カチカチカチ、フィルムを巻く感覚は、なんだか久しぶりな気がする。
昔は旅行に行くときだってこれを使っていたのに、携帯カメラだ、デジカメだ、文明の利器にすっかりこの感覚は埋もれてしまっていた。沈んでいた貝が波によって現れるような、そんなうれしさと懐かしさがこみ上げて、一心にファインダーを覗く。頬に当たる冷たさすら優しくて、思うがままに、トクサネの海を撮った。光の綾が交差する水面、地平線を臨む透き通った空、それから自由に飛び回るポケモンの群れ。
まるでどこにもない楽園のような風景をカメラに納めたらどうなるのか。でも、うまく撮れていてもいなくてもいい。ただ、今ここに存在している証が欲しかった。
ファインダーから目を離すと、風が髪を攫った。それを耳にかけ直しながら、波打ち際まで歩いた。パンプスを脱いで、ここに着てから一枚だけ買い足したリネンのワンピースの裾をつまむ。ざぶざぶ、波に抗い海に入る。カメラを落とさぬように大事に握りながら、膝のあたりまで水に浸かる。ゆらゆら、たゆたうリズムに足をとられる。夏へ向かっているというのに、まだまだ水は冷たい。
「……どこまで、行けるんだろう」
海と空とを隔つ地平線は、遥か遠くまで続いている。こうして海を眺めるのは、すっかりお馴染みになってしまった。
私は、どこにいるのだろう。ふと湧き上がる疑問は、まるで寄せては返す波のように、いつまでも、いつまでも消えてなくならない。はたして、この世界と私の世界は、繋がっているのだろうか。彼はそうであってもおかしくはないと言ったけれど、どこにそんな確証があるのだろう。宇宙は広い。その漠然とした闇冥の彼方に地球はいくつあるのだろう。人類はどれほどいるのだろう。
「なにか思い当たる節があったら言ってほしい」
彼の言葉が蘇る。それでも、思い当たることは、とくになかった。
強いて言えば、私がこちらに来た直前の記憶がないことだけ、引っかかっていた。朝会社に出勤し、仕事を終えて、帰路に着く。そこまではいいのに、そこから先が暗雲に紛れるように消えている。その記憶が戻れば、なにかを掴めるのだろうか。もとの世界に戻れるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、漠然とした不安と焦燥に駆られていた。
波に足が攫われていく感覚がする。地平線は果てしなく、絹の日差しを反射して、やわく私の目を奪っていく。いつのまにか、鼓動がやけにうるさく体を支配していた。
大きく息を吸って、ゆっくりと目を閉じた。
ザァン、ザザァン、潮騒が耳を撫でる。キャモォ、キャモォ、海鳥の声がする。どこからか、プォオオ、と船の汽笛が流れてくる。ゆらゆらと波が肌を包み、とくり、とくり、強かな鼓動が立つ。
不思議と、暖かな水の中に溶け込んだような気分だった。
その日、結局写真を撮ったのは一枚だけだった。ふらふらとトクサネを歩き回って、帰ったころには夕日が海に沈んでいた。しばらく宵の始まりに黄昏れたあと、夕飯に残った野菜でスープを作った。付け合わせはバケットのみ。新鮮な魚も市場には出回っているようだったけれど、なんだか贅沢する気になれるはずもなく。
ひとりぶん、スープ皿によそったところで彼が帰ってきた。朝よりも少しくたびれた様子だった。召し上がりますか、と訊くと、先に残りの仕事を済ませなくてはとスカーフを緩めながら、自室へ消えていった。結局、夜が更けても顔を合わせることはなかったが、朝になると鍋の中のスープはほとんどなくなっていた。
