「おじさん、こんにちは」
多々良の家に着くと彼の父が出迎えてくれた。
「結梨ちゃんいらっしゃい。見ない間に大きくなったなぁ」
「そうかな?」
「昔はこーんな小さかったのに」
「もう、いつの話ししてるの!」
多々良の父、鉄男は、目を細めて柔らかく笑うと、「上がって」と結梨に言った。
多々良の家に上がるのは久しぶりだ。嗅ぎ慣れた香りに、懐かしくなって大きく息を吸うと、ほかほかした気持ちに満たされた。
丁寧に靴を揃えて脱ぐと、鉄男が微笑ましげにそれを眺めている事に気がつく。
「どうしたの?」
「ん? いや、良くこうやって遊びに来てたなあ、と思ってさ」
「毎日遊びに来てたもんね」
「今も良いんだぞ、毎日来ても」
「そんなことしたら、たーくんに彼女出来なくなっちゃうでしょ」
「それは困るな」と、鉄男は苦笑いを浮かべた。「でしょ」結梨こそ、肩を竦めながらそうは言うものの、眺めた富士田家の景色に、きゅ、と胸を締め付けられた。
小さい頃に身長を競い合って線を引いた柱や、結梨がふざけて貼ったシール、油性ペンの落書き――……其処彼処に二人の思い出が残っている。それらは離れていた期間を浮き彫りにするかのようで、結梨を少し寂しい気持ちにさせた。
「でも、これからは、もうちょっと来るね」
寂しさを自らの中で受け止めるように、結梨はゆっくりと紡いだ。
「そうするといいよ。多々良も結梨ちゃんと久しぶりに会った時、喜んでたから」
「本当?」
「ああ。でも、ここ最近は元気が無いみたいなんだよなぁ」
「そうなんだ。心配、だね」
「どうしたんだか」
――元気が無い理由を知ってるとは言えない。物思いに耽るように顎を撫でる鉄男に、結梨はただ乾いた笑いを浮かべた。
洗面所を借りて手洗いうがいをすると、通りかかった鉄男が結梨に尋ねる。
「そうだ、多々良は遅くなるって?」
「うーん、そんなこともないと思うけど。わたしが先に来ること知ってるし……」
「そうか。ならいいんだ」
岩熊と話し込んで居るのだろうか、だがそれは説明するのは難しい。
難しそうな顔をする結梨に鉄男は、「みかんあるからおいで」と笑って手招きをする。こくりと静かに頷いた。
多々良を待つ間、美味しいみかんを食べて待っていよう。そうして、結梨は鉄男の後に続いて居間に足を踏み入れる。だが、次の瞬間、動きを止めた。
「えっ、兵藤さん!?」
祖母の美鈴の隣で、みかんの皮をちまちまと剥いている清春の姿が、そこにあった。
思わず、自分の目を疑った。
「なんだ、結梨ちゃんも友達なのか」
「う、うん」
「もしや、彼氏か!?」
「おじさん、違うからぁ!」
「なんだよかった……」とほっと胸をなで下ろす鉄男に、結梨は「変なこと言わないでよぉっ」と顔を赤くして、アワアワと慌てる。
息子である多々良も、出掛ける用事があると、それとなく彼女の有無を確認されている、と言っていたのを思い出して、今ばかりは多々良に同情した。
「まあ、友達なら良かった。一緒に待っててあげて」
「う……わかった」
結梨の心臓は再び煩くなっていた。一日何回、自分の心臓の音を聞かなければならないのだろう。
「どうして」と「どうしよう」の二言がぐるぐると脳内を巡る。
まさか、こんなところで会うとは――結梨は思ってもみなかった。鉄男曰く、結梨が来る少し前に家の前を彷徨っていたのを見つけたのだと言う。
ちらりと清春を盗み見ると、彼は皮の次にみかんの白い繊維を取り除こうと苦戦しているようだ。その作業に集中するあまり、結梨にはまだ気が付いていない。
――もしかしたら、神経質? と結梨は考えるが、思っているよりも白い繊維は取り除けていないことに、どこか安堵する。テーブルの上にまとめられた橙色の皮も、それなりにばらけていた。
こんな時にもマイペースを崩さない清春に、結梨は拍子抜けする。
「兵藤、さん」
「ん?……あ」
結梨が声を掛けると、彼は微かに目を見開いた。
「如月」
「え……名前、知ってたんですね」
「仙石さんが言ってた」
「要さんか」と呟いて、結梨は顔を両手で覆った。じわりじわり、熱を帯びていく。
清春はそれに首を傾げる。
「どうした?」
「なんでもない……です」
小さな声で言うが、顔は覆ったまま。結梨は彼の顔を直視出来ない。
名字を知っていてくれたとは思わず、不意打ちでときめきをお見舞いさてれてしまった。落ち着くように息を吸うが、治らない。
美鈴が「結梨ちゃんもお座り」と嗄れた声で言うので、そのままそれに従った。
「その、無事だったんですね」顔の照りが治って、結梨は横目で清春を見た。
「ああ。心配かけたな」
「思ったよりは長引いてるけど、別に平気だ」という清春の調子はいつも通りだった。
想像していた反応とは異なり、結梨は目を瞬かせたあとに、息を長く吐き出した。
「それなら、良かったです」
「敬語」
「へ?」
ふと顔を上げれば、じいと二つの瞳がこちらを見ていた。
「あの……な、なにか?」
「なんで敬語?」
戸惑う結梨に、清春は動じもせず、不思議そうな顔を向けている。
何を言いたいのか分からなくて、結梨は思わず唇を少し噛んだ。
「え、と、なんでだろう。け、敬語、やめた方がいいですか?」
「別に。喋りやすい方でいいけど」
結梨はきょとんとして、みかんを口に放り込んだ清春を見つめた。
「じゃあ、敬語やめる、ね」
彼なりの気遣いだったのかもしれない。結梨は少し重たかった気持ちが軽くなるような気がして、こそばゆくなって頬を少し緩めた。
清春はこくりと頷くと、再びみかんをちまちまと弄りだした。
「兵藤さんって」
「なんだよ」
「踊ってる時と普段の姿、全然違うね」
籠の山からみかんを一つ手に取って、剥きながら結梨は言った。
「そうか?」
「うん、この間のタンゴだっけ」
「ああ、三笠宮杯(みかさ)か」
「初めて見たけど、その、凄かったから」
自分で言った途端に、あ、と結梨は動きを止めた。途端に、穴があったら身を隠してしまいたい気持ちに駆られて、口をパクパクさせた。
――どうしよう、と思う間に、顔は再びじわりと赤みを帯びていく。自分の馬鹿、と嘆きながら、なんとかして視線を微かに逸らすも、清春と垂直の位置に座る結梨には、彼の姿が否応無しに視界に入ってしまう。
誤魔化すように、急いでみかんを一房摘んで、口に詰め込む。甘酸っぱさに結梨は目を瞑って、身体を震わした。
美鈴が「おやまあ」と小さく声をあげたのには、気が付かないフリをした。
「どうも」
清春はきょとんとした顔から、思い立ったように、口元をニィと釣り上げて結梨を見た。彼女はとんでもないとでも言うように、こくこくと首を上下に動かした。そして、みかんを食べながら、「今は全然違う人みたいだけど」と、もごもごと言った。
――ガラガラガラ、と引き戸が開く音がする。
「結梨ー、父さーん、ただいまー! ハム……って、ええ!!!!」
多々良が帰って来た。
結梨は助かった! とばかりに勢い良く振り返るのだった。
「はあ、お茶が美味しい……」
多々良が美鈴に頼まれて相撲の実況をし始めようとした清春を部屋に連れて行って、結梨は温かいお茶にホッと一息ついていた。
湯呑みを両手で大事そうに包み込む。緊張した為か、お茶の温度が沁み渡るようだ。
「結梨ちゃん、続きやってくれないかい」
「続き? ああ。相撲の実況はたーくんか、兵藤さんくらいしか出来ないよ、おばあちゃん」
「ごめんね」と結梨は苦笑いを浮かべた。
「しかし、結梨ちゃんもついにそんな歳になったんだなあ」
「うん?」結梨は首を傾げた。
「あの子のどんなところが良かったんだ?」
多々良とそっくりな真ん丸な瞳に見つめられて、結梨はあたふたと慌て始める。
「えっ、なに急に!?」
「結梨ちゃんは、いつかたたらを貰ってくれるかと期待してたけど、こればかりはどうしようもないな」
そう言う鉄男の顔は少し悲しげだ。
「たーくんはいい人絶対出来るから心配しなくて大丈夫だよ!」
折角ゆっくりお茶を飲んでいたのに、とテーブルに項垂れる結梨。そこに追い討ちをかけるように、美鈴が「あの子はいい男だねぇ」と呑気にも言った。
「おばあちゃんまで……分かりやすいかな、わたし」
「ハハ、そのくらいの方が可愛らしくていいんじゃないか?」
「全然、フォローになってないよ、おじさん」
「結梨ちゃん、みかん食べるかい」
「うん、食べる」
結梨は美鈴が剥いてくれたみかんに手を伸ばした。
まだ、好きかどうかは分からない。どちらかと言うと、憧憬に近いと言うのに。そんな風に言われたら、もっと意識してしまうじゃないか。
結梨は半ば自棄になって、みかんを口にした。甘酸っぱい香りが染み渡る。
好きと言うほど彼の事を知らない。でも、清春はどんな人間なのか、結梨はもっと知りたいと思い始めていた。
「それで、どこで出会ったんだ?」
「えっ……」
鉄男の問に、脳内では、咄嗟に小笠原ダンススタジオが浮かんできたが、多々良の言葉を思い出して、なんとかしてその映像を押しやる。
「内緒だよ!」
「まだ、まだ手は繋いでないよな!?」
「だから付き合ってないってば! ただの知り合い!」
もう、と怒る結梨に、鉄男は笑った。
「いい恋愛をするんだぞ」
「……頑張る」
弱々しく返せば、頭の上に大きな手が乗せられた。無骨ながらも精一杯優しく撫でられる。それは、昔と変わらなかった。
少しだけ唇を噛んだ。
「結梨ちゃんを大切にしてくれる人だといいな」
「どうだろう……そうだと、いいけどな」
「結梨ちゃんのウェディングドレス姿、綺麗なんだろうなあ」
うっとりとしたように、遥か先の未来に想いを馳せる鉄男に、思わず、「それは、気が早いってば!」と、しんみりした気持ちを吹き飛ばしたのだった。
