ちゅく、ちゅく、と響く音が耳の奥を犯している。
「もっと、舌出して」
涼やかな目もとを指でなぞりながら、灼熱のくちびるを合わせる。濡れた舌を食んで、それから自分のものも絡めて、じっと心の奥深くを溶かすように吐息を奪う。
「もっと」
そう、もっと。
もっと気持ちよくしてあげる。
「っ、もうええやろ」
「だめ」
まだまだ、こんなんじゃ足りない。
「もっと、好くなって――……」
「未成年淫行は、この国の法律ではあなたの人生を簡単に終わらせる『重大な犯罪』ですよ」
その言葉の威力といったら、心臓に弾丸を食らうよりもなんとも惨たらしいものだった。
事の発端は、行きつけの喫茶店の店員とこんな話をしたことだ。
「え、とんでもない夢を見た?」
この街に引っ越してきて数年、その中でも長いこと通っていた喫茶、ポアロ。そこの看板娘の彼女はわたしの言葉に大きな目をきょとんと丸くして、グラスを拭く手を止めた。
「梓ちゃん、シッ」
とその声の大きさに、慌てて彼女をなだめてから周囲を見渡す。日曜日の午後二時、ランチにもアフターヌーンティーにも被らないからか店内はいつになく落ち着いていた。
席についているのは、のほほんとコーヒーを楽しむおじいさんと、パソコンを前に携帯電話で連絡をとる女性。とはいえ、非常にデリケートな内容なので、取り扱いは厳重注意だ。
わたしの必死さに気圧されてか、すみません、と梓ちゃんは眉を下げる。
「でも、そんなにすごい夢だったんですか?」
とはいえ、そんなことでへこたれる彼女ではない。今度はカウンターからおりてきて、そっと身を寄せてひそひそとささやきあう。
それはもう、と熱いやら冷たいやらよくわからない顔を両手で覆う。梓ちゃんはなにやらウキウキといった調子で、「ひゃあ」とかわいらしい声を上げた。
「どんな、どんな夢ですか?」
「楽しそうだね、梓ちゃん」
「そりゃあ、だってセンセイからそんなお話が聞けるなんて、沖野ヨーコちゃんのプレミアライブに当選する並に貴重ですから!」
そんなに期待されると、余計話しづらいというか。天下のアイドル歌手と同列に扱われるのはちょっぴりいやかなり荷が重い。と、いうより、自分の肩書きを思い出して余計に頭を抱えたくなった。
東都にある、とある私立女子中学の先生。
それが、わたしの肩書きである。世に言う聖職と呼ばれる職業。そんな職業のわたしが、あんなことになるなんて……。
で、で、と目を輝かせる梓ちゃんにわたしはもごもごと話しだす。
「昨日の夢なんだけどね」
「はい!」
「それが――……」
週一の定例学年会議を終えて、重たい身体を引きずって家に帰った夜のことだ。わたしは一本の缶チューハイを開けたあと奇妙な体験にでくわした。
ふわふわと白い雲に包まれるような、なんとも言えない不思議な心地よさ。テレビから聞こえていたのんきなおしゃべりがだんだんと遠くなる。夢を見ながら、ああ、これは夢なんだ。今から眠るんだ、そんなことを思っていた。
そうして雲に乗ってゆらゆらどこかへたどり着く。どんなふうに、どうやって、どこを通ったかもわからない。ただひたすら、やわらかくてあたたかくて、なんだかいいにおいがして、どこまでも心地好い。
こんなの一生起きたくないな――と、その柔らかな雲に頬ずりしたところで、残念ながら目が覚めた。
否、実際には、おそらく目覚めてはいなかった。それでも目を開いた瞬間、とんでもない光景が飛び込んできたのだ。
ふわふわの雲の正体は、白いクッションだった。人をダメにする、そんなキャッチコピーが似合うようなとてつもなく弾力のあるものだ。そして、ぬくもりといいにおいの正体は、少年。
黒髪の、明治時代にいるような格好をした十代の男の子。
漱石やら芥川やら文豪たちのポートグラフの横に並んでいそうな装いだ。袴の中に詰め襟を着たいわゆる書生服で、年ごろはたぶん中学生くらい。
喉仏が張っているけれど、頬や目元にはまだあどけなさが残っていた。
その子が、わたしの隣で眠っていた。
ふわふわのクッションへといっしょにうずもれて。しかも、その距離はゼロ。
思わず固まるわたしをよそに、その子が身じろぎをして目を覚ました。
「は?」
まったくもって、もっともな反応だ。その子は寝起きにもかかわらず、鼻先が触れ合うような近さにいるわたしを眼光鋭く睨んで、ぐるんと身体を組み敷いた。
「だれや」
つか、ここどこ?
――ごもっともです。心の中で答えながら、首に手をかけてくる男の子を見上げる。すうっと天に伸びた切れ長の瞳が印象的な、きれいな子だった。コスプレとも思われるような古めかしい格好が似合う男の子。
そんな彼とわたしは白い部屋にいた。病院というにはどこか生活感があって、しかし、だれかの部屋というには殺風景すぎる。
先述したクッションと、それから観葉植物だろうか白い石の入ったプランターと。アンティーク風のテーブルセットの椅子はご丁寧に二脚ある。その下にはふかふかのラグ。
なにより印象的なのは、そのどれもが純白に揃えられていることだった。
「どうやって俺の部屋に忍び込んだか、それからどうやってここへ運んだか、答えてくれへん」
とはいえ、そんなことを悠長に考えているひまもない。だって、いきなりデッド・オア・アライブなのだ。夢なのに、そう夢の中なのにこんなに初っ端から危機に瀕するなんて、思いもよらなかった。
これは夢。そう、夢にちがいない。そんなふうに思いながらも、喉を締められる感覚がとても生々しい。
見上げた男の子は、十代の、それもまだまだ庇護されるべき年ごろの子どもだというのに、数多死線をくぐり抜けてきたような顔をしていた。それに、初対面の人間に対して、容赦なくその息の根を止めようとしてくるその気概。
純然たる殺意という言葉を聞いたことがあるけれど、ああこれが、と妙に納得してしまった。まるで現実に迫り来るような鋭く重々しい眼。その手の感覚も、息苦しさも、ひとつひとつをいまでも覚えている。
「まっ、て」
どうにか腕を掴んで抵抗するが、彼の眼はまるで温度も色も持ち合わせていなかった。
せっかくきれいなのに目もとは落ち窪んだように濃く翳っていて、それに、まだまだ少年の肉体には不釣り合いなほど浮かびあがった血管。ひどい力だった。
ああいい夢見心地だったのに、さようならつかの間の天国。
――と、思ったところで、脳になにかが流れ込んできた。
気のせいでも、なにか聞いてはいけない声を聞いてしまったのでもない、たしかに、流れ込んできた。
《机の上を見ること》
この期に及んでそのメッセージ?
目の前の彼も同じだったのだろう、あからさまに眉を寄せた。そして、舌打ちをひとつ。なんとも腑に落ちない態度でわたしを解放すると、さっさと着物の袂を整えた。
「っけほ、」
急に酸素を得た肺が、驚いてけいれんした。そのあいだ、彼はわたしを冷めた目で見下ろしていた。
――と、まあ、いきなり夢で臨死体験をするなんて。ここまでの状況ももちろん酷いものだったのだが、とんでもなかったのはここからだった。
「あの、つくえの、うえ……」
ひゅうひゅう喉を鳴らしながら告げると、彼はあからさまに不機嫌さをあらわにして鼻を鳴らして背を向けた。
年下の――それも十代の少年とはいえ、彼も男だ。死ぬところだった、いや、死んだら目が覚めていたのかな、などと思いつつ、どうにか呼吸を整えてわたしも起き上がるとよろよろと彼の背を追いかけた。
そして、驚愕した。
「……《とろとろに蕩けるまでキスをすること》?」
――脱出条件:キスによる絶頂。キスだけで互いを高みに連れていけたら、この場所から出られます。
「あ゛?」
まったくもって、ごもっともな反応である。
「え、じゃあ、夢でその男の子とキスしちゃったんですか?」
興奮気味の梓ちゃんに、そうなの、と顔を覆いカウンターへ項垂れたのも記憶に新しい。あまりにもリアルな夢だった。本当に、夢というのがおかしくなるほど。
あのあと、結局、馬鹿馬鹿しいと机の上に置かれた紙を男の子がビリビリに破いたのだけれど、数秒もせずに、まったく同じものが現れた。
そして、その部屋から出る、もとい夢から覚めるためにも、その子とキスをした。
――とてつもなく、深くて激しいやつを。
「ひゃああ」
と梓ちゃんはグラス磨きクロスを抱きしめて悶絶していた。
わかる、わかるよと心の中で思いつつ、すかさずわたしは、ンンッ、と咳払いをしたものだ。
「でも、夢だから、夢だから!」
大事なことだから二回言った。むしろ、三回目も厭わない所存であった。
「すごい、聞いてるこっちまでドキドキしちゃいました。だって、センセイがここに戻ってきているってことは、キスで……キスで気持ちよくなってきたからなんですよね」
キスって二回も言わなくていいのに。なあんて言葉は飲み込まれた。
こくり、うなずいたわたしに何度目かの嬌声が再び。
「それにその男の子も……」
「もう言わないでぇ……」
とろとろになるまで、キスをして。奪って奪って、与えて、もうだめかも、と思ったところで――目が覚めた。
起きたときの、寝汗なのか冷や汗なのかわからないが、とにかく尋常な汗といったら、それはもうひどかった。
「でも、夢、なんですよね!」
「そう、夢なの!」
「夢にしてはリアルすぎますけど」
「夢なの!」
四回目である。
いてもたってもいられず、でも職場の同僚には相談できないから梓ちゃんに打ち明けたけれど、我ながらやばい夢だったなと思っていた。そして、生々しく残り続ける記憶に、感触に、どうしようもなく動揺していた。
だって、夢の中だとしても十代の男の子相手にあんなことをするなんて、教師として――否、大人としてあるまじき行為だ。
「もしかしたら、疲れていたのかもしれないですよ! ほら、人間、ぬくもりが欲しくなるときってありますし!」
「それはそれで大ダメージだけどね!?」
だって、夢か現かはさておき、達してしまうほどの、心地よいキスを求めていたなんて――。
いろんな意味で汗ダラダラである。目の前のグラスもわたしの心情を悟ったみたいに水滴がテーブルへとこぼれ落ちていた。
なんてこったと思いながら、気持ちを鎮めるように汗っかきな特製レモネードをぐるりと掻き混ぜる。
「あとは、こう、暗示とか! ほら、首を絞められる夢って、なんか夢占いでありそうじゃないですか?」
「締め切りに追われてるとか?」
「そうそう、精神的に追い詰められていると、だれかに追いかけられる夢を見るともいいますよね!」
たしかに、毎日授業準備に追われているけど……と視線ははるか彼方だ。
「でも、相手の男の子が中学生くらいっていうの、なんだかひっかかりますよねぇ。あっ、イケメンでした?」
「……それは、もう」
……さて。
と、いうのが、先週末の会話であった。
そして今日、わたしは目の前の蜂蜜色の甘い髪をした喫茶店店員の言葉に慄いている。
きらきらと輝く海のような青い目で、まっすぐに見つめながら弾丸を撃ち込んでくるのだから、まったく彼は侮れない。
「安室さんが、なんでそれを」
もちろんアクション映画でもあるまいし、このご時世に弾丸なんて食らったことないけれども。とにかく思いがけない衝撃発言にたじろぎながら、彼の言葉を反すうする。
――未成年淫行は、この国の法律ではあなたの人生を簡単に終わらせる『重大な犯罪』ですよ
ごもっともである。それはもう、大学時代、それから今の学校に着任してからも、パブロフの犬のごとく刷り込まれた事項である。
東都の青少年健全育成条例や児童買春・ポルノ禁止法、ほかにも児童福祉法。成人年齢や同意年齢の具体的数字が奇しくもここ十年で変わったとはいえ、庇護されるべき未成年を守るために定められた法律はいくつもある。
青少年――つまり未成年へのみだらな行為は、することもさせることも処罰の対象だ。
そう、いくらそこに同意があったとしても、たとえ、キスだけだったとしても。
つまりは、ギルティ――……。
にこにこと人好きのする笑みを口もとに浮かべながらも、まったく笑えない空気をかもす彼にダバダバと汗が噴き出る。
「で、してしまったんですか、未成年淫行」
エマージェンシー! エマージェンシー! 聞き覚えのあるような警報が脳内に鳴り響く。
映画泥棒もこれには真っ青。というか、梓ちゃん、わたし内緒にしてねって言ったのに!
混乱のあまり次から次へと思考を切り替えながらどう答えようか固唾をのんでいると、ふっ、と安室さんは顔を崩した。
「すみません、少しからかい過ぎました」
「か、からかい過ぎたって」
「梓さんが、妙な夢を見るくらいあなたがお疲れだと言っていたので。その夢が夢なのか、それとも夢と称した現実なのか、少々気になりまして」
「めちゃくちゃ疑ってるじゃないですか」
「すみません、これも冗談」
「冗談に聞こえません……」
なんにせよ、最悪だ。
安室さんは常の様子に戻り、入ってきたお客さんに、「いらっしゃいませ」と朗らかに声をかける。
平日の午後三時。やってきたのは、お馴染みのご老人だ。大きくあいた窓からは燦々と陽光がそそぐ。なんとも穏やかな店内だが、袋のネズミ感が否めなかった。
週に一度の研究日。その名のとおり授業準備や各々の研究のために設けられた日。週六日、土曜日まで授業のある私立学校でよくとられる制度だ。
だが、研究日とは名ばかりで、要するに休日。学校はあるけれど、受け持ちの授業はないため副担任の先生にクラスを任せて暇をいただいている。
そういうわけで束の間の気晴らしにポアロのハムサンドを食べに来ようと思ったのに、まさか銃を突きつけられるとは。
きっとあれは映画のモデルになるような世界の大怪盗が持つようなシャレオツな拳銃ではなかった。それはもうもっと厳つい、銃口が拳くらいありそうなガッチガチのガチなやつ。
ヤツはとんでもないものを盗んでいきました、そうあなたの心ですなんてね。いや、ルパンのもガチだろうけどさ……。
確実に狙われていた。なにをとは言えないが、ええ、それはもう危機でした。安室さん、さいしょ顔が笑っているようで、笑ってなかったものね……。
カランと特製レモネードをかき混ぜて、心を落ち着けるようにストローを咥える。
「でも、災難でしたね」
先ほどのお客さん――通称ご隠居さま(梓ちゃん命名)にお冷を出し終えると、安室さんはわたしに向き直った。
「梓ちゃんってば、どこまで話したんですか」
「そうですね。梓さんはただ、首を絞められる夢と、スキンシップをする夢の意味を僕に訊ねてきただけですよ」
と、いうことは、大方全部話したのだろう。話させられたとも言うかもしれない。
このポアロのイケメン店員である安室さんといえば、階上の毛利探偵の弟子であり、彼もまた探偵なのだから。
「安室さんってば、話を聞くのが本当にお上手ですからね」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてません」
「あれ、そうでした?」
こてん、と小首を傾げてあざといポーズ。女子高生たちがあむぴあむぴと騒ぐその容姿といったら、攻撃力抜群だ。そのあいだも手もとは忙しなく動いているのだから、本当、なにかにつけてソツのないひとである。
「それで、心当たりはあるんですか」
「心当たり?」
「疲労やストレス、いわゆる〝悪夢〟をみる要因はさまざまですからね」
ああ、とつぶやいて、またひとつ氷をかき混ぜる。
「これといって、あるようなないような。とりたてて言及するようなことは、とくに」
「そうですか。とはいえ、先生はとても仕事熱心な方ですし、ご自身が思っているよりも心身ともに負担がかかっているのかもしれませんね」
そう、なのだろうか。まあ、毎日生徒たちの命を預かるのだ。特別なことをしなくても神経がすり減って当然か。
生身の人間を相手にする、そこが教師の胡椒味ではあるけれど。毎分、毎秒、どこか気が抜けないのも確かだ。
加えて、このごろは試験に向けて授業進度も早くなってきているし、予習復習のみならずテスト作成、学校行事の企画運営などなど。やることは常にマッターホルン。
「実際、首を絞められる夢っていうのは、対人ストレスや将来への漠然とした不安を暗示するらしいですし」
はたと安室さんの顔を見上げる。
「安室さんって、夢占いまでできるんですか」
「どうだと思います?」
「……できそう」
はは、と彼は笑った。
「残念ながら、これはネットで調べた通説なんですけどね」
「本当、博識でいらっしゃいますよね」
「まあ、職業柄、情報収集には事欠きませんから。ちなみに、精神分析学では〈夢は抑圧された願望を描きだすもの〉だと考えられていたと言いますよ」
「抑圧された願望……!」
フォローするつもりある!? 絶望感を露わにすると、ここから先はハラスメントになってしまいますね、と安室さんは指先を唇に当てた。
そのあざとさとてギルティ……! くう、セクハラ、マタハラ、アルハラ、あらゆるハラスメントの訴えまで取り下げさせそうな威力がある……!
そんなやりとりをしているうちにハムサンドの完成だ。ぴっちりと三角形に整えられたそれは、今日も今日とて白いお皿の上で輝いて見えた。
「あいかわらず、お上手ですこと」
「それほどでも」
「写真、いいですか?」
「もちろん、あ、よければこちらも」
互いに切り替えのすばやいところは社会人ゆえか。携帯電話を構えたわたしに、安室さんはポアロのロゴが入ったコースターを新しくグラスの下へ敷いてくれる。
こういうところが、俗に言う「あむぴヤバイ」なのだろう。
探偵という職業柄か、それとも天性の才能か。梓ちゃんが言うように、ちょっと気を抜いたら炎上案件だ。自分の受け持つ生徒にも熱狂的なファンがいることを思い出し、思わず内心身震いをする。
まあ、なんにせよ、だ。
ふりきるようにして、ありがとうございますと丁寧に礼を告げ携帯を向ける。ポアロ特製ハムサンド、シャキッとしたレタスと、ハムの旨味、それからかくし味のみそが決め手の人気メニュー。
「先生が写真をお撮りになると思いまして、いつにも増して気合いを入れました」
「とか言って、いつだって完璧じゃないですか」
それほどでもと微笑する安室さんの前で、シャッターを切る。
「よく撮れましたか?」
「ええ、それはもう、いい感じです」
十数インチの画面におさめられたそれは、日常を映していた。
そう、ありふれた日常。仕事に精を出して、休日は息抜きにお気に入りのカフェで過ごす。
変わり映えのない日常。
これまでとなんら変化のない毎日の続き。
それでも生まれてこの方二十年数年、真っ当に生活を送ってきたはずだ。それはこれからも変わらないだろうと勝手ながら思ってもいた。
仕事で認められて、何人もの教え子を送り出して。毎年、新年には彼女たちからの年賀状が届く。それを、いつしか夫や子どもと眺める。そんなふうによくある人生を送るだろうと少なからず想像していた。
だというのに、あんな……。
――もっと、舌だして
夢のはざまに閉じ込められるような、妙に実感を伴った夢。あれを明晰夢と言うのだろうか。そもそも夢、なのだろうか。考えながら、ハムサンドに手をのばす。
目が覚めたら、確かに自分のベッドの上にいた。起きたのは目覚ましの鳴る時間で、しばらく呆けていたけれど、いつもどおりに顔を洗って、十秒チャージで顔を作って家を出た。
でも、いまだにあのときの感触が残っている。
気がつけば自分の唇をなぞっていた。それから、きつく締めつけられた喉も。ハムサンドを咀しゃくしながら、指先でひっかいた。
「ところで、最近なにか不可思議なことは起きていませんか」
「……不可思議なこと、ですか?」
だしぬけに安室さんが言った。はっと指を下ろすと、彼はええと唇を引いた。
「やけに運がいいとか、逆に、すごく運が悪かったりとか。あとは、急に肩が凝ったり、体が鉛のように重かったり」
「さあ、肩凝りは慢性的にありますけど」
これもまた、夢占いの一環だろうか。そんなことを思いながら、それがなにか、とまばたきをひとつ。安室さんは、「それならいいです」とにっこり笑みを浮かべた。
「あ、先生だぁ」
「なんだぁ? 学校サボってハムサンドかよう、姉ちゃんズルいぞ」
それからは小学生たちがわらわらとやってきて、にぎやかな午後の一幕が訪れる。
「少年探偵団のみんな、まずごあいさつは?」
「先生ぇー、こんにちはー」
「はい、安室さんにも」
「こんにちはー!」
「ええ、こんにちは」
「よろしい。あ、店内は走らないよ」
――あの夢を見たこと以外は、なんら事件のない平穏な日常。
やはりあれは夢だったのだ、そう思いながら、少年少女の相手をする。
あんなこと、二度はない。
そう、絶対に。
そう誓ったはずなのに、そんな決意もあっけなく打ち砕かれることになるとは、このときはみじんも予想していなかった。

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