うそをついてしまったと、はっきり認識するのがこんなにも酷だったとは。小さなうそのひとつやふたつ、これまで何度も口にしてきただろうに――それもどうかとは思うがまあ人間の心理ってやつだろう――山崎さんが親切だったから、いつになく胸が痛んだ。
けれど、どうしたらよかったのだろう。写真が届いただけで、その後、被害は起きていない。これだけじゃ、ストーカー被害で奉行所に通報したとして、相手にされないのがオチだろう。
写真を撮った人間が、興味を失ってくれたのなら――それでいい。また元の生活に戻れるならば、大事にしなくていい。
しかし、不運にも数日後、一通の手紙が届くのだった。
「凛子ちゃん、マヨネーズ切れちゃったから、スーパーまで買いに行ってくれるかい。買っておいた12ダース、もう吸い切っちゃったって言うのよ、副長さん」
タバコみたいに軽々言ってのけたヨシヱさんに返事をして私は屯所を出た。
12ダースのマヨネーズがどれほどの量か考えるとめまいがしそうだが、今日のところは持ちきれるぶんだけ買ってくれればいいとのこと。手の空いた若手隊士もいっしょに来てくれるというから、お言葉に甘えて二人で近くの大江戸マートまで向かうことにした。
警察官が街を歩いているだけで犯罪の抑止力になるといつだか聞いたことがある。真選組も同じようで、隊服を着ているだけで人びとが道を空けて通りを譲ってくれるのだった。
正直、複雑な気持ちではあったが、いまのわたしにとって彼の存在ほど安心できるものはなかった。
「東雲さん、どうかしました?」
隣を歩く少年は、ひょっとすると弟って言っていいくらいの年齢だ。それでも刀を挿して歩く姿は立派なもの。
「いえ。鍛錬があっただろうに、いっしょに来ていただいて、本当に助かりました」
「なんのこれしき! 地元にいたころはよく母ちゃんの代わりに野菜を抱えて歩いたので」
いまならこの子の母ちゃんになれる。――なんて、しょうもないことを考えていたのもつかの間だ。
「ひったくりよオオオ!」
そんな声がして、彼は咄嗟に刀の柄を握った。
しかし、こちらをふり向いて、うかがうような子犬の目をした。
「行ってきてください。江戸の街を守るのは、あなたの仕事ですから!」
拳をにぎって示せば、彼は爛々と目を輝かせて、「このご恩は忘れません!」と勢いよくこうべを垂れるやいなや、飛ぶように駆け出していった。
ゴールデンレトリバーだった。あの子の目、昔、ご近所さんが飼っていたテツ男の目だった。
マヨネーズは重たくなるが、彼が手柄を挙げられるならばマイバッグの重さなんてなんのその。
徳を積みましたな~なんて心の中でつぶやきながら往来を行く。
いつもより軽い気持ちで。すっかりruby>あの手紙r《/rrt>・・・・/rt>r》/r/ruby>のことなんて、忘れていたのだ。
「マヨネーズのほかにも、女中部屋のお茶がなくなりそうだったから、買っていこうかしら」
大江戸マートは歩いてそうかからない。人通りのある路を羽の生えたような足取りで進んでいた。
「あら、凛子ちゃん。おつかいかい」
「そうなんです、今日はいつものを切らしてしまったみたいで」
「そうだったの。今日は特売らしいから、急いだほうがいいよ」
「ありがとう」
そんな、他愛のない会話を、近くの八百屋のおかみさんと交わしながら。
角を曲がれば、大江戸マート。
そんなとき――トントン、と肩を叩かれた。
「はい?」
と、ふり返る。
――はらり。
腹部のあたりの圧迫感が、ふいになくなった。
お登勢さんから譲り受けた、ガラス玉飾りのついた帯留めが鈴の音を鳴らす。
タタタッと駆けていく足音。
着物は崩れることはなかった。けれど、お太鼓を形作っていた帯枕や帯揚げが地面に落ち、はらりと山文様の描かれた白い帯がそこへ垂れ下がっていた。
「ちっ、痴漢よォォオオオッ!!!!」
ぼう然と立ち尽くすわたしに代わって、すぐ近くにいた女性が叫んでくれた。
ものすごい野太いこえだったが、なんのその。
走り去っていく男ものの紬姿。周囲にいた男衆たちが途端に追いかけて男をとっ捕まえる。
「東雲さん、すみませんがこちらへ」
笠をかぶったその女性は、なんと山崎さんだった。
近くの茶屋の二階へ連れてこられたわたしはいまだぼう然としたまま、茶屋のおかみと話す女性の身なりをした山崎さんを眺めていた。
監察方の彼がそんな格好をしているのだ。きっと、なにかしら任務の最中だったのだろう。
女将と彼がなにやら話している中、切られてしまった白いの帯を抱きかかえて座布団の上に座っていた。
「すぐに用意しますからね」
用が済んだのだろう、女将がにこりと微笑んでふすまの向こうに消えた。
「……東雲さん、すべて話していただけますか」
びくりと肩を揺らしたわたしに山崎さんは眉根を寄せたが、静かに歩み寄り腰をおろすと目の前の座卓に一通の手紙を置いた。
「それ、は……」
「万事屋の旦那に、相談してなかったんですね」
朝、届いたばかりのものだった。
初回と違って、差出人の名はないものの、宛名ははっきりと書かれていた。力強い筆致。中に入れられていた一枚の便箋には、こう書かれていた。
〈あなたのことが好きです〉
ひと言ならばまだ愛らしい恋文だったかもしれない。そこにはさらにわたしのどんなところが好きとか、愛おしいとか、びっしりと紙いっぱいに綴られていたのだ。
身に覚えのない相手からの好意ほど、恐ろしいものはない。それも、目に見えない相手ならばなおさら。
手が震えるのを堪えられずに、ぎゅっと胸の前で帯といっしょに抱きしめた。
「答えたくないのかもしれないですけど、正直に話してください。いつからですか」
山崎はいつもの優しい顔ではなかった。思い詰めたような、苦しげな表情だった。
「二週間ほど、前から」
「あの写真を見たのは、先週です。それより前から、これを放っておいたんですか」
「それは、今朝……」
ふすまの向こうから摺り足の音が聞こえ、鈴を転がすような女将の声が届いた。山崎さんが戸を開くと女将が銀色に近いなめらかな生地の帯を手にしていた。
持っている帯の中で、そんな派手なものはなかった。けれど、ふしぎと、このお登勢さんからもらった小豆色の着物には、銀色のその帯が似合うようだった。
「大事な、帯だったとは思うんですけど。いまはこれで勘弁してくださいね」
きゅっと巻き上げたお太鼓はおそらく私がするよりも見事なものだろう。抱えていた帯を女将が預かろうとして、とっさに手に力を込めてしまった。困り顔をした女将だったが、「大丈夫ですよ。職人に言って、上手に継いでもらいますから」とやわらかな声で言ってそっとわたしの手をほどいた。
「……お登勢さんに、もらった帯だったんです」
ピッと入った一閃の傷。通りがかりに切られてしまったのだ。
「怪我がなくて、よかったです」
そう山崎さんは言ってくれるけれど、いっこうに手の震えは治まりそうもなかった。
「男はこのところ江戸のそこかしこでうわさされていた通り魔で、いましがた奉行所のほうへ連れて行かれたみたいです」
「そうですか……」
それはよかった、そんな声さえ出てこなかった。かろうじて吐息を洩らせば、山崎さんが小さく息をつくのがわかった。
「東雲さん、この手紙を出した人間は――あなたの写真をあんなにたくさん撮った人間は、まだこの江戸の中にいるんです」
膝の上で手のひらを握り締めた。
「このまま、放っておくんですか」
そういうわけじゃ、なかったのだ。本当は、銀さんに助けてって言うつもりだったのに。
はくはくと息を取り込んだまま吐き出せなくなったわたしを山崎さんは目を逸らさずにじっと見つめている。
放っておく意外に、なにかできるのだろうか。なにか、してくれるのだろうか。
お通ちゃんは、どんな気持ちで打ち明けてくれたのだろうか。
「その話、詳しく」
答えを出すまえに、ぴったり閉じられていたはずのふすまが勢いよく開いたのだった。
パトカーに乗って、連れてこられたのは屯所だった。買ってくるはずのマヨネーズもなく、手ぶらのまま女中部屋ではなく副長室へと通されてしまった。
「気のせいかと、思ってたんです」
どうにか震えが治まったが、うまく笑うことはできなかった。目の前であぐらをかいて座る副長は、くわえていたタバコの火を灰皿へ押しつけた。
「……そんな鈍臭い女じゃあるめェよ。どうせ余計なことでも考えてたんだろ」
閉口は、そうだと取られただろうか。
「二通の手紙、それだけの写真。これでもお前は気づかなかったのか」
それ、と視線で示したのは、座卓の上の写真の束だ。ロッカー室の奥にしまっていたものを山崎さんが代わりにとってきてくれた。
「よほど、脳みそお花畑みてェだな」
「ふ、副長……」
「山崎、テメェは黙ってろ」
言い返すこともできずに、きつく握り拳を作るだけでなく、ぐっと唇を噛み締める。
「俺が言いてえのは、東雲、お前がそれをいつ見つけてどう思っていたかどうかじゃねェ。お前がここで働いておきながら、俺たちを信用するつもりがなかったことだ」
痛かった。けれど、緩めることは、できなかった。
「……なにか、してくれるんですか? アイドルでもなんでもない一般人が相談して、警察がちゃんと、動いてくれるんですか?」
だれだって、人を信用したいはずだ。信じて、頼って、助けてほしいはずだ。でも、そうできない理由だってあるはず。
「東雲」
土方さんは言った。
「俺たちがお前のために、動かないなんて、言ったことがあったか」
こんな歳にもなって情けない。人目をはばからず泣いてしまうなんて。けれど、あふれた涙が止まることはなかった。
「東雲、どうなんだ」
鋭い眼光がわたしの目をまっすぐ射貫いていた。なにかを問いただすようなその眼は、わたしを責め立てるでもなく、どっしりと構えた大木のように止まり木をなくした鳥がおりてくるのを静かに待っていてくれたのだった。

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