを話していたじゃない。
「っ……」
ふわり、鼻腔の奥にあの濃密な伽羅の香りがよみがえる。
人びとの話し声が波のように遠ざかり、やがて茫漠の膜の中に引きずりこまれる。透明な分厚いガラスに隔てられた、異空間へと閉じ込められるように。
右手がチリチリする。
指輪をつけた薬指が、燃えるように熱く――。
「――先生!」
忘れていた痛みが、鋭利な刃となって回帰する。
――暗転。

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