8-1

「あの子がいない」と泣く彼女に、ダイゴは言葉を失った。
 ロフトからおりてきた小さな背に、ダイゴは静かに近寄って声を掛けたところだった。洗面所、シャワー室、リビングダイニング慌ただしく室内を歩き回る音がして、様子を見に顔を出せば彼女の姿があった。そして今、彼女は行き場をなくしたチリーンのごとく、人差し指のつけ根あたりに唇を当てながら玄関の前で右往左往していた。
「あの子が、いないんです」
 その声は震えていた。どうにか喉を絞り紡いだそれは、声というよりかは吐息に近かった。
 不安そうに瞳を動かして、自らの居場所を探すかのように彼を見上げる。そこにはたっぷりと膜が張り、まるで、迷子になった子どもだった。
「どこにも、いないんです」
 二度目に、そう言ったあとだった。悲痛にも揺らいだ声に、あふれないようにと堰き止めていた涙が決壊して、大きなしずくが滑り落ちていった。ひとつ、ふたつ、はじめはゆっくりだったのが、すぐにぽろぽろとこぼれては頬を伝っていった。
 まるで、それを止める術も、なにもかも、どこかへ置いてきてしまったかのようだとダイゴはおもった。決して大人なんかではない。いつも独りで歩こうとする、理路整然とした態度で生きようとする彼女の顔なんかではない。揺れる瞳は厚い膜の中に溺れ、何度も何度も瞬くから海があふれてはこぼれていく。まつ毛は重々しく濡れ、今にもすべてが水底へ沈んでしまう海辺の草木のようだった。
「どうしよう」と、震える指先を唇に当てて、カチカチと歯を鳴らしながら彼女はひたすらなにかに耐えていた。
「ど、したら、いいの、だって、あの子になにかあったら、わたし、っ」
「ヨウコ」
「どうしよう……どうして……っ、あの子がいないと、わたし」
「――ヨウコ!」
 息をして、肩に手を伸ばした。だが、それはすぐに振り払われてしまった。
「さわらないで!」
 そんなにも声を張り上げる彼女を見るのは初めてのことだった。勢いよく払われた手の感触は、まざまざと全身へ伝わっていった。
 暴発する感情を受け止め黙り込むダイゴに、彼女はいささか狼狽えたようだった。けれど、止まらぬ嗚咽と、震えとを抱えながら、必死に自分を守るように抱きしめその場で後ずさった。確かな、拒絶。あるいは恐怖。……ダイゴの心を抉るには十分すぎる仕草だった。
「ボクが逃がした」
 ……キミが、そんなだから。ダイゴは胸の裡で苦虫を噛み潰して打ち明ける。
「逃がした……?」
 膜を張ったままの瞳が大きく揺れた。ああ、とダイゴはうなずいた。
「外へ出たがっていたから。もうあのロコンは、すっかり回復したんだ」
「でも、雨がまだ、こんなにも」
 ダイゴは払われた手をゆっくりとさげ、反対の手でみじめな手首をなぞる。
「キミは、あの子をどうしたかった?」
 ……ちがう、そうじゃない。それは言ってはならない。だが、止めることなどできなかった。
「どう、って」とヨウコの顔が悲痛にゆがむ。その顔を見つめて、たった今ジレンマに苛まれながらダイゴは低く続ける。
「あの子をただの慰みのための人形にしたかったんじゃないのか」
「そんなこと……」
 ヨウコは驚いたのか、はたまた図星か、それとも悲しみか。いずれかの感情にとらわれて言葉を詰まらせた。
 苦しげに眉根を寄せて、いまだに涙をこぼしている。その顔を見て、ダイゴは、「すまない」とすぐに口にした。そうして、涙で濡れた彼女の頬に再び手を伸ばそうとした。
「……さわ、ないで」
「ごめん、ヨウコ」
「やめて」
「ほんとうに、ボクが悪かった」
「も、ひとりにして、っ」
「……いやだ」
「やだ、いやなの、こんなの、たえられない、ひとりになりたい、いやだ、やだ、やだ……っ」
「ヨウコ」
「だから、あなたといたくなかった、あなたはわからないから、こわい、っ、こわいのよ、あなたは、だって、わたしを、めちゃくちゃにする、っ」
「おねがいだ、きちんと、息を――」
「――さわらないで!」
 しんとした室内に、ヨウコの声が響いた。
「……こんなの、もういや。あたまがいたい、なにもかんがえたくない、どこにもいきたくない、かえりたい、どうして、っ」
 子どものようにたどたどしく紡ぎながら、頭を抱えていやいやと横に振る彼女の手首をダイゴは掴んだ。
「……キミが、ひとりで傷つくから」
 力をこめたら、折れてしまいそうに細かった。
「ひとりで傷ついた顔をするから」
 こんなにも弱々しい身体で生きていると思うと、頭がおかしくなりそうだった。
「あなたには関係ない!」
「関係あるさ!」
 ――否、なにもかも手遅れなのだ。ボクはもう、とっくにおかしいんだ。ヨウコに出会ってから、彼女がボクの世界に現れてから。
 自分が自分でないようだった。これまでの理性的なツワブキダイゴとはまるきり正反対で、たちの悪い獣のようでさえあった。彼女を前にすると、なにもかもがうまくたちゆかず、まるで脳が誤作動を起こし制御が不能になる。初めは、小石が転げるようなものだったというのに、今はもう燃え盛る炎の中に自分が存在しているような気さえする。
 彼を振り払おうと力の込められたヨウコの腕を、思いのままに引き寄せて、ダイゴは彼女を胸に閉じ込めた。ふわりと掠めるのは彼女の香りだ。同じせっけんや柔軟剤を使用しているはずなのに、自分から感じるものよりもはるかに甘いものだった。
 小さな背に腕を回し、きつく抱きしめてダイゴは彼女を味わった。その香りに、ぬくもりに、涙がこみ上げてきそうだった。
「なぜボクを頼らない? なぜ、ボクを見ようとしない? ここにいるのは、ボクなのに」
 苦しい。そうだ、苦しい。すべて壊してしまいたい。大事にしたい気持ちの裏で、もしかしたらこれが表かもしれないが、この腕の中で彼女をめちゃくちゃにしたくてたまらなくなる。
「いま目の前にいるのは、ボクだ。キミのそばにいるのも、キミを助けたのも、この先キミを助けるのも、それはほかでもないこのボクだ」
 そうじゃなきゃ、許せないのだ。
「なにも、知らないくせに」くぐもった声が聞こえる。抵抗する身体を、それでも離したくなくてダイゴは彼女の髪に頬を預ける。
「ああ、知らない。キミのことをボクは結局なにも知らないんだ、なにひとつね。……でも、理解したい。きみを、ヨウコを知りたい。……知りたいんだ」
 最後はもはや懇願だった。とてつもなく大きななにかが体の中にうごめいている。もはや自分の身体ではないみたいに、烈しい熱を抱えている。苦しくもあり、同時に心地好くもあり、もしかするとこれこそが自分なのかもしれない。
 衝動なのだろうか、それとも、確かな感情だろうか。
 彼女を愛したいと思う、この想いは。
 結局、ヨウコはダイゴの腕を振り払ってロフトへ引っ込んでしまった。
 果てしない夜を越えたような疲労感だった。もうなにもしたくない、なにもできない。ダイゴは実際に寝室へ閉じこもって頭を抱えた。
 いつも「大人」である仮面を剥がさなかったヨウコが、ここにきて子どものように泣きじゃくるとは、思ってもいなかった。ロコンがいなくなったとしても、「もう助けが必要ではなくなったのかも」と完結させるのではないかと思っている自分もいたのだ。
 ベッドのふちに腰掛けたまま、彼は手のひらで目元を覆い、目を閉じる。静寂が辺りを包む。それなのに、血潮がめぐり一種の興奮がやまずにいた。
 なんてことをしているんだという自分と、でも、こうするしか方法がなかったのだという自分と。
「……くそっ」
 もはや、陳腐な悪態しか出てこない。むしゃくしゃする頭に爪を立てて、何度も呼吸を繰り返して、それでも落ち着かないから拳を握りしめて振りかぶった。だが、なにかを殴ることなく、最後は弱々しい力で膝の上に落ちた。
「……馬鹿なのか、きみは」
 どうしようもない、自分への問いだ。
 窓辺に置かれたビードロを見やる。あえかな明かりにもつやめき、穏やかな色彩をこの世界にもたらしている。それだというのに。
 苦しい、とダイゴは思った。彼女がいる世界に慣れてしまった今、もう前の生活には戻れない。自分はどうやって生きていくべきか。おそらく、なにひとつ変わらず、ホウエンチャンピオンのツワブキダイゴという人間に戻るだけのことなのに、彼はそんな明日を軽々と想像できずにいた。胸が張り裂け、なにをするにも億劫で、ただヨウコの泣き顔を思い返しながら、残った彼女の感触を手のひらに握りしめるのだった。
 その後も声をかけることすらできず、ただ時間だけがすぎていった。静謐な雨のシンフォニーが、心にのしかかる酷く重たい緞帳のようであった。
 やがて夜になり、彼女はツリーハウスを出て行った。