5、救いたい、救えない

 前回のハイライト。カフェで出会った男性に運命を感じて、そのまま見事に意気投合。
 それからの人生は薔薇色。

「で、センセイ。その右手の指輪、どういうことなのか説明してくれますよね?」

 ――なぁんて、そんなことはあるはずもなく。
 一週間、ポアロには顔を出さなかった。純粋に忙しかったのもあるが、醜態をさらして迷惑をかけたコナンくんや安室さんの手前、立ち寄りづらかったというのもある。
 あの日のうちに謝罪のメールは入れた。だとしても、大人としてどうなのかと自分勝手さには自責の念が込み上げるものだ。
 それでも、どうしても逃げてしまいたかった。いい格好をしたい、カッコつけたいというより、鎧を剥いだあとの本当の自分を見せたくなかった。
 ただあらゆることから逃げているだけだというのはわかっていても、できるだけ彼らにはなにも知らないでいてほしかった。
 そういうわけで、ポアロに行くことなく職場と自宅の往復をくり返した一週間。なんとかひと息ついて、往来を歩きながらつい先日知り合った男性と連絡をとっていたら、梓ちゃんに捕まった。
 急きょ食材の買い出しに出ていたみたいだったけれど、携帯片手に電話をするわたしを見つけて怒涛の勢いで横断歩道を渡ってきたと言う。
 電話が終わり携帯をカバンへしまうと、「セ・ン・セ・イ?」と背後に立っていて心臓が飛び出そうになってしまったのはここのだけの話である。
 そこからはもうとにかく早かった。看板娘に腕をホールドされるやいなや、ポアロまで連行である。
 席もすでに指定、カウンターのど真ん中だ。わっ……と小さないきものになった気分で声を洩らしているうちに、梓ちゃん特製レモネードまで用意されていた。
「私が最後に会ったときには、着けていませんでしたよね!?」
「ええと……まあ、そうだね」
 あははと右手で頭を掻きそうになって慌てて左に変える。
「もしかして、安室さんですか!?」
「安室さん? まさか!」
「じゃあ、どなたなんですか? もしかして! あの十代のアルバイトの子に走った元カレとか……!?」
「いやいやいや、絶対ない」
 それこそまさかだ。今となってはぼんやりした人相となった記憶の中の元交際相手を意識から追いやる。
 そうだ安室さん、あれからまだ顔を合わせていない。会ったらきちんと謝罪をしなければ。コナンくんにも、ポアロまで走ってくれたお礼をしたい。
 そう考えられるくらいには、精神的に回復したのかとすこしだけ気持ちが軽くなった気がして、尋問モードの梓ちゃんに、「ここだけの話」と答える。
「その、出会っちゃったんだよね、わたし」
 すかさず梓ちゃんが、「結婚相手とですか!?」と声を上げる。
 カウンターの奥からパリーン! と食器の割れる音が響いてきた。

「結婚――!?」

 ハァ!? なんて。いつものさわやかフェイスはどこへやら。安室さんが扉の向こうから顔を出した。
「安室さん!? いらっしゃったんですか!?」
「そんなことより、結婚!?」
 すごい剣幕だ。おまけにその頬に一閃の切傷を負っている。
 というか、血! きめ細やかな肌にはたらりと垂れる真っ赤な鮮血。とっさにそれを拭おうと、おしぼりを手にカウンターへ乗りだしたわたしの腕を安室さんが掴んだ。
「実際に、存在している男性ですか?」
「へっ?」
「もしかして騙されていませんか? 実は教えてもらったのは偽名で、名前はおろか、職業や自宅、あらゆるものが偽物だったりしませんか!? 職場の事務所は空きテナント、それどころか戸籍までない。その上、妙な壺や指輪を売りつけられたとか。そもそも出会ったばかりで結婚だなんて」
 畳みかけるように、などとはよく言うけれど、はじめてこんなに浴びるように言葉を捲したてられたかもしれない。
 アイスブルーよりももっと透きとおった海のような瞳は、まっすぐわたしにそそがれていた。
「……絶対にあり得ない、僕とデートしてまだ二週間だぞ? この僕が、全力でほかの男なんて見られないように最高のデートプランを用意したというのに」
「安室さん?」
「そうだ、きっと、いや絶対、なにかに巻き込まれてるんです。そうですよね、梓さん!」
「はい、安室さん! 私もそう思います!」
「梓ちゃん!?」
 看板娘が拳を握った瞬間、示し合わせたように今度は看板息子のほうがキッチン台ごとカウンターテーブルを越えてきた。
「と、飛び越えた!?」
「いいですか、先生」
 いや、あの、いま、助走も踏み込みも全然なかったですよね? 運動神経が抜群ということはかねがねうかがっておりましたが、こういうことですか?
 五秒もかからないうちに立ち上がって、キッチン側へと身を乗り出していたわたしの横に立つ男性を見つめる。
「結婚という女性にとって大きな人生の決断をチラつかせて、パートナーから金銭を騙しとるロマンス詐欺が横行しています。自分は大丈夫と思っていても、実際には知らず知らずのうちに巻き込まれていることが大半なんです」
「わ……顔がいい……」
 じゃ、なくて。
 カウンターテーブルへ右手を置いて、ぐっと犯人を追い詰めるようにわたしの顔をのぞきこむ。ちょうど照明が安室さんの頭上にあるから、すっぽりと影に飲み込まれるようなかたちになった。
 それがちょっと、アウトロー映画の薄暗い警察署の一室で尋問されるシーンに似ているななどと思ったことは内緒にしておこう。
「あむ、あむろさん、その、お顔が、近いといいますか……」
「ええ。わざと近づけています」
「わっ、わざと……!」
「はい。僕もうかうかしていられないと理解しましたので」
「なにを!?」
 ゆら、ゆら、と電球が揺れる。――なあんて、世が世なら、おしゃれなレモネードはカツ丼だったにちがいない。
 完全にこちらとあちら、カウンターの中にいる梓ちゃんはオーディエンスとなって、「安室さん、いいですよ! その調子!」なんて煽っている。
「あの、いま、営業時間内、ですし、その、いちど、落ち着きましょう、そうしましょう!」
「梓さん、クローズの看板をお願いします」
「まだ閉店まで数時間はありますよ!?」
「安室さん、合点承知です!」
「梓ちゃんまで~!!!!」
 イケメンに迫られる構図だというのに、もはやヘビに睨まれたカエルだ。安室さんにヘビは似合わないから、大型犬とかオオカミ、とか?
 わたしはもう完全にネズミだ。袋のネズミ、アゲイン。
「安室さん、ちょ、美の暴力……あっ、美だけじゃない、すっっごい、いいにおいする……」
「先生、考え直してくれますよね?」
「ぅ、うわぁぁぁ……」
 圧倒的な美という名の、権力の圧力だぁ……。
 こういうとき無駄に顔がいいと表現することがあるけれども、むしろ一抹の無駄などない。自分の見た目や周囲からの評価、あらゆるすべてを余すことなく有用に活用している。それなのに、憎めないのが安室透という男だ。
 頼みの梓ちゃんもそそくさとオープンの札をひっくり返してしまった。救いは店内にあむぴファンの女子高校生も、同じくあむぴ信奉者の一般男性もいないことか。
「あのですね、安室さん」
「先生、はいって言うまで、僕やめませんよ」
 無駄じゃない、最高に無駄じゃない声で言うのもやめてほしい。退勤後のルンルン気分からの情緒のジェットコースターだ。確実に心の中の小さなわたしが白目を剥いて卒倒した。
「待っ、待ってください、安室さん」
「待ちません。先生、もう一度、僕と考え直しま」

「だからっ――結婚、しません!!!」

 シーン、と静まりかえったポアロに、ベルの音が鳴り響いた。
「ちょっとちょっと、これ、どんな状況?」
 覆い被さるように迫るイケメン男性と、常連の女と。
 ここで突然の園子ちゃん。うしろにはJK、小学生、そして米花町が誇る名探偵。
 ――まさか、こうくるとはね。

「で、梓さんと安室さんは、センセイが結婚するって勘違いしたワケね」
 かくかくじかじか、にぎやかさを取り戻したポアロである。
「なーんだ、もしや激アツ展開!? なんて思ってたのに」
「お騒がせしました」
 頬を膨らませてむくれる園子ちゃんに、苦笑まじりに安室さんがサービスのドリンクを差し出す。
「ホントですよ、ポアロに入ろうとしたらクローズの札でてるし。でも、中見たら、センセイ、安室さんに迫られてるし」
「でも、お祓いの相談するなんて、よほど大変だったんですね」
 蘭ちゃんの言葉に、ついわたしも苦笑を浮かべる。
 毛利探偵ご一行に伝えたのは、このごろよくないことが重なったから、偶然出会った人に神社を紹介してもらったということだ。
 まだ実際にお祓いには行けていないけれど、話を聞いてもらってすごく気が楽になったのだと伝えると蘭ちゃんは心配そうに眉を下げた。
 半分本当で半分うそ。少女の純粋な心配に内心、胸を痛めつつ、レモネードに口をつける。
 カウンターからテーブル席に移って、蘭ちゃん園子ちゃんの席にお邪魔させてもらっていた。隣には蘭ちゃんのお父さまである毛利探偵と、コナンくん。コナンくんは毛利家に居候しているから、みんなで夕食を食べに来たという。
「ねえねえ、先生、その指輪見せてもらってもいい?」
 隣のテーブルでオレンジジュースを飲んでいたコナンくんが興味津々に訊ねてくる。
「もちろん。ただ、借りものだから落とさないようにお願いね」
「はあーい」
 右手の薬指から指輪をはずす。コナンくんの手のひらに転がったシルバーリングは、指にはめているときよりも大きく感じられた。こう見ると、二連に連なったデザインはややいかめしく男性的なデザインだ。
 着けた瞬間のあのフィットする感覚を思い出す。
 ただ、喫茶店で席が隣になっただけ。偶然にも物を落としてそれを拾い上げた、七海さんとはそれだけの関係性だ。運命と言うにはあまりに希薄すぎる。
 会話が弾むわけではなかった。互いに笑顔で言葉を交わすわけでもなかったし、ただ七海さんは低く落ち着いた声でわたしの話に相づちを打っていた。
 そうですか、と端的に答えたあと、「それなら」と彼は続けた。

『出家というのはひとまず置いて、この指輪を肌身離さずつけてみてください』

 それから、出家をするかあるいはお祓い・・・をするかはいっしょに考えましょう、と。
 一縷の望みに浮かれていたのはわたしひとりだった。けれど七海さんのその淡々とした話し方というのがかえって心に響いて、目の前に垂らされた救いの糸をわたしは掴んだのだ。
 そして、実際にその糸はわたしを救ってくれた。
 ――あれ以来、夢をみていない。

「でも、お守りに指輪なんて、なんだかロマンチック」
 まじまじと指輪を見つめるコナンくんと安室さんとはちがって、うっとり園子ちゃんが頬に手を当てる。
「出会ったばっかりっていうのが、正直、気になるけど。肌身離さず着けてくださいなんて、実質、プロポーズみたいなモンよね」
「本当。先生は勘違いだっておっしゃってましたけど、実際、どんな感じだったんですか? 指輪は、嵌めてもらったんですか?」
「それは……その、嵌めてもらったけど……」
 キャーッと女子ふたりの黄色い悲鳴がポアロに響き渡る。
「もうそれはプロポーズよ、プロポーズにちがいないわ!」
「先生、本当に初対面だったんですか?」
 その勢いに押されつつ、実は……と打ち明ける。
「カフェで知り合うまえに、一回だけすれ違ったことがあって」
「なにそれ! ドラマみたいじゃない! それじゃそのときにセンセイに一目惚れして!?」
「一目惚れっていうか、ホント、プロポーズなんて甘い関係でもなんでもないんだけど」
 ちょうど食事を運んできてくれた梓ちゃんをつかまえる。
「そうだ、梓ちゃん、このあいだの米花百貨店に行くときにぶつかった男の子覚えてる?」
 ホワイトソースと、バターのいいにおいがした。蘭ちゃん園子ちゃんの前にはそれぞれグラタンとオムライスが置かれて、どちらも一流レストランのような出来栄えだった。
「覚えてますよ、ニット帽の男の子ですよね?」
「そう、その隣にいた男性。七海さんって言うのだけど、都内の宗教系学校の関係者らしくて」
 名刺もあるよとカバンからカードケースを取り出してテーブルの上にすべらせる。
「七海建人さん……はーっなんか名前からイケメンね~」
「というかセンセイ、あのときの――って、あの、ハリウッドスターみたいな男性ですか!?」
「そう、たまたま出張であの辺りに来てたみたい。教師じゃないけど、ときどき似たようなこともしてるって」
「なになに、梓さんそんなイケメンなの!?」
「それはもう! ちょっと独特なセンスをしてましたけど、なんていうか、オーラが尋常じゃなかったというか」
 筋骨隆々なうえ、彫りが深くて日本人ばなれした顔立ちをしていたという言葉に、女子高生の黄色い悲鳴がアゲイン。
「だけど、そんな人がいきなり指輪を渡してくるなんて、なんかおかしな話じゃない? ねえ、先生、僕、小五郎のおじさんに相談したほうがいいと思うな」
 たしかに、冷静に考えるとあやしい話ではある。ふつうはまったくの初対面の人と、話が弾んだり意気投合することなどめったにないことだ。
 実際に仕事も趣味も関係ない相手であれば、なにか二心でもあるのではないかと疑ってかかってしまうもの。
 でも――と、空いた右薬指を眺めて、指輪の跡をそっとなぞる。
「ま、カルトだマルチだなんだ、ずる賢いこと考えるヤツは世のなか山ほどいるからな」
 そう言ったのはコナンくんの前で新聞を読んでいた毛利探偵だ。
「とくに、アンタみたいにお願いされたらノーって言えなさそうな、まじめなタイプはいいカモだ」
「ちょっとお父さん!」
「ガキんちょもおじさまも夢がないわね~!」
 とはいえ、コナンくんの言い分も、毛利先生の考えも間違いではない。
「詐欺だったら、毛利先生にお願いしようかな」
「僕の存在も、忘れないでくださいね」
 ふわり香ってきたのは、甘いホットミルクの香りだった。空になったレモネードのグラスと交換に、白い陶器のカップが目の前に置かれている。
 頼んでいないと顔を見上げるが、お食事を召し上がられないようだったのでと笑みを返された。
「もし詐欺だと感じた場合、最寄りの交番に相談するのが一番ですが。電話一本くだされば、いつでもどこでも駆けつけますので」
「安室さんはどこまで冗談なのか、わかりづらいですよね」
「冗談なんて、すべて本気ですよ」
 マリンブルーの香気がふとよみがえって、先ほどまでの熱がぶり返しそうになる。安室さん、と咎めるように声をもらすわたしに、安室さんは懲りずに蜂蜜色の髪を揺らしていた。
「先生……」
「やっぱ、安室さんも捨てがたいわ……」
 女子高生ふたりのらんらんとした瞳が目ざとくこちらを向いてる。
「ンなことよりよ、おまえら聞きたいことあったんじゃなかったのか?」
 助け舟を出してくれたのは毛利先生で、「そうだった」と言うと園子ちゃんはバッグから一冊の雑誌を取り出した。
「京都?」
「そうなの、今年、修学旅行で行くことになって。センセイ、去年、自分の学校の引率で行ってたじゃない? だから、オススメの場所教えてもらおうと思って」
 表紙には真っ赤な鳥居や寺社仏閣の写真が切り抜かれていた。真夏も目前、外に出ればねっとりとした熱風が肌を包む。だというのに、園子ちゃんの白い指先が表紙をめくると、満開の桜の景色が飛び込んできた。
 オーソドックスな場所といえば、清水寺と祇園でしょ、などと指折りしながらふたりは旅行雑誌をのぞきこんでいる。
「そうか、アンタ、去年は中三のガキどもをみてたのか」
「はい、初めて受験生を受け持ったので、いろいろと勉強になりました」
「中三なんてなあ。こいつらのときもそうだったが、生意気ざかりのガキどもばっかだしな」
 毛利先生のセリフにちょこんと肩をすくめて笑って。「それより、料理、冷めちゃうよ」とふたりに声をかける。
「先生はお食事されないんですか?」
「うん、ここに来るまえに学校でエナジーバー、つまんじゃって。だから家に帰ったら軽く食べるつもり」
 カトラリーを手にするふたりに代わって、雑誌をあずかりゆっくりページを進める。
「ちょうど修学旅行のときは紅葉の季節だから、どこもきれいだと思うな」
「センセイが行ったのも、秋だったっけ?」
「うん。そのときは、初日に清水寺と八坂神社のあたりを散策したあと、二日目に自由行動で貴船の鞍馬山のほうに向かったよ」
 雪化粧ならぬ秋化粧をした鞍馬の山々はなんとも綺麗だった。生徒たちの選んだルートを先回りしてチェックポイントで待っているという役割だったから、鴨川源流での川床は体験できなかったが、マイナスイオンたっぷりの空気に心が洗われた。
「貴船というと、貴船神社が有名ですね」
 安室さんが、毛利先生のカップにコーヒーをそそいでいる。
「ええ、今じゃ丑の刻参りの聖地なんて言われていますけど、もとは治水や雨乞いのための儀式が行なわれる、国家的に重要な神社だったんですよね」
「そのうえ、平安時代の歌人である和泉式部が夫の心変わりを嘆き参拝し、恋を成就させたことから、本宮の奥にある結社ゆいのやしろは『恋の宮』としても有名ですよね」
「へえーっ、すてき!」
 平安時代から言い伝えが続くなんて、すごくロマンティックですねと蘭ちゃんも、園子ちゃんといっしょに頬を上気させて興奮気味に顔を見合わせる。
「でも、実は貴船神社に参拝もしたんだけど、本命はそっちではなくて」
 巻頭の目次に戻り、貴船の特集ページを確認する。それから該当ページの数ページ先に、小さく切り取られた社殿の写真が載っていた。
「貴船からさらに山奥に小さな神社があるの。なんでも、平安時代に離ればなれになったふたりがうつし世を超えて、永遠の愛を手にした逸話があるとかで。〈恋に効くおまじない〉っていって、お香や練り香が売られているんだ」
 ここ、とふたりにそのページを見せると、わあ、と愛らしい声が上がった。
「なにこれ、すっごいかわいい」
「一時期、インフルエンサーの紹介で有名だったらしくて。生徒がぜったいに行きたいって言うから、わたしともう一人の先生が付き添ったんだよね」
 そう、ちょうど昨年のいまごろだ。教え子たちが興奮した様子でネット記事のコピーを持ってきて、熱弁してくれたのを思い出す。
 八坂神社や伏見稲荷神社はおろか、貴船神社に比べるとかなり規模は小さい。けれどその横に並べられた、香守りや香水のパッケージは和をモチーフにしたもので、今どきの女の子たちが好きそうな壊れそうなほど儚いデザインだった。
「京都駅からは遠いから、自由行動で行けるかはちゃんと担任の先生に相談してね」
 どうしよう、真さんとおそろいにしようかなととか、新一に内緒で買っちゃえば、など盛り上がるふたりを眺めながら温かいミルクに口をつけた。

 毛利探偵ご一行がポアロを後にして、用事のある梓ちゃんの代わりに安室さんと閉店後の店内に残っていた。
「すみません先生、せっかく早く仕事が終わった日なのに。そのうえ、締めの作業まで手伝っていただいて」
「なにも用事がないので。それに安室さんが送ると言って聞いてくれないから」
 後半はつい恨みがましく唇をとがらせて、翌日の仕込みをする安室さんに視線を送る。
 平たい目もなんのその。わがままを聞いてくださりありがとうございます、なんて、どこまで完璧なのだか。
「お疲れでしょうから、ゆっくり座っていてくださればよかったのに」
「送ってもらうのに、手持ち無沙汰でいるのもいけないですから」
「そういうところが、先生らしいですよね」
 ザアザアと水の流れる音がする。先ほどまでとは打って変わって落ち着いた空気がポアロを包んでいた。
 締めの作業とはいえ、常連客にできることと言えば、テーブルを拭いて椅子をきれいに並べることくらいだ。
「あと、やることはありますか?」
「もうありませんよ、と、言いたいところですが。お手伝いのお礼に、新作のデザートを召し上がっていただくことでしょうか」
 カウンターの中に入ることははばかられるから、台拭きを四つ折りにたたみ直して渡しながら、「せっかく片づけたのに?」と目を眇める。
「ご帰宅後、食事をなさるというのは、きっと遂行されないだろうなと思いまして」
 ちょこんと肩をすくめて、手際よくシンクまわりの作業を続ける安室さんの言葉につい閉口する。
「そんなに、わかりやすいですか」
「そうですね、わかりやすいかと言われれば、否、でしょうけど。先週お会いしたときより、頬やあごのラインがやつれて見えますから」
 だからホットミルクだったのだろうな、と答え合わせが済んで小さく息をつく。
 食欲がないわけではない。おいしそうなものを見れば、おいしそうだなと思うけれど。ただ、食事という行為からすこし遠ざかっているだけ。
 そういう細かなところに気が利くのが安室さんだ。ありがたいというか、おそれおおいというか。
「先週は、ほんとうにごめんなさい」
「いいんですよ、置いてかれてしまったのはショックでしたが。まさかその後、男性と出会ってるとは思いませんでしたけど」
「いいんですよって言いながら、根にもっていらっしゃいますよね?」
「さあ、それはどうかな」
 けれど、軽口を口にしてくれたことでかえって救われることもあるのだ。
 それが安室さんのやさしさであり、気づかいなのだと彼の前の席にゆっくりと腰をおろす。
「七海さんは、その、ほんとうに悪い人ではないと思うんです。指輪も、助言どおり着けたおかげで実際に夢を見なくなりましたし」
 薬指に戻ってきたそれを左手の指先でもてあそぶ。
「……ただ、あやしく感じてしまうのは、ごもっともとは思います」
「わかってくださり、痛み入ります」
 はい、とこうべを垂れたわたしに、安室さんは上体をちょこんと曲げた。
「唇、あまり噛まれると血が出てしまいますよ」
 下からのぞきこむようにして視線が絡み、はっと唇を指でなぞる。
「噛んで、ました?」
「ええ、無意識に。よければリップ、お貸ししましょうか」
「いいえ、自分で持っていますから」
 ちょうど新しく買ってあったんですよと親切に申し出てくれる安室さんに断りを入れて、隣のスツールに置いたカバンからリップクリームを取りだす。
 無意識にだなんて、自分ではそんなつもりはなかったのだけれど。
 コンビニでも売っているようなよくあるリップだ。くりだしタイプのそれを丁寧に回すと、安室さんが試食用を用意する横で唇に塗りたくる。
「あれ、なにか落とされてますよ」
 ちょうどカウンターから下りてきた安室さんが床に手を伸ばした。
「香水、ですか?」
 彼の大きな手に握られた小瓶に、あ、と声がこぼれる。
「それ、さっき園子ちゃんと蘭ちゃんに話していた神社の香水です」
「ピローパフューム、ですか」
「ええ、寝るまえにそれを枕にひと振りすると寝つきがよくなるとか。でも、カバンに入れた記憶なんてないのに」
 間違えて持ってきちゃったのかなとぼやいたわたしに安室さんは訊ねた。
「においを嗅いでみても?」
 もちろんと答えて今度はバッグに忍ばせていた予備のハンカチを取りだす。
「バニラのような香りと、木のような渋みのある香り……。伽羅、ですか?」
「ご名答。正式には伽羅によく似た沈香ですけど、なんでもその地域でとれる特殊な香木を香油にして作ったものなんですって」
 安室さんから小瓶をあずかりハンカチにワンプッシュ。
 透明な液体の中には、小さな丸い石のようなものがいくつか入っていた。御神木にまつわる特別なもので、木を丸く成形したものだと言っていた。
 木なのに黒色やハシバミ色、大理石のような模様の半透明のものまで。それらがまるで宝石のようにも思えて、可愛らしいと手にとったのだ。
 ペールブルーのレースのハンカチからはウッディな奥深い香気が広がる。
「だから、先生はときどき甘い香りがするんですね」
「もしかして、けっこうにおい移ってます?」
「言うほどではありませんが、なんとなく先生からもバニラっぽい香りがすると思いまして」
 こつり、床を鳴らす音がする。
 そういえばこのハンカチ、安室さんの瞳の色に似ているなと思ったのもつかの間だ。蜂蜜色の淡い髪が眼前で揺れ、視界の端からゆっくりと消えていく。
 あえかな潮騒の音。それから、首すじにかかるわずかな吐息。
 木の香りの中にたしかにマリンブルーの香りがして。安室さんがすぐそばにいるのだと自覚したときにはすでに遅かった。
 鎖骨を撫でるような空気の動き。やけに鮮明にそして繊細に皮膚細胞に刻み込まれる。反射的に椅子の背に身を引いたけれど、背もたれがそれを許さなかった。
 だから――小瓶を離してしまうのは、もはや仕方のないことだったのかもしれない。
 手からすべり落ちたそれは床に転がりあっけなく粉砕した。
 パリン――そう、響いた音は、あえかでそれでいて無情にも呆けた意識を覚醒させた。
「す――すみません! 食事をするところなのに、すぐに片づけますから」
 香気が――いっそう強くなる。右手を隠すように反対の手でおおって、安室さんからとっさに離れるようにして椅子から下りると、わたしは床にしゃがみ込んだ。
 割れたガラスはいくつもの破片を作り、無惨にも散らばっている。
「危ない。……素手でガラスにふれるものじゃない」
 ゆらり、影が光を遮ったかと思うと、低くそっと喉もとを撫でるような声が響いた。すぐに影は引いて、ポアロの照明に金糸が瞬く。
 冷えた指先とはうらはらに、あたたかくて大きな手がわたしの手に重なった。

「――どうしてだろうな。きみに、傷ついてほしくない」

 ちりり、右の薬指がわずかに疼く。
 ――それはだれの言葉だったのだろう。

送信中です

×

※コメントは最大1500文字、10回まで送信できます

送信中です送信しました!
2026年3月8日IN THE DREAM?