3-1

 ひだまりの中にいた。リネンのカーテンから優しく光が注いで、部屋じゅうがまったりと洋梨のコンポート色に染まっている。キッチンとリビングを区切るように置かれたウッドフレームのソファに、ガジュマルの苗木。雑誌が散らばったハイテーブルをサッと片して、キッチンに立つ。昔ながらの、二口コンロのついたオープンキッチン。
 収納はシンクの下の棚だけだから、換気扇の出っ張りにフックをかけて、調理器具を吊るしている。それから壁にかけられた花柄のエプロン。迷うことなく首にかけて、後ろでに紐を結びながら冷蔵庫の前までそうっと裸足で歩いていく。
 狭いキッチンには大きすぎるくらいの立派な冷蔵庫。上から二段目に野菜室があって、物を探すのに腰を屈めなくていい。野菜室の扉を引く。あちこちと目を動かしては、目当ての野菜を見つけだす。たまねぎとにんじんと、じゃがいも。作るものは、もう決まっている。それらをまな板の上に転がして、包丁に手を伸ばす。その瞬間、視界が暗くなり、背中に熱が宿る。
 だれだ――音のない声がする。もう、あぶないでしょ、なんて、笑いながら、目元を塞いだ大きな手に自分のそれを重ねる。
 そうだ、これは、私が幸せだったころの夢だ。なにひとつ迷いのなかったころ、ただ目の前の景色の美しさに酔いしれていたころ。
 背中に重みを感じながら、たまねぎを切る。トン、トン、均一な音。とく、とく、と伝わる振動。私は微笑っていた。

 場面が暗転する。
 今度は、アパートの廊下にいた。剥き出しの灰色のコンクリートに、チカチカと点滅を繰り返す照明。小さな虫が、視界の端を飛んでいる。手には白いビニール袋。着すぎて袖が薄くなったダッフルコートに、厚手のマフラー。かじかむ指先をぎゅっと丸めたあと、インターホンを鳴らす。
 鳴らす、鳴らす、そして、また鳴らす。
 ガタン、と物音がして、ドアが開いた。のそっと頭を掻きながら出てきた男に、「これ」とドラッグストアの袋を突きつける。具合悪いって聞いたから、ろくに顔を見ることもできず、地面の染みを眺めながら呟く。「だあれ?」後ろから、やけに喉に絡みつくような声が飛んでくる。
 バツの悪そうな顔。頭をわしゃわしゃと掻き乱し、ああ、もう、と袋を掻っ攫う粗暴な手。

 ――おもたいんだよね。
 カサついた唇が動く。
 重たいんだよね。
 音のない声が響く。何度も、何度も。暗く、寒く、天も地もわからぬ鬱蒼とした闇に。

 おもたいんだよね――血の滲んだ唇が、浮かぶ。

 

「悪い夢でも見たかい」
 琥珀を拾った日から、少しずつ日常に変化が訪れた。まずは、彼と毎朝顔を合わせるようになったこと。この日も変わらず目が覚めていつものようにのそりのそりとリビングに向かったところで、さわやかに朝日を背負った彼と対面した。その眩しさに、彼の問いかけに答えることもなく回れ右をしてしまったことは、少しだけ後悔している。やってしまった。
 白を基調としたスタイリッシュな洗面所でそこには似合わぬぼやけた顔を洗って、軽く身嗜みを整えてからリビングへ戻った。
「お仕事、遅いんですね、最近」
 コーヒーのいい匂いがしていた。律儀にもカップを二つ用意していた彼に、ミルクは? と訊かれて、どことなくキツネにつままれたような気持ちになりながらこっくり頷く。
 ポーションミルクをいくつか掴んで、彼は視線を彼のスカーフのあたりに泳がせる私をよそにカップとともにローテーブルに置いた。
「仕事のことだけど、まあ、わりとフレキシブルなんだうちは」
 一体どんな仕事をしているのか。見た目からすれば、一流企業の営業職、という感じもしなくもないが、なんとなく雰囲気的には違うような気もする。洗練された気高さというか、無駄な競争からは離れた穏やかさというか。
 ポーションを二つ入れながら、はあ、とうつけた返事をすると、彼はシンクに戻りカップ片手に腰を預けた。
 この家にあるコーヒーは苦味が強い。インスタントコーヒーなら仕事でも家でも山ほど飲んだことがあるのに、そのどれよりも濃い味がする。産地が違えば味は変わると言うし、豆の種類も全く別物かもしれないから、当たり前と言ったら当たり前なんだけれど、ミルク二つでも毎朝飲んでいたカフェオレには程遠い。
 熱いマグのはらには触れぬように、器用に両手で包みながらコーヒーに口をつける。やっぱり、まだ苦い。なんて思っていると、彼が口を開いた。
「キミのことについて、調べてみたんだ」
 その言葉に私は思いがけず身を固くする。と、彼はすぐさま手のひらを見せて、「ああ。安心していい、キミの身に起こったことについてだよ」などと私を宥めた。
 曰く、この世界には数多くの厄災の歴史があり、ここホウエンにおいてもその多分には漏れない。そしてその厄災には、十中八九ポケモンが関わっている。大地を生み、大地を破壊し、時空や次元をも歪ませる、そんな力を持ったポケモンたち。
「少なくとも、今回の件も、そういった彼らの人智を超えた力によって起こったのではないか、とボクは考えている」
 厄災の大多数は伝説として語り継がれているにすぎないが、伝説という灯火になるからには、火種がどこかに必ずある。彼はイッシュ地方の伝説に、時空をも操る力を持つと言われるポケモンがいるのを確認できたのだと言った。
「ポケモンの存在する世界としない世界。宇宙は広大であり、その多くはまだ謎に包まれている。いくつかの世界が同時に存在していたとしても、あるいは、また別の宇宙が存在したとしてもなんら不思議はない。そして、それらの時空が歪み、一時的に繋がることも、その伝説を鑑みれば十分起こりうる」
 なぜだか、目が回るような感覚だった。
「つまり、私はそのポケモンの力のはずみで、ここに迷い込んだ、と」
「そういうことになるね」と彼は淡々と相槌を打った。
 苦いコーヒーのせいだろう、頭がガンガンする。ぎゅ、ぎゅぅ、と目の奥、あるいは前頭野が締め付けられて小刻みに揺さぶられている。難しく眉をひそめる私に気がつき、彼はふっと子どもをたしなめるように表情を緩めた。
「まあ、あくまで推測だと思っておいて」
 はい、と晴れない声で答える。
「もう少し、この件はボクのほうで調べてみるよ。その伝説ポケモンについては、ちょうど専門に研究している人間がいるから、それとなくアポをとってみるつもりだ。キミもなにか思い当たる節があったら遠慮なく言って欲しい」
 どういう、風の吹き回しでしょうか。ふと浮かんだのはそんな不躾な言葉だった。だが、悪意も善意も明け透けに示さない彼の面立ちを目の当たりにして、慌てて口を噤んだ。ただこっくり、私は頷いた。
 そこで話は途切れ、一瞬の無言が訪れる。ザザァン、潮騒が二人の間を吹き抜け、カップの縁に光が宿る。
「シャツ、ありがとう」
 突如切り替わった話題に、シャツ? と私はまたしても胡乱な顔を向けた。
 いやな顔ひとつせずコーヒーをひと口飲み、「アイロンまでかけてくれただろう」と彼は言う。
 これも、変わったことのひとつだろうか。笑みとまでは言い切れないが、穏やかな表情を浮かべる精緻な顔を眺めてぼんやり思う。そりゃ、同じ屋根の下に暮らしているわけだから、当然のことなんだけれど。「こちらこそ勝手なことを」を答えた私に、「いや、助かったよ」と飲み終えたカップをシンクに置いて彼は微かに頬を緩めた。そんな様子にどこか居心地が悪くなって、それならよかったです、と流れるようにカップの中に視線を落とした。
 慣れない。彼との距離の取り方がわからない。こうして、他愛のない話を不意に交わす機会が増えた、ただそれだけのことなのに、どこかみぞおちのあたりを疼かせる。よっぽど、鋼鉄の壁を隔てているほうが楽だった。
 そんなことを思いながら、話題をすり替える。
「そういえば、トレーナーズカードって」
 流水でカップをそそぐ手がわずかに止まる。
「まだ、しばらくかかりそうなんだ」
「……わかりました。すみません、ご足労おかけします」
 頭を下げると、彼は、「気にすることじゃないさ」と肩を竦めて洗い終えたカップを水切りに置いた。

 それからすぐに彼は出勤することになった。家を出る直前、そういえばこれ、と一枚の封筒を寄越してきた。茶色い、どこにでもあるような封筒。なんだろう、と怪訝に思い受け取りあぐねていると、彼は、好きなものを買ってもかまわない、と半ば押しつけるように手に握らせて仕事へと向かった。
 一人きりになって中を確認するとお札が入っていた。それも、ちょっとやそっとじゃ使いきれないようなほどの。ほんとうに、こういうのいらないのに。同時に彼はやっぱりわけがわからない、とも掴みきれない感情が巡る。渡された手前そのうちの一枚を手に家を出たが、結局、私はそれのほとんどを使わなかった。
 ただひとつ、インスタントカメラだけ、ビニールの袋に梱包されたような昔ながらの代物を、フレンドリィショップで購入した。