思い返せば不甲斐ないことばかりだ。
独りよがりで強がって、結局人に迷惑をかけて。いつかだれかが助けてくれるのではないかと心のどこかで期待している自分もいた。それこそ、白馬に乗った王子様が颯爽と姫を魔物から救ってみせる、そんな仰々しくなくとも、窮地から救ってくれるだれかがいるのではないかと思っていたのだ。
大人が泣かないというのは、子どものころの幻想だろう。強い人はなんでも独りでできるわけじゃない。独りでなにもかもやってのける人だけが、強いわけでもない。強い人だけが、この世界で偉くいられるなんてことも、ないのだ。知ったふりになって、わたしはなにもわかっていなかった。
泣き腫らした目を慮るように、山崎さんが温められたタオルを渡してくれた。すみませんと掠れた声で答えれば、肩に触れるように――けれど実際には触れることなくそっと寄り添っていてくれた。いつまでも治らない呼吸を整えるまでにはかなりの時間を要したけれど、土方さんも、山崎さんも、二人ともなにも言わずにわたしを待っていてくれた。
「近藤さんには話を通す。かまわないな?」
「はい」
「それと、山崎。お前は先にコイツの長屋に行って必要なモンとってこい。わかってるだろうが」
「だれにも見られず、ですね」
「ああ」
山崎さんは懐紙を出して、「ここに持ってくる必要があるものを書いてください。また、戻ってきます」とわたしにペンと共に握らせると副長室を後にした。
かちり、時計の針が動く。そんな音がしたように感じた。
「その他の人間には適当に理由をつけて、お前がしばらくここに滞在することを伝える。野郎どもの対処も含めて仕事は数日暇を出すが、自由に外へ出られると思わねェこったな」
土方さんは言い切ると胸もとに手をやった。新しく箱を取り出して、器用に一本咥えるとライターを構える。
「……仕事は、きちんとやります。明日、ちょうどシフトが入っていますので」
かち、と無駄なくホイールの擦られた音を耳にしながら、山崎さんからもらったタオルを握りしめて告げた。
「気ぃ張って、倒れられるほうが迷惑だって言ってんだよ」
……けど、という言葉は口にできなかった。悔しさやら不甲斐なさ、虚しさ、悲しみ、さまざまな感情が絡まってうまく話すことができない。
すみません、とただこうべを垂れた私に、土方さんはひとつ小さく息をついた。
「キツくなったらすぐ言え」
ふたたび緩みそうになった涙腺を、どうにかして引き締める。
「はい、ありがとうございます」
この人たちは、わたしにとってもう安らぎを得るための木も同然なのだ。
トントン拍子で進むというのは、こういう場合正しいのかどうかわからないが、一時間もせずに山崎さんは長屋から戻り、手元に置いていたお金や鍵などの貴重品をわたしのもとへ持ってきてくれた。着物などの衣服の移動に関しては犯行相手に気づかれてしまう恐れもあるため、襦袢や下着を新しく見繕う予定のものをのぞいて、女中頭のヨシヱさんから彼女のご家族のものを借りることになった。
「大変だったねえ」
と、告げるその口ぶりは、まるで本当の祖母になったようで、わたしは大人げなくもまた涙をこぼしてしまった。
用意された部屋は女中部屋の隣の空き部屋で、しばらくはヨシヱさんもいっしょに泊まってくれるという。
「トシから話は聞いた。男所帯で迷惑をかけるだろうが、どうか気を休めてくれると嬉しい」
近藤局長にもすぐ話は通り、ヨシヱさんに見守られながらこの先のことを決めた。
「まず、隊の人間にはそれぞれ手の空いた者が屯所周辺の見回りをすることにする。不審な影があれば即時声かけを行ない、付きまとい行為の予防に努める。長屋には山崎が待機し、犯人の特定を急ぐ。そして凛子さんには悪いが、しばらく屯所の中で、外へ出る場合も隊士を数名つけて行動するように――これでかまわないな?」
はい、と力強くうなずく。
「至れり尽くせりで、本当に感謝しています。お通ちゃんの件もまだ落ち着かない中、皆さんの手を煩わせてしまい、なんと申し上げたらよいか」
「なに、凛子さんのためだ。昔、真選組がこうして名を馳せるまえも、皆でストーカーを撃退したのを思い出すよ。なあ、ヨシヱさん」
「ええ、あのときはあの子がまだ新人のころでしたか。毎晩、後をつけられていると聞くや、近藤さまたちはすぐさま江戸の町に繰り出し、男をこてんぱんにしたものでした」
ふむ、と近藤さんは腕組みをする。
「その男は彼女の恋人でなあ。彼女が酷い目に遭わないかと毎晩彼女を待ち伏せしていたんだ。結局、二人は別れることになっちまったが……」
「いくら愛していても、女を怖がらせる男はなりません。彼女はいっそういい男を捕まえましたから、本当、あのとき皆さんが立ち上がってくれてよかったですよ」
近藤さんは目を細めて、深く首肯した。
「そういうわけだ。凛子さん、気兼ねなく俺たちを頼ってくれ」
斬られた帯の修繕を待ちながら、そうして屯所で暮らすことになった。屯所での生活は、普段と変わりはない。朝起きて、仕事をし夜は眠る。長屋から屯所までの移動がなくなったことで、むろん、それにかかわる煩わしさも消えて朝や晩はいつもよりだいぶ楽をさせてもらっていた。この上ない生活でもあった。
けれど、夜、自分の部屋よりも広い和室に布団を敷いたとき、いつもと聞こえる音や感じる空気の違いに、どれほど経っても慣れることはできなかった。ここは安全なのだと理解はしていても、身体のどこかが麻痺して上手くその信号を捉えてくれない。なにもないと思えど、滔々と深まる闇が、いつもの闇よりも何倍も濃く分厚いものであるように感じてならなかった。
結局、眠りに就けるのは明け方で、その日の仕事が遅番だったことを何度も感謝したものだった。
「凛子ちゃん、洗濯物、急いで取り込んで! 夕立が来るみたいよ!」
先輩女中の言葉に、はい、と大きく返事をする。
縁のふちから空をのぞけば、分厚い雲が一面、上空を覆っていた。干していたシーツを急いで取り込むと、シワにならないようアイロンがけをして畳み、各隊や幹部のもとへ届けて回った。晴れであれば、各隊の担当が取りにやってくるのだが、ちょうどその時間には早かったために、女中たちで生乾きのシーツをどうにか工面することになったのだった。
雨が降ってきてからは大浴場の準備と夕餉の支度と大忙しだ。濡れて帰ってくる隊士たちをいかにそのままにせず捌くかが勝負で、濡れたまま畳の上をやたら歩き回られたら困るからとよく嘆く声が聞こえてくる。もちろん、風邪を引かないようにという気づかいもあるが、濡れた畳の手入れは大変なのだ。帰ってきた隊士のみなさんを玄関で捕まえ、すぐに湯を浴びれるようにし、食堂まで誘導しなければならない。
「凛子ちゃん、おかわりたっぷりね」
「俺にも!」
「はいはい、凛子はいま手が離せないからね! あんたたちには真選組いちのマドンナが白米をよそってやるよ!」
「トモちゃんあざー!」
「トモ代姐さん、みそしるおかわり!」
「こっちも頼むぜ!」
「はいよ、いいから一人ずつそこ並びな!」
仕事に集中していれば、ありがたいことにいろんなことを忘れられた。一人になると、余計なことを考えてしまうから――朝から晩まで、一日じゅう働き詰められることが、なによりの救いだった。
日常は驚くべき速さで舞い戻って。
「おい、東雲」
副長の声に、わたしは池の掃除を止めてすぐに縁に駆け寄った。
「はい、なんでしょうか」
「お前、明日は非番だったな」
「ええ、そうですが……」
なにを言い出すのかと腰につけた前掛けを、小さく伸ばしながら土方さんを見上げる。
「ちょうどいい。行きたいところはあるか」
「行きたい、ところ、ですか?」
「近藤さんから言われてんだよ。お前を連れ出せって」
きょとんとした私に、土方さんは咥え煙草を手に取った。
「もう七日だ。そろそろ外の空気を吸えってことだよ」
ふう、と青空に白煙がくゆる。
「お気遣いいただかなくても、こうして外には出ていますし。みなさん、お忙しいでしょう?」
「だから、俺が着いてってやるって言うんだ」
ぱちり、目を瞬いたわたしに、土方さんは勝手に「ま、そういうこった」と結論づけると、ふたたび煙草に口をつけた。
「必要な場所、考えとけ。パトカーで送ることにはなるが、二、三時間は時間がとれる」
〈続いてのニュースです、昨日午後八時、アイドルである寺門通さんにストーカー行為及び脅迫行為を行なっていたとして、ファンを自称する一般成人男性が現行犯で逮捕されました〉
慌ただしい朝の声を聞きながら、わたしはヨシヱさんの娘さんのものだったという紅藤色の着物を着付けていた。
お登勢さんのお下がりである小豆色の着物よりかは淡く明るい印象で、赤みがかった藤色のそれは今から十数年まえに流行ったものだという。藤色が大人びた印象ならば、こちらは若者の色だとヨシヱさんは言っていた。
その紅藤色の着物に、より濃い桃色の帯を合わせる。
たしかに、いつも身につけていた着物よりも、若々しさが強調されるだろうか。
「あら、似合ってますねえ」
すでに屯所内を動き回っていただろうヨシヱさんが障子戸の向こうから顔をのぞかせた。
「そうですかねえ、若々しすぎやしませんか」
「なにをご冗談を。まだまだナウでヤングなお年ごろでしょうよ」
きびきび動く姿は、だれよりも俊敏だ。部屋の中へ入ってくると、ヨシヱさんは慣れた手つきで帯をキュッと締め上げ、衿抜きや前見頃を整えてくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ。どうぞ、今日くらいは羽を伸ばすんですよ」
ちょうど、外から、「総悟ォォォォオオオッッッ」と怒声が聞こえてきて、「土方さんのほうは、まだお支度に時間がかかりそうですねえ」とヨシヱさんはやれやれ口にした。
見回りの隊士たちの目を忍ぶようにしてパトカーに乗り、そびえ立つターミナルを目指しながら、その途中で車を停めた。向かったのは大江戸デパートだった。
「パトカー、目立ちますね」
「こればかりは仕方ねェな。はいはい、市中見廻りしてますよ、と」
事前に教えてもらった場所に車を置いて――幸いにも一般車とは異なる駐車場だった――土方さんと店内に入る。
隊服は目立つからと、ジャケットとベストを脱いで、シャツとスラックスという洋装姿だが、ラフな格好であってもその姿は人目を引いているようだった。そうだ、このひとは色男だなんだともてはやされるおひとだった、と、ふと思い出して数歩離れるべきかどうかを本気で悩んだものだった。
しばらく前に来たときとちがって、もちろん店内にはお客さんが行き交っている。そっか、あれももう数週間前なんだと、「さあ、アマンダにみやげを買っていくぞよ!」と張り切る触覚の天人を横目に、目的の呉服屋を目指した。
そう、大江戸デパートへ来たのは、ほかでもない頼んでいた着物を受け取るためだった。
反物から仕立てるとなると、一か月や二か月は時間がかかるものだと思っていたのだが、どうやらそよ姫価格だった上にそよ姫タイムまで取り入れてもらえたようで、そんな都合のいいサマータイムじゃあるまいしと思ったが、一か月とかからず、完成の葉書が山崎さんを通して私のもとへ届いたのだ。
正直、受け取るのはもっと後になると思っていたが、局長とヨシヱさんの気づかいと、ほかでもない目の前の土方副長のおかげで、こうして予想外にも早くデパートへやってくることができた。
「お待ちしておりました」
と、わたしを待ち受けたのは、頼んだ日と同じ女将さんだ。
「えろうよう仕上がりましたえ」
着物ができる工程を詳しくは知らないが、以前見たときよりもその輝きはいっそう増しているみたいだった。
光を撥ね返す、淡い暈し染めの白藍の生地。そして、施された緻密な金彩。
まったく、どこへ着ていったらいいのだろう。
「春のみ空を、仰いでいるみたいですわ」
それでも、衣紋掛けに掛けられた着物に袖を通したとき。
わたしという人間の輪郭を一枚の着物が彩ったとき。
――どうしようもなく、嬉しくなってしまった。
好きなときに着ていいんだ、たくさん、着ていいんだ。
これが、わたしの着物なんだ――。
「お連れの方にも、お見せにならはりますか?」
楽しげな女将さんの表情に、少し迷ったが、気を張り巡らして辺りを警戒している土方さんの背に、「いまは、まだ」とそっと白藍の着物を抱きしめた。

※コメントは最大1500文字、10回まで送信できます