サアサア、大地にいくつもの
白くくゆるヒワマキシティ。甘い大地と樹々の香りが、ささやかに歌う葉のそよぎが、しっとり肌を撫でる温度が、まるで行ったこともない熱帯雨林の中に迷い込んだ心地にさせる。
霧雨のあいだをツバメに似たポケモンが真っ直ぐに飛び、生い茂る緑へ消えていく様は、いつか見たキャンプ二日目の景色だった。
「また、外を見てる」
ふと聞こえてきた声に、私はふり返る。
「ダイゴさん」
「でも、ここに来ると、ふしぎとボクもそんな気持ちになるよ」
白いシャツにベージュのチノパン姿、そんなリラックスした恰好で彼はツリーハウスのウッドデッキへやってきた。拳をふたつぶんほど空けて隣に座ると、ハイ、とコーヒーの入ったカップを渡される。方や真っ黒、方や乳白色――まさにカフェ・オ・レ色のちぐはぐ。立ち昇るペトリコールの中に、コーヒー豆のかおりが掠める。
「熱いかも、気をつけて」彼は言うが、受け取った手のひらにカップの熱はちょうどよいあたたかさだった。
トクサネを出て数日。海辺の街とはまるきりちがう、深く物思いに沈むような緑の景色が私たちを囲んでいた。初夏の陽射しが続いていたのと打って変わって、雨が続いていることも関係しているだろう。
ホウエンという土地は比較的温暖な気候帯だが、日本と同じように四季がありさらに雨季――つまり梅雨のような季節がある。
とくに、ここヒワマキ周辺は熱帯雨林のそれと同様木が多いことで、大地から根を通じて水を吸い上げ、太陽に熱せられた葉からそれらが蒸散し水蒸気となって上昇、やがて雲になる。その豊かな物質循環により、雨が多い地域となっている。突然のスコールに見舞われることもあれば、今日のようにさあさあと白く蒸気を立ち籠めながら霧雨が続くこともある。
ホウエンでは殊ポケモンと自然との共生を意としているのか、開発されずあるいは自然保護のためにあえて人の手を加え自然を残しているのでそのような地形による土地土地の特徴が顕著だ――と隣の彼が教えてくれた。
仕事がないのをいいことに、朝、雨音で目を覚まし、ご機嫌な翠雨のリズムを聴きながら優雅に読書やこうして景色を眺め、夜はしとしとと耳を撫でるそれを子守唄に眠りにつく。なんてことのない生活。むしろ、退屈で怠惰で、時間をただ消費するそんな日々。だが、かえってそれがなんとも贅沢なようにも思えた。
雨のカーテンが天から下りる。その向こうに、まるで旅行番組かと見紛う熱帯雨林の光景が広がる。
開けることのない見果てぬ緑、家と家とを繋ぐ木の吊り橋、それからしっとりと肌を潤す空気と湿気を吸いやわらかな木製の椅子と。空き家をそのままゲストハウスにしたというツリーハウスすら、ひとつふたつ前のあるいは遥か前の文明をそのまま現代に繋いできたようで美しい。
そう――うつくしい。
「こんなに、ゆっくり過ごしたのは久々だ」
カップに口をつけながら、彼が言った。
「忙しそうですもんね」
ふうふうと息を吹きかけ私は繋ぐ。まあ、そうだね、と彼は苦笑した。
ツワブキダイゴ――ここホウエンではその名を知らぬ者はいない。ポケモンリーグの覇者であり、その名のとおり今なおホウエンの頂点に立つ人。その事実をようやく知った私は、いまだに彼が不思議でたまらなくなる。だって、彼の家にはあまりにも「そうしたもの」が少なかったから。
あるものは必要最低限の家具と絵本や小難しそうな書物と、それから石。彼が勝利というある種利己的なものに執着する様がいまだに思い描けない。けれど、どうりで街中で注目を集めるわけだった。
「あまり室内に篭っていても不健康だから、あとで少し出ようか」
どこに、という言葉は出てこなかった。わかりました、と答えて私はやっと甘いカフェ・オ・レを口にした。
波に向かい海を歩いたあの日、私を呼び止めたのは他でもない彼だ。
――ヨウコ!
そんなふうに呼んだこともない私の名を紡いで、スーツの裾が濡れるのも革靴が駄目になるのも厭わず、海に飛び込んで私の腕を掴んだ。強い力だった。けれど、それでいて酷く弱々しいようにも感じた。
振り返った私の視界に、淡く金色に染まった髪や肌が飛び込んだ。ザブザブと水面を蹴る音が静けさを彩るさざなみを連れ去って、やけにスローモーションに見えるのに、彼の熱が私を捕らえ意識を取り戻すまでは一瞬だった。
――行くな
彼はそう言った。たったひと言。初めて私を引き止めたときの余裕など消え失せ、その言葉以外の意味もない、ただひとりの女を繋ぎ止めようと必死なものだった。
濡れたスーツが色濃く染まり、息が荒む。まっすぐ、まっすぐすぎるほどにプラチナの瞳が私を射貫く。その中には確かな欲がいくつも渦巻いているのがわかった。
どこへ行くなと言われていたのか、そんなことすら考えず、気がつけば琥珀を海に落としていたことにも気づかず、私は彼の差し出す熱に浮かされ、身を委ねていた。
それから明けて翌日、トクサネを発った。職場に迷惑をかけるからと猶予をもらおうと思ったのに、自分の仕事は都合をつけたからと私まで定食屋の店主たちに話をつけなくてはならなかった。
幸いにも、女将さんが理解してくれ、また帰っておいで、と送り出してくれたのが救いだったか。もちろん、彼の無邪気な強引さには少し腹が立った。けれど、行こう、とうれしそうに、はたまた子どもみたいに穏やかに微笑むから。
私はまた流され、熱に浮かされ、エアームドの背に乗っていた。
