やってきました、水族館。土日だと混んでいるからと、研究日を利用して東都を脱け出してやってきたのは近隣県の海沿いの街だ。
はじめは東都水族館という案もあったのだけれど、「せっかくならば非日常を味わうために、遠出をしましょう」とのことでわざわざ安室さんが車を走らせてくれることになった。
「では、木曜日に」とポアロで別れたときには、まさかそんな、ね……と思っていたが、告げられた時刻に待ち合わせ場所をのぞいて見れば、白いスポーツカーが停まっていたので度肝を抜かれた。
「いやあ、晴れてよかったですね」
青い空、青い海、白い砂浜と、そして安室透。なんだか清涼飲料水のCMにでも出てきそうな爽やかさだ。淡いペールブルーのサックスシャツがなんともマリンらしく、潮風を鮮やかに彩ってくれる。
あの白くて格好いい車の助手席に乗っているときには、正直緊張して生きた心地がしなかったけれども。
水族館の建物を前に甘い海の香りを感じているとなんだか気分がほぐれてくる。
「こんなところまで、運転ありがとうございました」
「とんでもない。僕もいい気分転換になりました。首都高を飛ばすとなにもかも忘れるような爽快さがありますしね。なにより、一般道に下りてから、海が見えてきたときの感動はひとしおでした」
その人好きのする笑みに、女子高生たちが話に花を咲かせるのがわかる。
「あの坂道を駆け上がってからの、海の景色は最高ですよね」
「ええ。あれを見ただけでも、ここまできた価値があるくらいです」
なんだかんだと肩肘を張っていたけれども、同じものを見て、感じて、掛け値なしに感動を共有できるというのはいいものだ。
小さいころのことを思い出す。
「父が運転する車の後部座席で、シートベルトに包まれながら海を見ていたんです」
曲がりくねった坂道を上って、向こうに海が広がる瞬間の昂揚。
忘れていた気持ちが蘇って、しぜんと頬がゆるむ。
「そういえば先生は、こちらの県の出身でしたね。では、よくいらしていたんですか?」
「そうですね、夏になるとよく、かな。両親ともに教員だったので、長期休みには社会科見学の下見だって」
「なるほど、それは懐かしい気持ちになりますね」
ええと答えて水族館の建物から空を渡った先の島を見やる。
「来るたびにいつも島を回るんですけど、子どもは観光なんてそっちのけですよね。母にいやな顔をされながら、わがままを言ってあのあたりの岩場にカニやヤドカリをとりに連れていってもらったな」
海に浮かぶ島の上には展望台があって、なだらかに広がる木々のふもとあたりを指で示す。
「意外とアウトドアだったんですね」
「小さいころは、それはもう。安室さんは、どうでしたか?」
「僕も、どちらかというと外で遊び回っていたほうですね。虫をとったり、近くの川や海に釣りに行ったり」
「ほら。子どもはそうでなくちゃ」
でも中学、高校と進学するにつれて、家族旅行などというものからは遠ざかってしまった。家族というもの、そのものが変容していったともいえる。
十年以上まえか、水族館がリニューアルしてからは訪れていない。
「今日は久々にくるので、楽しみにしてきたんですよ」
「待ち合わせ場所にいた僕を見つけたときの顔は、忘れられませんけどね」
「あれは、その、安室さんが本当にいるとは思わなかったので」
ははっと髪を揺らして、安室さんは続ける。
「ところで、おなかはまだ空いていませんか?」
「はい、まだ大丈夫ですけど」
「それなら、いいですね。水族館を思う存分、見てまわったあと、おいしいと評判のお店を予約したのでいっしょに行きましょう」
ではお手をどうぞ、なんて手を差し出されるが、それは一応丁重にお断りして水族館へと向かった。
園子ちゃんを筆頭に女子高生や女子大生など、幅広い年代の女性にワーキャーと騒がれるだけあって、安室さんのエスコートは完璧だった。
手を繋ぎはしないけれども、離れないようにいつもすぐそばにいて。いっしょになって水槽を真剣に眺めながら、魚やイソギンチャクなどの海洋生物を追いかける。
「安室さん、来てください」とわたしが呼べば、しぜんと身体をかがめてわたしの視線に目線を合わせて。
ああでもないこうでもないと、魚たちについて語るあいだも、まるでその魚やわたしの話すことすべてに興味があるように応えてくれるのだ。
デートそのものへの緊張など、はなからなかったかのように。心から、水族館を楽しむことができた。
「クラゲの展示がとてもきれいでしたね」
「全体の照明が落とされているからか、青いライトが神秘的でした。ミズクラゲがあれほど美しい生物だったとは、なんだか新しい発見をした気分ですよね」
「それから、エフィラ幼生! クラゲの赤ちゃんって、あんなに小さいんですね」
タッチプールではネコザメに触れたり、ヤドカリと戯れたり。イルカショーでは、イルカとトレーナーの息の合ったパフォーマンスにこれでもかと胸が熱くなった。
最後の大ジャンプで思いがけず目頭を押さえたものだから、安室さんはちょっとびっくりしたように目を丸くして、それから碧い瞳をおかしそうにやわく細めていた。
存分に水族館を楽しんだあとは、安室さんの探してくれた海鮮丼のお店で舌鼓を打った。午後は車を走らせ、人の少ない浜辺へ。
「少し先には温泉があるそうで、足湯に入ることもできるそうですよ」
「へえ、足湯。潮騒を聞きながら浸かるのも、心地よさそうですね」
水族館を訪れるまえまで眺めていた島は、いまははるか遠くにある。
浜辺に来たといってもなにをするわけでもないけれど、「すこし歩きませんか」という安室さんの誘いはじゅうぶん魅力があった。
「そうしてはしゃぐ姿を拝見するのは、なんだか新鮮でいいですね」
すっかり夢のことなど忘れて、履いてきたミュールを手に砂を踏みしめていた。
さいしょは砂が入るからと砂浜から上がった階段の上をあるいていたというのに、吹き抜ける潮風が心地好く、波の音が耳を撫でるとたまらずに足の裏で砂を感じたくなった。
安室さんの言葉についこそばゆくなるけれど、落ちたプラスティックゴミを拾って。それから、「安室さんもどうです?」とミュールを掲げると、さすがに革靴を脱ぐことはなかったが彼も砂の上に下りてきてくれた。
「かいがらで怪我をしないでくださいね」
「気をつけます。あ、波打ち際で桜貝、探してきてもいいですか?」
「ええ、もちろん。つぎは波にさらわれないよう、お気をつけて」
「心配性だなあ」
都心を離れて羽を伸ばすは久しぶりだ。「先生」という肩書きを潮騒がさらっていってくれるようで、胸いっぱいに息を吸い込む。
小さいころの、未来を一抹も恐れていなかった夏みたいだ。困ったように眉を下げながら、砂だらけになった足を母がタオルで拭ってくれたことを思いだす。
いつから難しく考えるようになってしまったのだろう。大人になるにつれて、余計な鎧まで身につけてしまうのだ。
満潮までは時間があるのだろう。かいがらをたどって波打ち際まで行けば、それまで足の裏を包んでいたぬくもりが冷たさに変わり、キュッと身が引き締まる。
それでも、けっしていやな心地はしなくて。押し寄せた波が足首をさらうと、つい楽しさが増して奥まで入りたくなる。
「安室さーん」
手を振ると、太陽色の髪が揺れる。ペールブルーの腕が、空に上がる。
やわらかな絹の陽射しが水面や砂浜を照らしていた。
「で、どうだったんですか? 安室さんとのデート」
この日は梓ちゃんと約束をしていた。
季節は夏に向けてまっしぐら。百貨店で夏服やコスメなどの買い物をしたあと、話題のオーガニックレストランへ行こうと話していた。
四時間で仕事が終わる土曜の午後、にぎやかな街を歩くのはなんだか気持ちが明るくなる――なあんて、ルンルン気分だったのだけれど、梓ちゃんの突然の砲撃である。
海賊王になるわけでもないのに、あわや乗っていた船から海にまっさかさまになるところだった。
「……やっぱり、うわさになってた?」
「私が聞いたのは、安室さんからですけど。でも、園子ちゃんも興奮しながら教えてくれました」
うわーっと顔を両手で覆うが、衝撃は止まない。
「いやだ、絶対炎上案件じゃない」
「一応ファンの女の子たちには伝わらないよう、安室さんが口止めしていたみたいですけどね。それで、どこに行ったんですか?」
「……水族館」
観念して答えると、梓ちゃんはうふふっと花がほころぶように笑みを浮かべた。
「安室さんってば、ちゃっかりセンセイの好きなものをリサーチしてたんですね。私が聞いたときには、映画館か美術館なんて大人のデートプランを考えていたのに」
「梓ちゃんが教えたのかと思ってた」
「ぜ~んぜん! センセイの好きなものや趣味を聞かれたましたけど、それくらい探偵なら自分で調べてくださいって言ったんです」
だって、私がいないあいだに勝手にセンセイに言い寄ったんですから! ぷん、と頬をふくらませてぎゅっと腕に抱き着いてきた彼女に、「梓ちゃん……!」つい身を寄せる。
「あっ、すみません」
その拍子に正面から歩いてきた男の子とぶつかってしまった。夏なのに黒いニット帽と、同じく黒のスウェット姿。
すぐ近くにいたことに気づかなくて、とっさに謝る。
「っと、こっちもスンマセン」
と男の子もすかさず頭を下げてくれた。
隣には背の高いスーツ姿の男性が立っていた。サングラスをかけていたけれど目が合うと彼も会釈をして去っていった。
「わあ」
小さく声を洩らしたのは梓ちゃんだ。
「いまのひと、外国人俳優みたいでした」
「ニット帽の子? グレースーツのひと?」
「スーツのひとです。なんだかこう研ぎ澄まされた立ち姿というか、オーラがあるというか。身体つきなんて、アクションものに出てくるハリウッドスターみたいじゃありませんでした?」
「安室さんで見慣れてる梓ちゃんが言うんだから、相当だね」
「それはもう!」
興奮気味に言い募る梓ちゃんに苦笑する。
「安室さんもスラっとしてますけど。甘い感じの安室さんとは、系統が別というか。ザ・エリートサラリーマン! と、見せかけて、窮地の場面でさっそうと助けに来てくれそうな屈強な感じです! 帽子の彼ももちろんすてきでしたけどね!」
サラリーマンなのだかスーパーマンなのだか。
「でも、なんだかふしぎな二人組でしたね」
と梓ちゃんは続ける。
「たしかにねえ」
スウェット姿のカジュアルな男の子と、かっちりとしたスーツ姿の男性と。ふり返るが、すでに往来にふたりの姿はない。
「あっ、話がそれちゃいました。それで、安室さんとのデートの感想は?」
「忘れてくれてると思ったのに!」
なんだかんだと浜辺ではしゃいだ話まで聞き出され、レストランに着くころにはげっそりしていたわたしだった。
とはいえ連日の外出と気分転換で、夢のことはすでに頭から消えていた。
「――チッ、なんやねんホンマに」
二度あることは三度あるって? こうなったら三度目の正直に賭けるしかなくなったが、この展開はあまりにも無情だ。
「うそでしょ、このあいだ閉じ込められたばかりなのに!」
見渡すばかりの白。壁際に置かれた観葉植物だけが、あざ笑うように新緑色を目に灼きつけてくる。
もしかしてもう、一週間経ったのか。そもそも一週間ごとに、この夢はやってくるのか。そうなったら、来週もまたこの部屋を夢みることになるわけで、いよいよ三度目の正直などとは冗談を言ってられなくなってしまう。
もはや見慣れた白い部屋に、不釣り合いの重々しい色。まっすぐ耳輪を撫でる髪は、烏の濡れ羽のようにつややかだ。その反面、多くが想像する中高生よりも肌は病的に白い。
むしろ青白いだろうか。初めて出会ったときもこんなだったかと、テーブルセットを睨みつける少年の横顔をながめる。
「クソが。さっさと出んで」
「でも、正直なんだかいやな予感がするっていうか」
「あ?」
ふり向いた彼の、その血の気の引いた顔に心臓が大きく波打つ。
「……だいじょうぶ?」
「はあ? 人の心配、しとる場合なん?」
「だって、脂汗までかいてる」
みるみるうちに少年の息遣いが崩れ、舌打ちをしたかと思うと椅子に深く座り込んだ。
「タイミング悪いねん。こないなときに」
「……もしかして、体調悪い?」
それとも、どこか怪我をしているのだろうか。額に手を伸ばすと、彼は警戒心をあらわにした猫のようにそれを払った。
「さわんなや、クソ女」
「そんなこと言ってる場合じゃ……。とりあえず、あっちのクッションで横になりなよ」
「女のくせに、人に指図ばっかしよって。ピーピーピーピーほんまうざいねん」
そういうあいだにもどんどん彼の顔色は悪化していく。悪いところがあるのかと視線を上半身に下げると、腹部のあたりが濡れたように色濃くなっていた。
「まさか」
手を伸ばすと、もう彼は抵抗しなかった。その力さえも残されていなかったと言ったほうがいいかもしれない。着物の合わせに手を当てると、予想どおりぬるりとした感触が手のひらを覆った。
「……血?」
すべての音が遠ざかる。
真っ赤に、濡れた手。とたんに震え出したそれを、手首を掴むようにしておさえこむ。
一週間まえ、互いに苛立ちや呵責をぶつけるようにして何度も唇を重ねた。
白い紙の指示どおりに抱き合い、その熱や感触を確かめ合いながら、お互いの肌をむさぼったはずだ。
彼の白い首や肩、それからまだ薄い胸板や腹部、そうした場所に容赦なく歯を立てて赤い華を咲かせた。目が覚めたときには全身の血の気がさあっと引いていくほど、夢の中で彼の肉体についた流星のような傷痕をひとつずつたどっていった。
彼だって、わたしの首に噛みついて。形がわからなくなるほど胸をはげしく掴みながら、その心臓に左耳を当てていた。
そのときには、たしかになかったはずなのに。
考えてみれば、たった一週間であっても時間が経過しているのだから、変化があってもおかしくはない。
ただ、夢からさめたとき、あのひどい歯形やうっ血痕はあとかたもなく消えていた。それこそが非現実である証だと思っていたのに。
――けれど、彼のこれは?
目の前に広がる赤のなんと生々しいこと。
どうしよう。どうしたら。
ここがどこで、いまがどんな状況なのか。
落ち着かないといけないのに。
「切創痕なんて、刃物で斬りかかられたの?」
気の利いた言葉も、一言もでず。どうしてそんなときに、この部屋に。そもそもここにくるためには眠りについていないといけないはずで。
実際にわたしも自宅へ帰宅後、入浴を済ませていつものルーティーンでベッドの中に入った。
ただ、考えを巡らせるにも時間が足りない。出血はひどくなるばかりだし、着物をはだけさせ、シャツのボタンを外したいま、二十センチはゆうに超えるだろう傷からは、血だまりの中でいっそう冴え冴えと赤く照り光る肉が見えている。
「包帯、それとタオルと、ああもう、なにもかも足りない!」
どうにかシャツまで脱がせて、袴の紐を緩めて傷口に彼のシャツを押しつける。圧迫止血、それから、横にさせて。けれど男の子ひとりを運ぶには力すら足りない。
真っ赤に染まったシャツを今度は自分が着ていた寝巻のTシャツに替える。自分では支えきれない身体を肩口にもたれさせて、耳もとで続く荒く細切れの呼吸に心臓が炙られる。
けれども無情にも脳内にあの声が響いた。
机の上に現れた白い手紙。
「――《口淫をすること》」
――脱出条件:口淫で絶頂を迎えること。どちらか一方でも構わない。
「こんなときばっかり!」
なんでしれっと、淫行の段階を進めてるのよ! なんとなく予想はしていたけれども。正直、そろそろくるのではないかと思っていたけれども。
せめてもの温情だととりつけられた追加条件が、かえって憎たらしい。
「もう、どうしてこんな怪我しちゃったのよ」
悩むなんて選択肢はない。早く、ここを出なくては。それだけが彼を救う方法だ。
夢の世界であるはずなのに、いやな予感がちっとも拭えない。そもそも、本当に夢かなんて――そんなのは考えたくもない。
そうだ、いまは彼のことを考えなくちゃ。
「しょうもな」
それまで力なくもたれかかっていた彼が絶え絶えに吐き捨てる。
「ちょっと、いきなり動いたら……」
「動くもなにも、このままじゃできひんやろ」
なにをなんて、聞く必要はなかった。ふだんならば羞恥に顔を熱くしているところだが、よりいっそう悲壮感が増してくる。
「そこ、座ってくれへん」
「待って、わたしがされる側?」
「なんやねん、文句ある?」
「そんな身体で、無理に決まってるでしょ!」
ふらふらとおぼつかない足取りで白いクッションをあごでしゃくり示したが、見ていられなくて慌ててその肩を支えた。
息も先ほどより絶え絶えで、肩にのしかかる身体が鈍りのように重たくなった。彼が歩いたあとには真っ赤な痕跡が無情にも続いていた。
「って言っても、ケガをしたキミに、そんなことをするのは気が引けるけど」
でも、それしか道はないのだ。クッションに横たえるようにして彼を下ろし、ごめんね、と口にしながらいつのまにか血に濡れてしまった頬を撫でる。
これは彼を助けるためにすること。
「ドージョーとか要らんねん。やるなら、さっさとやれや」
生ぬるいやり方しおったら、ぶっ飛ばすで。そう彼は琥珀色の瞳をうっそり開いて口角を上げる。
「ばかじゃないの、こんなときに」
「俺がしたほうが、早いかもなあ? オネーサン、そういうの下手そうやし」
「前回、泣きそうになりながら、死ね死ね言ってたのだれよ」
「泣いてへんわ、クソが」
はっと笑った拍子に、柳眉が歪んで。彼の耳についたいくつものピアスを指先でなぞりながら、ひび割れた唇にそっと口づける。
「ごめんね、ちょっとだけ耐えてね」
「せいぜい、死なせんといてな」
そうして、わたしは赤黒く変色した袴の紐を完全にほどいた。

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