「どうしよっか」
あの馬鹿馬鹿しい紙を前に、わたしと彼は向き合っていた。向き合っていた、というのはおかしいかもしれない。彼は椅子に座り、苛立たしげにそっぽを向いていた。
「どうしよ、て。なんもせんでもどうせ目ェが覚めるやろ」
それはたしかに、と思った。彼も自分の布団で眠りについたはずで、気がついたらこの部屋にやってきていたという。夢ならばいつかは覚めるもの。放っておいてもいいのかもしれない。
だが、窓も扉もないその空間で、やけに明瞭な頭で彼と対峙していると、どうにもじっとしていられなかった。
「……覚めなかったらどうする?」
その可能性だって当然あるわけで。けれどぼやくようにこぼれた言葉に、彼の涼やかな瞳がギロリとわたしを射抜いた。
「神隠しに遭うたって?」
絶賛反抗期真っ最中――そんな謳い文句が似合う。しかし、その眼光は現実世界で見る中高生のものではない。
「それは、わからないけれど……。でも、夢なのに、夢じゃない、そんな気がしない?」
鋭い眼光でどこかべつの場所を睨みつけるも、黙り込んだのは肯定ととっていいだろう。
夢から覚めなかったら、どうなるか。そんなのはわからない。延々と自分を取り巻く世界すべてが睡夢に囚われるのかもしれないし、わたしと彼だけが取り残されるのかもしれない。
名前も知らないけれど、反応から見るに彼もきちんと存在していてここへ紛れ込んでしまった人間のひとりなのだ。
「ほんなら、さっさと終わらせるしかないなあ」
彼が立ち上がり、音もなくわたしの前へやってくる。
「この部屋、術式は使えるんか」
「……いま、見えなかったけど、なにかしたの?」
「なんや猿かいな」
猿。どんな比喩かとあ然とするうちに、わたしよりも少し背の高い彼がこちらを見下ろしてくる。
「したらええんやろ、キス」
「そうだけど、でも、あのちょっと待って。……あなた何歳?」
彼はあからさまに嫌な顔をした。
「それ関係あるん?」
「……ある。わたしは、今年二十八歳。もし、あなたが未成年なら、わたしは犯罪者になる」
「思うてたより歳いってたな」
猿発言に続き、である。思わず、こめかみに衝撃が突き抜けたが、この……! と、心の中で罵詈雑言をたちまち立て並べつつ、堪えて笑みを浮かべた。
「それで、何歳?」
「なんやねん……ジュウゴ」
カンカンカンカーンッと試合が始まるまえからゴングが鳴り響いたようなものだ。
終わった……。こればかりは勘が冴えなければいいと思っていたけど、そうは問屋が降ろさないってコト。
中学三年生、あるいは高校一年生か。教え子と同じ年頃の男の子。そんな子を捕まえて、キスだなんて。
ギリギリもなく、完全アウト。夢とはいえ背徳的どころの話ではない。先生、真っ白に燃え尽きました。完敗です。
トロッコ問題のほうが簡単なんじゃないかという葛藤に苛まれつつ、こめかみをさすりながら一歩後ずさる。
「待ちましょ、きっと目が覚める」
さっきの人をダメにするクッションでひと眠りでもしよう。本当にダメになるまえにね。両腕をギュッと引き結んでおイタをしないように。そう思ったのに、気がつけば彼の顔がすぐ目の前にあった。
ただ、おのれをぶつけるような、乱暴なキス。キスなんて、おそらくそう言えるものではなかった。ふわり、夢なのに加羅のような香りが掠めて、一瞬の衝撃が訪れた。
呆然とするうちに離れた彼は、「これでええやろ」とあざ笑うように吐き捨てた。
「……出られてない」
けれど、脱出はおろか、扉すら現れていなかった。彼は舌打ちを拵えると、「なんやねん」と勢いよく椅子を蹴とばした。
すごい音を立てて転がったそれには見向きもせず、彼は苛立ちを鎮めるように反対の椅子に座ると深く息を吐きだした。
「……やっぱり、気持ちよくならないといけないの?」
時計もないのに、秒針の音が聞こえてきそうな沈黙の中で、ふとつぶやいた言葉に彼は白々とした眼を寄越してくる。
「キスでイくとか、キショいねん。そやったら、さっさとヤッておしまいにしたほうがええわ」
「ヤッ……それは、そうかもしれないけど……」
でも、なんとなく、わかる気がした。キスでとろけてしまうほど気持ちよくなるなんて、きっとセックスよりも難しい。それも、キス「だけ」で絶頂だなんて。
ここから先は、倫理です。
言葉が脳裡を駆け巡って、思わず生唾を飲みくだした。
だが、どこか切羽詰まったような、どんどん体の底から湧き上がるエネルギーをどうしようもできずに持て余している彼の、苛立たしげでそれでいてどこか苦しげな顔を見たらいてもたってもいられなくなってしまった。
「ここから出たい?」
クッションに戻ることなく彼の目の前に立って、そう投げかける。
「あ? そらそうやろ。そこらへんの愚図と違うて、俺にはやらなあかんことがぎょうさんあんねん」
「なら、今日だけは、わたしのすることに目を瞑って」
神様、どうかこれが本当に夢でありますように。
そんなふうに思いながら、わたしは彼のカサついたくちびるに指を伸ばしていた。
そうして、何十分も、もしかしたら何時間もかけて、とろとろになるまでキスをした。
と、そこまでが前回のハイライトである。
はいはい夢乙。解散、かいさ~ん! なんて、衆議院も真っ青な状態で、無理やり思考をロックダウンしたわけですが。
「……あ゛?」
――これはいったいどういうこと?
夢から醒めて一週間である。心に受けたダメージは大きいが、安室ズブレッドをも乗り越えてどうにか持ち直していた。
果たしてあの夢はなんだったのか。ま、疲れていた、それだけだよねあははっ、なんて自己完結させたというのに。
「なんやねん、ほんま。勘弁しろや」
ここで会ったが百年目。二度目ましての時間です。
「……うそでしょ」
「こっちのセリフやで。なにが面白うて、何度もこないな場所に来なあかんねん」
互いの顔を確認することもなく、わたしは頭を抱え、彼は盛大なため息をついて真っ白な椅子に座る。
いやいやいやまさかそんな、と、意識がはっきりした瞬間、何度もまばたきをくり返した。
おまけに手の甲もつねってみたし、あれ、もしかして痛くない……? あれ、どっち? とにかくもう、こういうときは眠るのが一番! などと再入眠の態勢にもなった。
だというのに、だ。
いっこうに闇が訪れることはないし、やけに目も冴えている。
もう絶対ないと思っていたのに、なんの因果かまたあの部屋にやってきてしまったわけだ。
前回と変わらず、生活感がまるきりないような一面の白。ドアも窓もなく、プランターだけが場違いにも彩りを与える。
円形のよくあるプランターに白いナチュラルストーン、その中央に伸びた緑の子葉。でも、不思議なのは、完全な冷たさではなく、どこかぬくもりを感じるところか。
それは夢に似つかわしくないとも言えるし、けれども夢だからこそなのかもしれない。
「ちゃんと、布団で眠った?」
「眠ったわ。部屋の扉に鍵もかけたし、結界も張った」
「結界って、陰陽師ゆかりのお家とか?」
チッと舌打ちひとつ。さらには長いおみ足をダァン! とテーブルにのせて。
極めつけは、「なんやねん、猿のくせにやかましい。殺したろか」悪態のフルコースでございます。
その書生服は飾りか、と平たい目をしたくもなったが、濡羽色の髪に正反対の金属のピアスが耳もとでちらついて、オッケーグー〇ル、反抗期、と深呼吸ひとつで心を落ち着ける。
「……その、前回はちゃんと帰れた?」
テンパってもらちがあかない。ため息をどうにか捻りつぶして、こめかみをさする。
「べつに」
今度は、エリカ様か……。
今どきの子はエリカ様なんて知らないんだろうなあ、と思ったところで、今どきの子、なんて、歳をとった証拠だわ……と自分の言葉を省みる。
「どうして、キミとわたしなんだろうね」
返ってくるとは思わなかったけれども、しいんとした室内で彼の舌打ちがやけに響く。
「そもそもこの部屋って――」
なんなのか、そう言おうとして、脳内にあの声が響いた。
そうだ。何重にもエコーのかかったような、性別のわからない声。
机の上に視線を投げかけると、いつのまにか一枚の紙が落ちていた。
「……《二人でとことん抱きしめ合うこと》」
――脱出条件:ハグ。ただしハグによって高みを極めること。性器への愛撫は不可だが、キスは可能。
「前回よりハードル上がってない?」
なんなの、ハグで絶頂って。そのうえいろいろ条件つけすぎでしょ。
これがいま、はやりの「○○しないと出られない部屋」か。まえに教え子が教えてくれた、動画配信者の子が好きなネタだって言ってたな、などと。そんなふうにのんきに考えている場合ではない。
今度はわたしが紙をビリッビリに破ろうとして、破れなかった。
「なんで!? 前回破ったから、今度はユポ紙にでもなったわけ!?」
も~ダメなんだって。前回で完全アウトなんですって。安室さんどころか、生徒や保護者の前に顔見せできなくなる。
教壇に立った瞬間、どこかから麻酔銃が飛び出して一発退場。その後は檻の向こうでこんにちは。
「あぁ……ほんと、神様仏様……」
「神も仏も、クソくらえや。……さっさとやんで」
ちょっと待ってぇ……今、どうにかここまでとっておいた一生のお願いを使おうと思ってたとこだから……。
と、手を合わせるのみならず、十字を切ろうとしたわたしの視界の端で漆黒の袂が翻る。
「待って、本当にいいの?」
「いいもなにも、一生ここにおるわけにいかんやろ」
「それはそうだけど」
チッと舌打ちが聞こえて、彼が目の前に立っていた。
「それとも、なんなん? あんだけキスしといて、ハグはだめて。ええ歳して、ショジョなん?」
ハッと鼻笑いひとつ。こめかみに一抹の電流だ。くっ、と拳を握りしめるが、まて、落ち着け……グー〇ルよ、そう、〇ーグル。オッケーグーグ〇、アンガーマネージメント。
「ああ、カレシおらんくて、枯れとんのか。かっわいそ、ハグだけやのうてその先も俺が抱いたろか?」
「……」
どすん、と漫画やドラマみたいに彼を後ろに転がすことはできなかったけれども。その真っ新な仕立てのいい詰め襟シャツの胸ぐらを掴んで睨みあげた。
なにしてるの、と自分でも思うのに。
「……イかす」
ぐっちゃぐちゃになるくらい快楽にうずめて、とろっとろにして泣かせてやる。
こんにちは、檻の中。こんにちは、悲しみ。
ぱちぱちと細胞が弾ける。
――目の前の淡い琥珀の奥に、わずかに焔が散らついていた。
「あれ、センセーどーしちゃったの?」
久しぶりー! と声をかけてきてくれた女子高生に、吹き飛ばされないよう散り散りになった魂をつなぎとめて笑みをかえす。
「園子ちゃん、蘭ちゃんも、お久しぶり。園子ちゃんはまた、スカートが短くなって」
「お久しぶりです。先生、なにかあったんですか?」
ファッションよ、ファッションと胸を張るJKにほんのちょっと平たい目を向ける。
彼女たちは数年まえにひょんなことから出会った女の子たちだ。いつも元気いっぱいの園子ちゃん、彼女の親友で人一倍友だち思いの蘭ちゃん。
それにしても彼女たちのキラキラパワーのなんとまぶしいこと。純真無垢な笑顔。汚れてしまった大人ですら、心配してくれる優しさ……。
「ちょっと今までの生きざまをふり返って、反省しているところかな」
「生きざまって、またそんな大げさな。あ、わかった。センセー、彼氏となんかあったんでしょ」
「ちょっと園子」
ああその皓々しい光で、俗世にまみれに塗れてしまった人間を浄化してくれないだろうか。
ふたりが中学生だったころも、ポアロで会うとよくこうやって絡みにきてくれたなあ。
ニンマリしたり顔をしながらやってくる園子ちゃんを、いつも、ちょっと困り顔をした蘭ちゃんが追いかけてくる。その光景がなんだかわたしは好きで。
「そうね、二人が知ってる彼氏なら、一年と半年まえに道をたがえたかな……。職場の十代の女の子と、結婚するってね……」
「センセー、ホントごめん」
「そんな、プロポーズ間近かもしれないねって話してたのに」
あっこれは思いがけない傷を負いました。こうかはばつぐんだ。
うっと胸を押さえると、「センセー!」女子二人の声がポアロに響いた。
高校生に介護されるアラサーなどといったトンデモ現場だ。
まあまあお静かにねなんて苦笑しつつも、ひんし状態。
さすがにセンチメンタルが過ぎるかもしれないが、そこへ、ポアロの看板息子がやってきた。
「あれ、園子さんに蘭さん。学校がえりですか?」
「安室さん!」
わたしの肩をがくがく揺らしていた園子ちゃんの動きがピタッと止まる。それからなにを思ったか、今度はしっかり向き合ってひとりでに首肯。
「そうよセンセイ!」
ちょっとなんか、あれ、いやな予感がする。なんて思ったのは、杞憂ではなかった。
「ここにとびきりのイケメンがいるじゃない!」
「……! 園子、天才! 先生! そうですよ、安室さんがいるじゃないですか!」
ボーイズビーアンビシャスよろしく二十九歳敏腕店員を手のひらでシャラ~ンと指し示す。
もしかしてだけれども、きょとん、と驚いた顔をしているように見せて、「またなにかしたんですか」なんて目をしている人のことですか……?
「どうかなさったんですか?」
「安室さん、センセーのこと、どう思います!?」
「ちょ、園子ちゃん????」
長い蜂蜜に似た美しいまつ毛をぱち、からの、にっこり。
「とても、すてきな方だと思います」
「キャーッ。蘭ッ、聞いた? 脈アリよ、脈アリ!」
「先生、チャンスですよ!」
本当にぃ? それ、彼氏はやさしい人です並の常套句じゃない? もはやわたし、安室さんの前に立つと自分が容疑者にしか思えないんですけれども。
容疑者Xの献身ですよっていって、ここで両手を差し出そうかと思うのですけれども。
なんといっても安室さん、蘭ちゃんのお父さまのお弟子さんなだけあって、ほら、警察関係者とつながりがありそうなのだ。あいつは危ない、一歩踏み間違えたらあっちだみたいな話、されてないだろうか……。
ガクガクと肩を揺さぶられ脳内シャッフル・アゲインを受けながら、今まさに生きるか死ぬかの瀬戸際を綱渡りである。
アハハと乾いた笑みを洩らすと、安室さんはそれ以上はなにも言わずににっこり。それはもう女子高生たちが卒倒しそうな顔で応じた。
「……ホント、安室さんってばお世辞がお上手なんですから」
「お世辞だなんて。少年少女をおもう先生の真摯な姿に、いつも感心していますよ」
果たして、その「おもう」はどのような「おもう」なのか。
「それとも、僕ではお眼鏡にかないませんか?」
それはおまえが選ぶ側かよ? 的な遠回しの言葉ですか?
キャーッとまたしても黄色い悲鳴が上がり、心の中で涙がこぼれた。
「もう、お縄につきますぅ……」
「ははっ、これ以上、先生をからかうと嫌われてしまいそうですね」
そんなこんなで女子高生ふたりをあとからやってきたお友だちのところへ送り出し、ここから先は証人尋問という名の大人の時間である。
証人尋問は起訴後の話だから、事情聴取か。
「悩みごとがお有りなら、僕でよければ聞きますよ」
知ってるくせに。ストレートになにがあったのかを聞いてこないあたり、本当にずるいと思う。
「安室さんって、わたしのおひとつ上ですよね」
「そうですね。ありがたいことに年齢が近くて、つい親近感を抱いてしまいます」
「それだからか、妙に扱いが雑なときがありますよね」
たったひとつしか変わらないというのに。むしろ十代の園子ちゃんや蘭ちゃんのほうが、一人の女性として扱われている感じがする。
最初のころはそれなりに丁重に扱われていた気がするのだけれども、なんかこう、ときに聞き分けの悪い子どもというか。園子ちゃんのいう、がきんちょ感というか。
「気のせいではないですか?」
「ほらっ、その笑い方! 絶対、手のかかる厄介な人間くらいに思ってますよね」
「学生時代に先生のような後輩がいたら、とても楽しかっただろうなと思いますね」
それで、とにっこり笑みを向けてくる安室さんに、わたしはわっと顔を覆う。
「スミマセン……わたしを逮捕してください……」
「おっと、僕は探偵なので先生を逮捕することはできませんよ」
「そうでした……。では警察に突き出してください……」
ポアロには夕食を食べにきたのだけれども、最後の晩餐はハムサンドになりそうだ。
梓ちゃんのからすみパスタも食べたかったな……。今すぐにでも両手首をささげかねないわたしに、安室さんはホットのレモネードを出してくれる。
「ということは、まだ夢をみられるんですか?」
「おそらく、予想していらっしゃったとは思うんですけど、そのとおりです」
アイスを頼んでいたのに、こういうところが安室さんだ。白いカップを両手で包み込んで、熱々のそれを舐めると少しだけ気持ちが落ち着いた。
「わたし、これまで、まじめに生きてきたと思うんです」
突然の自語りで申し訳ないけれども。タバコも吸わない、ギャンブルもしない。
借金もないし、犯罪行為はもちろん、警察にだってお世話になったこともない。
それこそ道ばたにゴミを捨てたことすらない人間だった。
「そのせいで、つまらない人間だと過去にお付き合いしていた方にはフられたことがありますけど。でも、一度だって、その、未成年をどうこうしたいなんて思ったこと、ないんです」
教育現場での児童生徒を相手にした教師の犯罪が近年では話題になっているが、少なからず、自分は絶対にそんなことをしないという自負があった。
そもそも生徒をそういう目で見たことなど一度もないし、生徒とどうにかなりだなんてちっとも考えたことがなかった。
あくまで自分は大人で、生徒は庇護すべき子ども。かれらの人生をほんのちょっとでも照らしたいと足掻いている、ただそれだけ。
「それなのに、あんな夢をもう二回。二回ですよ……。信じられない、疲れすぎてるのかな」
夕食まではまだ時間があるからか、午後のポアロは静かだった。
園子ちゃんや蘭ちゃんといった常連のお客さんたちが数人いるだけで、おだやかな時間が流れている。
そんな団らんタイムに重苦しい告解をして大変申し訳ないが、わたしはだいぶ打ちのめされていた。
「今回は、どんな夢だったんですか」
「…………言えません」
きゅっと難しそうな顔をした安室さんに目の奥がツンと熱くなる。
「では、言えないようなことまで、と解釈することになりますが」
「……その、互いの下腹部等には触れておりません」
もちろんセンシティブなワードは小声で告げた。
「では、あなたが首を絞められたり、暴行を受けたということは?」
「それは……今回は、ありませんでした」
ふむ、と唇に手を置いて、ポアロの探偵は思案する。
「夢、なんですよね」
「そうですね、起きたらいつも布団の中にいます」
「眠っているあいだ、どちらかに出かけたという痕跡もなく?」
「夢遊病の線ですか? それも、ありません」
しばらく考え込んでいるようだった安室さんだが、「それでしたら」と手もとの仕事を再開した。
「あまり深く考えなくても、いいのではないでしょうか」
予想外の言葉に、ぱちり、安室さんの顔を見上げる。
「そう、でしょうか……」
「ええ。夢はあくまで夢。現実で起こした事案というわけでもありませんし、頭の中のできごとまで、警察は取り締まることもできませんからね」
「でも、〈夢は抑圧された欲望の表れ〉だと、安室さんが」
わずかな微笑を浮かべたまま、器用な手つきで具材をはさんで重ねた食パンをカットしていく。
「すみません、少々、怖がらせすぎました」
「怖がらせすぎたって……。ただ、ネットで調べても、そういう夢はそういう意味だって」
まな板の音を立てずに、安室さんはハムサンドの形を整えて皿の上に飾っていく。
「過度にセンセーショナルな言葉を用いた僕も悪いですが、現代的には、〈夢は人生のシュミレーション〉とも言われているんです」
「人生の、シュミレーション……」
ええ、と安室さんは続けた。
「危険なことや思いがけないこと、失敗や成功も含めて、夢の中でシュミレーションをしているんです。もっと言えば、脳生理学的には夢は脳の記憶処理のひとつの手段に過ぎません。
これまでに得てきた記憶を取捨選択し、丁寧に引き出しにしまいながら、その引き出しからいざ取り出すときのための事前準備をするんです」
どうぞ、と、差し出されたハムサンドは、三つ星レストランのお手本みたいに美しく盛りつけられていた。
「つまり、危機的状況を回避するための練習、みたいな?」
「そうですね。簡単に言ってしまえば、そんなところでしょうか。もし、あなたがみたその夢に理由をつけるのならば、教師という職業へのプレッシャーから、〈失敗してはいけない〉〈間違ってはいけない〉などといった過度な緊張にさらされているということなのではないかと」
あなたは真面目ですから、そう言葉を切る安室さんに、寸分の狂いなく三角形に整ったサンドイッチを見つめながら、わたしは首すじを撫でる。
「がっつり、言い訳もできないくらいシュミレート失敗してますけど……」
「そうですか? その場合は、どうしましょうね」
「やだぁ……お縄にかかりたくないです……」
それなら単に欲求不満の表れと言われるほうが、マシかもしれない。いや、欲求不満もなんかイヤだけれど。
それでも、さみしさだとかやるせなさだとか、そういったものを大人のそれこそ包容力たっぷりな紳士に満たしてもらう夢を……。
心の中でろくろをこねこね回しつつ、ようやくいただきますをしてハムサンドにかぶりつく。
「いずれにせよ、夢の中ならばいくらでも失敗できますから。これを機に、現実世界で起こる危機を回避できる、くらいに考えていいと思いますよ」
そうかなあとぼやいてから、じっくり咀しゃくする。
「ええ。あとは、夢見が悪いのなら、睡眠の質や環境を改善するといったことも効果的です。枕を変えたり、就寝まえに梅こぶ茶を飲んでみたり。それでも改善されなければ、他の要因を探るなどもいいですね」
たとえば――と安室さんは続けた。
「疲労やストレスのほかに、重大なトラウマやそれに起因するコンプレックスがあるかどうか」
「……コンプレックス?」
「ええ。思うに、以前お付き合いされていた方との苦い記憶が、先生の中で取りのぞけないしこりとなっているのではないしょうか」
うろんに視線を上げたわたしに、カウンター越しの安室さんは垂れた碧い瞳をきれいに細める。
「以前の、ですか?」
「ええ。うかがったお話ですと、先生というすばらしい方を放って、若さに飛びつくようなお相手だったようですから」
「すばらしい方って言い方がなんだかこう、かえって心をえぐっていきますけど……。でも、たしかに言われてみれば、いまだにそのときのショックが抜けてないのかも……?」
なるほど、それが〝若さ〟に執着する原因になるというのは、理解できる気がする。
その執着が少年という形となって夢に現れたのならば、あの征服欲やあの子の複雑な表情を見たときの昂揚もうなずけた。
「あまりに妙な夢が続くようであれば、睡眠障害も疑われるのでどこか病院を受診するという手もありますが。でも、そうですね、もしコンプレックスが要因ならば、直接それを取りのぞくのが一番だと思いますよ」
「それはたしかに、そうですね」
いたいけな少年相手に、なんて劣情を押しつけているのだか。存在しないかもしれない架空の少年だとしても、決して褒められたものではないというのに。
ふむふむうなずきながらハムサンドを食べ進めていた――のだが。
「と、いうことで、先生。僕とデート、してみませんか?」
「へっ?」
カラーーーンと、カトラリーが落ちる音がしたのは、女子高生たちの席からだったか。それとも新聞片手にコーヒーを楽しんでいたナイスミドルの席からだったか。
「僕がその男のことを忘れさせてみせますよ」
――なんて?

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