4、逃亡

「せんせー、さよーならー」
「はい、さようなら。気をつけて帰るのよ」
 ついでに、上履きのかかとは踏まないように、折ったスカートも戻して帰ること。
「あなたたちのためなんだからね」と付け加えると、えー、キビシー! とけらけら笑いながら鮮烈な西日の中に少女たちが飛び出していく。
 紺ブレザーの初々しい背中からさわやかな純白のセーラー服に変わっていた。迷いのない背を見送って、ようやくホッと息をつく。
 放課後の時間は張り詰めた糸が途切れたようだ。ついデスクチェアに深く座りこんで、脱力してしまう。
 とはいえ仕事が完全に終わったわけではないから、日誌やら提出物やらチェックするものは多いのだけれど。
 それでも常に人に見られているという環境から離れられるのはありがたい。
 デスクには回収した提出物と次の授業で使用するプリントが置かれていた。正面には本立てを使用して並べてられたテキストたち。
 左脇には、無数の書籍の山。いずれも夢や睡眠に関するものだった。
「……《夢の話がおもしろかったです》」
 開いた日誌には、今日一日の記録が記されている。一時間目の体育、三時間目の社会、五時間目の家庭科。
「生活と睡眠」について学んだ感想が、丸みを帯びたフォントで書いてある。
「《人間は一生のうち三十年も眠るそうです。そのうち夢をみるのは六年もの時間》……」
 夢――それは睡眠中にまるで現実のように見たり感じたりする心象や感覚体験そのもののこと。科学の発達するはるか以前から、医学哲学問わず人びとの関心を集めてきた。
 脳生理的にいえば、夢とは睡眠中に発生する〈記憶情報の処理〉のための〈脳の内部的な活動〉だという。
 日中に経験したできごとや得た情報を、整理することで長期記憶の箱に保存する。ゲームやアプリなどにたとえれば、ローディング画面の向こう側で行われている処理に近いかもしれない。
 1953年、「レム睡眠」の発見により、それまでは睡眠に伴う不可思議な現象として扱われてきた夢に科学的な光が当たるようになる。
 レム睡眠――いわゆる深い睡眠と言われるノンレム睡眠のあとに周期的に訪れる、脳が覚醒に近い活動を示す睡眠段階。
 脳幹から一定的な間隔で特定の脳波が発生すると観測され、大脳皮質と呼ばれる領域を刺激、神経細胞の興奮を促す。
 それによって生まれる映像体験をはじめとした主観的な体験が、わたしたちの呼ぶ「夢」だと考えられている。
 だが、そんな説明をいくら並べても――あの夢の感触は、どうしても脳の整理作業には思えない。
 たとえば、魂が身体から脱け出して別の場所へ赴くのだと言われたほうが、よほど――。

 ――ちなみに、精神分析学では〈夢は抑圧された願望を描きだすもの〉だと考えられていたと言いますよ

 無意識下で抑圧された欲望のあらわれ。
 現実世界で満たすことのできない願望を充足させるもの。
 危機回避のシミュレーション、欲求不満やストレス解消のための感情の捌け口――いったい、どれが本物なのだろう。
「《夢は人生をよりよくするための大切な体験だと、先生は言っていました》……」
 人生を、よりよくするための体験。

 ――っ、もうええやろ
 抱き合いながら必死に吐息を奪い与え合った記憶。それは二度目の〝夢〟だったか。
 ――あかんわ、クソッ……
 あのころはまだ無邪気だった。いま考えれば、まだまだ夢のさなかでお遊びの延長のような気さえした。
 けれど、三度目はどうだった?
 ――っ、ぁあ゛……
 悪寒さえ感じそうな冷ややかな空気の中で、灼熱を帯びた象徴。大粒の汗を垂らしながら、それでも蒼白な顔で噛み締めた唇からこぼれる吐息。
 錆鉄のような味がした。むせかえるような伽羅の香りの中に生々しいいのちのにおいがした。

 目の前が揺らぐ。
 どこからが夢で、どこまでが現実なのか。いま、ここは夢からさめた世界なのか。
 眉間を指でつまみ、蛍光灯の光を閉ざすようにまぶたをとじて天井をあおいだ。

 

 ――おかあさん、おとうさん
 これは、わたしの記憶だ。真っ赤なランドセルを背負って、桜吹雪の舞う中を駆けていく。
 両親は今よりもずいぶんと若い姿で、ともに明るい色調のセレモニー用のスーツを着ていた。
 少し背伸びをして選んだブレザージャケットとチェック柄のスカートを揺らして、わたしは微笑む両親のあいだに割り込んでふたりの手を握る。
 ――あのね、わたし、おとうさんとおかあさんみたいな〝センセー〟になりたいんだ
 二人はなにも言わなかった。ただシワもシミもない若々しい顔でやさしく笑っている。

 花風が吹いて、今度は教室の風景に変わる。
 足の届かなかった椅子もすっかり小さくなっていた。黒板の前には〝先生〟が立って、今日の授業予定を話している。教室のうしろにはたくさんの大人たち、そこには父と母の姿もあった。
 わたしがすこしばかり落ち着きなくうしろを向くと、ふたりは困った顔をしながら小さく手を振る。
 父はライトブルーのポロシャツにベージュのスラックス。母は白いトップスに青いデニムのジャケットを着ていた。綿のスカートはボタニカル柄で夏の日差しによく似合う。
 先生がなにかを言って、いっせいに子どもたちの手が宙に上がる。
 わたしもそれにまじり、負けじと大きく腕を伸ばした。
 先生の指先がわたしへと向けられ、こそばゆいようなけれど誇らしいような、そんなむずがゆさを抱いたままわたしは立ち上がる。

 ――わたしのあこがれの人は、お父さんとお母さんです

 二人は小学校と中学校の教しをしていて、毎日おそくまでしごとをしています。けれど、わたしのためにいそいでしごとから帰ってきて、夕ごはんのしたくをしたあとべん強をみてくれます。
 べん強をみるときはとてもしんけんだけれど、うまくできるとたくさんほめてくれます。自まんのむすめだといつも頭をなでてくれるのがうれしいです。
 教か書をのぞくときの二人はとてもかっこよくて、外では、先生、と教え子に声をかけられます。はずかしそうにしているけれど、教え子やそつぎょう生にそんけいされるすがたは、わたしの自まんです。……

 あどけない声を聞きながら、大きな拍手を遠くに耳にしながら、目じりを拭うふたりを遠くから眺めて。
 ――ああ、これは〈夢〉なんだと理解する。

 薄暗い部屋、静まりかえったリビング。四人がけのダイニングテーブルに座るのは、大きなブレザーに身をつつんだ少女ひとり。
 並べられたお皿にはすべてラップがかけられていた。茶碗も箸もすべて用意されるのは一セットだけ。すぐそばには「90点」と記されたテストが何枚も重なっている。
 記された「good」の文字、明滅する室内灯の明かりの中で無情にも赤くにびやかにまたたく。よくやった、つぎもがんばろう、そんな言葉はない。ただ、冷ややかな静けさが、鋭利な静寂がテーブルの上に増幅する影とともに募っていた。
 自慢の娘だなんて、そんなこと。一回も、言われたことがなかった。笑顔で抱きしめてくれたことが、あったっけ。

 こんな点数をとって。
 詰めが甘いのよね。
 もっと、しっかりしないと。
 私たちの娘なのだから、それぐらいできて当然だろう。

「勉強だけできたって、それじゃあね」

 ちゃんとしなくちゃ。いい子にならなくちゃ。
 いつだって笑顔で明るくて、やさしくて。
 優等生として、ふたりの娘として。このレールを外れないよう、正しい姿でみんなの前に立たなくちゃ――……。

 

「先生、顔色悪いけど大丈夫?」
 いやいやいやいや、もう完全アウトでしょう。
 いよいよ出家かと考えていたところだった。欲求不満を解消すべきかと結婚相談所に登録しようかとも思ったが、もはやその段階にいないと絶望していた。
 自分の問題解決を他人に押しつけてはいけない。有名アイドルだって、自分の人生のオールを他人に任せるなって言っていたし、某漫画の剣士は生殺与奪の権利をだれかに委ねるなって言っていた。
 生徒に自分のことは自分でと言っておきながら、教師はゆうゆうと問題をだれかにスライドさせるだなんてそんな。
 とかなんとかこめかみを強くさすりながら歩くわたしに、声をかけてきたのはコナンくんだった。
 今日も小学生男児らしいキュートな姿でそこに立っている。いえ、そのキュートというのは世間一般的な形容であって、ハムスターかわいいイヌかわいいなどといった純粋なあれなのでそこに他意はありません、断じて。
 瞬時に心中で言い訳を連ねるわたしはともかく、コナンくんの隣には安室さんの姿もあった。
「本当ですね。体調がすぐれないみたいです。近くまで車を持ってくるので、よければお送りしますよ」
「……安室さん」
 できれば、いまは会いたくなかったかな。だから今日はポアロではなくべつの場所で食事をしようと思っていたのに。
 自身の生活を省みて自炊をしなさいというお告げだったか、長い脚で歩み寄り背に手を添えようとしてくれる安室さんに手のひらを突きだす。
「いえ、その、ちょっと寝不足がたたっただけでして」
「寝不足、ということは、まだ〝夢〟が……」
 深く考えずに口にしてはっとする。
「夢、って、先生、悪い夢でもみるの?」
「……コナンくん、なんでもないの。ただ数日、仕事が忙しくて眠れなかっただけで」
 ふしぎそうに見上げてくる彼に腰を屈めて笑みを返す。
 仕事が忙しくて、なんて。あながちうそではないのだけれど、それより自分が危険人物だなんて小学生相手に言うことではない。代わりに体調管理ができていない大人という印象は生まれるが、リスク管理は大切だ。
「コナンくんは、安室さんとおでかけ? いっしょなら大丈夫だろうけど、暗くなるまえに帰るんだよ」
「うん、それはわかってるけど……」
 おうちの人が心配するからねと、コナンくんの着ていたシャツの襟元をなおして立ち上がる。
「安室さんも、お気遣いありがとうございます。今日はポアロには行けないんですが、また落ち着いたら顔を出しにいきますね」
「いいえ、そんなことはお気になさらなくても。ただ、本当に大丈夫ですか?」
 ひらひらと胸のまえで振ろうとした手に太い指が絡む。思いがけず強い力だった。碧色の瞳が自分を案じてくれているものだとわかっても、その奥の光を邪推してしまう。
「ダイジョウブ……ほんと、ダイジョウブ」
「大丈夫じゃありませんよね」
「や、あの、ほんと、寝不足、ただの寝不足」
「……あなたの場合は、それが一番心配なんです」
 たしかに、法を侵すか侵さないかのデッド・オア・アライブだから……。
 知ってる、もはやデッドだって……。
 だからポアロに向かわなかったのだ。明らかに一線を踏み越えたわたしを、その目で見透かしてしまったとしたら。ほんとうに、そういう人間だと確信されてしまったら。
「先生、なにかあったの? 安室さんはそれを知ってるの?」
「コナンくん……」
 くりっくりのつぶらな瞳がまぶしい。もうやめて、ライフはゼロよと言いたくなって、心を強く保つ。
「出家します」
「え?」
「決めました。わたくし、二十八歳米花在住、学校勤務の一般女性。本年度が終わり次第、出家します」
 三月まで猶予を持たせようとしているあたり甘いだろうか。一応の同意があったとはいえ、あの子は十五歳。状況を鑑みても、不同意わいせつ罪に抵触する可能性が大きい。
 どうしてあんなことをしたのか、なぜあんな夢を見るのか。
 夢とはいえ、こんな人間が教職についていてはいけない。青少年の未来を守るためにも、心頭滅却、煩悩を捨てるしか道はないのだ。
「父と母のように児童生徒から尊敬される、立派な教師になりたかったですのが……」
「ね、ねえ先生? 僕、話が見えてこないんだけど?」
「コナンくんは、こんな大人になっちゃダメだからね」
「う、うん?」
「……コナンくん。梓さんに今日のバイト、一時間ほど遅れますと伝えてくれるかい」
 腑に落ちない様子だったが、安室さんに言われてわかったとコナンくんが走りだす。
 行ってしまった、マイ・スイート・コナンくん……。ちょっぴり大人びているけれど、子どもらしさとのギャップがとても癒されるのだ。今はその、ダメージが大きかったけれど。
 この場から立ち去ってくれてよかった。そんなことを考えながら小さな背中を見送っていると、腕を掴む手のひらがわずかに肌をすべり、冷えたわたしの手を包み込んだ。
 たしかな力で握られた手は、まるで逃がさないと言っているようだった。
「先生、あまりにも顔色がひどすぎます。仕事のことは心配しなくていいですから、すこし休みましょう」
 それから携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかけようとする彼にかえってすがりつく。
「すみません、病院は。病院だけは」
「なぜ――」
 心配なのは仕事ではなくて、否、もちろん心配なのだけれども。そもそも人生そのものというか、この先の未来というか。
「……いいえ、わかりました。ひとまず、ご自宅までお送りします」
 繋がったままの手のひらが。大丈夫ですから、そう言う安室さんの低い声が。まるきりとはちがって耳がふさがる。
 ――あ゛ぁ……なんやねん……ほんまに、っ……
 真っ赤な血をあふれさせながら苦悶に眉をゆがめる。あどけなさの残る頬や目もととはちがって、そこ・・はおのれを主張するように張り詰めて……。
 ――っは、ぁ゛っ……
 わずかに、口内で血の味がよみがえる。
 熱の灯った琥珀が。その翻る苛烈な光が、わたしの胸を熱く膨らませて――……。
「安室さん、ごめんなさい……っ」
 むりだ。
「先生!?」
 ――ここに立っていられない。

 逃げ込んだのはあの場所からしばらく離れたカフェだった。胃の中がぐるぐると掻き乱される感覚がひどい。
 ほんの一キロも離れていないというのに、着くころには息が上がっていた。今にもしゃがみこんて嘔吐いてしまいそうで、けれど、家に帰る余力はなかった。
 むしろこの状態で帰宅するのもはばかられるというものだ。一人暮らしだからか、それとも〈夢〉に近づいてしまうからか。
 レモネードはないから、デカフェのホットティーと気つけ薬程度に焼き菓子を頼んで、店奥のソファー席に座る。
 窓際の座席には今日最後の陽光がこれでもかとそそぎこんでいた。
 シロップに浸かるような明度の高い光だ。学校帰りの学生や子ども連れの女性のもとへふりそそいでは、朗らかなその横顔を瞬かせている。
 学生たちの笑い声が響いていた。どこのテーブルでも、あるいはキッチンでも、にぎやかな声が聞こえてくる。
 真っ当に生きてきたはずだった。
 これからもそれは変わらず続いていくと思っていた。
 いくらつまらない人間だといわれたとしても、お堅い、まじめ、いい子ちゃん、偽善者、お前と一緒にいると息苦しい、そんなふうに突きつけられたとしても。それが当たり前の生き方だったから。
 光が透明な膜を隔てているみたいだ。こちらと、あちら。かつては、自分もあんなふうに無邪気に友だちと話していただろうか。
 放課後のファミレスや喫茶店で、携帯を突き合わせて好きなアーティストの話や流行のものを追いかけていただろうか。
 可愛らしく着飾った少女たちの姿がまぶしい。声がすこし、大きくて。着崩した制服のスカートからは、白い脚がこれでもかとのぞいている。
 そんなに折り曲げたら下着が見えてしまうとか。カラコンとか化粧とか、アクセサリーとか、髪の色とか。つい、いろいろなことが思い浮かんでは、その目映い光景をこの手でかき消したくなって、自らの衝動にめまいがする。
 そう、消してしまいたい。
 目の前のグラスに反射した女の顔を、遠ざけるようにテーブルの端へと押しやる。
 壊して、すべてぐちゃぐちゃにして。
 なにもかも――……。
 メニューを待つあいだ、通路をいくつも隔てて影にひそむようにソファーに身をあずけていた。あらゆる猥雑な音が耳腔を突き刺さすが、卓上に滑るグラスの影を見るともなしに眺めていた。
 三度目のあの夜――怪我をした彼をひどい形で蹂躙した。命がかかっていたからとはいえ、弁解の余地もない。
 わずかにその声や吐息ににじんだ熱、如実に反応を示す彼の象徴が、どうしようもなく胸の奥に空いた穴をそっと撫でて埋めていった。
 無我夢中に近かったと思う。どうしたら早く彼を助けてあげられるか、そんな気持ち以上に、いつしか彼の歪む顔や乱れた呼吸、熱に浮かされる瞳を求めていた。
 この手に彼の生死がかかっているという重圧と、この手で蹂躙しているのだという昂揚。相反する感情がせめぎ合い、そして最後にはほとんど後者がまさっていた。
「わたしが救ってあげられるんだ」
 ――わたしだけが、彼を。
 そんな恍惚があったことは否定できない。あれほど守り慈しんできた、無垢な子どもという象徴を穢している暴力的なまでの興奮と。
 まるで自分が自分ではないみたいだった。心の奥深くに丸めて縮めて隠していた願望を、自分でも知らなかった潜在的な思考を否応なしに引きずり出されたような。
 目がさめて、抱いたのは恐怖だった。ほかでもない、自分に対する恐れだ。単なる性欲への嫌悪感ではない。彼を通したなにかを、彼という存在の向こうにあるものを穢そうとする、仄暗いしかし烈しい、歓喜に似た昂りを。
 夜明け前の静けさの中で、寸前まで彼のものを咥えていたくちびるを指でたしかめ、荒んだ呼吸をひたすら耐えていた。
 彼は助かっただろうか。あの無情なひとときを抱いたまま、大人になるのだろうか。
 ――あんまりだ。それこそ彼にとって悪夢じゃないか。
「どうして……」
 なぜ、こんなことになってしまったのか。安室さんの言うとおりに、休息をとって、適切な治療を受けるべきなのかもしれない。
 でも……。
 そこまで考えたところで、ドリンクが運ばれてきた。夕日色に近い赤みの強い琥珀色の水面にスライスレモンが浮かんでいる。
 きれいな円形だった。けれどその反面、青春を想起させる爽快さはもはやそこにはなく、烈しい酸味をいだいたいびつなアンバランスさがただそこには残されていた。
 惨めさや劣等感を撫でつけるような――おそるおそる白い陶器の持ち手に指を伸ばすと、震えが熱にほどけていく。

「すみません」
 そうしてゆっくりカップのはらを撫でようとしていたところで、低く心臓を撫でる声にはっとした。
 隣を見ると特徴的なサングラスと麦浪のようなまばゆい髪が目に入った。
「そちらに名刺を落としてしまったようで」
 視線をたどると、わたしの座席のちょうど真下に白いカードが落ちていた。
 席同士の隙間が小さいから、男性にはかがむのも厳しいだろう。
「いま取りますね」
 そう言って、わずかにテーブルを動かす。ソファーから立ち、通路側に一旦出てからその下へもぐった。
 なめらかな白いカードは彼の言うとおり名刺だ。うっかり踏んでしまわなくてよかったとテーブルの下から脱け出す。
「……これ」
 ちりやほこりを軽く落として、男性に渡すつもりだった。
「なにか?」
「…………」
 慌てて顔を上げた先には、金髪の男性。グレーのスーツに青いシャツ、特徴的な柄のネクタイ。
 淡い色彩のレンズが視線を隔てる。
「……もしかして、こちらの学校についてご存知でいらっしゃいますか?」
 カードに記されていたのは、ある学校名だった。

〈学校法人■■学園 ……〉

 一般募集がなく、限られた生徒だけが通う宗教系の私立学校。その実態はよく明かされていないが、古くからある学校だとは聞いていた。
 東京の山奥にあり、自然豊かな場所で少人数制の授業を売りにしているとかいないとか。
 学校の実情を知りたいわけではない。正直に言えば、選ばれた生徒というのがどういったひとたちなのかというのは気になる。将来住職になるとか、あるいは神道であれば神主になるか。
 でも、なにより――藁をも掴む思いだった。
「すみません、突然。もしこちらの高校の教員の方だったら、お聞きしたいことがあったので……」
 いまどきの小さくラメが入ったようなオシャレなカードではなかった。きめが細かく、撫でると指紋すらもやさしく撫でてくれるような質感だ。分厚く、ちょっとやそっとでは折れることのない重厚なつくり。
「教員ではありませんが、関係者ではあります。もしかして、なにかお困りのことでも?」
「……!」
 明るいグレーのテーラードスーツに包まれた脚をしずかに組んで。その衣ずれの音が耳から心臓にひと息に吹き込まれる気がした。
 喉が熱いような、むずがゆいような。鮮やかなブルーのボタンダウンシャツに、不思議な模様のネクタイ。保健室で目が覚めて天井に見つけた模様にどことなく似ている。
 サングラスをそっと指先で上げて、きゅっと引き締まった喉をなぞるような低音に、思わず生唾を飲み下してその大きな手を掴んだ。

「出家――出家をさせてください!」

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2026年3月8日IN THE DREAM?